19. 全部コロナのせいだ!
うちの家族に周さんが会って、何故かその場で婚約が仮決定しつつ、彼の家で逢う許可をもらったのが先月の話。
2人で何度か指環を見に行って、婚約用をなんとかペアリングにランクダウンさせるのに成功したのが先週の話。
――今日、私はついに周さんちにお邪魔する。
去年は1ヶ月ずっと雨が降り続いていた7月は、今年はマスクをしていると息苦しくなるほどの暑さだ。迎えに来てくれた周さんと2人、汗をかきかき辿り着いたマンションは、くすりのタナハシ本社ビルからほど近かった。1階にはコンビニが入っていて、きっとここが行きつけなんだろう。疑っていたわけじゃないけど、本当に家と会社の往復だけで自粛が完結する環境だった。
「徒歩でも通えそうな距離だけど、バイク通勤なんですね」
「…急に出向することもあっからな、足は要んだろ」
本当に仕事に真面目な人だなあと思いつつ、オートロックの入り口を周さんの後に続いて通り抜ける。神社通りの外れに建ったまだ新しめのマンションなだけあって、エントランスもエレベーターも落ち着いたグレーで統一されていてすごく綺麗だ。月並みだけど…お高そうだな。
「素敵なマンションですね」
「そーか」
「何階建てなんですか?ここ」
「5階」
…前に穂花から指摘されたことがあるけど、私は緊張すると喋るタイプらしい。周さんは私の家族の前で「ワクチン接種までは手を出さない」って明言してくれたくらいなんだし何も緊張することはないんだけど、密室?でふたりきりになるのは初めてだから、多少はしているのかもしれない。それより、周さんが普段どんなおうちで過ごしてるのか知るのがすっごく楽しみだし、仲いい友達に独り暮らしの子はいないから憧れのようなものもあって、私は昨日の夜から遠足前の小学生みたいになっていた。対する周さんはいつもより口数が少ない気がして、でもこの暑さじゃそれも当然かな。
3階でエレベーターを降りると、廊下の突き当たりの315と書かれた黒い扉の前でいよいよ周さんが鍵を出した。…と思ったら、2本のうちの一本を私に渡す。持ち手部分が黒くて、けっこうな大きさの鍵だ。
「これをここに近づけろ」
「?はい…………わっ!」
言われた通りにインターホンの黒い四角にに鍵をかざすと、ガチャリと扉から解錠音がして私は飛び上がる。
「鍵なのに刺さないんですか?!」
「反応悪かったら刺しても開く。入り口のオートロックもこれと同じ開け方だかんな」
「入り口の…?」
「やる。持ってろ」
そう言うと、私の方を見もせずに周さんは扉を開けた。一拍遅れて『彼の部屋の鍵をもらった』実感がじわりと湧いてきつつ、私はお礼を言うと急いでその後に続いた。
「うわぁ…………」
予想に違わず、部屋はとても広くて綺麗だった。
玄関に備え付けの靴箱と、真っ直ぐな廊下の両側に扉。その先には左側にキッチンがあって、正面は大きな窓が付いた広いワンルームになっていた。部屋には小さなちゃぶ台と、隅にベッドらしきものが置いてあるのが見える。洋服やゴミが散らかっている様子もなく、温かみのあるライトグレーの壁と床の木目がよく見えて……というか、見えすぎてないこれ…?だって座布団どころかカーペットすら敷いてない。周さんはいつも床に直に座ってあのちゃぶ台でごはんを食べてるんだろうか…?今はいいけど、冬はお尻が冷たいのでは…?
