第4話

 月曜日、目を覚ましたaは親からのメッセージを確認した。そこには「あー ついにバレちゃった」などと反省の色が微塵も見えない文章が綴られていた。aは歯噛みし、返信する意欲を起こせないまま、生管へと向かった。


 aは、先週よりも早く事務所にたどり着くことができた。aは、bとcがそれぞれのデスクにつきながら話しているのを見つけ、近づいた。

「おはようaさん」bが先にaに気付き、bに続いてcが声をかけた。aも挨拶を返した。

「十分休めました? 東京からきてその日から勤務じゃ、先週は相当きつかったでしょう」bが問うた。

「まあ、寮の人とも知り合えたし、オオシロハラタケを見れたから」

 cは目を丸くし、力なく口を開いた間抜けな表情になった。bも反応に戸惑っていることが窺える。

「東区の寮の近くに、モエレ沼公園があるでしょ。そこに生えていた。菌輪ができていた状態が良かったから、一個持って帰って胞子紋を取って、名前を調べてみた。アニスの匂いがするっていうんだけと、臭いとしかいいようがなくて、判定は完全じゃないと思う」

 b、cの両人はますます当惑の色を強めた。「ん、まあ、楽しめたんだね」cはこの話題を打ち切りにかかった。

「あれほど立派な菌輪は見たことがない。あ、これが写真」aは前進を選び、写真を見せて二人を困らせた。

「これ、食べられるの?」bはなんとか話題についていこうと質問を絞り出した。

「もしオオシロハラタケだとすれば食べられるらしい。でもキノコの判別に慣れてないから自信がない。実際に食べなかった。植物なら、食べていいものと悪いものがわかるんだけど」

「すごい。野生児だ」bは感服とも冷やかしとも取れる評価をした。

「本物の野生児もそんなことしないよ」cは、bを皮肉をこめた鋭い眼差しを送った。

「いや、生物に興味を持ったのは、図鑑が先で、観察はだいぶ後になってから」aがすかさず説明した。

「自然観察かあ。そんな趣味があればなあ」とb。

「生き物自体は街中でもどこでもいるけど、見つけるのにコツがいるな。…コツっていっても、説明できるようなもんじゃなくて…なんか独りでに浮かび上がって見えるようになるっていうか…」aは説明を続けた。自分の趣味に話題を持ち込めて機嫌が良くなり、さらに話が膨らんでいった。「…もっと慣れればチラッと見ただけで種類までわかるんだけど、キノコに関しては見つけるまでが難しいからなあ。あと今回失敗だったのは、ナイフを持っていかなかったことだね。その場でキノコを切ってみれば、断面の様子とか切り傷の色とか観察できて、それが決め手になる」

 もはや相手を意識した話というより、思いつくままの言葉の垂れ流しに変わったaの話から、二人の関心は遠のいていって、aというオブジェクトの観察者になっていた。二人にとって、キノコの具体的な名前と特徴よりも、キノコの見つけ方よりも興味深いのはこのaだった。

(生物好きが高じてこの人は生管に来たに違いない)cは推定した。cには知り得たかどうかわからないが、実のところbも考えを同じくしていたのだった。

(いや、でも、この人は生態学の方に進んだほうがよかったんじゃないのか? 生管なんてほとんど機械作業なんだし)cはさらに考え続けた。(分子生物学とかにも興味があるのか? だとしたら恐ろしい興味の広さだ)

(東京の人だって聞いたけど、意外な趣味だな。北海道生まれだとも言っていたけど、そこで身につけた趣味なのか? いずれにせよ、僕には関係の薄い趣味だ。教養のある人のものなんだから)bは、次第に自分の中に描いたaのイメージに圧倒されていった。

「逆に聞くけど、北海道にいると自然観察をしようという気は起きないの?」aの身勝手な関心が、突然bとcを襲った。

「え…考えてもみなかったな。僕は札幌生まれだけど、子供の頃から自然に興味があまりなかったし、というか札幌に自然があるイメージがないな」bが答えた。続けて、cが答えた。「帯広の方の出身だけど、なんかもう自然は背景というか、わざわざ見るもんじゃないと思ってた」

「なるほどね。立川で聞いた時は、奥多摩の人がそんなこと言ってたな。豊平川とか見所ありそうだけど」

「釣りとかはしないの? hだかdが釣りが趣味だって言ってたけど」cが質問を投げかけた。

「釣りね。あまり魚食べないから釣りは面白くないな。横浜にクサフグを釣りに行ったことはあるけど、どうも生体じゃないと面白くないね」

「フグは食べるんだ」bは高級食材の匂いを敏感に察知した。先ほどから食い意地を隠しきれずにいる。

「え、クサフグは全身毒で食べれないよ。フグの内臓を見てみたいと思って釣ったの。それにテトロドトキシンで殺虫剤作れないかと思って」

 この言葉にc、bの思考は即座に反応した。(毒の抽出をしたってこと? なんでフグで殺虫剤を?)

