18. 今日はいい日だ
俺と佳衣が付き合いだしてから半年が経った。
6月らしい柔い雨がぱたぱた降る中、森林公園の雑木林を歩きながら俺は切り出した。
「近いうちにお前んちのオヤに挨拶してーんだが」
「…………………あいさつって…」
薄紫の傘の下で、佳衣はデカい目をさらにでっかくするとパチパチ音がしそうなほど瞬かせる。こりゃイチから説明しねーとな。
「第4波は落ち着いてきたが、すぐ8月には第5波が来るらしい。それまでにゃ俺たちのワクチン接種は間に合いそうもねぇし、この夏色々と出掛けんのはまだやめときたいよな?」
こくこくと佳衣の首が壊れた人形みてぇに動く。
「けどこれからはどんどん暑くなる、屋外で逢うのもそろそろ限界だ。そーなると、他んとこよりは俺んちかお前んちに集まんのが、コロナ的にも熱中症的にも一番安全だ」
なんでか佳衣の頷きが止まった。
「んでもお前んちはばーちゃんいるだろ、万一考えたら独りの俺んちのがいい。…けどな、『まだ18の娘が男んちに連れ込まれてる』ってお前のオヤが思ったらどーする?」
「………そういう方ですね……了解です」
他にどういう方があんのか知らねぇが、とりあえず賛成はしてくれるらしい。
佳衣の話だと、オツキアイしてる男がいんのは家族にもう話してるし、社長も気ぃ利かせて俺んことを色々と喋ってくれてるらしかった。タダでさえ10も年上の男じゃオヤは不安だろうからめちゃくちゃ有り難え。
とはいえ、佳衣が俺んちに来るとなりゃ話は別だろ。このコロナ禍で毎回ダチをダシにすんのも無理あるし、そもそも佳衣にウソつかせんなら堂々と挨拶入れた方がいい。
「でも、ほんとに私がお邪魔してもいいんですか?周さん、コロナを家に持ち込まないように色々してるのに……」
「んなこと気にしてんのか…他にゃ誰も入んねーし、お前に限ればなんの問題もねーだろ?」
大学がオンラインの間は逢う時間が割と確保しやすいのもあって、最近俺は2週間に1回の割合でコロナ検査キットを使うことにしてる。今んとこ陽性は出てねぇし、佳衣を家に呼ぶんなら俺の陰性が最低限の条件になんだから当然だ。これも伝えりゃ、少しはオヤも安心してくれんだろ。
「そ、そう言われると、やっぱり……緊張する、といいますか……」
歯切れの悪い佳衣は珍しい。進行方向に割り込んで、雨音と傘で隠そうとしてるカオを覗き込むと、ロコツに目を逸らされる。俺は声を出さないまま笑ってみせた。
「心配すんな、ワクチン打つまではなんもしねーよ」
「は、はい……そうですよね」
「接種希望者全員打ち終わるのは年内目処って話だしな、まあそんくらいは我慢できっから」
「……はい………………」
今度こそ、佳衣は傘で完全にカオを見えなくしちまった。でも、返事は「はい」で、ダメとは一言も言ってねえ。
…いっつも思うが、信じらんねぇほどかわいくねぇかこいつ?
