1-3.

「で、そいつが」


 オフィス用の椅子の上で、あぐらをかきながらマークが言った。

「シーラ・アヘントーのことわかる人いますかっていうんですよ」


「シーラ?」


 となりで伝票を入力していたラモスが、首ごと曲げて覗き込むように凝視してきた。


 マークの椅子がすとんと落ちた。調節レバーで遊んでいた手が思わず止まったせいだ。


「知ってるんすか」

「シーラだろ?」

 何いってんだ、という顔をしている。

「お前の親父の従姉妹だよ」


 ほぉ、とマークが答えた。


「親父の、従姉妹」

「そうだよ」


 なんとなく聞いたことがあるような気がしてきた。


 口を開いたまま放心しているマークに、あきれたようにラモスが続けた。


「3年前、お前の親父のときに、呼ぶ呼ばないで話が出たろ」


 ああ、とマークが答えた。


「なんか、ありましたね。そんな話」

「あったよ」


 なるほど。それでなんか聞いたことあったのか。


 お前大丈夫かというような顔でラモスが見ている。


「俺、シーラさんに会ったことあるんですかね」

「そんなん知らねえよ」


 ラモスが困ったような顔をした。そりゃそうだ。


 席を立ったラモスが、マグカップを片手に事務所の共用ポットへ向かった。


 シーラ・アヘントー。親父の従姉妹。へぇ~、と再度マークが思った。そういや、いたな、そんな人。親父の従姉妹。それならルシオの従姉妹でもある。だからあいつすぐわかったのか?


 でもなんであいつ、わざわざに聞きに来たんだ?


 先ほどきた、小畑佳生とかいうおどおどした少年を思い返す。


 ラモスがコーヒーをいれて帰ってきた。マークの前に、アイスコーヒーの入ったプラコップを突き出す。


 受け取って一口すすった。


「シーラの名前が出るって、そいつなんなんだろうな」


 自席に座ったラモスがコーヒーを飲みながらつぶやいた。


「シーラさんって、今何してんすか」

「知らない」

「連絡取ってないんすか」

「取ってない。けど、ルシオはどうなんだろうな」


 ラモスの言葉に、マークの口が止まった。


「ルシオは……どうなんすかね。でもさっき、すげえ慌ててましたよ、シーラ・アヘントーって聞いて。あのクソ暑い外から無茶苦茶全力で走ってきてこう、ドアに」


 びたーん、の下りでラモスが苦笑した。


「シーラって名前、全然聞かなかったですもん」

「そうなぁ」

 ラモスがつぶやいた。

「シーラねぇ。」


 ラモスがコーヒーをすすった。


「聞かないってことは、まあ、そういうことなんだろう」


 そういうことなんだろう。マークも黙々とチップスをつまむ。


 ラモスの言わんとしていることは、マークも察していた。


 マークのいるマブハイ物産は、日本に住むフィリピン人を相手にした零細企業だ。マークが働く雑貨屋と、ラモスが管理する飲食店で、従業員10人未満の吹けば飛ぶような構成をしている。いつでも金に困っているし、いつでも何かがトラブっている。福利厚生だのホワイトだの、そういう言葉は存在していない。そんな企業だが、なんだかんだと10年を乗りこえてきた、意外としぶとい零細企業だ。


 そういう会社だからこそ、フィリピン人の話題は、横つながりで勝手に入ってきていた。


 普通、日本で生活している外国人は何らかの形で横つながりを持っている。フィリピン人はフィリピン人、中国人は中国人。その中でも出稼ぎは出稼ぎ同士。さらにもっと。どんどんと細分化されていく。でもどこまでいっても、何かしら、どこかで誰かと横つながりを残しているのが大半だ。全く知らない土地で、全く違う文化と言語の中生きていくには、何らかのつながりを持っていなければ何かが足りなくなる。


 名前も聞かないってことは、もうこのへんにはいないんだろう。


 ケツが鳴った。


 スマホを取り出し、画面を見る。ルシオからだった。


「ラモっさん」

 マークが不安そうな顔でラモスに画面を見せた。

「ちょっとなんか、わけわかんねえ内容きてんすけど」


 赤羽のすぐ近くの住所が表示された後、『ここの店舗の鍵を持ってこい』と書かれてある。


 ラモスがマークのスマホを取り、眼鏡をはずして目を近づけた。


「これ、俺知らないんすけど。何の店舗なんすかね」


 ラモスがああ、と声を出した。


「これあれだ。あの、先月コロナで飛んだやつの飲み屋だ」

「飛んだやつ?」

「ほら、あの家賃払えなくて逃げたやつだよ」


 あ~、マークから声が出た。そういや言ってた。先月家賃払わずに飛んだやつが出たとか。家賃が半年間丸ごと回収できなくなったっていうアレ。


 地味に致命傷じゃねえか。


「あれっすか」

「あれだよあれ。督促にいったら店そのまんまで連絡取れなくなったやつのあれ」

「クソじゃないすか」


 面倒そうに席を立ったラモスが、貴重品を収納しているロッカーのほうへ向かい、鍵を取って戻ってきた。


「これがその店舗の鍵な」


 マークに鍵を手渡した。タグが付いているだけで、何の変哲もない安そうな鍵だ。


「これ、何に使うんすかね」


「知らんよ」

 ラモスも困ったように答える。

「まあ、なんか無茶苦茶言われたら、そんときはまた連絡しろよ」


 軽く会釈をし、受け取った鍵を持って事務所を出た。

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