裏の飯屋(うらめしや?)

影津

裏の飯屋(うらめしや?)

 ぎゅりゅぎゅる。タイヤのゴムが横断歩道の白線にめり込む音。鼻の頭の先をかするぐらいの距離でトラックが通り過ぎた。


「いっ!」


 声が上ずった。


「あ、あっぶねー」


 遅れてやってくる生暖かい風。鼻腔に吹き込む排ガスの臭いが、今しがた息をするのを忘れていた肺に降りてくる。むせる。


 間違いなく青信号で渡っていた。俺は悪くない。だけど、今、生と死の境目を経験した。その事実が俺の背広に汗を滲ませる。


 もしここで死んでいたら、会社に行かなくてすんでいただろうか。


 会社にいつまでも出勤して来ない俺に、上司が腹を煮やすのが目に浮かぶ。ケータイに電話をかけ、それでも繋がらなかったら自宅の固定電話にまでかけてくるだろうか。


 もちろん、身の安全を心配してではない。いや、かけてくるわけないか。俺の替えなんていくらでもいる。リストラする理由が一つ増えるだけだ。


 トラックは遠のいてバスの影に消えた。動悸が早まった。今頃、胸が苦しくなる。


 死ぬときは、苦しいものなのか。


 あのトラックに当たっていたら痛みはどの程度あっただろう。骨が折れるのか、それとも内臓が破裂して死ぬのかも。


 いや、案外、当たったときは痛みなどなくて、吹き飛んだ後に頭をアスファルトにぶつけて死ぬのかもしれない。頭から出る血はけっこうな量が溢れてくるからな。意識を失うことなく、失っていく血を自分で眺めることになる……。


 そう思うと、死ななくてよかったと他人事のように思える。


 地面に張りついていた革靴を引き揚げるように足を動かす。点滅した信号が赤に変わった。


「はぁ」


 吐く息が出勤に行く俺自身を拒否している。いつものため息。望んだ仕事に就かなかった自分が悪い。三年経ったら辞めてやる。その三年目が、今日も来ない……。


 ずるずるずるずる。決心のつかないまま足を駅に向けようとしてやめた。仕事をさぼってもいいかもしれない。いや、さぼるのはよくない。


 同じ毎日だから胸焼けするんだ。辞めるか辞めないか。きっと俺は今日も辞表を出せない。それより先に会社が俺をリストラするだろう。どっちが先かってだけじゃないか。


 今日を違う一日にする。


 今日はいつもと違う一日にしてみせる。


 何かを変えるしかない。でも、何を? 


 チリン。


 風鈴が鳴った。駅の近くの本屋の裏にできた今年できた新しい店。


 焼ける日差しを受け止める墨色の屋根。同じ色の光沢のないのれんに、漢字三文字「白(しら)南風(はえ)」。


 何屋か分からない。高いのだろうか。営業準備中の文字が手書きだ。スマホで後で調べるか。




 夕刻。残業がない。身構えていたので、力が抜ける。残業のない日は珍しい。風鈴の店のことを思い出す。命拾いした今朝のことを思い出す――。


 いつも足を寄せない店だ。これも何かの縁だろう。かがんで店名の白い文字ののれんを頭で左右に押し分ける。今朝、死ななかった俺がのれんの向こうへ飛び込むんだ。


 チリリン。


 俺の来店により、起きたわずかな風が銅の風鈴を奏でる。古い。新しい店名なのに。とても古かった。


 黒い天井の梁と。木のテーブル。二階建てだが、二階に上がれないように階段は封鎖されている。障子の窓。一言で説明するならば、古民家。観光客が一人ぐらいいてもよさそうが、立地が悪い。外の景色はビル群。今朝、俺の生死を分けた交差点が青信号に変わった。


「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」


 見て分かっていても店員は、訊ねてくるものだ。店員は二十代の若いバイトのようだ。静かな居酒屋を期待したが。


「カウンターへどうぞ!」ねーちゃん張りきりすぎ。


 コロナがなければ、満席でがやがやとうるさい店なのかもしれないな。「先に飲み物からお伺いします」とそのままついてきた。客がほかにいないらしい。焼酎を頼んでから気づく。灰皿がない。店選びを失敗したかな。焼酎はすぐに運ばれてきた。


 手書きのお品書きをA4コピー用紙にコピーしただけのメニュー表。ラミネートした端がはがれかけている。


 適当に食べて帰るつもりだ。刺身の盛り合わせは量が多いので、ハマチとマグロを頼んで。一人で贅沢をする。


「この魚は俺に食べられるために死んだんだ」


 そう思うことにする。実際そうだろう。俺はトラックにひかれかけた。それを回避する。俺の命は助かり、この魚たちの命が俺の腹に入る。


 今朝、俺がトラックにひかれて死んでいたら……この魚たちは別の客の胃袋に入っていたか? 

