番外編2話 運命の分かれ道~桶狭間の戦い~

 大高城 松平元康


 1560年6月12日


「殿!一大事にございます!」


 忠勝は私が休む部屋へと飛び込んできた。先鋒としての役割は全て順調であり、周辺の砦も今川諸将との協力の下大方今川方へと抑えることが出来ている。

 これで御屋形様より承った任は完了であり、あとは本隊の到着を待つばかりであったのだ。

 だが忠勝のこの慌てよう。

 何事であるかと、みながこちらに視線を向けた。


「御屋形様がっ!御屋形様がお討ち死にされたと!」

「なんだと!?それは真の話なのか?」

「おそらくですが・・・。すでに報せを受けた各守将らが駿河へと撤退を始めております」


 まさか負けるなどとは思っていなかった。

 そして御屋形様がお討ち死にされるなど、夢にも思わなかった。今川は大軍、織田は寡兵であったにも関わらず・・・。


「殿、如何いたしましょうか?最早この城に留まる意味もございませんが」

「当然撤退する。このままここに残れば無駄死によ」

「かしこまりました。では全軍にそう命を下しましょう」


 忠次は他数人を伴って部屋を出ていった。直に我らも安祥城へ向けて動くであろう。


「少々お待ちを」

「如何したのだ、半蔵。おぬしも急ぎ撤退の支度を」

「岡崎城の守りは今非常に脆くなっているのではありませんか?」


 半蔵からの言葉は私を尋常でなく混乱させた。いったい何を言っているのかがわからない。


「何を言っているのだ。今は岡崎城では無く、居城の安祥城へと」

「先々代当主様は岡崎城を居城として構えておられました。そして松平の地位を確立されたのでございます」

「・・・」

「半蔵殿、まさか殿に今川を裏切れと申されるか!」

「裏切る。たしかにその通り、ですが元に戻るとも考えられましょう。義元公亡き今川に先は無い」

「貴様!」


 忠勝が半蔵に掴みかかるが、それを容易に躱す。忠勝は怒りで顔を真っ赤にしているが、半蔵の提案は私にとって魅力的なものであることにも違いはない。

 失った城が、失った土地が、失ったものが岡崎城には全て詰まっている。

 この好機を逃せば、私は一生今川の元で使い潰されるのであろう。

 だがそれは・・・。


「氏真様を裏切られるおつもりか!殿はっ!」

「忠勝、もうよい」

「殿!」


 如何する。大きな決断の時である。

 ここで岡崎城に入れば、今川を裏切ることと同義である。

 それすなわち・・・。


「殿、ご決断を。我らは古くより松平に仕えし者たち。殿の決断に従います」

「殿!ご決断をっ」

「ただいま戻りました。これより安祥城へ」


 忠次も戻って来た。異様な状況に何事かと目をむいておる。


「忠次」

「は、はっ」

「織田に遣いを出せ」

「織田、にございますか?なにゆえに」

「我らはこれより今川の元を離れ、岡崎城より独立を果たす!」


 申し訳ありませぬ。氏真様、政孝様。

 ですが最早これを逃すことは出来ぬのです。私が望む松平の姿のために、みなが願う松平の独立のために。


「織田と単独で講和し、三河西部と尾張南部を織田と切り分ける」

「本当によろしいのでございますね」


 遅れてやって来た忠次であったが、状況を察し最後に私の覚悟を問うた。


「二心を抱く者が氏真様の側にいていいはずが無い。もはやこれ以上は今川に付き従えぬ」

「かしこまりました。では織田へ遣いを出しましょう」

「頼むぞ。・・・全軍に命ず!目指すは岡崎城!先祖伝来の土地を我らで取り返すのだ!」



 岡崎城に今川の兵はほとんどいなかった。無抵抗といってよいほどあっけなく岡崎城は元康の手に落ちる。

 独立を見事に果たした元康であったが、これよりたどるその運命はまさに数奇なものであった。それはまた別のお話。




 今川館 今川氏真


 1560年6月13日


「織田の奇襲を受け、御屋形様がお討ち死にされました!全軍は散り散りとなり、駿河へと撤退しております!」


 泥にまみれた兵士が1人。麻呂の前へと駆け込んできた。

 その信じられぬ報を聞いた瞬間、一瞬ではあるが意識が朦朧となる。


「殿、お気を確かに!」

「・・・っ、氏詮、大丈夫である。しかし父上が亡くなられたなど信じられぬ。織田のながした虚報にでも惑わされただけであろう」

「・・・」


 だが伝令の兵は何も言っては来なかった。

 その沈痛な表情に、嫌でも今の言葉が事実であると思わされる。


「御屋形様は桶狭間で休息されておりました。雨で視界は悪く、織田の奇襲に気がつくのが遅れてしまったのです」

「・・・よい」

「御屋形様は最後まで戦っておられましたが、最早混乱する御味方の中で数少ない兵と奮闘することとなり、最期には・・・」

