風の中で僕らは

衞藤萬里

風の中で僕らは

 ブロー(風だまり)に入ったとたん、速度があがった。柔らかい手で、やさしく押しだされたような感覚だ。

 僕はタックし、セール(帆)をスタボー(左舷)側にはらませる。練習ではないから、ギリギリまで風上へ切りあがらず、アビーム気味に余裕をもたせている。もともと今日の風は、クルー(操帆手)である梢がハイクアウトして、ヒール(艇のかたむき)を押さえるほどではない。

 ヨットは風上へむかって一直線に帆走することは決してできない。風上から四十五度ずつまでなら進むことができるので、何度も向きを変えて(タック)、ジグザグに目的地に到達するしかない。まどろっこしいように思えるが、僕たちにはそのようにして進むしかないのだ。

 セイルに受けた風が額に、海水の流れがティラー(舵手)をにぎる手に、推進を伝えてくる。一年で一番熱い太陽が容赦なく照りつけ、海面はぎらぎらしたさざなみだった鏡のようだ。 時たま、潮からい飛沫が体をぬらすが、それすらも気持ちよい。

 僕はまぶしさに眼を細め、艇が風下の方へ流れないように、たまにティラーとメインセール(主帆)を操作するぐらいしか役目はない。艇は安定して進んでいる。艇が進んだ後には、扇状のきれいな軌跡が描かれていた。

 五年乗っていなかったが、これぐらいコンディションのいい風ならば、さほど技量はいらない。

 出艇してすぐは、センターボード(水中板)やラダー(舵)を下ろすのに手間どったり、タックのタイミングがばらばらだったりしたが、ハーバーから離れ、周囲を気にする必要がなくなると、すぐにこつを憶いだした。といっても、そんなに大層なもんじゃないけれど。

 後輩たちのヨットはまだずっと西、この時期、湾の対岸の山にさえぎられず、比較的良好な南からの風が吹くポイントで練習している。豆粒ほどのセールが、じわじわと海上をまどろっこし気に進む様は、かつての自分たちを見ているようだ。

 正確な場所などもちろんわかるわけないので、岬の位置からこのあたりであろうと見当をつけ、ティラーを押し、艇のバウ(艇先)を風上にむける。とたんに風をとらえることができなくなったメインセールがばたばたとはためき、艇は波にゆられるだけとなる。

 こうして止まると意外に風は強い。クルーの梢は何も云わなくても諒解し、手でブームを押さえてセールに風がはらまないようにする。

 ゆっくりするには少し強すぎるか?潮で流されないようにしなければと、僕はそんな梢のしぐさを見つつぼんやりと考えた。

 艇内に置いていた小ぶりな花束を梢がそっと海面に置く。僕は花の名前はわからない。準備したのは梢だ。花束は波にゆられて、たちまち艇から離れていった。


 ――七月三十一日。

 城野 真澄……彼がこの海で死んで五度目の夏がきた。僕も梢も、あの日以来ここにきたのは今日が初めてのことになる。


* * *


 彼――城野 真澄。彼女――酒匂 梢のふたり。そして僕……一二三。僕はこれから語るごく短い物語の、狂言回しの役どころだ。

 僕らは大学のサークルで知り合った。城野と僕は同期。梢は一期下。足早な世情とは無縁の地方の私大で、僕たちには風が合った。

 ヨットってやつは、ひどくのんびりしたスポーツのように思われがちだが、実際はなかなか過酷だ。体力も使う。

 強風の時は恐ろしいぐらいの速さで疾走し、すれすれの高さで見る青黒い海面の迫力や、のしかかってくるような高波、風に体ごと持ちあげられるような震える高揚、そしてそれを自分の腕でコントロールする猛々しい感覚は、ちょっと説明のしようがない。そんな日、一日海に出た後は腿が上がらなかったり、ペットボトルのキャップを開ける力も残っていないぐらい体力を消耗することもある。

