1-4.

 赤羽駅の北にある電車高架下をカブで抜けると、その先の居酒屋地帯はもう仕事終わりの人間がちらほらと姿を現し始めていた。


「もうちょっと先です」


 軽快な音を出すカブの後部座席から、マークの肩をつかんでいる少年が声を上げた。


「どんくらい?」

 後ろを見ずに聞く。徐行しているとはいえ、この時間帯のこの通りを二人乗りで抜けるのは、それなりに神経を使う。


 少し間が空いた後、後ろから声が来た。

「あとちょっと?」

 ちょっとってなんだ~。


 赤ちょうちんの手前でゆっくりと止まった。入口を全面ぶち抜きにした焼き鳥屋から、死ぬほど腹を刺激してくる煙が顔面にあたる。


「もう一個先です」


 明らかに残念そうな顔をしながら、少しだけアクセルを回し、隣の赤いタイルが張られた雑居ビルで止めた。


「ここ?」

「はい」


 後ろでカチャカチャ音が鳴る。と同時に、素早く少年がカブから降りた。


 キーを抜くマークに、少年がベルトとスマホを差し出してきた。


「二人乗り、どうだった?」

 受け取ったベルトをかごに入れ、マークが聞いた。


「怖かったです」

「本当か~?」

 ニヤニヤしながらヘルメットを脱いだ。怖かったという割には、しっかりと少年の顔がほころんでいる。初めてバイクに乗るという言葉を聞き、安全のため荷物を縛るナイロンベルトでマークごと少年を固定したが、体重移動を見る限りでは次はもういらないかもしれない。

 ヘルメットの着脱に手間取っている少年のあごひもを外してやった。


 カブを電柱脇に停め、雑居ビルを見た。『自粛中』の張り紙がつけられたスナックの隣に、コンクリだけの簡素な作りの上階へ続く階段が見える。


 ここの3階か~。うんざりしながら雑居ビル全体を見た。


 カブに乗って二人で来る前、マークは店舗に寄っていた。ルシオから言われた鍵をもって向かったのだったが、鍵を渡すどころか逆にゴミ袋と軍手の入ったビニール袋を渡された。

 この家賃も払わずに飛んで逃げた店舗の清掃をさせたいらしい。しかも今日、親父にとやってきたこいつと一緒に。


 熱で頭がとうとうやられたか。


 理屈が全くわからなかったが、ルシオの表情がいつになく真剣だったため、ろくに聞けないまま押されるように来てしまった。


「なあ。掃除しろって言われたけどさ。なんでいきなり掃除になったかお前知ってる?」


 尻を手ではたいている少年に聞いた。10分もない二人乗りだったが、荷物運搬用のカブではやはり痛かったのかもしれない。


「空いてる部屋があるから、掃除して使えって言われました」

「使う?」

 マークが怪訝そうに聞いた。

「誰が?」


 少年が少し詰まった後、「自分です」


「何に使うん」

「その」

 歯切れが悪い。

「あんまり話すなって言われました」

「誰に」

「さっきの、オーノギさんに」


 ルシオ~。説明しろ~。


 不穏さを感じたのか、少年が小さく頭を下げてきた。無言で手を軽く振る。多分、言われたとおりにやってるだけなんだろう。


「まあ、とりあえず行きますか」


 独り言のように返して階段を上った。



 ***



 階段を上った先は、道路に面した壁が全部取っ払われているぶち抜き型のテナントだった。

 階段を上がったすぐと次の階へ上る手前の、どちらも角になる2店舗だけがフロアにあるテナントで、それをつなぐ通路は鉄柵が付いているだけという、見晴らしはよいが酔った勢いでゲロも吐きやすい、飲み屋に最適な開放構造になっていた。


 3階、階段を上がってすぐのところに、木でできた重厚なドアがあった。ポケットから鍵を取り出し、ドアに差し込む。

 するっと鍵が回り、鍵の開く音がかちゃりと鳴る。


 ゆっくりとドアを引いた。


「くさっ」


 全力でドアを閉めた。


 後ろで鼻を抑えている少年と目を合わせる。今確実にやべえ臭いがしたよな。無言で確認しあった後、お互いに無言でうなずいた。


 完全に中でなんかが腐ってる。夏場の、生ごみを入れるゴミ箱の底からにおってくるあれだ。もしくはベランダに間違って放置したスイカが破裂したときのあれ。家賃払わずに飛んだってやつ、絶対生もの置きっぱなしにして飛んでやがる。