 しかし、非難めいた指摘は心のなかだけに留めておいて、口では穏やかに反応することにしたのだ。「解剖もするんだね。うちはもう、科学的興味なんかさっぱりないわ」それでもcの言葉からは、諦めに近い、aへの心理的隔たりが含まれていた。

 今度はaが敏感にならざるを得なかった。それは立川での苦い経験のためだった。すぐにある言葉が思い出された。「それは生管職員としてどうなんだい? いくら学生時代の話とはいえ…」aは次に喉元まででかかった言葉をぐっと飲み込んだ。

 始業前のおしゃべりは散開した。


 始業時刻十五分前となり、生管職員たちが一斉に慌ただしく動き出した。aらインキュベータ部職員は一斉に衛生管理区域へと姿を消していった。インキュベータ部から遅れること五分、事務所から持ち場へ入ったのは相談窓口の職員たちだった。その中に、hの姿があった。

 hは事務所に入ったときから、いや、そのはるか十時間以上前から、あることがずっと頭から離れなかった。それは恵庭市に住む、卵子ドナーの無茶な注文のことだった。二週間前に相談に来たその人物は独身でありながら、提供された精子を用いて子供をもうけたいということだった。このこと自体はありふれた依頼だった。問題は精子提供者の条件だった。相談者は、ドナーの身長や体重、本人と家族の病歴、さらには精神疾患の有無や知能指数に到るまで事細かく指定した。生産管理局はこの条件でドナーを探すこともできただろう。北海道生管のドナー登録者は数百万人にも及ぶし、別の地域の生産管理局から生殖細胞を取り寄せられる。しかし、全国の生管で社会的な理由によるドナーの選別を禁止している。相談の内容は明らかに、社会的に良く見られる子供を望んでいることを示している。hは、社会的選別に当たるかもしれない旨をその相談者に忠告したところ、本人の社会的身分や家系を問うてわけではないから、社会的差別に当たらないと反論してきたのだった。さらに、その理由で精子提供を断るならば、訴訟も辞さないと言ってきたのだった。今日、その相談者の二回目の面談が行われるのだ。

 hは過去の事例を調べておき、相談者を説得することにしていた。この種の問題は世界中の生管とその類似機関で起きていたが、日本の中だけでもその時々によって対応が異なっているのが実情だった。それは、生管の対応についても、訴訟の判決についてもいえることだった。hの調べでは、生管の対応の分かれ目は、遺伝子配列シミュレータの利用の有無にあった。二つのドナーの細胞の組み合わせで、病気の子が生まれる可能性があるというシミュレーション結果が出た場合には、選別を許可することが多いようだった。また、ドナーを選んだ後で、相手ドナーの容姿を確認したいから合わせて欲しいという要望は、古い時代をのぞいて生管側は必ず拒否している。現在の生管では、子供を得た後に結婚する場合をのぞいて、相手の顔写真を開示してはいけないことになっているのだ。では、背が高い子供、知能の高い子供を望むような依頼に関してはどうかというと、判断がまちまちであるようだった。これでは、生管側から納得のいく説明をすることが困難だった。さらに厄介なことに、in vivo生殖は顔を合わせて、大抵は相手の身分や性格も知った上で行われるものだが、ドナー細胞によるin vitro生殖ではそうはいかない。そもそもin vitro生殖で社会的に優れているとみなされる子供を作ろうと要望を出すのがおかしいといえなくもない。しかし、それをもって相談者に反論すれば、かえって訴訟に発展する危険が増しかねない。

 そのようなわけで、hは賭けに出るしかなかったのだ。それは相談者の感情次第の賭けだ。


 始業時刻となった。aらは気分よく衛生管理区域を歩き回っていたが、h含め相談員はそうもいかなかった。hは相談室で相談者を待つ間、眉間にしわを寄せた表情を崩さなかった。しかし、例の相談者以外の前では、柔和な表情を作らねばならないのだから苦労した。

 例の相談者の予約は午後二時だというのに、他の相談者のいる前でも、油断するとその問題について考え始めてしまうのだった。hは持てる精神力を振り絞り、午前の平凡な相談者の話に耳を傾けた。