 特に冬の最中はあまりの寒さに体の芯まで凍え、顔がしもやけでひび割れてごわごわしたり、転覆した海の中の方が寒くなく、そのまま艇にはいあがるのがいやだったりもした。

 僕たちの部が所有していたヨットは470級という、オリンピックの正式種目にもなっているメジャーな二人乗りのクラスだ。もちろんエンジンはついていない。完全に風だけで走る。スキッパー(艇長)とクルー(操帆手)で二枚ないし三枚のセールを操り、舵とメインセールはスキッパーが、ジブセイル(前帆)、スピネーカーという追い風用の薄いセール、そして艇のバランスをクルーが担当する。

 僕も城野も初心者で、入学時の勧誘に何となくイメージで入った口だったが、意外な過酷さに驚いた。同期にはもう一人いたのだが、彼は早々に退部した。

 二回生になって梢たちが入部した。彼女の同期は四人で、僕たちの代にくらべると大漁だった。二回生の途中から、城野は梢とペアを組むようになった。僕も一回生をクルーにし、スキッパーに昇格した。部員の少ない僕たちは、早くから二回生はスキッパーを経験しなければならなかったのだ。

 インカレに出場もしたが、下から数えたほうが早いというぐらいの順位で、腕前の方は推して知るべしだ。

 なかなか大変なこともあったが、しかし大体において僕には居心地がよく、このまま卒業して何年かしたら、OB会で酒でも呑みながら、きっとそのころのことを懐かしく思ったりしただろう。

 それから一年、僕たちが三回生の夏、七月三十一日。一週間の夏合宿も明日で終わりという日。主将は城野。副将が僕だった。

 一週間の合宿となると、不思議なことに一日ぐらい、すうっと示しあわせたように全員の気合がぬける時がある。明日で合宿も終わりということもあって、その日がまさにそうだった。それでも僕たちは自分たちなりに真剣だったし、何かがおきるなんてことは、当たり前だが考えてもみなかった。

 この夏一番暑い日で、風はわずかに白波がおきるぐらい。波はうねりもなく、年に何回もないベストコンディションだった。

 普段は四、五艇が沖の航路灯を目印にバラけないように並走していたのだが、その日はどういうわけか練習というより、各自好きに走るような感じになっていた。一艇一艇の間隔がずいぶん空き、しかしそれが気にはならない程度に秩序はあった。

 城野と梢の艇は最後尾を帆走していた。

 一体どういうわけだったのか?転覆する風の強さではなかった。

 ふと後方を見た時、城野・梢艇が九十度、横倒しになっていた。俗に云う半沈というやつだ。

 沈した艇が出た場合、念のため集まるようになっていたが、この風で危険なんてありそうもなかった。

 しかし一応副将としてクルーの渡辺に「もどるぞ」と声をかけると、彼も初めて気がついて「うおっ?城野さん、何、沈してるんすか?」と笑った。

 ジャイブして風下にバウをむけた時、他の艇はまだ気がついていなかったようだ。

 風下にむかうランニングは船足が速い。たちまち城野・梢艇に近づくと、横になっている艇の上に梢だけがまたがっていた。その顔は水面につかっているセールを、真剣に見つめていた。

 僕たちが近づいた気配に気がついた梢が、はっと顔を上げた。その瞬間、嫌な気分がこみあげてきた――城野はどこだ?

 僕たちは必ずライフジャケットを身に着けている。転覆して艇から引きはがされても、何時間でも浮かんでいられる。辺りの海面に、城野のグレーのジャケットは見あたらない。艇の影にも見あたらない。

 半沈した時一番怖いことは、海に落ちてセールに上からおおいかぶさられてしまうことだ。なまじライフジャケットを着ているため、潜って逃げにくく、窒息してしまう危険がある。といっても、ジャケットを脱いで、数メートル潜ればすぐ脱出できる。慌てなければまったく問題はない。それに海に落ちる時も、風の強さに耐えきれずにひっくり返るのだから、セールの方が先に着水する。よほど妙な落ち方をしないかぎり、セールの下に閉じこめられることなどない。

