熱帯夜に沈みこむ


 電車に乗り込む。つり革に掴まる杵崎を見上げた。


「杵崎さんって」


 東と船波とは駅で別れた。押水は昼の暑さからきた疲労と、飲み食いした後の眠気に負けないように口を開く。杵崎も同じで、二人の間には暫しの沈黙が降っていた。


「本当に営業だったんですか?」

「なんでですか」

「表情筋があまり動かないから」


 ふ、と杵崎は破顔した。酒を飲んだからか、幾分昼より率直な意見を宣う押水は、自覚があるのか無いのか、首を傾げる。


「あ、笑った」


 電車が地下鉄から地上に出た。外は暗く、ビルの灯りが走り去っていく。


「営業でした。押水さんは秘書っぽいですね」

「東さんに、よく言われます。もっと普通にしてって」

「普通か」

「最初の同行で、東さんの荷物持とうとしたら驚かれました」


 それを容易に想像できた。押水は冷たい扉へ半身を寄りかからせながら、窓の外を覗く。子供のようなその仕草に倣うように、杵崎も夜を覗いた。


「何か見えます?」


 押水は尋ねた。


「何が見えるのかなと」

「ああ、夜の河が好きなんです」


 とん、と押水が指先を窓へつける。杵崎の視線は夜の河ではなく、その指先、爪先へと向いていた。細くつるりとしていて、綺麗だ。

 夜の河は黒い水だった。光が反射して煌めいている、のは電車の灯りが反射しているのだ。

 水面が波打ち、鱗のような白を押水は見つめる。


「押水さんのこと、見たことがあります」


 杵崎が言った。


「夜の橋の上で」


 その言葉に、押水が目を瞬かせた。同時に電車が止まる。頭を下げた杵崎が「今日はありがとうございます。お先に失礼します」と言って、丁度開いた扉の外へ行ってしまった。

 一人残された押水は未だ目を瞬かせていた。目にゴミが入ったわけではないが、そうすることで困惑から逃れられる気がした。


 夜の橋の上で。

 その場所を、その時間を、忘れたことはない。忘れることも、無いだろう。


 結局は行き着いてしまうその記憶に目を閉じ、冷たい扉へ半身を預けた。





 杵崎は翌週も普通に働いていた。覚えも要領も良く、押水が教育係だが、教えるようなことも特に無くなった。それを東に進言すると、


「いやーでも三ヶ月は試用期間だからちゃんと見てあげてね」


 と言って教育係から外してもらえない。

 船波にも相談したが、押水がそこを退けば自分にお鉢が回ってくると考えているようで「押水以外に任せられる人間はいない」と親指を立てられた。正直、その指を反対に曲げてやりたかった。


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どろっぷ! 鯵哉 @fly_to_venus

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