 一方、インキュベータ室は点検の時間だったが、aの担当のアレイ12は全く異常なしだった。aとしては仕事がなくて困る。

 不満げな表情で朗報を携えたaは、dの元へ向かった。

「アレイ12、全機異常なし。自動整備おそるべし」

「おお、全部が異常なしか。何ヶ月ぶりだ?」dは対照的に、声を弾ませた。まるで子供が景品を当てるためのマークを集め切ったかのようだ。

「よし、じゃ、アレイ12はベース。巻いていくぞ」dはEAUの中央制御盤をポンと叩いた。

 ベース栄養の注入は、機械の作業を見張るだけなのだから、ほぼ仕事とは言えない。ぶらぶらとa、bは作業に取り掛かった。

 旧型機からベース栄養の注入を行うのだが、五十九台回り終えたところで、問題が発生した。天井から吊り下げれている機械の動きが止まったのだ。

「ああ、またか。逆流したみたいだな。インキュベータとの相性が悪い。しかも自動対処できないじゃん」bがぶつぶつ言いながら、注入装置をマニュアルで操作し始めた。

  チューブの中を気泡が行き来し、上部から液体が流し込めない様子が見えた。気泡は本来入らないはずで、しかもそれが故障を引き起こすこともある。

「逆流防止弁の腐食じゃないか?」aは栄養ユニットのカバーに手をかけながら言った。

「それはない。自動と目視の両方でセーフが出た。考えられるとしたら…」

「栄養ユニットごと外して、酸素ユニットを使おう」aは決然と述べた。「このままだとアレイ全体がダメになる」

 ベース栄養を注入する機械は、自動で集中制御されている。気泡が混入した際、機械は自動で気泡を抜く動作をしたが、その際にEAUから液体を吸い上げてしまったらしい。そのため更なる誤動作を引き起こし停止してしまったようだ。アレイ全体がダメになるというのは、気泡が天井の配管にまで入り込んだ場合の話だ。しかし、逆流さえしなければ他の機械は誤動作しないだろうとaは踏んだのだ。

「ああ、そうしよう」bには諦めの色があった。どうやらこの場で整備をしてしまいたかったらしい。bはおそらく、上部配管の液体を一度強制的に排出しようとしたらしい。

 再び故障に遭遇したaだったが、内心で安堵していた。というのは、bだけで判断すればほぼ間違いなく時間のかかる解決法をとってしまうだろうと直感したからだ。

 aは無線で報告とユニットの手配をした。すると意外な返答があった。「旧型だけ縮退運転にできる。一度パージをしよう」

 人に頼んでみるものだ、と感心する一方、自分の判断が間違っていたのかとaは訝った。

 結局、旧型機につながるほぼ全ての配管で気泡が確認され、五九号機から液体が排出された。さらに圧力の異常が他の機械でも認められ、なんとか自動制御で乗り切れているという状況だった。aとbは判断ミスを犯したのだった。

 二人は肩を落として事務所に戻っていった。


 事務所には、早めに業務が完了した相談員たちが戻っていた。hはまだ戻ってきていない。相談員たちは輪になって話し込んでいた。審査会の結果が届いたようだ。aらインキュベータ部の職員たちは遠巻きにそれを見ていた。彼らはその中で噂話をした。

「どうせどの精子選んだって子供は一緒でしょうに。こだわらなくてもいいと思わない?」

「投資用なんでしょうよ。容姿が良ければ投資が集まるから、それでじゃないの」

「で、ほんとにそれeなの? hは会ったんでしょ?」

「いや、守秘義務があるから言えないでしょう。だいいち、有名人じゃうちに来ないって」

  技術職員たちは、相談員に課せられる守秘義務や倫理規定などお構いなしのようだった。隙があればhに直接聞き込むつもりのようだ。

 aは、近頃聞いたような内容の噂には特段の興味を持たなかった。しかし、b、c、dは強烈に惹きつけられていたようだった。

「もしeだったら、うちが断ったら大ごとになるね。取材がわんさかくるかも」とd。bが激しく頭を縦に振って頷いた。

「でも、eだっていう証拠はないんだから。そうでないことを祈るよ」cがつぶやいた。

 aは事務所を後にし、昼食を買いに出た。今度こそはザンギが残っているといい、そう願って足早に弁当屋に向かった。

 事務所を出てすぐの通路で、aはhとすれ違った。

「hさん、こんにちは」

「ああ、aさん。重要案件の処理が終わりそうだよ。また後で」hの声はしわがれていて、はりがなかった。目をあちこち泳がせていた。緊張を強いられる業務の副作用だろうか。