 実際、僕はただの一度もそんな経験はない。城野もだ。

 だけど……セールの真ん中の、奇妙なふくらみは一体……

「酒匂!」

 僕の声に梢はびくりと体を震わせた。その時の、胃に石でもつめこまれたような感覚を憶えている。

「渡辺、近づけろ!」

 ラダーを切り、シートを引いて城野・梢艇にぐるっと回りこむ。やはり城野はいない。

 スターン(艇尾)側から近づき、本当ならスキッパーである自分がするべきではないのだが「渡辺、そのまま待ってろ」と云い、飛び移った。

 FRP製の船体はぬれてすべり、横倒しになった艇はぐらぐらと不安定に揺れた。

「酒匂!何してる、艇起こせ!」

 センターボードに足をかけて叫ぶと、梢は青白い顔のままのろのろとこっち側へやってくる。艇のふちに手をかけ、後方に体重をかけた。セールの抵抗がぐんと背中にかかるが、それは水の中から引っこぬかれるまでのほんのすこしの間だ。やがて人の重みで横倒しになった艇が、あっさりと起きあがる。

 そのタイミングにあわせて艇内に転がりこんだ。くそッ、滑車で思いっきり顔をうつ。飛沫がまるで雨みたいに降りそそいだ。

「城野さん!」

 渡辺の喚く声が妙に近くで聞こえた。

 顔を上げた。今までセールのあったあたりに、グレーのジャケットが出現していた。

 情けない話だが、膝が震えていた。梢の気配を背中に感じた。彼女は僕のシャツのすそをつかんでいた。

 ライフジャケットで沈まない城野の体が、ゆうるりと波に揺れていた。

 真夏の太陽を見上げた顔の白さが、網膜に焼きついた。城野はもっと陽に焼けていたんじゃなかったか?何であんなに白いんだろう……?

 他の艇が近づいているのが、視界の端にみとめられた。みんな集まってきたのか……ぼんやりとそう思った。

 その年の七月三十一日の太陽は、その夏で一番の太陽だった。それなのに城野の瞳は閉じられていた。


* * *


 時間が流れ、僕たちはあの夏の日をゆっくりと忘却していくことになる。

 ただ何人かで苦労して艇に引っぱりあげた彼の体が、まだ温かかったこと。

 そのくせ、ぐにゃりとした身体はもう動かず、息もしていなくて、おかしなほど顔が白かったこと。

 ハーバーにやってきた救急車や警察車両の威容のこと。

 葬儀の日泣いていた少女が城野の妹で、まだ中学生だったってこと。

  その葬儀で稲光のようにたかれたフラッシュの閃光に、僕たちは怯え、焼香することがすごく恐ろしかったこと。

 そんなことは、きっと忘れることはできない……


 城野の死は事故として取りあつかわれたが、法的に僕たちの立場がどうだったのかは今でもよくわからない。ただ、安全面で何らかの問題があったのは間違いなかったようだ。だから退学者がいなかったり、期限なしの休部が甘い処分だったのかどうかもよくわからない。

 城野が死に、副将だった僕が部内を取り仕切らなければならなかったが、自分の無力さをいやというほど味あわされただけだった。

 あの時期の他人の言葉で、記憶にのこってるものなんてほとんどない。

 僕は人の言葉にもみくちゃにされ、流され、おびえ、激しい怒りと、むなしさと、後悔と、そんなものがないまぜになった形容しがたい感情の中、ただただ呆然としているだけで精一杯だった。

 部員を集めて重苦しい空気の中、休部の決定をみんなに伝えた時の、何もかもなくしてしまった感覚。

 誰もみんなあきらめと、取り返しのつかないことに直面してしまった苦い感情とで、昏い眼をしていた。特に城野と一緒の艇に乗っていた酒匂は、誰よりも苦しそうだった。

 結局、それからは一度もヨットには乗っていない。僕たちはもう、そのような場所を失ってしまったのだ。

 同じ時間をすごした者たちの間にも、わずかなすれ違いが生じ、それはいつの間にか互いに距離をとらせる苦々しさへと変わった。もちろんそうでない者もいたが、そのことがかえってすれ違っていることを実感させられたのも事実だった。

