きよちゃんに会うために

尾八原ジュージ

きよちゃんに会うために

 きよちゃんおにいちゃんは、呼ぶとすぐ来てくれるのでたすかる。「渚子なぎこちゃんに呼ばれるとピーンときて、すぐにわかるんだ」と言っていた。

 パパとママがけんかをしているとき、部屋にとじこもってきよちゃんおにいちゃんを呼ぶと、押入れから出てくるのでとてもたすかる。もし玄関から入ってきたら、ぜったいパパとママにその人だれって言われて、追い出されてしまうと思う。きよちゃんおにいちゃんが押入れから出てこられる人で、本当によかったと思う。

 きよちゃんおにいちゃんのひざに乗っけてもらうとほっとして、あったかくて眠くなって、起きると朝になっていてけんかも終わっているので、とてもたすかる。朝になるときよちゃんおにいちゃんはいつの間にかいなくなっているけど、でもまた押入れの前で呼んだら出てきてくれる。

 みんなに変な子だと思われるといやなので、きよちゃんおにいちゃんのことはないしょにしている。でも、言ったとしてもたぶんだれも信じないと思う。なぜって、ふつうの人は押入れから出てこないから。


 私がイマジナリーフレンドという言葉を知ったのは中学生のときで、「きよちゃんおにいちゃん」もそういうものなのかな、と考えたことがある。でも実際会ってみると、彼にはちゃんと体温も感触もあって、とても空想の中の人物とは思えなかった。

 何にせよ、こんな風にして私は幼少期をやり過ごした。両親が離婚して、母とふたりで暮らし始めてからも、私が部屋でこっそり「きよちゃんおにいちゃん」と呼ぶと、彼は当たり前みたいに六畳の子供部屋の押入れから現れた。一時間ほどでどこかに消えてしまうけれど、呼べばまた押入れから出てきてくれるとわかっているので、寂しくはなかった。

 彼は時が経っても成長せず、見た目がまったく変わらなかった。私が中学校に入学する頃にはもう「おにいちゃん」という感じではなく、ほとんど同い年くらいに見えた。いつのまにか私は、彼を単に「きよちゃん」と呼ぶようになっていた。

 きよちゃんは鼻がシュッと尖っていて、全体的に鋭角ぎみの、わりときれいな顔立ちをしていた。でもどんなにかっこよくても、優しくても、私はなぜかきよちゃんのことを、恋愛対象としては見られなかった。


 私が中学三年のとき、母が彼氏を家に連れてきた。飲食店のオーナーでお金持ちだというけれど、太っていて、金色の俗っぽい腕時計をしていて、見るからにいやらしい男だった。

 初対面の挨拶の席だっていうのに、そいつはゲハゲハ笑いながら「渚子ちゃんはママに似ておっぱいでかいな」とぞっとするほどセンスのない、お世辞か冗談かわからない台詞を吐いた。母はやだぁと言って笑った。私はきよちゃんのことを考えてやり過ごした。

 母の彼氏はしょっちゅう家に来るようになった。いつの間にか合鍵も手にしていたけれど、たぶん母は何もかも承知した上で、あえてあいつに鍵を渡したんじゃないかと思う。ある夜、そいつは母がいないのに合鍵を使って家に入り、私の部屋の前で、たまたま鉢合わせた私の胸を掴んだ。

 私は思わず「きよちゃん!」と叫んでいた。男の顔が迫って、臭い息が顔にかかった。

 そのとき部屋のドアが開いて、きよちゃんが飛び出してきた。驚いた様子の母の彼氏を突き飛ばすと、きよちゃんは私を部屋に引っ張り込んで中に閉じこもった。

 私はきよちゃんの腕の中でがたがた震えながら、彼が「やっぱりきよちゃんはおれのことだったんだ」と呟いたのを聞いた。どういう意味だろうと思ったけれど、あえて聞かない方がいいような気がした。彼の正体がなんであれ、きよちゃんはきよちゃんでしかない。それでよかった。


 色々あって、私は父方の祖父母の家に住むことになった。あの家を離れたらもう会えないんじゃないかと心配したけれど、きよちゃんは祖父母の家の押入れからも、ちゃんと出てきてくれた。

 祖父母は私に意地悪ではなかったけれど、ひどくよそよそしかった。父ももう新しい家庭を持っていて、自分は邪魔者なんだということがよくわかった。でも部屋にひとりでこもって、押入れの前で名前を呼んだらきよちゃんが来てくれる。だからたとえ家の中に居場所がなくたって、全然平気だった。