 重要案件とは噂の相談者のことか、と聞く勇気がaにはなかった。どうせ回答は分かっている。「守秘義務だから」だ。

 aは職員通用口から外に出て、来客用入り口の前の広場を通ることにした。

 広場には、プラカードを持って座り込んでいる人が四人いた。プラカードには『相手を選ぶ自由を』とか『生管に交配相手を選ぶ権限はない』などと記されている。四人とも厳しい面持ちで沈黙を貫いている。

 まずい、とaは思った。例の相談者がこの中にいるとaは直感した。生管がその人物の依頼を拒否すると踏んで、抗議デモをすることで生管の判断を覆す魂胆のようだ。生管の真正面でこんなことをされては、警察を呼ばなくてはならないかもしれないが、許可されたデモであるのかもしれない。とにかく、aはことを荒立てないよう、彼らを無視してさらに足速にその場を離れることにした。

 aは弁当屋に、まるで発車直前の電車に滑り込むように駆け込んだ。またしてもザンギは売り切れだった。しかし前回にはなかった、麻婆丼があったのでそれに即決した。


 買い物を手早く済ませたものの、またあの座り込みの一団に遭遇するのをaは厭い、回り道をして生管の裏側から直接通用口に行くことにした。しかし、来た道を戻って途中で曲がる場所を間違え、結局正面口にきてしまった。

 広場の光景にaは唖然とした。プラカードの一味が立ち上がって、スプレーペイントで生管の建物に落書きをしている。ガラス扉はすでに、ミミズののたくったような文字でいっぱいだった。

 これにはaも黙ってはいられなかった。「おい、警察呼ぶぞ!」

 aはどこか冷静な部分で、なぜ受付職員が注意をしないのかと奇妙に思った。その理由はすぐに分かった。彼らは建物の中で動けなくなっていたのだ。正面入り口の二重扉のところで三人がうずくまっていた。催涙スプレーか何かをかけられたのかもしれない。

 プラカード一味は即座に反応し、逃げる構えを示した。aはすかさず、背が低く小太りな一人に的を絞ってそれを追いかけた。aが走り出すと、一味は手に持っていたものをaに投げつけようとした。いずれもaに当たることはなかった。

 三十路のなまった体もよく動くもので、aは目標との距離をどんどん詰めていった。

 生管から他の職員が続々現れて見物を始め、また警察官も走ってきた。警察官たちは一味を見失ったようだが、包囲の用意を進めた。

 それら一切はaの視野になかった。aが見ていたのは、ただ自身の手が目標に届き、それを掴んだことだった。

 しかし、その小柄な人物は抵抗した。何か右手に持ってaに殴りかかり、それがかすれると今度はaの服をつかんで投げ技を繰り出した。aはよろけ、その隙をぬってその人物は逃げたが、再びaは追いついた。aはその人物の両肩を掴み、押し倒した。

 が、これがいけなかった。

 その人物は崩れ落ち、動かなくなってしまった。頭を打ってしまったかもしれない。しかもaの行為の一部始終を警察に見られていた。これでは、aが傷害罪を疑われても仕方がない。現行犯逮捕される可能性もある。

 案の定、aは警察官に声をかけられた。そこでやっとaは通常の意識を取り戻した。それまで、何かに憑かれたように、あるいは覚醒の上にも覚醒したように、考えることなしに動いていたのだった。aは急に不安に襲われた。

 aは周囲のざわめきと、野次馬の多さに驚いた。そして、痛みの激しさにも。

「大丈夫ですか。お怪我は…」警察官がaの顔を覗き込んでいた。aはその意味を解するのに時間を要した。

 aは血だらけだった。


 幸い、警察はaの罪を問わなかった。また怪我も引っ掻き傷程度で、ごく浅いものだった。警察の調べによると、aの読み通りプラカードの一味に注文の多い相談者本人がおり、それがaの捕まえた人物だった。その人物はすぐに回復し、仲間らとともに器物損壊と威力業務妨害の容疑で逮捕された。彼らは全国の生管で非公式のデモを行う組織の一員だった。もちろんその人物はeではなかった。野次馬職員たちはこれに落胆したという。

 hはこの相談者に、精子提供の拒否を通達することになっていた。理由は、審査会が突貫でまとめあげた、バイタルデータと社会的階級の報告書の記述によるものだった。それによると、『社会的階級は遺伝しなくとも、容姿は階級の再生産に深く関わる。従って、容姿を理由にしたドナーの差別は、階級の差別と同様に、再生産管理法第三条の二により禁止されるべきである』


