第5話

 風は日に日に冷たさを増していった。木々は葉を色とりどりに染め、一瞬の彩りを添えて、それらを落とした。惑星の動きに従い、気象と生物は誤ることなく季節を進める。胎児もまた順調に育っていき、アレイ10から13の胎児はあと6週ほどで分娩を迎える。

 転勤直後の事件を除いて、aは平穏な日々を過ごしていた。生管職員とはこういうものだ。

 aはEAUの間を通り過ぎていった。aの意識は目前の光景にはなく、その光景が与える印象の方にあった。薄暗い中に、ぼんやりと照らされた箱が連なっている。その緻密でシンメトリックな配置は、古代の神殿を思わせた。

 この景色を何度見ても、いや何度も見ているからこそ、aは感慨を覚えるのだった。この巨大な自律式の子宮は、子供の供給という秘儀を淡々と務めている。

(昔の人はどう思うだろうか)とaは思う。(子供を憐れむんだろうか)

 それはaが嫌悪してやまない考え方だった。子供を人工子宮で育てるなんて、という人がかつていた(正確にいうと今も)。彼らには気づいていないことがある。母体と胎児は、その意思に関係なく勝手に協調し、それぞれの肉体はとてつもない正確さで仕事をやってのける。それは機械も同様のことだった。「妊婦が子を育てる」というのは、人格を神と崇める傲慢さの表れなのだ。

 暇な状況では過去をゆっくり振り返ることもできるし、未来について考えることもできる。インキュベータ部では、新型EAUの購入とブースターの導入の手続きが進みつつあった。分娩を終えたアレイ1では、ブースターの試運転がすでに始まっていた。



 インキュベータ部とは対照的に、保存部は大忙しだった。

 保存部もインキュベータ部同様、単純作業をこなすだけの部署だ。この部署では、液体窒素に浸かった物言わぬアンプルを相手にしているだけであり、その業務は生管の中で最も退屈と言われる。

 生殖細胞の入れ替えは、ドナーが好き勝手な時期に細胞提供をしているにもかかわらず、なぜかおよそ三年の周期で起きる。三年ごとに細胞提供が集中する時期が来るらしく、全国の生管で囁かれている噂によると、このサイクルと景気のサイクルは一致しているという。この時だけ、保存部が例外的に忙しくなるのだ。


 冷凍室のラックの間をロボットアームが俊敏に行き来する。職員iはその様子を窓越しに見つめていた。

 iは睡魔に襲われていた。ロボットの単調な動きと、冷凍室から聞こえるブンブンという唸り音が催眠効果をもたらした。

 iの仕事は、冷凍された細胞を運搬することであり、つまり何もしないことだ。実質的な仕事は全てロボットが行なっているからだ。

 とはいえ、iは決して気楽ではなかった。その肩には二千件分の責任がのしかかっている。この先二ヶ月で二千件の細胞の入れ替えが行われる予定なのだ。iは常時の退屈さと、時々訪れる重圧との間で板挟みにされている。

 形を失いつつある思考は、奇妙な幻影を作り出した。

 シャーレの中に灰色の走路があり、精子が猛然と泳いでいく。最初は横一列だった群れから、頭一つ分抜け出した精子があった。それはどんどん加速して他を突き放し、ついには卵子に飛び込んでいった。

「これだ!」iは飛び上がった。先程までの眠気はすっかり吹き飛んでいた。


 ひらめきは新しい発想を次々と連れてきた。iは自分を天才だと思ったほどだ。

 新しい遊びは、「競精」と名付けられた。ルールは簡単。ラボオンチップに走路を印刷し、ゴールに誘引成分を置く。走らせるのは廃棄予定の精子だ。参加者は精子を選び、自分の精子が一着になれば賞品を得る。

 iの考案した遊び方は仔細にわたる。走路の長さは七センチメートルに設定された。スタートの構造は、精子が一斉にスタートできるよう巧妙に作られている。この仕様は、ラボオンチップの回路を工夫して水流を制御することで実現できる。コース上には緩やかな逆流を起こす装置を組み込む。ちょうど競馬コース内の坂のようなものだ。また、馬に鞭を打つように、精子の動きを促進する薬剤を投下できるポイントも設定した。これで勝機が公平になるだろう。

 iの背後に、液体窒素の容器を運ぶjが現れた。

「iさん、また……眠ってない。何かありました?」

「よく聞いてくれた。いいこと思いついた」iは思い切り笑っていた。

 それを見てjは動揺する。「なんですか急に」

 それでもjはiの話を聞くつもりらしく、容器を載せた台車のブレーキをかけた。

「ちょうど今、新しい遊びを発明してさ、一緒にどう?」iはjの肩を叩いた。

「え、発明? また妙なことを」

「捨てられる細胞の有効利用だよ。廃棄予定の精子で競馬をやる。名付けて『競精』」

「やめときます。競馬で大負けしたのにまだ懲りないんだ……」jは慌ててブレーキを外し、台車を押して保管庫に入っていった。

 最初の空振りにもかかわらず、iはこの遊びの面白さを信じて疑わなかった。iは一人、この遊びを実践する空想に浸った。考えれば考えるほどに、早く実行したい衝動に駆られるのだった。