「それで…こちらが半年前からお付き合いしてる、片桐周さん」
「…片桐です」
――確かに善は急げっつーけど、互いの都合がついたのがまさかの翌日。
俺は佳衣んちの居間でソファに座ってる3人相手に頭を下げた。玄関で手も頭も服もガンガンに消毒してきたが、コロナ禍で俺みてぇな知らん男を家に上げてくれんのはさすがに度量がデカい。
さて、本題はこっから……のはずが、ぶっちゃけ俺は初めて入った『フツーの家』に夢中だった。見渡す限りどこもゴミが放置されてねぇし、植木鉢とか絨毯とかなんもかんもが小綺麗で手入れされてる。壁に家族の写真が掛かってて、居間にクソデカいテーブルがあって、娘の男が来たっつったら二親どころかばーちゃんまで揃って座ってやがる……なんつーか別世界に来ちまったみてぇだ。その上お茶まで出そうとしてきたんで、「飲食はマスク外さなきゃならねぇんで」ってすっぱり断った。…断ってんのに、「ありがとう」ってコーイテキに返されるしな……佳衣がこんなにいい女に育った理由がわかったような気がした。
「君の話は義兄から聞いてるよ。バイトでお世話になったそうだね」
「はい。佳衣はすごいしっかりしてるんで、俺の方が年下かと思うくらいです」
「ちょっ、周さん?!」
佳衣の慌て方が副店長に会ってた時と同じだ。さすがに家だとリラックスしてるわ。
口火切ってくれた親父さんは一見穏やかそうだが、もし俺が佳衣の男親だったら可愛い娘が連れてきた男なんざ誰でも問答無用で締め上げてるところなんで油断は禁物だ。女ウケだけはいいこのカオがちったぁ役に立ったのか、お袋さんとばーちゃんは今んとこニコニコしてるように見える。
「佳衣からも聞いてますよ。きちんと挨拶に来てくれるなんて、親としてはとても嬉しいです」
やっぱりお袋さんは大丈夫そうだ。俺は頷いた。
「コロナの感染リスクを考えて、今まではほぼ屋外で逢ってたんですが、夏はそういうわけにいかなくなりそうなんで、俺の家に佳衣を呼ぶ許可を貰いたくて来ました」
「………理由はそれだけ?君みたいに若い人が、そんなに一生懸命コロナ対策するのもなかなか聞かないけど」
「お父さん…それどういう意味?」
「佳衣、落ち着いて」
…やっぱ親父さんがツッコんできた。まあ当然そっちを心配すんだろな。けど、最初っからヤんのが目的だったら、わざわざ俺が挨拶に来る理由がねぇのもわかってるはずだ。
「知っての通り、佳衣はばーちゃんの為に完全自粛を1年以上続けてて、俺はそれを尊重したい。少なくとも、2人ともワクチン打つまでは何があっても手出すつもりはないです」
「あ、周さんも、そんなはっきり……!?」
「…うん、確かにこの子は真面目だ。……君は、それで文句はないのかい?ついていけなくなったり、嫌になったりすることはない?」
からかうんでも煽るんでもなく、親父さんは真っ正面から俺に聞いてくる。さすが佳衣のオヤだとしか言いようねぇな。
でもそいつは無用の心配だ。どっから話せばいいか―――結局俺は、後にも先にも社長にしか話したことのねぇ、ネグレクトのテンプレを打ち明けることにした。
「俺はガキの頃家からオヤが消えて、飢え死にしかけてるとこを施設に助けられました」
途端にこの気のいい家の空気が凍ったのをなんとなく申し訳ねぇなと思う。聞いて楽しい話じゃねぇのは百も承知だかんな。
「ま、居ても殴るだけのオヤだったんで。中卒で社長に拾ってもらってなかったら、今頃どっかで野垂れ死んでるような奴だったのは間違いないです。この辺は社長に確認してもらってもいい」
「あまね、さ………」
隣で佳衣がガタガタ震えだしたのがわかって、俺の口角が自然と上がる。ほんとお前のそーゆーとこだよ、俺が惚れたのは。
「佳衣は、こんな俺がコロナに罹んないか本気で心配してくれた奴です。バイト先の愛想悪いオッサン相手に一生懸命、なんの見返りもねぇのに。こんな奴、初めて会った」
「佳衣が………そうね、この子なら…」
「だから自粛に文句もねぇし、佳衣が俺を好きだって言ってくれる限りはこいつの傍に居ます。未成年が男ん家に出入りしてたらオヤは心配だろうから、面通しさせてもらいたかった」