 きよちゃんの見た目は私よりも年下になり、だんだん弟みたいに思えてきた。私は成長していくのに、きよちゃんは昔とちっとも変わらない。見た目は年下のくせに、「渚子ちゃん、友達とか彼氏とか作らないの? 作ればいいのに」なんて小うるさいことを言う。そう言われるたび、私は少しイライラした。

 他人と関わるのが苦手な私だから、友達や彼氏なんてできるわけがないと思っていた。そんなものがいなくたって、きよちゃんひとりがいればよかったのだ。


 きよちゃんが突然「もう会えなくなる」と言ったとき、私は目の前が真っ暗になった。高校の卒業式の前日だった。

 なんで? なんで? と何度も問い詰める私を、きよちゃんはなだめて座らせた。

「渚子ちゃんが長生きしたら、絶対また会えるから。だから彼氏作って結婚して、子供作ってよ」

「なにそれ、そんな勝手なこと言わないでよ。きよちゃんのバカ」

 そう言いながら涙がどんどん出てきた。きよちゃんも泣きそうな顔をしていたけれど、やがて思い切ったように話し始めた。

「渚子ちゃん、未来に影響があったらよくないと思って黙ってたけど、思い切って言うよ。おれ、実は渚子ちゃんの曾孫なんだ」

 ぽかーんとしている私に、きよちゃんは続けた。

「おれ、中一のときに車に撥ねられたんだ。意識がポーンと飛んで、気がついたら何にもない空間をふわふわ漂ってた。そしたら小さい女の子が泣いてる声が聞こえたから、そっちに向かおうとしたら急に辺りが暗くなって、気がついたら渚子ちゃんの部屋の押入れにいたんだ。何が起こったかすぐにわかったよ。だっておれ、ひいばあちゃんからよく『押入れから出てくるきよちゃん』の話を聞かされてたからね」

 きよちゃんはいたずらっぽく笑って、また続きを話しだした。

「でも最近、何もない空間にいると、父さんや母さんの声が聞こえてくるようになったんだ。周りもだんだん明るくなってきたし、おれ、きっと目覚めて現実に戻るんだと思う。そしたらもう渚子ちゃんに呼ばれても会えなくなるだろうって、理屈抜きでわかるんだ。今まで渚子ちゃんのところに来られたのは、きっと何もない空間にいるときだけ使える特別な力のおかげだったんだと思う」

「ほんと? うそでしょ? きよちゃんが私の曾孫?」

 ばかみたいな顔で問うと、きよちゃんは「本当に本当だって!」と笑いながら答えた。

「あっ、おれのことは心配しないで! 未来の医療って渚子ちゃんが想像するより凄いから、たぶんちゃんと回復すると思う。だから渚子ちゃんは自分のことだけがんばれ! 大丈夫。ひいばあちゃんになった渚子ちゃん、すごい幸せそうだったから」

 話しているうちに、私にも「きよちゃんにはもう今までみたいに会えないんだ」ということが、覆せない事実として伝わってきた。

 私たちは一緒に泣いた。泣いているうちにいつの間にかきよちゃんは消えてしまって、もう呼んでも呼んでも出てこなかった。

 朝、私は泣き腫らした顔で登校した。卒業式なんかつまらないだけだと思っていたのに、『旅立ちの日に』を聞いていたら、突然きよちゃんのことを思い出して、また涙が出てきた。

 そしたら隣に立っていた子が、私につられて泣き出した。それを皮切りに、私はなぜか近くにいた何人かと抱き合って泣きじゃくることになってしまい、このことがきっかけで友達ができた。

 人生なんて、何が起こるかわからないものだ。


 高校を卒業した私はすぐに就職した。母にも父にももうずっと会っておらず、祖父母のよそよそしい様子も変わらなかった。誰にも頼らず、一人でも生きていけるようにならなければと思った。

 幸い一部の資格については、会社のお金で講座や検定を受けることができた。その制度を使って簿記の講座を受けたとき、私はたまたま隣に座った、少し年上の男性と知り合いになった。彼の顔はなんとなくきよちゃんに似ていて、初対面のときから「素敵な人だな」と思った。