 もう一度、ドアを開けようとしてノブをつかんだ。が、手がそれ以上動かなかった。びっくりするほど、開ける気が出ない。しかしながら、開けるしかない。つまるところ、選択肢はない。もしかしたら、万が一、実は何かの間違いで、たまたま外から匂いが飛んできたとか、そういう可能性もあるのかもしれない。可能性を追いたい。常にハンターでありたい。


 念のため大きく息を吸い込み、全力で呼吸を止めて一気にドアを開けた。


 ドアを開けた中は完全に真っ暗だった。後ろでむせる声を無視しながら、息を止めたまま入り口近くの壁を這うように触る。普通、大体の建物はこの辺にスイッチがある。はず。あってくれ。さわり覚えのある出っ張りに引っかかったので押した。


 店内の明かりがついた。心から安心した。幸い電気は生きていた。


 ドアの中は、入口から奥にかけてのよくあるチープなバーカウンターと、それの反対側に4つほどのこれまたチープなテーブル席がある。それなりの広さの、よくあるタイプの居抜きの飲み屋だ。


 全開にしたドアの下部を見た。一番下についているストッパーを足で動かし、ドアを固定する。手を放しても閉じないのを確認した後、ドアと反対側の上り階段のほうを見た。少年がとっくに階段のほうに避難していた畜生。


 息を止めたまま階段のほうに向かい、少年の隣に座った。ドアから流れてくる臭いにやられないよう、小刻みに浅く呼吸し息を整えた。


「換気扇、かけてくるわ」


 マスクをつけたマークの言葉に、少年が真剣な顔でうなずいた。なんだかよくわからないが「特攻」という文字が頭に浮かんだ。


 再度息を止めたまま店に入った。入口から対角、テーブル席の奥の天井に排気口があるのが見えた。バーカウンターの奥、小さなキッチンがあるほうへ早足で進む。こういうタイプは大体換気扇のスイッチがキッチンの中にある。確信はないが経験上多分そこだ。キッチンに突っ込んだ。


「おおぅおぉああぉぅお」変な声が出た。ぼんやりとしか見えないキッチンの床で、黒い小さいのが複数マークの足を避けるように動いた。一瞬で隙間に入り込むように隠れて見えなくなったが、見えなくなっただけで絶対にこの部屋にいる。確実に潜んでいる。厨房の冬のヒーターの蓋を開けたときと同じくらい背筋がぞわぞわする。かっきっむっしっりったっいッ!


 目を半分つむりながら、壁にあるスイッチを片っ端から触りまくった。パッとキッチンの明かりがついた。それ以外は知らない。


 入口に戻る途中、排気口のほうから空気が流れ出るのを確認し、店から飛び出すように反対側の上り階段へ滑り込んだ。


 長いこと止めていた息を整える。マスクを外して汗をぬぐった。


「換気扇、つけた」


 少年と軽くハイタッチをした。少年が少し嬉しそうな目で応じてくる。この手、さっき壁にいたゴキブリを確実に触っている。そう、俺は、一人では地獄に落ちたくはないのです。


