伍 破滅への誘い

 市内のちょうど中間地にある山の上に、安賢寺あんけんじはある。

 安賢寺は不羽ふわ市の中でもっとも大きな寺だ。日本でも有名で、休日には遠方から参拝に訪れる人も多く、不羽唯一の観光スポットと言ってもいいかもしれない。

 もとより霊験あらたかなこの土地柄、この寺に対する地位と信頼は大きなもの。何か困ったことがあるのなら、警察よりも寺に行ってしまう高齢者も多いほどだ。


 だからこそ、しきたりや決まり事を破ると、あまりいい扱いを受けなくなってしまう。今の俺の家のように。

 正直、行きたくない場所ではあった。


 だが、俺のみに起こっている奇怪な出来事を間宮がどうにかできるなら、藁にも縋る思いで連絡したっていいだろう。

 そもそもあいつが変なことばかり言うから、俺はこんな目に合っているんだから。


「なんで寺って、だいたい高い場所にあるんだよ……!」


 百段なんて軽々超えるほどの階段を上がり切ったころには、息も絶え絶えで汗まみれだ。

 修練の階段の異名は伊達じゃなかった。部活をしていたころならともかく、今は体力が落ちてしまった。そのことが情けない。


 周囲の参拝客もゆっくり登ったり、途中で休んだりとさまざまだ。

 間宮のやつ、細っこいのに毎日ここを上り下りしてんのかよ。正直信じられねぇ。

 いや、それより早く間宮の奴に話をつけて帰ろう。


 鳥居の周囲を見回すと、参拝客にまざって子供を見つけた。参拝客の連れ子ではないと判断したのは、竹箒を抱え寛平のような服装をしているからだ。着物のようなそれをなんというのかは忘れたが、確か寺で働く人間の衣服のひとつだったはず。

 その子供は小学生ぐらいだろうか。年配の参拝客二人の相手をしている。


「しまながさんに、とうどうさん、こんにちは!」

「あらあら、こんにちは。稔ちゃんは今日もお手伝いかい?」

「はい! 学校があるとなかなかできないので!」

「そういえば今年入学したんだったよね。えらいねぇ」

「亮くんも優秀だと聞くし、稔ちゃんもいい子で……安賢寺は安泰さぁね」


 大きな声でハキハキと話す様は、老人たちには好意的に映るのか。

 話を聞いている限り、間宮の弟なんだろう。あいつとずいぶん印象が違うが、その鮮やかな緑色の眼は一緒だ。


 参拝客が稔と呼ばれていた子供から離れるのを待って、近づいてみる。

 すると弟(仮)はすぐに俺に気付いて笑顔を向けるが、すぐに左腕に視線が行って顔を青ざめさせた。え、もしかしてこのモヤモヤ見えてんのか?

 だが、弟はすぐに俺の顔を見上げる。左腕を視界に入れないように身体を傾けていた。


「こ、こんにちは!」

「お、おう……こんにちは。あの、間宮亮は、今いる? 俺、あいつと同じ学校なんだけど」

「兄ちゃんの! えと、いまは父さんによばれているので、すぐもどってくるとおもいます。その、たぶんしゃむしょでまつほうが、いいですよね?」


 戸惑った様子だったが、間宮の名前を出した瞬間にめちゃくちゃほっとしていた。たぶん気遣ってくれたんだろう。奥へと促される。


「ありがとう」

「どういたしまして!」


 かしこいというか、空気が読める子供らしい。

 何も言わずとも俺の要件を察しているように思えた。たぶん、何度も同じような経験をしているんだろうな。


「こっちへどうぞ」


 右手を引かれて、寺の奥へと。その手は少し震えていた。なんだが子供を怖がらせているみたいで申し訳なくなる。というか、来る時間伝えてんだからアイツが出迎えろよ。


 内心で文句を言っている間に連れられたのは、奥まった場所にある社務所と呼ばれる建物だ。ここで働いている人間の待機場所のような場所で、ここはお客様専用なのだと、弟が教えてくれた。

 社務所内の和室につくと、弟は頭を下げる。


「ほかの人に兄ちゃんをよんでもらうよう、おねがいしました。おれは、むぎちゃとかもってくるので、まっててくださいね」


 ずいぶん礼儀正しい小学生だ。妹とは大違い。こんな妹であれば可愛がれただろうにと、そんなことを考えた。

 いや、腕がこんなになる前はそこそこ素直だった気もするけど。考えると空しくなるな。

 弟が去って足音が遠ざかると、耳に届くのは蝉の鳴き声だけだ。部屋は間宮弟が冷房を入れてくれたおかげで、ゆるりと涼しくなっていく。


「あれ……そういや気分が軽い」


 ここに来るまでは体調が最悪だったというのに。寺の中だからご利益でもあるのだろうか?