 

 幸運にも、その機会はすぐに訪れる。終業間際のことだった。

「i、ちょっといいかな」保存部の作業リーダーが声をかけてきた。

「なんですか?」廃棄細胞のデータベースのチェックをしていたiは、モニターから目を離して振り返った。肩がバキっと音をたてた。

 リーダーは加工室を指さした。「インキュベータ部に送るやつ、やってもらいましょうか」

 iは笑って返事した。

 リーダーは不思議そうな表情を浮かべて、iを二、三度見返りながら去っていった。

 iが命じられたのは、EAUで用いられる溶液を精製するためのラボオンチップの作成だった。この忙しい時分に、インキュベータ部の加工機械が故障し、その作業が保存部に回されて来たのだ。しかし、これは難しい作業ではない。このチップは完成したデータの一部をいじればすぐ作れるので、周囲の目を掻い潜って新しいデータを作り、刻印することも可能だ。

 加工室に入るなりiは図面データの編集を始めた。指示書によると、変更箇所は二箇所だけであり、編集はものの四、五分で終わる。

 編集を仕上げると、iはチップの刻印に取り掛かった。その間に競精コースの設計図を描かなければならない。

 頼まれたチップよりも競精コースの方がはるかに複雑だった。コースの設計を終える前に加工室を出なければならないのではないか。iは焦りから、時計を幾度も見直した。

 午後四時三十六分。EAU用チップの第一号が出来上がった。

 iはすかさずテスト用溶液をチップに通す。テストは成功。iはチップの作成を再開した。

 午後四時四十分。加工室のドアがノックされ、iは全身を硬直させた。

 ガシャリとドアが開いて、リーダーが現れた。iは自分の体でモニターを隠した。

「どうかな。今何個できた?」とリーダー。

「まだ三十個です。全部作るのにあと三、四十分はかかりそうです」

「あ、そう」と言うとリーダーは加工室をあとにした。

 iは緊張から解き放たれ、安堵を超えた快感を覚えた。それは、密かに悪巧みをする楽しみに他ならなかった。


「選んだ? じゃあ、始めよう」

 iの企みは磁石のように人を惹きつけ、翌日の夜には、最初の競精が行われた。iとj、もう一人の職員kはちょうど当直勤務で、細胞の廃棄作業の担当となっていた。kは競精を撮影して、他の参加者に見せる役目を自ら買って出た。

「j、こんなやつで大丈夫かよ。ノロマじゃんか」kは顕微鏡のモニターを叩きながら笑った。映っていたのはjが選んだ精子だった。kは被写体を動かすと、勝ち誇ったように続けた。「俺はこいつにした」

「まだレースも始まってないのに。kのは蛇行してコースアウトするさ、きっと」jも負けじと声を張り上げた。

 kの手元のスピーカーから声が鳴った。「ねえ、賞品ってそっちにあんの?」

「寮の方。こっちが勝ったら勝手に飲むなよ」とi。

 iはピペットを手に取り、コースのスタート地点に精子を配置した。kが顕微鏡を操作し、画面にコースが大写しになる。

 iがチップの一部を押すと、ゲートが開いて精子が一斉に飛び出した。

「いけいけいけ」、「抜ける抜け抜け!」、「戻るなコラァ」……スピーカーからは声援がない混ぜになって出てきた。現場のi、j、kも、顕微鏡のステージに向かって叫んだ。

 精子たちは一つ目のコーナーに差し掛かった。iの選んだものが抜け出そうとしていた。

「i、あれを差せ」

「促進剤早く早く」

「ああーっ、抜かれるやばい」

 遠隔参加者から絶え間なく言いつけが浴びせられた。iら三人は慌てて薬剤を差す。

 精子が直線コースに出ると、iはコースの一部分をズームアップした。

「さ、こっからが見せ場、逆流でーす。これ作るのにめちゃくちゃ苦労した」

「はあ? こっちは最下位なんだよ」スピーカーから甲高い声が文句を言った。

 それに混じるように別の声が言う。「じゃお先に失礼しまーす」

「おい、負けるかよ。酒がかかってんだぞ」

「薬プリーズ」

「おい、こっちもくれ」

 スピーカーの向こうで言い合いが起きている間、精子たちは懸命に流れに逆らっていた。エネルギーが切れてきたのか、動きが鈍るものも現れた。

 jの選んだ精子は流されたり逆らったりで、同じところをぐるぐる回っていた。kの方は最初勢いよく進んでいったが、中間地点で減速し、壁にぶつかって動かなくなってしまった。kはステージに向かって必死に声をかけた。

