リグ竜

渡貫とゐち

黒竜のラルゴと赤子

 老人が背負う木箱の中から、人間の匂いがした……オスだ、人間の、赤ん坊か……。

 と、数キロ先から近づいてくる足音と匂いを敏感に感じ取った黒竜がいる――名を【ラルゴ】と言った。彼は人間が建てた『神殿』の奥深くで長い眠りについていたが、繰り返される毎日とは少し違う異変に反応し、久しぶりに目を覚ました。


 そして、老人の置き土産に、彼は神殿の奥深くから外へ出る。


『オイ、……そのガキを捨てるつもりか……』


「おお、黒竜こくりゅう様……」


 老人が膝をつき、手を合わせこうべを垂れた……、定期的に置かれていく供物……肉や野菜と一緒であるとは思えなかった。

 体を丸める老人の横の木箱を、器用に爪で開けると……やはり赤ん坊だ。衣服も満足に着せていない、生まれたばかりの姿のまま。ぐっすりと眠っている子供を置いていくとは、一体なにを考えているのだ、この老人は。


 老人の体と同程度の大きさの指が、老人の真横に落ちる。


 老人の周囲が陰る。黒竜が、日の光を遮っているのだ。


『ガキを喰う趣味はねえ。早く持って帰れ』


「……私は、もう長くはありません……明日、明後日にでも死んでもおかしくはない年齢です……、どうか私の代わりに、この子を育てて」


『断る。竜が人間のガキを育てるだと? 昔話にもねえよ。……人間の寿命は短い、お前が長く生きられないことくらいは分かるが……だがなぜ竜に頼む。

 娘でも孫でも知り合いの風俗の女でもいいだろう、酒場の小娘でも、候補はいくらでもあるはずだ。頼み込んで無理なら、言わずに置いておけばいい……赤ん坊を見殺しにできる人間は、ごく少数のはずだぜ』


「……黒竜様が良いと、この子が……」

『はあ?』


「黒竜様の伝説を聞かせている時だけ、この子は泣き止むのです……さっきまで泣いていたのに、この神殿に辿り着いてから泣き止みました……見てください、安心したようにぐっすりと眠っていますでしょう……?」


 単に疲れて眠っただけでは……? と思うが……、


『このガキの、親はお前、じゃねえよな……?』

「はい。私も、押し付けられただけです」


 結局のところ、押し付けられたものを押し付けただけじゃないか。黒竜は老人を噛み殺してやろうかと思ったが、してしまえば、この子供を引き取ることになってしまう。

 ガキの一人くらい見殺しにしても、喰ってしまってもいいが、この子に罪はない……、親の罪を子が払うことは珍しくもないし、竜の中にはそういうやり方を常としている者もいるが、ラルゴはそんな小さな竜にはなりたくなかった。


『持って帰れ。お前が死んだ時、あらためてこのガキをどうするか考えてや――』


 と言いかけた時だった。


 ……老人の心音が聞こえなくなっていた。まさか……、と思って竜の形態から人型へ変身し、老人の脈を測る……死んでいた。

 ギリギリのところで、この老人は頼るところがなく、咄嗟に黒竜の元へ連れてきたのだろう……。


「……勘弁しろよ、クソ」


 見た目、四十代の、銀色の顎髭を生やした筋肉隆々の男・ラルゴは仕方なく、たった一人で取り残された天涯孤独の赤ん坊を拾った。



「……で、なにその子」


「リグって言うらしいな。

 木箱の中にネームプレートだけはあったからな……、何歳かは分からねえが」


 森の中、ラルゴの唯一の知り合い、幼馴染の魔女・アルアミカの自宅にアポなしで訪問して、まず赤ん坊を彼女に手渡した。

 大樹の中の家には黒竜状態では入れないので、人型になってから、だ。


「リグ、ね。それで? これをあたしに渡してどうしろって? 研究材料にしていいわけ?」


「いいわけねえだろ。……ひとまず数年か……面倒を見てくれ。こっちにも色々と事情があってな、ガキを引き取ったからには責任を取るつもりだが、しかし今のオレの立場じゃあ、そいつにかける時間も限られてる。だから、親父を説得しなくちゃいけねえ」


「……頑固なあの人を? 説得できるの? アンタが」

「しなくちゃいけねえよ」


 独立するには良い機会だったのだ。ラルゴは今年で八十八歳になる。人間からすれば寿命寸前だが、竜の感覚で言えば、まだまだ子供……だが、それでも親に手を引かれていなくちゃ歩けないガキじゃない。

 だからこそ、親父を説得……というよりは、宣言か。


 親父の庇護下から抜け出すことを、伝える必要がある。


「頼んだぜ、数年後に、お前を探し出して、会いにくる」

「早くしないと研究材料にしちゃうからね」



 黒竜・ラルゴは父親である紫電しでん竜・ゴアノラの渓谷へ翼を広げてやってきた。

 無愛想な父親と顔を合わせるのは、二十年ぶりくらいか……変わっていなかった。紫色の稲妻のような模様が刻まれている黒い体。ラルゴも成長したが、それでもまだ一回り大きい父親の巨体に圧倒される……が、今日は逃げられない理由がある。