 しかし何より僕が耐えがたいのは、自分が城野のことを忘れつつあるということだ。

 あの記憶の上に時間と新しい記憶が堆積し、思い出すにはそれらをかき分けなくてはならなくなった。それなのに城野のことは、依然、問答無用で僕の中に巣くっている。

 当然笑うこともある。この五年の間につきあった彼女もいた。

 なのにあの夏の日は、いつだって何の前触れもなく突然胸の奥からよみがえってきて、その度ごとに僕は忘却の罪悪感に激しくさいなまされる。

 忘れることは、後ろめたいことだった。

 苦い思い出……そんな安易な表現もできやしない。


* * *


 城野が死んだ場所に花を供えたいと、電話してきたのは酒匂 梢だった。城野と一年間いっしょの艇に乗りつづけ、あの日も一番近くにいた。

 彼女が僕をさそった理由、僕が断らなかった理由は何だったのだろうか?

 卒業以来、初めて会った彼女は、幼さと形容すべきだったのかもしれない当時のまろみが減り、その分硬質が増していた。

 当然だ。僕らはもうとっくに大学を卒業していた。子どもの時間は終わっていたのだから。

 二年前にサークルが再開してから入った僕たちの知らない後輩たちが、艇を準備してくれており、艤装まですんでいた。僕たちの卒業後、あの渡辺がずいぶんと苦労して再興させたらしい。結局僕は何も為さなかったのだ。ただ失っただけだ。

 スロープから降ろし、海に出た。小さな花束を持ち、しばし陸との別れ。


* * *


 五年前と変わらないこの海。

 梢が僕をみつめている。僕は無視して波に揺れる花束をみつめる。 艇は油断しているとすぐに潮に流されてしまうので、ブームを切りかえたり、少しだけセールに風をはらませたりして、できるだけ元の位置を維持しようとした。

「あの日、なんで城野はセールの下になったんだ?」

 花束をみつめつつ訊いた。梢から誘われた時から、ここで訊ねようと思っていた。

 梢も僕の視線を追って花束に眼をやった。風が彼女の短い髪を、ふわりとつつみこんだ。

「一二三先輩、城野さんとあたしのこと、知ってるでしょ」

「……みんな知ってた」

「あ、そ」梢が恥ずかしそうに笑った。「やっぱりなぁ。絶対、隠すの下手くそなんだもん、あの人」

「部内恋愛禁止って決まりはなかった。渡辺だって、津山と今度結婚するんだぞ」

「聞いた」

「……答えろよ」

 梢がこまったように、押さえているブームをこつこつと指ではじく。

「先輩、ひょっとして妙なこと考えてません?」

 僕のほうに向きなおると、笑いながらそう訊ねた。

 あぁ、くそっ!僕は苛立つ。躊躇する。そんな風に微笑まれたら、何も云えなくなるじゃないかよ。

「城野があんな落ち方するもんか。あの日は風も強くなかった。何であいつがセールの下になるんだよ」

「事故です」梢が無表情に断言する。「ありえないけれど、本当に」

「じゃあ何で!お前は……」

 助けに行かなかったんだ?と言葉にすることが、どうしてもできなかった。五年の間ずっとだ。

 僕たちが近づくまで、彼女は横倒しになった艇の上で、城野が下になってるあたりのセールをじっとみつめていた。声をかけた時の、びくりとした梢あの表情は忘れられない。

 位置の関係で、おそらく渡辺は見ていない。僕だけが知っている。

「……やっぱり、見てたんですね」ぽつりと梢がつぶやいた。「ばかだなぁ、あたし……」

 艇がわずかに進みだしたので、梢はブームを切りかえた。セールがばたつく音だけが、やけに大きく聞こえる。

 風は乾いている。いつもそうだった。夏の海を旅する風は、いつも乾いていた。 梢は僕から眼をそらし、今はもうずいぶん離れてしまったあの花束の行方を追った。その表情はまるで手にとどかない遠くへ行ってしまったものに、安堵しているかのようだった。

「本当に、事故だったんですよ」僕に向きなおることなく梢が云った。「信じてくれないかもしれないけれど。タックした時、急に風が回ったのかもしれない、アンヒールしたのかもしれない……ブームがものすごい勢いで、どういうはずみか城野さんをひっかけて。で……あっと思った時は、艇がひっくり返っていて、気がついたら城野さん、もう動かなくなってた……」