キョロキョロしている私の横で、シュッシュと聞き慣れた音がする。靴箱の上に置いてあるアルコールで周さんが手を消毒していたので、私も一吹き手にもらう。『ドアを閉めたらまず消毒』は、コロナ禍の帰宅ルーチンとして今や完全に私たちの身についていた。アルコールの隣には不織布マスクの箱が置いてある。毎朝ここから新しいものを付けて出て行く、うちとまったく同じだ。
「上がれよ」
「はい、お邪魔します」
さて、手を消毒したら次は―――お風呂だ。医療従事者の間で徹底されている『家の中にできるだけウイルスを持ち込まない』ために一番簡単なのは、『帰宅してすぐの入浴』だそうだ。このお母さんの教えに従って、うちでは家族全員が生活リズムを一新した。冬は寝る前に入ると身体がぽかぽかしたまま布団に行けて良かったけど、入る前の寝落ちリスクや面倒くささがなくなったという利点もある。おまけに今は夏だから、すぐお風呂に入ると外での汗を流せていいことしかない。家でマスクを外すのはお風呂を出た後だ。
「周さん、いつも帰宅したらシャワーでしたよね?」
ネットで色々調べているだけあって、周さんの帰宅ルーチンがうちとほぼ同じなのは何度か聞いていた。
「……………ん」
けど…周さんは何故かすぐに家に上がらず二の足を踏んでいる。おかしいな、と思うのと同時に私は理由に思い至った。独り暮らしの周さんは、シャワーの間私を待たせてしまうことに遠慮があるんだろう。うちでは、家族が同時に帰宅した場合、どちらかは玄関でシャワーの順番を待つことになっている。別にスマホをチェックしていればすぐだし、辛いと思ったことはない。
「お前来てんだし、今日くらい…」
「だめですよ!うちでも、一緒に出掛けた時はどっちかが玄関で待ってますから、私のことは気にせず」
「いや、そーじゃねえ……」
「遠慮しないで先に浴びてきてください!私も浴びた方が良ければ、その後にお借りしま………」
――突然、私の言葉を遮って周さんが動いた。腕をぐいっと引かれたかと思うと、問答無用できつくきつく抱きすくめられる。熱く火照った身体と、微かなアルコールに混じった男の人のにおい――私に触れる時はいつも優しい周さんに、苦しいほど強く抱き締められたのは初めてだった。なんとか上を向いて少しだけ息を吸いこむと、私は声を絞り出す。
「あまね、さん………?」
途端に腕の力が緩んで、呼吸が楽になる。急にどうしたんだろう、抱き締め返した方がいいのかな…と私がおたおたしていると、上から大きな大きなため息が降ってきた。
「あの……?」
「シャワーの話はすんな。……………我慢できる気がしねぇ」
「え…………」
「そんなに言うなら浴びてくっから、お前は消毒だけして中入ってろ」
パッと私を離してそう言い残すと、周さんは靴を脱いですぐ右のドアの中に消えた。バタンとドアが閉まる音を待たずに、自分の顔が今までにないほど熱くなるのを感じて、私はそのまま玄関に立ち尽くす。心臓が痛いくらい鳴っていた。
……が、我慢………してくれてるんだ……。ウイルスを持ち込まない為としか思ってなかったけど、普通なら『恋人の部屋でシャワーを浴びる』っていうのは、つまりそういうことで……。私にそんな意図は微塵もなかったのは周さんもわかってくれてただろうけど、その、ああ~誘ったりしたわけじゃ断じてないんです!もうめちゃくちゃ恥ずかしい!!元はといえば全部コロナのせいだ!!!コロナの馬鹿!!!!!
…恋人の家の玄関先でひとり反省会をしまくった2分後、私はなんとか落ち着きを取り戻した。はぁ…それで、これからどうしよう?
