魔女の契約書

蝋梅

魔女の契約

第1話 魔女の契約

「魔女の契約書を探し出せ。そうすれば、代償を返してやろう」


 少女の小さな頭を抱きかかえて、エディルスは呆然と魔女を見つめていた。少女の肩が上下する度に、白い吐息が周りに広がる。


 魔女が小さく呪文を唱えると、青白い光を孕んだ透明な小魚の群れが、魔女の周りを恐ろしい速さで旋回し始めた。瞬きする間もなく、小魚の群れは魔女を呑み込んでゆく。


 魔女はエディルスに向かって手をかざすと、威厳のある声で口を開いた。



「神をも恐れぬ純真さで、真の道を行け。さすれば、道は開かれる」





 エディルスはハッとして目を覚ました。心臓が何かに掴まれた後であると主張するかのように、激しく脈を打っている。周りを見回すと、そこはいつも寝起きしている私室だった。


「夢……」


 からからと乾いて張りついた喉が、擦れた音を出す。そのことに気づいた時点で、エディルスは自分が夢の内容を全く覚えていないことに気がついた。


「悪夢……だろうか……」


 エディルスは額に浮かんだ汗を拭うと、窓を開けて空を見上げた。夜明けの薄い藍色がどこまでも広がっており、太陽の光が街の輪郭を白々と染めている。


 夜明けの空を、鞄を肩から斜めに下げて箒に跨った郵便配達員たちが、右へ左へとせわしなく飛んでいた。遠目にだが、欠伸をしている郵便配達員もいる。エディルスの目の前を掠めるように飛んだ郵便配達員は、エディルスに制帽を振って去って行った。


 エディルスはこの街の華やかな景色から目を逸らすと、窓を閉めてカーテンを引いた。


 クローゼットから警察官の制服を取り出して、着替え始める。詰め襟を着込んだ自分の姿を鏡で見ると、身体の芯からすうっと緊張が広がっていった。




 エディルスは真面目さが滲み出た顔つきをしている青年だった。

 黒い髪の毛は首筋に掛からないほどに短く、さっぱりとしている。


 深海のような静けさを纏った切れ長の瞳は、どこまでも澄みきって青い。しかし、何よりも目を引くのは、その瞳の中で星屑を撒いたかのように白い光が散っていることだろう。深海に銀砂を撒いたような瞳は、いつも、目を合わせた人を真っ直ぐ射抜くように見つめていた。




 エディルスは外套を左腕に掛けながら制帽を持つと、一階にあるリビングへと歩き出した。


 ギィギィと軋む階段を降りると、香ばしいベーコンとパンの香りが漂ってくる。どうやら紅茶も入れているらしく、ととと、とティーポットから紅茶を注ぐ音も聞こえてきた。



(おちびさんは、寝坊だな)



 エディルスはくくっと笑うと、キッチンでせわしなく動いている夫人に声を掛けた。



「クローバー夫人、おはようございます」

「あら、おはよう、エディルス! 今日も早いわねぇ。昨日はよく眠れた?」

「はい、お陰様で」

「なら、よかったわ。それじゃあ、あの子を起こすのを頼んでもいい?」



 エディルスの下宿先の大家であるクローバー夫人の大きくて高い声が、リビング中に響き渡る。いつもの慣れたやり取りに、エディルスは椅子の背もたれに外套と制帽を掛けると、一階の大きな寝室へと歩き出した。



「アン、起きろ。遅刻するぞ」



 エディルスがドアを叩かずに部屋へ入ると、身震いするような冷気がひんやりと身体を覆う。ここ最近ではいつものことだが、春先だからというにはあまりにも寒く、エディルスは腕をさすった。



「アン、そろそろ起きなさい。学校に遅れてしまうぞ」



 大人が二人眠れるほどの大きいベッドの上に、こんもりとした布団の山が出来ている。エディルスがぐいと布団を掴むと、布団を引っ張る寸前に、布団の中から小さい頭がぴょこんと飛び出してきた。