 届きそうで届かない、そんなまどろっこしさが僕を苛立たせた。

「それは酒匂が前から云ってたことだろ?だから事故ってことになったんだ。僕が訊きたいのは本当のことだ」

「……」

「……酒匂」

「どうしてかな……」

 梢が僕にむきなおり、ぽつりとつぶやいた。僕には理解しがたい、困ったような微笑みが口元にうかんでいたが、瞳は夢でも見ているようにぼんやりとかすんでいた。

 風の音が、波の音が――絶えた。

「セールの下になった城野さんが、ライジャケつけてたから、うまいこと動けなくて……セール、城野さんにかぶさった白いセールが変な具合にもがいて、それ見てたら、何かもう……あぁ、このままにしとこうって。彼が出てこなかったら、あたしが正しいんだ、彼が出てきたら、ごめんなさいって云おうって……」

「何を……」

 ゆっくりと彼女の瞳に呑みこまれていくような、言葉に蕩かされていくような感覚があった。

「でも、彼は長い間、ずいぶん長い間もがいていたのに、とうとうそのまま動かなくなって。ばかだなぁ、ほんの二メートルぐらい移動したら、出ることできたのに。何でだろ……どうしてあんなことになったんだろ?」

「……」

 自分の中にあるものが少しずつ、口からこぼれ出てくるかのような梢の言葉だった。

「動いてるセールが、近づいちゃいけないような、そのまま彼のことを見守っていなけりゃいけないような気がして。どうしても、どうしても近づくことができなくって……それがすごく不思議で……」

 梢の言葉が不意に途切れ――風と波の音が再び戻ってきた。

 僕は自分がこわばった表情で、彼女を凝視していたことに気がついた。

 彼女の話をどんな風にとらえるべきなのだろうか?無造作にはらいのけるのを躊躇させる、澱のようなものを感じた。 そして同時に、僕は梢の言葉を事実であると直感した。

 あのころ城野と梢の間に、トラブルがあったような記憶はない。

 ふたりがただの先輩後輩の関係でないということは漠然と察していたし、静かに噂があった。そういうものは、僕たちのように始終互いを眼で追っているような時期に隠しきることなんて不可能だろうし、僕たちは当然のように、まるでゲームのように、くすくすと忍び笑いつつ関係を築く。

 城野と梢の関係も他の者の視線を意識した演技と、誇らしさがあったと思う。少なくとも僕は、ふたりの関係に不穏な空気を感じることはなかった。だけど僕のような男にはうかがうことができない何かが、ふたりの間にあったのだろうか?そしてそのことがあの日、城野と梢を分けたのだろうか?

 そう考えると、ふたりに何の疑問をもたなかった自分がひどく幼稚なものに思えた。もちろんふたりに何かを感じとることができたとしても、そんなものはきっと何の役にも立たなかったろう。城野と梢の間に割って入ることなんて、誰にもできなかったのだ。

 ふたりの間に一体何があったか、僕はもう知ることはないだろう。

 あの時ですら、僕と彼らふたりは同じ海の上にいて、はるかに隔たっていたのだ。そして僕は、その隔たりの存在すらも知ることはなかった。

 愚かにも胸がうずく。

 なくしてしまったもの、いや……僕が眼にすることがなかったものの存在は、どうしてずっと後になって、こんなにまばゆく感じるのだろうか?

 梢のことよりも、城野のことよりも、そのことが僕を傷つけて透明にした。

 でも……

 その時のふたりを想いうかべる。帆布一枚を隔ててもがいていたのだ。城野は水の中で。梢は風の中で。必死に。どのような顔をして?