「もう、よい・・・」

「御屋形様・・・」


 決して皆の前では涙を見せてはならぬ。そう思っていたのだが、だが、いざその時になると、我慢など出来るわけがなかった。


「父上・・・、父上っ!!」


 嗚咽が漏れる。それが自分のものであるのか、はたまた同じ部屋にいる誰かのものなのかなど最早麻呂にはわからなかった。

 だがこれだけは言える。今川は麻呂の力でどうにか出来るものではない。

 まだ麻呂には父上が必要であったのだ。

 それなのに・・・。


「殿、立ち止まるわけにはいきませぬ」


 唯一麻呂に声をかけてきた者がいた。岡部正綱である。


「直に尾張へと兵を出していた者らが戻って参ります。殿がそのようなお顔をされていては、みなが今後の今川に不安を抱きかねませぬ」

「抱きかねぬのではない。抱くのだ、麻呂では先祖代々大きくしてきた今川を支えることは出来ぬ。そんなこと、麻呂が1番よく分かっている」

「分かっておりませぬ!御屋形様は殿に今川の全てを託された。故にこの戦で後方を任されたのです。殿を信じてっ」


 顔を上げると、みな涙を流してはいるが麻呂を見ていた。

 麻呂は・・・、麻呂はここでとまることを許されぬのか。父上の跡を継ぐのは麻呂しかいない。果たして麻呂は・・・。



 すでに家督を譲られていた氏真。だがこの瞬間まで今川家の実権は父義元にあった。突如として全権を任されることに困惑を隠せない氏真。

 崩れゆく今川家の中で、たしかに氏真を信じる者たちはいた。その者らの力を借りつつ、没落寸前にまで落ちた今川家は再起への道を進む。




 大井川城 一色政孝


 1560年6月13日


 史実通りに行くのであれば、此度の尾張侵攻が今川家の運命の1日となる。

 桶狭間で御屋形様がお討ち死にされ、他の重臣の方々も多くがその地で命を落とすこととなった。

 問題は史実ではいなかった一色政文という男。つまり俺の父親なわけだが、果たして父は生き残ることが出来るのか。

 朝比奈殿や岡部殿のように、生き残る可能性だってあるわけだ。

 そんな運命の日であるにも関わらず自室にて書を読みあさっていた。俺の初陣は元々この戦であったのだ。

 故に覚悟をしていたが、どういうわけか此度は見送られた。

 命拾いしたと思うべきだろうか。今の俺が桶狭間に行ったとて、俺1人の力で歴史が変わるとも思えない。


「若、広間へとお越しくだされ」

「時宗か、わかった」


 俺を呼びにやって来た時宗の顔を見れば、なんとなくどういった類いのことであるのか想像が容易につく。

 重い腰を上げて広間へと向かった。

 すでに城を任された者らがほとんど揃っており、その中央には鎧姿の兵が1人だけ控えている。

 母は緊張の面持ちであり、それは他の者らも同様であった。


「一色政文様、桶狭間の地にてお討ち死ににございます」


 その言葉を聞いた途端に母が泣き始めた。時宗も声を上げて泣いており、それは誰もが同じ。

 そんな光景を俺はどこか冷静に、いや冷めて見ていたのかも知れない。

 俺の初陣が此度のこれであると決まった時から、誰かしらが死ぬことは覚悟をしていた。

 それが俺であるのか、それとも別の誰かであるのか。それだけであると、それなりに覚悟を決めてはいたのだ。

 だがやはり悲しいものは悲しい。

 父には散々殴られたものであったが、それが武家の長であるための教育であるというのであれば、何も知らない俺は甘んじて受け入れていた。


「政孝、そなたは泣かぬのですね」


 ただ1人泣いていない様を見て、母はそう言ったのであろう。


「俺は武士の子なれば、戦場で命を散らすことも覚悟しております故」

「強いのですね」


 母から発される言葉はすでにいっぱいいっぱいであった。

 だが俺には立ち止まれぬ。父より授かりし厚き忠義と、幼少期共に切磋琢磨した氏真様。そして心が今川に無かった俺に最期まで寄り添ってくれた師である雪斎の為に。

 俺は前へ進まねばならぬ。今川家をここで滅ぼさせないために。

 俺の中には最早今川を離れるという選択肢は存在していないのだ。



 一色政孝。この世界に生み落とされたイレギュラーは今川家を変えるきっかけとなる。

 これより没落するしかなかった今川家の行く末は、この若き者に託された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

東海の覇者、桶狭間で没落なれど ~幼き日の記憶~ 楼那 @runa-mond

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