『親父、話がある』


 あえて低く出した声に、ゴアノラも察したようだ。


『どうした、我が息子』


 ラルゴはリグのことを話した。

 そして父親の庇護下からはずれ、独立したいことを……。


 ラルゴは父親から領地を与えられている。住む人間から神として崇められることで、その領地が力を持つ……、それが竜の繁栄や繁殖を高める結界の一部分として機能するのだ。

 一つでも乱れれば、結界は崩れていく……竜という種の、王の座にいるゴアノラが、二つ返事で分かった、と言うはずがなかった。


『年齢を重ねて大人になったつもりか? お前の年齢はまだガキのままだ、儂にとっては赤子だ――独立? させるわけがないだろう……それに子育てだと? 人間の子をか? 自身の手で砕き殺してしまうのが目に見えているな』


『親父……笑うなよ、オレは本気だッ!!』


『なら、儂を倒してみせろ。言っておくが、儂はお前を愛しているぞ……愛していながら、息子のために息子を傷つけることができる……、愛ゆえの、親の特権だな』


 ラルゴの視界が黒で埋め尽くされた。

 父親の手が、ラルゴの顔面を鷲掴みにしたのだ。


 ――速い。目で追えなかった。腕力で投げ飛ばされたラルゴは、渓谷から飛び出し、空中で止まる……、夕刻、真っ赤な夕日がラルゴを照らし――否、


 夕日を遮る黒い巨体。先端が膨れ上がった尾が、縦回転と共にラルゴの後頭部を打つ。

 せっかく出た渓谷へ、再び叩き落とされた。

 深い深い谷の底……、光が一切届かない場所でも、竜の目は視界を奪われない。

 だが、景色が見えるというだけで素早く動く父親の姿を目視できるわけではない。


 ――クソッ、やっぱ強ぇな……ッ。



 生物には強さの階級がある。

 それは立場ではなく、感情だ。


 下から悪意や不満、そして憎悪へ続き、二度目の無関心を経由して、好意へ届き、尊敬で最高位となる。子を相手に、下からの感情を渡り、現状は好意を持つ父親のゴアノラは、単純に言えば上から二番目の強さを維持していると言えよう――、さて、ではラルゴは?


 なんで親父は分かってくれないんだ! と不満を漏らす息子であり、つまりは一段階目の感情である。これが憎悪へと成ったところで、焼石に水だろう……。そしてこの感情の階級は、肉体的な成長や、磨いた技術、鍛え上げた筋肉量などを全て無視する。

 感情一つで戦況を左右させるこのシステムは、遠い昔に魔女が作り出した大魔法である。


 人間は感情に左右される。魔女もそう……、竜だけだ。

 生物に向けて、無関心に喰らうことができるのは。


 だからこそ竜同士の戦いは、好意、もしくは尊敬を抱いたまま相手に敵意を抱かず、どう攻撃をするかが重要視される。


 その点、息子と父親という関係性は、父親に有利だ。

 今のラルゴには、戦況を変える鍵を、持ってはいない。


『ガキがガキを育てても、ろくな大人にはならない……、見捨てろ。

 お前がガキを持つには早過ぎる――』


『ふざけんなッッ、押し付けられたとは言え、オレは一度、あいつを抱えたんだ……ここで放り投げること、できるわけがねえだろッ!』


 ラルゴが伸ばした鋭い爪が、ゴアノラの硬い鱗を、割った……っ。


『ッッ!』


『……ああ、親父はすげえよ、息子のために本気でオレを殺すつもりで攻撃してんだよな……、オレが大きな失敗をしないために、嫌われてもいいからって、本気でッッ!』


『…………』


『オレにはまだできねえ……あいつに、リグに、好かれたいと思ってるオレがまだいる……今のオレじゃあ、厳しくできねえよ――父親失格じゃねえか』


 それでも。


 ゴアノラだって、最初はそうだったはずだ。

 息子に好かれたい、愛しているのだからそのお返しが欲しい……願って当たり前だ。それで父親失格、と言われるには、まだ父親としては半人前だ……大目に見たっていいだろう。


 父親が父親として名乗れるのはきっと……、息子がもう、子供でなくなった時だ。


 子が父を尊敬した時……、言葉だけでは分からない親の気持ちに、子が気づいた時、親は初めて、本当の親と名乗れるのだろう……。


『尊敬してるよ、親父』

『ラルゴ……』


『だから、あんたを倒し、オレは親父の庇護下から卒業するッッ!!』


 黒竜の顎が開き、紫電竜の首元に噛みついた。


 硬いはずの鱗が容易く割れ……血が噴き出る。


 ……初めて、だった。


 ラルゴの牙が、父親に届いた――。


『……好きにしろ、バカ息子』


 谷の底へ落下する父親を見下ろし、ラルゴは自身の領地へ戻ることにした。


 神をやめる。領地を守る代役を立てなければならない……、となると数年で終わるか分からないな……、そんな予定を組みながら、彼は最後の言葉を残した。


『最高の親父だった――見習わせてもらうぜ』



 それから三年後……、

 丘の上に建つ家の窓から、外を眺める少年がいた。


 彼の名は、リグと言う――。


「リグ、ご飯だから……戻ってきなさーい」

「お母さん、黒いの、きてる」

「え?」


 エプロン姿の魔女が外に出ると、巨大な黒い塊が近づいてくるのが見えた……、


「――リグッ、危ない!?」


 咄嗟に我が子を抱きしめ、衝撃に備える。

 しかし予想していた衝撃はなく、そっと着地したのは、筋肉隆々の男だった。


「よっ、迎えにきたぜ、リグ」

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リグ竜 渡貫とゐち @josho

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