 階段にゆっくりと座った。


「今日はもう、これで終わり」


 マークの発言に、少年がびっくりしたような顔になった。


「なんでですか?」


 スマホを取り出し、画面を見せた。


「だってもう、19時だぜ。お前小学生だろ?そろそろ家に帰らないとまずいと思うわ」

「中2です」

「え?」


 驚いた顔をしているマークに、静かに少年が続けた。


「中2です」

「ごめん」

「今日、もう掃除しないんですか?」

「いや。だってこれ、明日まで換気扇回してないと匂い取れないよ」


 少年が階段から立ち上がり、開けっ放しの店舗をのぞきにいった。


「そこ、中無茶苦茶ゴキブリいっからな」

 階段に座ったまま、鼻を抑えながらマークが言った。


 マークの言葉を聞いてなお、少年は店の中をのぞいたまま動かない。


 どうしても、今日中に使う必要性でもあるのだろうか。


「なあ」

 マークが口を開いた。

「聞いていいか?」


 少年が鼻を抑えながら振り向いた。


「お前さ、最初アランに、って会いに来たろ。シーラ・アヘントーの件でって」

「はい」

「アランって俺の親父なんだよ。シーラ・アヘントーって言われたとき最初わかんなかったけど、俺の親父の従姉妹なんだろ?どんな用事で来たん」


 少年が、一瞬躊躇したように視線を外した後、マークのほうを見て口を開いた。


「シーラから、見せろっていうのがあって来ました」

「シーラさんから?」


 少年が小さくうなずいた。


「アランさんはいつ戻ってくるんですか?」

 少年から、不満そうに言葉が出た。

「昼間の人に、アランさんはいつ戻るんですかって聞いたんですけど、何も教えてくれませんでした」


 マークがぽかんとしたまま話を聞いている。


「シーラのことは俺のほうが詳しい、だからシーラの件は俺に教えろ、って言われました。でも俺は、シーラからはアランさんの名前しか教えてもらってません。シーラがアランさんしか言わなかったのは、理由があるからだと思ってます」


 マークが少したじろいだ。少年から、初めて感情の入った言葉が出てきた。


「アランさんはどこにいってるんですか?」

「親父は」


 少年の問い詰めるような口調に、マークが詰まった。


「3年前に死んでる」

「え?」

「だから、親父は死んでる」



 ***



 店舗の中で、換気扇の音がわずかに聞こえるのを確認し、マークがドアを閉めた。


 気まずい雰囲気になったな。鍵をかけながらマークが思った。別に親父が死んだことを聞かれたからではない。もう3年もたてば、笑っては話せないが話すこと自体に抵抗なんてない。

 それよりも問題は、親父が死んでることをなぜかルシオが教えてなかったことのほうだ。


 ポケットに鍵を入れ、少年を見た。

 困った表情のまま、階段脇で座り込んでいる。


「なあ」

 雰囲気にいたたまれないまま、マークが声をかけた。

「また明日来いよ。別に、ここ今日中になんとかしろってわけでもないだろうしさ。その、親父に見せるとかいうやつがさ。ルシオでもいいかどうかシーラさんに確認してさ。んで、問題なかったら、また来いよ。な」


 少年が、幼い表情ながらこわばった苦笑いをした。


「俺、今日、ここに泊まるんです」

「なんで」


 思わず素で言葉が出た。


「昼間、ルシオさんと話して、そういうことになって」


 唖然とした。

 どういう流れで、そうなる。


「家は」

「その」

 少年が口ごもる。

「いろいろと」


 スマホを取り出しルシオに通話をかけた。呼び出し音が鳴り続けるが、一向につながらない。

 切ってまたかけなおす。何度呼び出しをかけても出ない。

 事情を説明してもらわないと、理解が追い付かない。


 幾度か繰り返した後、諦めてスマホをポケットに突っ込んだ。


 全然関係のない方向を見ながら、思わず深いため息が出た。

 どういう話になれば、この生ごみハウスに親戚の名前を出して親父を訪ねてきたやつを泊まらせる話になるんだ。我が叔父ながら全く理解ができない。


「お前、名前なんだったっけ」


 マークの質問に、少年が怪訝そうな顔をした。


「名前。親父に、って来たんだから聞いてもいいだろ」

「小畑です」


 軽く声を出しながら伸びをした。

 マークが階段を下り始めた。


「あの」

 少年が、階段を下りていくマークに声をかけた。

「鍵をください」


「鍵」

 一瞬の躊躇の後、マークが手を広げて台本を読むような調子で言葉を続けた。

「鍵はなんと。意地の悪いオーノギさんが持ち帰ってしまいました。かわいそうな小畑さんは、鍵を取り戻すためオーノギさんについていくしかありません」


 少年が、面食らったような表情でマークを見た。


「こんなところに、親父に会いに来たって人間、泊められるわけねえだろ。お前は今日、俺んちに泊まるんだよ」


 名前ぐらいわかんねえとわけわかんねえだろ。そういって階段を下っていくマークに、小畑と名乗った少年が駆け足で付いていった。

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俺はあいつのことを何も知らない ぽぽぽんすぽ @m_m

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