「ぐわぁぁぁぁぁ!!」



 まだ幼い少女の獣の咆哮に似せられた声が、寝室に響き渡る。少女が爪を立てるような仕草をしてエディルスに襲い掛かると、エディルスは少女を受け止めるように抱き締めた。



「おはよう、アン。今日も元気そうだな」

「うん! おはよう、エディルス!!」



 エディルスが少し癖のある栗色の髪の毛を撫でてやると、アンは嬉しそうに笑ってから、ぱっとはじかれたように顔を上げて喋り始めた。



「エディルス、聞いて! あのね、夜に窓辺を見たら、たくさんの小さな光が浮かんでいたんだよ! ここには蛍がいないから、きっと妖精だよね?」



 アンの透き通るようなエメラルドの瞳は、冬の垂れ込めた空から太陽が覗いたように、らんらんと輝いている。


 エディルスは微苦笑を浮かべると、アンにスリッパを履かせてやった。



「分かった、分かった。朝食を食べながら聞いてやるから、早く着替えなさい」





 エディルスがクローバー家に下宿してから、随分な月日が経っていた。クローバー夫人とアンとの本当の家族のような付き合いは、エディルスがここで暮らし始めた頃から始まっている。しかし、エディルスは、それに心の底から慣れきることが出来なかった。



「アン、そろそろ出発するぞ」

「ちょっと待って!」



 アンは小皿の上に朝食のパン屑をミルクで浸したものを作ると、窓の敷居にそれを置いて、エディルスにパタパタと駆け寄って来た。



「今日は、何のお話をしてくれるの?」

「そうだな……アンは何の話がいい」

「妖精のお話!!」



 すぐに答えたアンを見て、エディルスは可笑しそうに笑う。エディルスは、何の話をしようかと顎に手を当てて考えると、アンは楽しそうに声を上げた。



「妖精が夏を隠すと、こちらの世界は冬になるって本当?」

「本当だよ。妖精の国は、こちらが冬の時は夏なんだ」



 そんな風に話をして、丁度、エディルスたちが、サンレーゼ大通りに差し掛かった時だった。一人の男が、アンを突き飛ばすように走り去って行った。エディルスが、転んだアンに手を差し出すと、警笛の甲高く鋭い音が鳴り響く。


 エディルスが何事かと周りに目を配らせると、警察官が外套に風を孕ませながら、大声で叫んだ。



「魔女の契約者だ!! 絶対に逃がすな!!」



 エディルスはすぐさま警笛を口に咥えると、甲高い音を長々と鳴らして、男を追い掛け始めた。警笛の音が抑揚をつけられて尾を引くように響き、街中を流れてゆく。


 サンレーゼ大通りを歩いていた人々は、何事かと二人を見るより先に、さっと身体を端へと寄せた。



「絶対、市民に傷をつけさせるな!!」



 サンレーゼ大通りを震わせるような大声が、遥か後方から聞こえてくる。


 エディルスは、逃げている男の足取りが重たくなってきた頃合いを見計らうと、サーベルに手を掛けて、刀身を抜き放った。


 サーベルの切っ先が逃げている男の背中を掠めたのと同時に、男が振り返りながら、エディルスの腹に大きな水の塊を打ち込む。エディルスが僅かに態勢を崩したのを見て、逃げていた男は懐からナイフを取り出すと、エディルスに襲い掛かって来た。


 エディルスは懐に飛び込んできた男をいなすと、地面に倒れ込んだ隙を見て、男の喉元にサーベルを突きつけた。



「これで終わりだ。魔女の契約者」


「ま、待ってくれ……! 俺は女房の病気を治す契約をしただけだ! 女房の病気は医者でも治せねぇって言われて、それで……!!」


「嘘は吐かなくていい。お前は金が欲しかっただけだろう。お前が載っている手配書を俺が知らないとでも思ったのか」



 エディルスは軽蔑を孕んだ冷え冷えとした目で男を見下ろすと、男はがくりと項垂れた。体力が尽き、魔法が使えなくなったのか、今になって、喉元に突きつけられたサーベルに身体を竦ませている。


 エディルスが手錠を取り出すと、背中から声が掛かった。



「エディルス! よかった、無事だった!」



 警察官の制服を身に纏った、亜麻色の髪の毛の青年が、エディルスの方に駆け寄って来る。エディルスは微かに表情を緩めると、手錠を掛けた男を立たせて、青年の方に顔を向けた。