 講座の前後に話すようになって、食事に行くようになって、いつの間にか私たちは一緒に暮らしていた。肉親とほぼ絶縁していること、家族というものがよくわからないこと、色んなことを話した。これから家族になっていけばいいよ、と言われて彼の両親に会った。優しそうな人たちだった。

 私たちは結婚した。自分に子供が育てられるか不安だったけれど、夫や義理の両親を見ていると、何とかなるような気がした。息子が産まれて、その翌々年に娘が産まれて、気がついたらきよちゃんに言われたとおりの人生になっていた。

 よし、頑張って長生きしよう。長生きして、曾孫のきよちゃんに会わなければ。

 何の躊躇もなくそう決めた。昔の自分が見たら、その前向きさにきっと驚いただろう。


 四十歳手前で夫が急死したことは、私にとってひどい痛手となった。曾孫とは言わないまでも、孫の顔くらいは一緒に見られると思っていたのに、まさかこんなに早く失うとは思ってもみなかった。

 私はしばらく抜け殻のようになって、何もせず、ただ日々をぼんやりと過ごした。きよちゃんのことを思い出して、自宅の押入れの前で「きよちゃん」と呼んでみた。夫の名前も呼んでみた。誰も出てこなかった。

 幸い子供たちも、義理の両親も、相談ができる友達も近くにいてくれて、私は少しずつ立ち直ることができた。どんなに辛いことがあっても、悲しいことがあっても、それでも人生は続いていく。そのことを最初に教えてくれたのはきよちゃんではなかっただろうか。いつか彼と会うはずの未来に向かって、私の道はまだまだ続いていた。

 家事をするようになった。職場に復帰した。泣きたいときは泣くようにした。

 そうやって、ひとつずつ年をとっていった。

 私がまだ働いているうちに娘が結婚して、初孫が生まれた。赤ちゃんなんてひさしぶりに見たわぁ、とその小ささに感動しながら、この子の未来が見たいな、と思った。

 このちっちゃな赤ちゃんの子供がきよちゃんなんだろうか? この子にいつか子供が産まれるまで、果たして私は生きていられるだろうか。いや、生きていくんだ。

 三年後に息子が結婚した。それから立て続けに義理の両親が亡くなって、私はひどく落ち込んだけれど、まただんだん元の生活に戻っていった。孫は五人に増え、幸運なことに皆健康で、見る見るうちに成長していった。

 色んなことがあった。楽しいことも、辛いことも。


 最初の孫に赤ちゃんが産まれたとき、私は八十三歳になっていた。

 連絡を受け、皆で病院に駆けつけると、ホヤホヤの赤ん坊を抱っこした、産後間もない孫が笑っていた。

「おばあちゃん、初曾孫だよ。おめでとう」

「そういえば名前、決まったんだっけ?」

 二番目の孫が尋ねると、赤ん坊の母親は「清志郎きよしろうにするよ」と答えた。

「渋いなぁ」

「かっこいいじゃん」

 私はうっかり笑いそうになるのをこらえた。そういえば「きよちゃん」としか呼んでなかったな、と今更のように思い出したのだ。きよちゃんは清志郎だったのね。なるほどなるほど。

 赤ん坊の顔を見た私の脳裏に、懐かしい夫の顔がよみがえる。この子は夫側の系統の顔だ。耳の形は義父にそっくりだし、薄い唇は義母によく似ている。産まれたときから髪の毛がふさふさなのは長男と同じだ。子どもたちや孫たちの特徴を、私は次々にその子に見出した。彼に出会うまでの長い道のり、それ自体が愛おしかったことを思い出した。

「やだぁ、ばあちゃん泣いてる」

 孫の一人が寄ってきて私の肩を抱く。自分の涙に驚いた私が、慌てて「ごめん、感動しちゃったの」と言うと、孫は暖かい声で笑った。

「初曾孫だもんねぇ。おめでとう」

 清志郎は赤ちゃんなりにツンと鼻が尖って、なかなかキリッとした顔をしていた。この子は将来男前になるな、と私はひとりでうなずいた。やっぱり夫に似ている。きよちゃんもきっとかっこよくて優しいひとになる。事故に遭うことだけが心配だけど、でもきよちゃんはあの後意識を取り戻したみたいだから大丈夫、きっと大丈夫だ。

 私は六十五年間の思いを込めて、「きよちゃん」と呼びかける。差し出した私のしわくちゃの指を、思いがけないほど強い力で清志郎が掴む。それがどんなものであれ、未来へとこの手が繋がっていることを、私は知っている。

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