肆 沈み、溺れる
奇怪な現象は、それからも続いた。
水に触れれば嫌に重たくなる左肩に、寝苦しい夜。いつの間にか濡れている床。
最初は気のせいだと言い聞かせても、一週間もする頃にはもう限界を感じていた。
家族も俺の異常に気付いているようだが、どう声をかければいいのか分からないのかもしれない。しきりに様子を伺われてはいるが、俺にも答えようなんてない。
そんな日々の中、左腕にとりついていた靄が、どんどん人の形をとっていることに気付く。夏休み前の帰り道で見た女だろうと、連想できてしまった。それを自覚して数日。俺はふと思い至る。
――この女のせいで、左腕が動かない
自然と行きつく結論なのか、俺が突拍子もないことを言っているのかさえ、連日の不可解な現象で分からなくなっていた。
この女を消せたのなら、自分はもう一度腕が動くようになるのではないかとさえ思ってしまうのだ。いや、そんな馬鹿な話があるはずないと頭ではわかってる。
これは間宮のせいで見ている悪い幻覚で、俺は将来の不安で疲れているだけなのだ。
そう。それだけでしかない。
「……ここは通勤に時間がかかるな」
大学のパンフレットを見比べつつ、俺は卒業後の生活を考える。
いくつか候補を絞った後、実家から通勤できる範囲かどうかを地図で調べる。パソコンがあれば手軽でよかったんだが、使うには学校に行かなくてはならない。
「家なんて出る気満々だったんだけどな……」
正直、家を出たい気持ちがあった。けれど、この腕での一人暮らしは難易度が高い。少しでも動くのなら話は変わるが、残念なことに感覚すら喪失しているのだから厳しいだろう。妹はもろ手を挙げて賛成しても両親は世間体だのなんだのと言いながら家で放置することを望みそうだ。
溜息をついて、散歩でもしようかと視線を向ける。だが、外ではいつの間にか雨が降っていた。タイミングが悪い。
冷房の音でもかき消せない雨の音は、一度気付いてしまえば意識してしまう。今は水が、少し怖い。俺の恐怖なんてあざ笑うかのように、雨音はどんどん強くなっていく。
ふと、外の雨音とは違う水音に気付く。
上からでもない、横からでもない。下から聞こえる水の音。
コップでも傾けたかと思いみてみると、中身は空っぽで、倒れている様子も垂れた様子もない。
床を確認しようとして足を動かすと、びちゃりと足が濡れた。じんわりと、靴下が水分を含んで肌にひたりとまとわりつく。鳥肌が立って、おそるおそる床に視線を向ける。
床は濡れていた。
雨漏りでも飲み物を零していたわけでもない。
左腕が、しとどに濡れていた。汗ではない。どこか生臭い水。その発生源は、黒い毛玉だった。そこから伸びる土気色の腕だった。女、だった。
バンバンと窓を激しく打ち付けるような雨の中、俺は呆然とそれを見ている。
女は俺を見ることなく、ただ身を寄せている。
雨音がなければ、時間が止まったかと錯覚していたかもしれない沈黙の中、毛玉、いや、頭が動く。
ぽたぽたと滴る水が俺のTシャツを濡らす。
顔が上がる。俺を見ている。黒髪の奥から、目玉のない空っぽの眼窩が俺を見ていた。
悲鳴を上げようとした。
けれど、声の代わりに俺が吐き出したのは藻が混じった水だった。
喉が圧迫される。息が苦しくて、噎せ返るたびに涙が視界をにじませる。椅子から転げ落ちた。視界も涙で滲む。それだけじゃない。耳も鼻も水で詰まっているようで、三半規管すら機能しない。
部屋にいるのに、溺れているのかと思うぐらいに口からこぼれる水は止まらない。
この感覚は、覚えがある様な気がする。
(助け、て……!)
右手を首にあててあがく。
女は俺を見下ろして、顔を近づけてきたのが陰でわかる。
そうしてまた俺の意識は途切れた。
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