 

 木曜日、aは再びbに誘われ、夕食を共にすることにした。cもついて来た。

 bはジンギスカンを注文した。cはbと被らないようにと、ザンギ定食を注文した。aはジンギスカン以外のめぼしいものを探した。

「ねえ、ラム肉でカツレツを作ったら美味いと思わない?」メニューのラム肉料理のページに目を通してaが言った。その中にaの目を引くものが無かったのだ。

「いや、そんなことしたら羊が泣くぞ。羊はジンギスカンに限る」bが持論を展開する。いつになくはっきりと自信を持った語調だった。

「屠殺された羊が?」

「ジンギスカンこそ羊料理の完成形だ」bの言葉にさらに熱がこもる。

「でもさ、北海道以外の人ってラム肉の料理食べるといつも『意外に臭くない』とかいうよね。あれおかしいよね」既に酒を飲んだcがずれた話題を持ち込んだ。

「確かに」aとbが同時に返答し、aがさらに続けた。「実際、東京でジンギスカン用の肉買ってもさ、悪いやつってほとんどないんだよね。多分タレントの食レポが悪いんだな」

「まあ、東京に住んでた人がそういうんだからそうなんだろうね。タレントはもう少しラム肉を勉強してから食レポに臨むべきだね。あとジンギスカンが最高であることも」bは再び持論を持ち込んだ。

 aはまだ注文を決めかねていたが、考え込むこともなく話し続けた。「羊を見ながら食べるジンギスカンは確かに最高だろうね」

「やだ、それ」cは自分があたかも常識人の代表であるかのような、叱るような表情で言った。「aは解剖とか分解とか好きみたいだけどさ」

「ああ、好きだよ。子供の頃はケンタッキーでいろんな肉を買って、鳥の骨格を再現するのが好きだった。あと鳩の死骸を見つけた時は木の枝でほじって中身を見ようとしたね。こんときは親に止められた」aの表情はといえば、子供時代を懐かしむ時のものだった。

「そっか、鳥の方が好みなんだな。北海道はザンギとか有名だし」メニューのページをめくる間も、aはぼそぼそと喋り続けた。「ザンギにも筋膜ぐらいあるだろう」

 aの言葉を受けてbとcは呆れ返った。それでもbは持論に立ち返ろうとする。「ジンギスカンにも筋いっぱいあるぞ」筋膜があればaの好みの肉であると言いたいらしい。

「すいません。ザンギ定食一つお願いします」aはbを無視した。

「ケンタッキーで鳥を再現するってどういう趣味よ。なんかグロテスクというか、サディスティックだね」cは呆れた表情をさらに強めた。「まさかそういう動機でこの仕事についたんじゃないでしょうね」

「いやあ、実際そうだけど」aは悪びれもせず答えた。

「東京の人って変わってるよなあ」bが感心したように言った。もう持論に戻れる見込みはない。

「生まれは北海道だけどね」aが反論した。「東京ではよく言われたよ。『北海道の人は変わってる』ってね。でもあいつらは私が変わり者だって言いたいんだよ」

「実際そうでしょ。自分でそう思わない?」cは説教くさく言った。「だいたいさ、怖いもの見たさで生管に来るって不謹慎でしょう。え?」

「怖いもの見たさじゃない。普段見れない中身が見たいだけ」疲れで虚ろだったaの目つきに鋭さが戻って来た。「周りの人間は生殖を神聖視しているけど、本当はそうじゃないって自分の目で確かめたかった。周りにin vivo結婚をした人が多くてすごい煩わしかった。cも少しその気があるようだね」

「私もin vivo結婚は馬鹿げていると思うけど、再生産には特別の意義があると思う」

「特別の意義?」

「程度の差はあれ、親やドナーは真剣に次の世代のことを考えている。まあ、残念ながら、人が他人のことを本気で心配する唯一の機会が親子関係を持つときなんだな。aはものを見るときに余計なものを剥ぎ取ろうとばかりするけど、周辺的な部分に重要な意義があると思う」