 何てどうしようもなく、哀しく、無意味なふたりだったんだろう。

「お前たち、何があったんだ」

 彼女は答えないだろうという確信がありながら訊ねた。僕は無力だった。

 梢の眼には、城野をか、僕をか、それとも自分をか哀れむような色があった。そしてはっきりとした拒絶が。

「……先輩には、関係ないです」

「でも、お前は、自分のしたことの意味わかってるはずだ。お前は城野を見殺しにしたんだ」

「先輩に云うようなことは、何もありません」

 梢は僕の眼をまっすぐ見て、何も迷うところがなく城野の死と自分を貫きとおした。

 あんまり清々しく、そして真摯で、城野の死はその瞬間初めて清められ、そしてようやく後悔と忘却の原をぬけて、新しい場所へたどりついたような気がした。

 ことり――と、世界のどこか遠くで、引き出しのしまる音がした。


* * *


 ずいぶん長い間、僕たちは互いを見つめあっていた。

 梢はずっと泣きそうなくせに、決して泣かなかった。

 そうか――僕は思った。彼女もまた終わりにするためにここに来たのだ。そしてその記憶の澱をこそぎ落とすために、彼女と同じ体験を共有する僕というものを選んだのだ。僕は梢にとって、そのための道具にすぎなかったんだ。

 まったく、こいつは……どこまで身勝手で、強いんだろうか。

 愛らしいな。本当に愛らしいなと梢のことを想って、僕はたまらなかった。あぁ、愛らしいな。哀しいな。城野、お前と梢のことだよ。

 だから悪いけれど、ちょっとだけ城野に嫉妬した。赦せ、多分これが最後だ。   哀しくて、僕は哀しくて、だから城野のために、梢のために、ひとりの恋人とひとりの友人の死を、僕たちは風の中で、この海にどこまでもまき散らした。

 乾いた海の風の中で、僕たちはあの日の僕たちに、哀しく、いとおしく、別れを告げた。


* * *


 風が吹きぬけていく。帰る時間だ。

 花束はもう見えない。きっと城野が受けとったんだろう。

 城野、さようならだ。僕たちは、ひとつの儀礼を終えた。お前のことは、今初めて過去になっていく旅をはじめたんだ。もう遠ざかっていくだけだよ。

 だから……本当にさようならだ。

 シートを引くと、かりりりりと滑車が応える。ブームが引きこまれ、セールが風がはらみ、新しい力がこの艇を動かすのだ。ぐいと艇が推進力を得た。たちまちラダーをにぎる手に、確かな力を感じた。このもっとも原始的なエンジンを持つ艇に乗って、僕は梢と陸に帰る。

 太陽が海面に反射して、僕の眼をくらませた。

 操りながら、梢とはもう言葉を交わさなかった。

 厳密には、梢はやはり城野を見殺しにしたってことになるのだろう。もしかしたら何かの罪になるのかもしれない。

 ずいぶん多くの人たちが彼の死を泣いた。特に彼の妹の泣き顔を憶いだすと、そのことだけはどうしても心が痛む。

 本当なら、僕は沈黙を守るべきではないかもしれない。

 だけど僕は誰にも云うことはないだろう。ひょっとしたら忘れてしまうかもしれない。

 彼女ももしかしたら、自分の罪を何らかの方法で問うことがあるかもしれない。  でもそれはまた別の話だ。

 それにきっと僕はもう梢とは会わないだろう。

 ハーバーに着いて、ヨットの艤装をといて、僕たちは別れる。

 海の上でのひとつの目的のために組み合わさり、同じ方向を目指していたパーツは、陸の上で別れを告げ、まったく別の場所に収まるのだ。

 彼女は自分の住む町に帰っていく。そこで彼女の次の物語がはじまるだろう。僕もそうする。

 僕と梢、それに城野が交わる時間は終わったんだ。

 艇の後方から乾いた風を受け、僕たちは今ハーバーへともどっていく。

 陸にもどったら何をしようか。不思議に心が浮き立ちはじめた。

 こんな暑い日は、海からあがってシャワーを浴びて、うんと冷たい生ビールを呑むのに最高な日だ。

 渡辺のやつに電話してみようか?津山といっしょに来いって。あいつならきっと飛んでくるだろう。「いいっすよ、すぐ行きますっ!」って感じだ。

 そうだ、もう一度ヨットはじめたっていいな。今度はシングルハンドでも。

 あぁ!どうしてこんなに、心が素敵に乾いているんだろう。

 あの日から五年後の七月三十一日……その日は、今年で一番の、暑く輝くような夏だった。


(了)

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風の中で僕らは 衞藤萬里 @ethoubannri

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