敬語は壊滅的にうまくねぇが、言いたいことはこんだけだ。
俺が口をつぐむと、でっかい掛け時計の秒針の音だけが居間に響いた。隣で震える佳衣の細ぇ肩が薄ら寒そうに見えて、こんなショック受けさすんならこいつには先に言っとくべきだったかと思うがもう遅い。いつかはわかるこったし、むしろ家族が一緒ん時で多少は良かったんじゃねぇかと思うことにする。
「佳衣は片桐くんを信じてる?」
「!…もちろん!」
突然の親父さんの質問に、佳衣が弾かれたみてぇに顔を上げた。
「周さんは私が言うことを真剣に聞いてわかってくれて、今は逆に感染しないように守ってくれてるの!私に逢うためにずっとコロナ検査キットで陰性を確認し続けてくれてるし、消毒だって…」
言い募る佳衣を見て、親父さんだけじゃなく、お袋さんもばーちゃんも全員が頷いた。俺にもわかる、みんな佳衣がこーゆーとこでウソつけねえのをちゃんとわかってんだ。
「もう大学生なんだから、お前が自分で決めたことなら何も問題ないよ」
「うん…!」
「――色々と苦労したみたいだけど、片桐くんは誠実な人だね」
「は、俺が…?」
親父さんに思ったこともねぇ形容詞を付けられて、俺は反射的に本音を口走ってた。
「どこが…?佳衣を育てたあんたたちの方が桁が違う。この家入っただけで思った、見たこともねぇほどフツーの家で、フツーの家族が居て、フツーにシアワセそうだ。こんなん夢でも見たことねぇ」
「っ、周さん…!!」
いきなり佳衣が隣からぶつかってきたんで、俺は椅子から落ちないにしても不意をつかれてビビった。俺の肩にカオを埋めて泣きじゃくってる佳衣を見てると、今の話のどっかに致命的な部分があったのは間違いなさそうだが、難しすぎて俺には探せねえ。家族の前で抱き寄せんのもなんだし、なんとか頭を撫でて宥めてやってると、向かいの席でばーちゃんも涙ぐんでんのを見ちまって無茶苦茶居心地が悪い。逸らした目線の先で、親父さんが口を開くのがやけにゆっくり見えた。
「片桐くん。もし将来君が佳衣と結婚したら、この家は君の家になるし、我々は君の家族になるんだよ」
声も出なかった。
想像したこともなかった。オヤは2人とも俺を捨ててった、俺に家族はいない、もう長いことそれが事実で結論だった。
ケッコンして自分の家族を作る?佳衣と?佳衣がずっと俺と一緒に居てくれんのか?今がずっと続くわけねぇだろ?いずれ俺はどっかで飽きられて捨てられんじゃねぇのか?
佳衣の家族が俺の家族?俺をこん中に入れてくれんのか?んなことしていいのか………許されんのか?
「んな、ことが、ほんとに……?」
頭ん中に疑問がいくつも飛沫みてぇに浮かんで消える。
目の前に並んだ、佳衣を育てたフツーで優しい3人の人間。
「あんたたちが、俺のオヤになってくれんのか…?」
「………っ!!」
佳衣が俺の首っ玉に抱きついてくる。ぶつかりかけた佳衣の頭に透明な雫がぼたぼたと零れて落ちて、俺はようやくそれが自分の目から出てるもんだと気付いた。
「なんだこれ………」
後から後から勝手に出てくるそれを袖で拭うが止まらねえ。
泣くのは嫌いだった。泣くしかできなかったガキん頃を否応なしに思い出すからだ。…けど、俺よりもっとわんわん声まで出して泣いてる佳衣を見てたら、俺は逆に少しずつ笑いが込み上げてきた。
俺ん為にこんな泣いてくれる奴と、ウソでもこんな声掛けてくれる人らと一緒に居られて良かった。今日はいい日だ、こんな日は社長に拾ってもらった時以来だ。あん時みたいに、俺はずっと今日のことを忘れねえし、いつになっても時々思い出すだろう。
「―――じゃあ、とりあえず『結婚を前提に』ってことでいいかしらね?」
「……………は???」
最っ高に間の抜けた声が出た。涙も引っ込んだ俺の前で、佳衣のお袋さんがハンカチ片手にニコニコしながらこっちを見てる。
「婚約者ってことならどこで一緒に居ても問題ないし、将来についてじっくり2人で考える時間もできるでしょ?」
「え、え、お母さん?!」
こっちも一瞬で泣き止んだ佳衣が、首まで真っ赤にしてオロオロしだす。そりゃそーだ、よりによって女親が言うんか、そーゆーことを…?