「なるほど。そこは実業務では忘れられがちだ。そうだ、今回はそれで大揉めだよ…まったく」aの表情は曇った。

「自分が子供を持てないことの代償のようでもあるけどね、この仕事は」cは遠い目をしている。

「そりゃそうだ。明らかにin vivo結婚に不適合な人が優先的に生管に就職してる。関連業界も一緒だ」社会に対する愚痴が一気に出てこないように、aは水を飲んだ。

 bのジンギスカンが運ばれてきた。発言の意欲を失ってだんまりだったbは、発言しない積極的理由を見つけた。bは黙々と肉を焼き、肉はもくもくと煙を出した。

「まさか自分が癌で生殖能がなくすとはね…それがなかったら今頃何してただろ」肉の焼ける音に紛れてcがつぶやく。聞かれてもいないのに自分の身の上話を始めた。「学生の頃は、普通に就職してin vitro結婚して子供を育てると思ってたんだよ。なのに就職が内定した時に癌になって、まだ採卵してないのに手術して…内定まで取り消しだよ。生管に斡旋してもらった時は天の助けだと思ったんだけどね。よく考えてみれば、in vivo生殖できる人間から隔離されてたってわけ」

 cのザンギ定食が運ばれてきた。それでもcは話し続ける。酒が入るとcは話が止まらなくなるようだ。

「ザンギ来たぞ」aが注意を促す。

 cは箸を手に取ったが、それを持ったまま、「別に生管に文句あるんじゃなくて、なんか生管にいると事情持ちなんだと思われるのが嫌でさ…」と続けた。「でも開き直って、子供を持つ手伝いをしたいと思えるようになったわけ」

 すぐにaのザンギも来た。aはすかさず箸を取り、ザンギを切り分け始めた。

 もはやcの話に対するaの興味は尽きたが、定食を食べながら思うところがあった。それはin vivo生殖ができない人間の社会的役割についてだ。In vivo生殖を神聖視する文化からすれば、それができない者は邪魔者ではないにしろ余計な者であって、生管も同様である。In vivo生殖はとにかく特別なのであって神聖視ないし神秘主義的なイデオロギーが、In vitro生殖が現在の形となって30年たつというのに、いまだに人生を狂わせるほどの威力を持っている。同性愛者、無性愛者、生殖能力を持たない人などin vivo生殖不適合者にしてみれば、現代社会は恐ろしい異教徒たちの迫害を受けながら過ごす危険な場所である。その異教徒たちの力によって、唯一の安全地帯は生殖管理業界と決められてしまったのだ。しかし、in vitro生殖に従事することで、生管の職員たちは世間全体に対して大きな貸しを作っているのだ。

 aの頭は抽象的な話に気をとられたが、自分の口の中に関心を戻した。ザンギは、生姜が効いた衣が軽い食感を生んでいて、中の肉も東京で食べる鶏肉よりはるかに繊細な食感と風味を持っていた。細かくなった筋繊維が喉に落ちていくのに従って、関心もまた別のところへ移っていった。

 石狩支部の中にもin vivo生殖能がありながら働いている者がいるのではないか、という疑問が湧いた。aは、喉がザンギの占有から解放されるなり発言した。「石狩支部職員は全員生殖不能者じゃないでしょう。生管の人が全員事情持ちという決めつけは正しくない」

 cの身の上話は、aの言葉に答えるような方向転換をできないまま進んでいる。

 答えたのはbだ。「僕は生殖不能というわけではないけど、同性愛者だから」bがaに顔を近づけ、ジンギスカンをかむくちゃくちゃという音と一緒に耳打ちした。「ここにいれば楽だと思ったから。cには内緒だぞ。いじられるから」

 気にかかるのは、bが自分の性的指向をcにいじられることを気にしているという点だ。この点でbの答えは破綻している。生管にいたとしても、周囲の反応を恐れながら行動しなければならないことを意味しているからだ。

「cの反応がそんなに怖いのか」

「cが知ったら、根掘り葉掘り聞いてくる。『どんな男が好き?』とかさ」

「ああそう。自分も気をつけるわ」

 どうやらcは周囲に対して配慮をするのが苦手らしい。cが勝手に夕食についてきたこと、酒ばかり飲んでくだを巻いたこと、bに不信感を持たれていることを総合すると、そのように説明できる。

 生管の職員の特徴についてかなり多くのことがわかってきた。次は彼らの関係について知るべきだろう。ところがaはそうした人間観察が苦手だという自覚があった。学校や以前の職場では孤立状態になることもままあった。それにも関わらず、この職場では比較的スムーズに関係を築けそうな人物が複数人現れたことは驚きであり、大きな謎だった。

 bは満腹になるにつれ口数が減り、cの話は支離滅裂という状態であったので、これ以上aにとっての収穫はなかった。

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