終 動き出したものは
彼はすでに死人だった。
いや、それは正確じゃなかったかな。生と死の狭間にいる状態……というほうが適切だね。
彼の望み通り、左腕から
里中君の喜びに満ち溢れた顔を見て、良かったねと笑いかける。
こうして、彼の止まっていた時間は動き出した。
生から死へと。三途の川を渡るがごとく。
ただ、時を止めてしまった代償はとても重たいと思うよ。
彼は藻が混ざる濁った水を吐き出した。溺死しているから当然だね。
続いて、体がぶくぶくと膨らんでいく。腐敗ガスのせいかな。
肌の色がどんどん緑混じりの土色になっていく。
そして、皮膚は脱皮をするようにずるりと向けて――。
身体の腐敗が意識の死に追いついていないせいか、彼はあがく。もがく。その度に人としての原型は無くなり、肉塊のようになってしまった。
同級生だったソレは、がむしゃらに暴れまわって、転がっていく。
ばしゃんと水柱を立てて、彼は濁った泉の中に消えた。
水面はほどなくして、何事もなかったかのように静まり返る。
すべて終わったのを見届けて、僕は彼女を見る。
女性の姿をした神様もどきは、わかめのようになってしまった髪の向こうで、少しだけ表情を歪めた。
今の君の力じゃ一年彼を留めることが限度だったんだよね。
でも、一年も人間の生死を留め置けたのはすごいことだ。
素直に賞賛すると、彼女は僕に手を伸ばした。何かを、求めるように。
「……彼が命を賭しても、君を
君を引き上げるには、人の子では対価が重すぎる。
だってそれは、死んだ
彼女は残念そうに首を振ってから、ゆるりと泉に向かって歩き出す。
家出を終えた彼女が住処に帰るのを見届けて、僕は番傘を揺らす。
かわいそうに。もっときちんと契約し直せば、まだ延命ができたかもしれないのに。
かわいそうに。彼は失ったことにとらわれて、手近にある未来の可能性に気付けなかった。
かわいそうに。彼女のことを知ろうとすれば、こんな死に方をせずに済んだかもしれないのに。
え、本当に可哀想だと思っているように見えないって?
けれど、人はこういう時に可哀想だと思うもの。たとえ彼が望んだことだとしても、悔やんであげるのが人の在り方だと認識しているけれど。
そうだけれど違う。
うーん、やっぱり難しいな。
なにはともあれ――
「お疲れ様、里中君。あの世で野球、できるといいね」
あの世が本当に存在するのか、野球があるのか。僕はなんにも知らないけれど。
去ろうとして、水面が再びざわめく。泉から、追いすがるように腕が伸びる。けれど、番傘を揺らした際の鈴の音に、みんな手を引っ込めて行った。
冷たく暗いダムの跡地。
人間の業が生んだ、死に損なった村。
「さようなら、泉に沈んだ人たち。もう少しきちんと祓えるようになったら、また来るよ」
鈴が鳴る。蝉が鳴く。
僕を見守る子たちもまた、楽しそうに、あるいは憐れみで鳴いていた。
<了>
水底の腕 柊木紫織 @minase001
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