「あと少し。いけいけいけ……やーった、一等!」

 遠隔参加者の一人が雄叫びを上げた。その後次々と精子がゴールに入る。

 iは自分の選んだ精子が四着でゴールしたのを見届けた。jのものがそれに続いた。



 レースが始まった頃、寮の交流スペースは異様な熱気に包まれていた。

 一辺が人の背丈ほどの大きなスクリーンに、競精の様子が映し出されていた。それを囲んで十人以上が集まっており、歓声が寮中に響き渡る。さながら、サッカーワールドカップのパブリックビューイングだった。

 aはそれを眺めながら、共有キッチンに向かった。冷蔵庫を物色すると、庫内には大量のチルドピザと生肉、巨大なソーセージと傷んだナス、そして、寮では滅多にお目にかかれない高級ウィスキーがあった。競精の観衆たちが、冷蔵庫にあったのと同じピザを片手にビールを飲んでいた。

「なにこれ。飲んでいいのか」

 aはキッチンの奥の食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫の方に再び戻ってきた。

「えーと。炭酸水と、あと氷」

 aが瓶を開けようと蓋に手をやると、「コラッ、そりゃうちらの賞品だぞ!」、「勝手に飲むんじゃねえ」、「返せ返せ」などとスクリーンの方からいくつもの怒号が飛んできた。aは瓶を開ける姿勢のまま、声の方向をじっと見つめた。

「どういうことですか、賞品って」

 観客の一人が立ち上がって答える。「競精の商品だよ。ほら、今映ってる」

 aはスクリーンを見やり、首を捻った。

「廃棄精子を使ったレースだよ」

 やっとaはことの全容を理解し、首を縦に振った。

 おかしなことを考える人がいるものだ、とaは思った。廃棄精子を使うことの是非はともかく、こうして集まって大騒ぎする人々の輪に加わろうとは思えなかった。こういうことをして何が楽しいのだろうか。aにしてみれば、レース観戦など、不完全な競争本能の発散のための行為でしかない。aは競争そのものに興味を見出せなかった。


 第一回の試合の後も、競精の勢いは衰えることなく、翌日には第二回が開催され、その後三週間で八回にも及んだ。回数を重ねるごとに、観客たちの熱は増していくようだった。五回目を過ぎると参加者の数が当初のコースの数を超えたので、iはコースを再設計しなければならなかった。また、商品を賭けずに観戦するだけの者も増えた。この頃になると観戦用スクリーンが三枚必要になった。

 観客の数が増えたということは、無論勧誘の担い手も増えたということだ。aは五人からそれぞれ別個に誘いを受けたが、断った。しかし、保存部から始まった競精は、インキュベータ部にも確実に浸透していった。

 ブースター導入のための研修会を終えたa、b、cは事務所に戻り昼食をとった。

 最初に発言したのはbだった。「あのさ、正直ブースターなんて使っても仕事量減らないと思うんだよね」

「そうかな、養育期間が八ヶ月に短縮できて、しかも低体重児を防げるならいいんじゃない」とc。

「そりゃ病院側の都合じゃないか」aは弁当の卵焼きを口に含んだまま意見した。

 転任時、aを散々振り回したブースターには、やはり種々の思惑に取り巻かれているようだった。表向き、生管職員のワークロードを下げるためにブースターを導入するのだと宣伝されているが、全国の生管本部には、養育期間を短縮することでクレームを受ける確率を減らそうという狙いがあるらしい。また、厚生労働省は人口減少への危機感から、生管のキャパシティを拡大する計画を打ち出している。これが実現されれば、生管職員の負担はむしろ増えることになる。

 卵焼きを飲み込んでaは再び口を開いた。「将来的には、親が来てその日のうちに子供を渡そうとするんだろうね」

 bとcは困惑を含んだ笑みを浮かべた。「やだ、それ」とc。

「そういえばゲノムオーサーは中止になったのか」bが天を仰いで言った。

「そんなんあったっけ」cは気怠げに答える。技術革新はもう御免といったところか。

 しばらく会話が中断され、咀嚼音だけが残された。惣菜パンにかぶりつきながら、cはデスクの上のチランジアを愛でた。

 そこにhがやってきて「a、あの話聞いたか?」と尋ねてきた。

 a含め三人はキョトンとした。

「ほら、あれ、競精が所長にバレたっていう話」とhが補足し、三人は腹落ちした。

「あー、やっぱやるもんじゃないって」とb。

 hが続けた。「断って正解だよ。iのやつ謹慎処分喰らった。他の参加者も厳重注意らしい。で、それはいいとしてさ、政治的にやばいことになってる」

「え」三人同時に目を見開いて、hの方に身を乗り出した。

「RAIDだったんだよ、使ったやつが。ストライピング宮家がいたかもって話……」

 bが深刻な表情で聞いた。「ニュースになってる? なってたらまた抗議来るんじゃない」

「いや、私が聞いた話じゃ、なってないらしい。秘匿するつもりでしょ、生管も」

 自分が関わらずに済んだことに、aは心から安堵した。

 しかし、このことが公にされれば、aも無関係ではいられない。aの心は一瞬のうちに不安の底へ叩き落とされた。あの襲撃事件の記憶も蘇った。

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