 少しして、間宮弟が麦茶と茶菓子を運んできてくれた。間宮は少し仕事があるためもう少し待っていてほしいと言われた。連絡を入れてこれなら、急に予定が入ったんだろう。弟の前で大人げなく怒るのも違うとわかってるから、大丈夫とだけ伝えておいた。


 麦茶で喉を潤して、体調がいいからと調子に乗っておはぎを食べた。久々にまともになにかを食べた気がして、生きていることを実感する。

 ここに来るまではとても食事という気分にはなれなかった。だからこそ、余計に糖分が体に染み渡る気がする。


 出されたものを堪能していると、ギィ――と細く長い足音が耳に届いた。

 閉じられた障子の向こうに、人影を見る。長い髪のそれは鈴の音とともに中にいる俺に声をかけてきた。


「入るよ、里中君」


 間宮の声を聴き、すぐに背筋を正したのは警戒からだ。弟と違い、どうにも体が拒絶反応を示してしまう。

 そんな俺の気持ちなど知らないだろう男は、静かに障子を開いて中に入って来た。

 本当に仕事中だったんだろう。よく坊さんが来ているような服を着ている。


「やぁ、尋ねてくるのがずいぶん遅かったね。もう少し早く連絡があるかと思ってた」

「その何でもみすかしたような言い方をやめろよ、気色悪い」

「相変わらず辛辣だね。なら、ついでに話を進めるよ。その左腕の子についてだけど」

「見えるのか?」

「ずっと視えていたよ。君があの夜に寺で保護された時から」


 空気が一段冷えた気がした。

 あの夜から……なら、


「じゃあ……俺は本当に祟られたのか?」


 ダムの泉にいるナニかに。

 夏休み前ならありえないと一蹴できたのに、今は否定できるたしかな根拠も、俺の中の常識も揺らいでいた。


「うーん……そうとも言えるし、少し違うともいえるかな。だって、君にとっては祟られたかもしれないけど、彼女にとっては君を助けたに等しい」

「どう――いう、ことだ?」

「君は君で、今持っている知識から答えを導かなければならないよ。あの資料を渡すまでが、僕が許された干渉の範囲なんだから」


 何を言っているのか、俺にはすぐに理解することができなかった。


「なぁ、間宮、頼むからさ、もう少し俺にもわかるように説明してくれよ。彼女って、俺の腕にとりついてる奴のことだよな。助けられたってどういうことだ? 俺は少なくとも奴に殺されかけてるんだぞ!」

「おや、おかしなことを言うね?」

「おかしいって何がだよ!」


 発見されたとき、俺は心配停止の状態から一命をとりとめたと聞いている。それは俺が祟られていたことの証明ではないのか。助けたというのなら、何で俺は今死にそうな思いをしているんだ。

 間宮は本当に意外そうに首を傾げてから、左腕に視線を向ける。


「――あぁ、なるほど。そうだよね。人からしたらそう考えても無理はないか」

「おい、間宮!」

「大きな声を出さなくとも、ちゃんと聞こえているよ」

「なら俺と会話しろよ!」


 これ以上こいつの意味不明な会話につきあう気はない。早くこの変な現象から解放されたいんだ。

 間宮の目が俺に向いたのを確認して、望みを告げる。


「頼むからさ、なんとかしてくれよ。お前ん、お祓いもやってるんだろ?」

「それが僕の家の生業だからね」


 胡散臭いことこの上ないが、今は緊急事態だ。藁にでもすがりたい。


「だったら――!」

「でも、本当にいいのかい?」


 問いかける声は、重かった。

 いつもと変わらない声音なのに、ずしりと心に石を乗せられたかのような、そんな謎の迫力を感じてしまった。


 俺がとっさに答えられずにいると、間宮は考えるようにまた左腕に視線を向けた。


「うーん……僕としてはどちらでもいいんだけれど……」

「お、俺さ、馬鹿々々しい話だとは思うんだけど、あの女さえいなくなったら、俺の左腕はまた動くんだろ? なぁ!」

「それはそうじゃない? 彼女は君の腕の重石になっていたわけだし」

「だよな!」


 この不可解な現象を全部祓ってもらって、左腕が動くようになれば、閉ざされていた未来が広がるはずだ。野球の世界にも、そうじゃないことにも。不便な生活からもこの街からも!

 俺は畳に額をこすりつけて懇願する。こいつのことは嫌いだが、それで救われるならなんだってする。そんな気持ちだった。


「そう……」


 長く重たい、沈鬱ささえ感じさせる沈黙の後。


「それが君の望みなら、仕方ないね」


 間宮は返答した。

 俺はばっと顔を上げる。奴はいつものように、完璧すぎる面のような微笑みを浮かべている。

 こいつの感情は、最後まで読みとることはできなかった。

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