「うーん…まあ、いきなり同棲するよりは、きちんとしてるな」
「………マジで?」
親父さんまで普通に賛成してきて、俺は敬語が完全に外れた自分の声を聞いた。オヤ2人のカオを交互に見てるうちに、思考がやっと状況に追いついてくる。
こりゃあ夢じゃなくて現実か。――俺と佳衣が婚約して、結婚して、ずっと一緒に居られる上に、家族になってくれんのか。
…逃す手はねぇな。
「俺は何したらいいですか?」
「そうね…ウチは家柄とか堅苦しくないし、そちらもご両親が居ないってことなら、まあそのうち指環だけあればいいよね?お父さん」
「よし佳衣選ぶぞどんなんがいいとかあるか?」
親父さんが頷いた瞬間俺は速攻でスマホを出すと『婚約指輪』で検索を掛けた。んー……ダイヤが付いてる高ぇやつでいんだな、人気のブランドとかより佳衣が気に入るやつのがいいだろ。
「通販でも買えそうだが、流石に実物見た方がいいか?ってか指のサイズわかんのか?」
「ちょっ、ちょっと周さん待って待って?!」
裏返った佳衣の声なんざ初めて聞いた。慌てて俺のスマホを抑える佳衣が最高にテンパってるのを見て、俺はここまで佳衣の気持ちを確認してなかったことにハタと気付いた。
「あ、悪ぃ。………やっぱ嫌か?」
「嫌じゃないですけど!!ちょっと急展開すぎてついてけないだけで、っていうか『親に挨拶する』ってなったらこうなる覚悟は少しはしてましたし…!!」
あー…そーゆーことか。俺は森林公園での佳衣の反応を思い出した。こんなん想像すらできてなかった俺と違って、佳衣はちゃんと俺たちの先のことまで考えててくれたんか。ってか、俺はずっと『どっかで終わる』と思ってたってのに、当たり前に『先がある』と思っててくれたんだな。―――なら、後は押すしかねえ。
「佳衣、これ持ってきたから大きい画面で見たら?」
「ちょっ、もうお母さん、今買わせる気?!周さんが本気にしちゃうでしょ?!」
いつのまに持ってきたんか、お袋さんからさっさとタブレットを渡されて、佳衣がさらにでっかい声で怒鳴る。
「そうだぞ、こういうのはけっこういい値段するんだから、計画的に……」
「親父さんちょっといいすか、これ」
俺は即座にメインで使ってるネット銀行アプリにログインすると、向かいに座ってる親父さんに画面を見せた。右上に大文字で預金残高が表示されてるページだ。
「!これは……」
「社長んとこで働いてる他に株とかやっててこんくらいはあるんで、佳衣に貧乏だけはさせるつもりないです」
「そうだな、男として大事なことだ…ありがとう片桐くん」
親父さんの目が少し潤んだ気がした、けどこんなん当然すぎてなんのアドバンテージにもならねぇ。貧乏の辛さは俺が誰より知ってる、佳衣にゃぜってーあんな思いさせてたまっか。稼ぐ方法なら随分覚えてきたとこだ、まさかこんな風に役に立つとは思ってもなかったけどな。
「式には、新郎側の親族として昭治さんに出てもらえばいいんじゃないかい?」
「あっ、名案ですねお義母さん!兄さん随分片桐くんのこと気に入ってるみたいだから、絶対いい返事を………今連絡してみましょうか、思い立ったら吉日って言いますし」
「おっ、お母さん ?!今?!嘘でしょ?!」
今まで黙ってニコニコしてたばーちゃんがとんでもねーこと言い出したと思ったら、とんでもねー勢いでお袋さんがそれに乗っかって、とんでもねー声出しながら佳衣がそれを止めだして………もうめちゃくちゃだ。こんな超展開、いったい誰が予測できるってんだ?至ってフツーの家族だと思ったが、この早さ、違う意味でフツーじゃねーかもしんねぇ。
気付いたら、俺は大声で腹の底から笑ってた。自分でも意味わかんねぇけど、今起こってる全部がクッソ嬉しくて面白ぇことだけは確かで、こんな愉快な気分は生まれて初めてだ。
最初はポカンとしてた佳衣がそのうち一緒に笑い始めて、最後にゃ全員が笑ってくれた―――なぁ、多分これが『幸せ』ってやつなんじゃねぇか?
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