陸 蘇る夜

 騒々しい蝉の合唱が四方八方から響く夏のあぜ道。照りつける日差しは道を白ませるほどに強い。


 話しがまとまると、間宮はすぐに「行こう」と、俺を外に連れ出した。

 特に説明はなく、寺の中でことが住むと思った俺は戸惑う。問いただそうとしても寺を出てしまったせいか、また気分の悪さがぶり返して、それどころじゃなくなった。さっき食べた饅頭の甘い名残すら、吐き気を強めて来る。

 だが、それももう少しの辛抱だと言い聞かせて、必死に足を動かす。


「まだ意識ははっきりしているかい?」


 しばらく歩いて、間宮が足を止めるのに合わせて顔をあげる。


 すると背筋が凍った。眼前には山の入り口があったのだ。一年前、俺の人生を変えたあの山だ。


 明るいことと、ただ歩くことだけに必死だったため、気づけなかった。ずっとここに続く道を歩いていたことに。


「なん、で、ここに……」


 声が震える。

 間宮が振り向いて、鈴が鳴った。

 死んだ曾野たちの声が、耳に届いた錯覚さえ覚える。


「だって、のだからあの泉に行かないと」

「還す? 祓うじゃなくてか?」


 祓うのは、憑かれた本人がいればその場でできるモノだとばかり思っていたが、そうではないのか。

 たぶん憑いている女を元の場所に戻すということなのかもしれないと考えて、改めて山の入り口から階段を見上げる。木々が複雑に絡まり合って天上を作っているかのような、薄暗い道。夜には何も見えなくなるのも当然かなど、熱に浮かされているような頭でぼんやりと考えた。


「さぁ、行こうか」


 間宮は俺の右手を流れるような動作でとって、ひく。

 男に手を握られる嫌悪感とか、こいつに対する気味の悪さは、吐き気と熱に浮かされたしんどさでどうでもよくなっていた。

 ただ不気味なほどにひんやりとした手に心地よささえ感じてしまったのだ。

 それに対して俺は、間宮がこの苦しみから解放してくれる希望のように思えてしまった。


 今はただ早く、この不快感と不安を払拭したい気持ちが強く、彼の言葉の真意も何も理解しようとしなかった。


 木材が埋め込まれただけの土の階段を、ゆるりゆるりと上っていく。つま先がぬめった地面を削る。眼前の間宮の黒髪が揺れる。

 蝉の合唱しか聞こえない山道の中でも、不思議と間宮の鈴の音だけは、よく聞こえた。


 気がつくと、左肩がずしりと重たく感じた。

 左に黒し影が見える。ひたりひたりと、冷たい地面に響く足音が一人分増えたのは気のせいではないと、今なら分かる。

 影は何もしてこなかった。間宮がいるからだろうか。


 階段を上がりきって、まず目に付いたのは苔がはりついた石の祠だった。それを見た瞬間、眉間の奥を締め付けられるような頭痛がした。


「これは、君が直したのかな?」


 間宮の問いが聞こえる。

 同時に、思い出す光景があった。


――祠があんじゃん。

――うわっ、ぼろぼろ!

――おい、さわって見ろよ!


 祠の周りに当時の光景が浮かび上がったかのように、ね曾野たちの声と、当時の様子が脳裏に蘇る。


――触ってみろよ!

――やめろって!


 ふざけあいながら大声をだしたのは、あいつらなりに恐怖を和らげる手段だったのかもしれない。

 痛む頭を押さえながら、思い出す。確か俺はその光景を黙ってみていたんだ。


 押し合いをしていた曾野が泥に足を取られて滑り、とっさに祠に手をかけて、石の一部が崩れた。奴らは慌てて先に進んだけれど、俺はさすがにまずいと思って岩を元の形に組み直した。

 幸い、ただ石を積んだだけの作りだったおかげで、形だけだが直すことはできたんだ。


「そうだ……確かアイツらが中の祠を倒して……流石に不味いと思ってこっそり直して……それで」

「それが彼らとの命運を分けたのかな? よかったね。これは水神様を鎮めるためのものだから、壊したままならもっと大変なことになっていた」


 間宮はいいながら、奥に視線を向ける。

 登った先の木々は開けていた。

 