周さんは「中に入ってろ」って言ったけど……帰宅後シャワーを徹底している人の家にそのまま上がるのはやっぱり気が引ける。冬ならまだ上着を脱げば良かったかもしれないけど、今はカットソー1枚しか着てないし、ついでに汗もけっこうかいているし…。シャワーうんぬんは別にしても、ここ最近の異常な猛暑の中人の家に行く時は、着替えくらいは持ち歩くのが礼儀の時代になりつつあるのもかしれない。
そうなると………私はサンダルを脱いで家に上がり、玄関のアルコールを借りると上下の服に吹きかけた。続いて、いつも持ち歩いている除菌ウェットティッシュをバッグから取り出す。まずは解いた髪と顔を拭き、次に首や腕などの肌が露出している所を拭いていく。汗臭くなっていたら嫌なので、足と脱いだサンダルもしっかり拭いた。
ずいぶんさっぱりしてきたけど、まだ時間はありそうだ。私は何枚目かのウェットティッシュを出すと白のカットソーの中に手を突っ込み、脇やブラの中、お腹と背中の汗も拭う。足も大まかには拭いたけど、このあと床に座ったりするんだから、拭けるところまでは拭いてしまいたい。私は玄関の鍵が掛かっていることをしっかりと確認すると、膝丈の花柄スカートを捲り上げて太ももを―――
―――ガチャリと反対方向から音がした。
「待たせ………………………」
「ひゃっ?!」
バッと反射的にスカートを下ろすと、私は恐る恐る振り返る。さっき入っていったドアを中から開けたところで、周さんが目をまん丸くしてこっちを凝視していた。急いで出てきたのか、上半身は裸のままで、髪からは水がぽたぽたと垂れている。体脂肪率がギリギリなだけあって贅肉のない身体が丸見えで、スーツ以外を着てるところを見たことがなかったギャップもあり、男の人なのに濡れてる髪が色っぽくて………ああもう全部が無理!!!
パニックになりかけた私は目を強く瞑って情報を遮断すると、弱々しい声で言い訳を開始する。
「あ、あの、違うんです…」
「………………………」
「上がる前に、できるだけ消毒しておいたほうが、いいかなって思って……」
「………………………」
「み、………見ました…?」
一言も発さなかった周さんから、本日2回目の大きなため息が聞こえた。うっすら目を開けてみると……周さんは、両目を右手で覆ったままその場に立ち尽くしていた。いつもはマスクに覆われている形のいい唇が、小さく動いて低い声を吐き出した。
「……………………お前なぁ………試してんのか俺を…」
「えっ?まさか、違……」
言うなり、周さんはくるりと踵を返して再びドアの中に消える。状況についていけなくて呆然としたままそれを目で追うと、さっきと違って開けっ放しになったドアから、中の様子が少しだけ見えた。モダンな内装の奥に浴室のドアらしいものが見え、その手前には大きなドラム式洗濯機が置いてある、ということはここは洗面所だ。肝心の周さんはというと、ちょうどドアに隠れて姿は見えないまま大きな音でガラガラとうがいをする音だけが聞こえて、え、なんで突然うがい?………と思った拍子に理由がわかってしまって、私は真っ赤になるとその場から一歩も動けなくなる。
これは、ええと、わざわざ今口内を消毒するってことは、その、つまり―――
大股で玄関に戻ってくるなり、周さんは私の肩を掴むと廊下の壁に押し当てる。軽い衝撃にビクリと身を竦めた私の首と顎に大きな手が伸び、両手で上向かされた私の口からはいつのまにかマスクが外されていた。
「あ、あの」
間髪入れずに温かい唇が降りてくる。いつものように、何度も軽く啄むような…と思いきや、ぬるりと熱いものが私の唇の間に割って入ってきた。
「?!……?!?!」
それが周さんの舌だ、と気付いた頃にはもう唇や歯や舌のあらゆるところが優しく舐められて、なぞられて、吸われていて…………どれくらいそうされていたのか、ようやく周さんが顔を離してくれた時には、足腰にまったく力が入らなくなった私はずるずると壁に沿って床にへたり込んでしまう。
未知の感覚と恥ずかしさで、泣き出しそうになりながら見上げた先で―――目の周りだけを赤くした周さんは3度目の大きなため息をつくと、
「………俺はもっかいシャワー浴びてくっから、お前、今度こそ部屋上がってろよ…」
そう言い残して、再び洗面所のドアの向こうに消えていったのだった。
マスク越しのキス 瀧純 @takijyun
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