祭笛

aoiaoi

祭笛

 紗栄子は、入道雲の湧き上がる空を見上げた。

 どこで過ごしても夏の暑さは厳しいが、実家の縁側から見上げる空は昔と変わらない涼やかさを感じさせる。

 庭の木々の緑と、降り注ぐ蝉の声。木漏れ日を揺らして渡る風。額に滲む汗も、寧ろ体内の淀みを流し出してくれるような気がする。


 紗栄子は、この春に離婚した。

 27歳で会社の2年先輩と結婚し、約10年間の結婚生活だった。

 最初の数年こそ甘く幸せな日々を過ごしたが、待ち望む子供ができないことがだんだんと二人の心に重く被さった。

 病院で調べた結果、夫の生殖機能は正常だった。自分の子宮が妊娠の難しいものであることを、紗栄子はそこで初めて知った。

 夫婦二人だけの無言の時間。新しい命を迎えることのできない虚しさが、夫の冷ややかさに拍車をかけるようだった。


「ねえ、別れようか。私たち」

 黙り込む夫の顔に、堪えきれずそんな言葉が漏れた。


 ゆっくりと自分に向けられた沈んだ眼差し。

 どちらが悪いのでもない。それぞれに努力した結果だ。

 だからこそ、やりきれなかった。



「来週は、夏祭だね。毎年かんかん照りの晴れだけど、今年もまた暑くなりそうだ」

 母が、背後で洗濯物を畳みながら静かにそう話しかける。


「——ああ、そうだよね」

 とりとめなく過去を思いながら入道雲を見つめていた紗栄子は、ふと現実に引き戻されて答えた。


 この街の夏祭は、盛大だ。たくさんの小さな町が集合して行う祇園祭で、何台もの神輿が街を練り歩き、大勢の見物客が道の両脇をいっぱいに埋め尽くす。

 紗栄子は、仄暗い座敷を振り返って母を見た。

「ねえ、母さん。お祭り、行ってみようか。すごく久しぶりじゃない?」

「あはは、この暑い中あんな人混みに出るのは、母さんにはきついよ。

 紗栄子、久しぶりにのんびり楽しんできたら? 昔からあのお祭り大好きだったでしょう」

「……うん。そうしようかな」

 この春から沈み込んだまま大きく動くこともなかった紗栄子の心は、気づけば微かに浮き立った。



 夏祭の日の夕方、紗栄子は軽い生成りのサマーセーターと丈の長い麻のキュロットに着替えた。かつては好んで着ていたのに、いつの間にかクローゼットにしまいっぱなしになった服たちだ。祭りに心をときめかせた少女時代を思い出すと、自ずと軽やかな服装に手が伸びた。

 これまで几帳面に手入れをしていたウェーブのかかったロングの髪も、今日は無造作に右肩の上で一つにまとめた。顔周りがすっと明るく、涼しくなる。

 着替えて薄く化粧をし、鏡の前に立った自分は、思ったよりも若々しい。肩に重く被さっていた暑苦しい上着がするりと脱げたような感覚に、紗栄子は小さく微笑んだ。


 少し踵の高いサンダルを履き、外へ出た。肌を撫でる夕風が心地よい。

 うちわを片手にのんびり歩きながら祭の中心部へ近づくと、神輿を盛り立てる祭囃子や太鼓の賑やかな音が響いてくる。

 この祭囃子で、自分は育った。昔と変わらない活気溢れる調べに、体が勝手にリズムを刻み、動き出す。

 神輿がいくつも通過する華やかな通りへ出た。道の両脇に屋台が並び、夕方の街に明るいオレンジの灯を並べている。それらの店をぎっしりと覆うように、大勢の見物客が祭りの熱気を楽しんでいた。


 やがて、一つの神輿の列が道の向こうから近づいてきた。

 我を忘れたように祭に没頭し、雄叫びのような掛け声に合わせ神輿を激しく揺さぶる法被はっぴ姿の男達。

 次第に大きくなる囃子の音が、紗栄子の心拍を嫌でも押し上げる。

 先導の男が掲げる提灯に書かれた町名に、胸がひときわ大きく波立った。


 ——あの人は、ここで祭笛まつりぶえを吹いているだろうか。


 この町の神輿に付き添う囃子連はやしれんのなかに、あの人はいた。

 法被姿にねじり鉢巻きを締め、涼しげな目を伏せて祭笛を吹く、あの面影。

 恐らく自分より三、四歳歳上だろうか。祭りを見物に来ていた13歳の紗栄子の心を、その人は一瞬で攫った。

 その夏から、紗栄子はこの町の神輿の列を毎年見に来た。祭囃子を吹くその人の面影を探すために。


 これほど賑やかな祭だというのに、その姿を見つけた瞬間、いつも紗栄子の耳には彼の奏でる祭笛の音だけになった。


 そして、囃子連の流れに合わせて紗栄子の目の前をゆっくりと進みながら、その人は眼差しを微かに上げ——いつもほんの一瞬だけ、紗栄子を視界に入れた。

 紗栄子に見つめてられていることに気づいているのか、全く気づいていないのか。それすらもわからない。

 けれど、彼と視線を交わすその一瞬のために、毎年紗栄子はこの人混みを掻き分けた。


 しかしそれも、やがて叶わなくなった。

 18歳の夏、紗栄子はその人の姿を囃子連の中に見つけることができなくなった。


 それからは、一度もその面影には出会えていない。

 自分自身の環境も変わり、夏祭へ寄せていた感情も少しずつ遠のき——気づけばもう20年が経っている。


 紗栄子ははっと我に帰る。

 自分の心は少女の頃のまま、目の前の囃子連の中にあの姿を必死に探している。

 思わず、ふっと笑いが漏れた。

 会えるわけがないだろう。20年も前の恋になど。



 神輿と囃子連が、ゆっくりと行き過ぎる。

 男たちの掛け声と、懐かしい旋律が遠ざかる。


 遠い夢から戻って来たように、紗栄子は神輿の熱気の残る甘い空気に視線を漂わせた。


 ——ふと、道の向こう側に、こちらを見つめている人影があることに気づいた。

 その気配の方へ、紗栄子はじっと眼差しを向ける。


 そこには、小さな男の子を肩車した男が立っていた。

 長身の肩の上で神輿を見送るその男の子の面差しと、涼しげな目元は——あの人にとてもよく似ている。


「パパ、おみこし、すごかったねー! パパの町のおみこしがやっぱり一番かっこいいね! お空の上でママも見てたかなー?」

 男の子の無邪気な声が、紗栄子の耳に届いた。


 初めて、男をまっすぐ見つめる。

 その人と視線が交わる。

 それは、遠い夏に自分を刹那絡め取った、あの眼差しだった。



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