 少し進むと、倒壊し、腐敗した家屋や粗大ゴミが散らばる場所に出た。

 ここが、間宮の資料にあった廃村だとわかる。いや知っていた。一年前にも来ていたんだ。

 さらに奥に進むと、沼地のように濁った泉があった。廃屋の木材や布やらが浮かぶ、汚れきったそれ。建設途中のダムの壁は、泉を割るように横断している様も、打ち捨てられた場所としての雰囲気をより強くしていた。


 生臭さと森の青臭さが混ざった湿気に、より吐き気がこみ上げる。


「何か、思い出せたかい?」

「思い……」

「あの夜、ここで何があったのか」

「あ……俺、は」


 先に進んでいった誰かが湖に落ちたと思って騒いで、それからあわてて池に駆け寄ったのだったか。


――里中、早く来てくれ!


 あわてたようにいいながらも、全く焦ったような顔をしてなかった。


 誰かが落とされたと聞いて、泉の縁へ駆け寄った。そのとき俺の意識から間宮の忠告は消えていた。

 そして静かな池には誰も落ちていないことにすぐに気づいて、やつらの悪ふざけを咎めようとしたら……。


「……俺はあいつらに池に落とされて、それで――」


 きっと、悪ふざけと悪意は半々だったのだと思う。

 恨み、妬み。

 ほんの少しの、出来心。


 俺はびっくりしたが、すぐに上がろうとした。その時キレていた。曽野たちに怒鳴った。


 悪ふざけの範疇だとあいつらは笑いながら、俺を引き上げようとして、失敗した。

 何故なら、手を伸ばした連中がみんな悲鳴を上げて池に落ちてきて、俺はパニックに陥った。たぶん、その時点で全員落ちたんだと思う。


 俺もまた、急に水の中から足を引っ張られて、叫んだ。

 そのまま水に引き込まれて、必死にもがいた。


「死にたくない、って、思って」


 助けてほしいと願った。

 水面に手を伸ばした。

 まだ死にたくない。楽しみにしていた未来があるのだ。


 叫びは気泡になって、何かに伸ばした左腕を掴まれた気がする。

 その後、俺は意識を失って、気が付いたら病院に居たんだ。


 あぁ、だいたい思い出せた気がする。

 呆然と泉を見ている俺に、間宮はそっと話しかけてくる。


「それで、本当に彼女を泉に返していいのかな?」


 最後通告のように聞こえた。

 左を見ると、例の女が相変わらず俺の腕を掴んでいる。

 頭が痛い、気持ち悪い、呼吸が苦しい。動くのも喋るのも辛いほどの不調は、時間が経てば経つほどきついものになってくる。


 女は何も言わない。こちらに顔を向けない。

 ギリギリと頭を締め付ける痛みと、胃がひっくり返りそうな吐き気に、俺はとうとう地面に膝をついた。


「――もうなんでもいいから、早く解放してくれ……!」


 喉を絞るように、叫んだ。

 傷み、苦しみ、息苦しさ、恐怖、すべてから


「そう。なら、君の望みのままに」


 間宮は近づき、俺の左腕に手を伸ばす。その手が触れた。

 すう……と、締め付けが緩むかのように頭痛は引いていて、吐き気も収まった。


 見ると、左腕にはお札のようなものが貼られている。

 女は俺の左腕を離して一歩引いた。冷たい土の感触が、左手から伝わってくる。滴る水の感覚もわかる。


 そして俺はおそるおそる、左腕に力を込めた。

 指先が動いた。掌を見ることができた。腕が上がった!


「――っ!」


 それは言葉に出来ないほどの歓喜だった。

 枷が外れた。喜びが体を巡る。


「間宮、あり――」


 言いかけて、言葉が途切れた。唐突に訪れた喉の圧迫感。そして口から引き出されたのは、水。左腕を見る。不規則にボコボコと体が膨らみ始めていた。


 は?


 と、声にしたくとも口から溢れるのは水ばかり。肺の奥まで水に浸食されている感覚は、溺れた時のそれ。

 視界が閉ざされる、それは瞼がはれ上がったときのような視界の侵蝕。

 何も聞こえない、何も見えない、語れない、聞こえない。

 痛い苦しい気持ち悪い!


 藻掻いた、のたうち回った。

 あの夜のように。


 冷たい何かに体を包まれる感覚があって――。

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