 客はいないのに? それとも、もうさばかれた後だった魚たちは凍えて冷凍庫で眠っていたか? 魚の命はどこで尽きた? 漁師の釣り針にかかったとき? 船の甲板に打ち上げられたとき? 競(せ)りにかけかけられたとき? 


 それとも、こいつらは生きていて店頭に水槽のある料亭でぷかぷかのんきに泳いでいたかもしれないな。この店に水槽など見当たらないが……。焼酎で喉を焼く。


 スマホで昔飼っていた黒猫の画像を漁る。コタロウ。老衰で亡くなった。仕事が多忙だったのは言い訳に過ぎない。帰宅すると眠るように横たわっていた。画像が笑っている。猫のほか、映り込んだごみ屋敷みたいな自室。散らかった部屋着と放置している洗濯物。


 新しい猫を飼う気は起きない。焼き鮭を頼んでスマホの画面をオフにする。焼酎の焼ける熱さを喉に落とし込む。光が明滅する。一気に流し込み過ぎた。


「あの」


 さっきのバイトだ。高校を卒業したばかりのような顔をしている。


「今夏のキャンペーンで風鈴が当たるスクラッチやってます」


「風鈴?」


 メニューの裏に載っている。おもちゃだ。入口にあった銅の風鈴なら考えるが。


 チリン。店内にいるのに外の風鈴の音が聞こえる。店員の声が遠のいた。


 黒猫がカウンターの上に飛び乗った。え、どこから現れた。跳躍、そのしなやかな体躯よりも、まだら模様と物言わぬ丸い瞳と鋭い瞳孔に引き寄せられる。俺の猫だ。コタロウだ。


「コタロウどうしてここに?」


 俺の声は上ずったりもせず、普通に自宅で一人で会話しているときの調子にいい声になって自分でも驚いた。


 コタロウは尻尾でぼたんぼたんとカウンターを叩いた。俺といっしょに夕食を待っているようだ。


「ああ、今日はまだやってなかったよな」


 そうだそうだ。帰ったら餌を用意しないと。


「あ、すみません。ハイボール一つ」


 店員がいない。まあいいか。


「今日、俺トラックにひかれかけたんだ。信号を守ってたのにな」


 ルールを守っていたのに、死ぬかもしれなかった。変な感覚だ。コタロウが俺の灰皿に目を落とす。


 俺はさっきまでなかったような気がする灰皿を手前に持ってくる。電子タバコでなく、普通のタバコにライターで火を点ける。煙が店内の換気扇に導かれていく。


 魚を裁く料理人。俺には話しかけてこないのだろうか。客なんてほかにいない。俺と言う客に話しかけて「ごひいきに」とか言いそうなにこやかな感じがするのにな。


 ハマチとマグロが運ばれてくる。


「すみません、取り皿もらえます?」


 もらった取り皿にコタロウの分のマグロを入れる。


「猫様だな。贅沢は今日だけだからな」


 コタロウは前足でマグロを引き寄せ鼻で確かめてからペロリと舐めただけだった。


「なんだ。食べないのか」


 コタロウの黒い瞳を見つめてはっとする。そうだ。こいつ、もう死んでるんだ。だけど、知らないふりをしよう。じゃないと、こいつが消えてしまう。そんな気がする。俺は黙々とハマチを食べた。


 コタロウが横で俺の口に運ばれるハマチを恨めしそうに見ている。――味がしない。箸を置く。重さがない。


 そうか。時間が経つほどに俺は冷めてしまう。そうだよな。マグロもハマチもさっき注文して、すでに胃の中だもんな。


「コタロウ。俺、明日も」


 仕事に行く。当たり前のことだけど。当たり前にしたくない。意味を持たない労働はしたくない。意味のある労働にするには、どうすれば。


 チリン。


「これが、スクラッチです。あ、私が削りましょうか?」


 俺は焼酎の入ったグラスを取り落とした。グラスは割れなかったが、中身がカウンターにこぼれた。おおざっぱに、お手拭きでふく。さっきコタロウが座っていた場所だ。


「大丈夫ですか? 私がふきますね!」


 店員はスクラッチの用紙を置く。十円玉を取り出して試しに明日のゲン担ぎをしよう。当たればラッキー。明日も無事に職場に着く。上司にどやされることもなく、何も起きない一日。風鈴ももらえる。はずれたら……。


 ふき終わっても湿ったままのテーブルでスクラッチを削る。


 はずれ。


 そう簡単に当たるわけもないか。でも、もうトラックにひかれかけることもないだろう。そうだな。はずれたことだし。明日また、この裏の飯屋に来るか。さっきのが、酔いで起こった幻だとしても。コタロウに会えなくても。あの、トラックが俺の何かを変えたんだ。

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