「ノア、来てくれたのか」


「うん、エディルスがサンレーゼ大通りを駆けているのが見えたから来たんだけど、僕は必要無かったみたいだね」


「そんなことはない。この男が護送されるまで、暴れないように見張るという役割がある。俺は魔法を使えないから、お前がいると心強い」



 ノアは少し困ったような表情で、曖昧に微笑んだ。



「そう言って、エディルスは自分一人で犯人を捕まえてしまうよね。それに、魔法は使えないけれど、身体は人一倍丈夫じゃないか」


「それでも、魔法を使える人間を相手にするのは、骨が折れる。俺一人に出来ることなど、たかが知れているからな」



 エディルスがふっと目に影を落とすと、まばらな足音がサンレーゼ大通りに響き渡った。警察官たちがパタパタと走って来る中に、一人だけ白銀の飾緒を身に着けた男がいる。


 エディルスはその男の顔を見た途端、喉元に苦い物が込み上がってくるのを感じた。



「魔女の契約者の捕縛、ご苦労。後のことは、私たちが片づけよう」



 白銀の飾緒の男は、部下に手早く指示を出すと、汚らわしいものを見たかのような顔をして、手錠を掛けられた男を睨みつけた。



「魔女の契約者は、クエレブレという竜に喰い殺させるのが習わしだ。大罪を犯したのだから、それは覚悟しておけ」



 警察官たちに両肘を掴まれた男は蒼白になると、ずるずると引き摺られるように、引っ立てられていった。


 白銀の飾緒の男が、エディルスの方に振り向く。びしょ濡れになったエディルスの制服をじろじろと値踏みするように眺めると、苛立たし気に顔を顰めた。



「エディルス・ホープ、魔女の契約者を捕まえるのは、私の仕事だ。勝手に動くような真似はしないで貰おうか」


「はい、以後、気をつけます」



 エディルスの返答に、白銀の飾緒の男はふんと鼻を鳴らす。


 エディルスが僅かに居心地悪そうにして、制帽を目深に被り直すと、白銀の飾緒の男は目ざとくそれを目に留めて、エディルスの瞳に冷え冷えとした視線を送った。



「ふん、相変わらず気味の悪い瞳をしているな。深海に銀砂を撒いたようだなんて女どもは言っているようだが、私からしたら、魔女の瞳だ。無駄にギラギラと光って、民衆の心を惑わせる……さっきの男も、お前が唆したんじゃないのか?」


「そんなことは、有り得ません」


「冗談に決まっているだろう。とにかく、私の管轄に手を出すな。いいな」



 白銀の飾緒の男は言いたいことを言い尽くしたのか、護送用の馬車への中へと消えていった。


 エディルスはただ、影が落ちた目で何も言わずに、その光景を眺めていた。





 エディルスが帰路に着いたのは、夜も深まって、街灯のオレンジ色の灯りがぼんやりと灯る頃だった。サンレーゼ大通りは人が溢れている。エディルスは制帽のつばを掴んで目深に被ると、ふっと物思いに耽った。



(アンはどうしているだろうか)



 宵っ張りな子だから、まだ起きているかもしれない。夜遅くまで起きていることは咎めなければいけないが、帰った時にアンが迎えてくれることを想像すると、エディルスの胸の内は温かくなった。


 エディルスがサンレーゼ大通りから枝分かれしている路地に入ると、人気がさっと引いたように無くなる。下宿先であるクローバー夫人の家から、オレンジ色の灯りが漏れており、路地を温かく照らしていた。


 アンも起きているだろうかと思いながら、エディルスがドアノブに手を掛ける。すると、ドアの向こうから、何か焦るようなくぐもった声が聞こえてきた。必死に呼びかける声は、次第に震えを帯びてゆく。



(何だ……?)



 エディルスは何かあったのかと思い、急いでドアを開けた。その瞬間、ひんやりとした冷気が顔に掛かり、すんとした雪の匂いがしてくる。エディルスが息を吐き出すと、冬のように吐息が白くなった。



「これは一体……」



 エディルスが呆然としたのは、その部屋の異様さだった。見える限りの全ての場所が、透き通る氷や、真っ白い霜で覆われている。テーブルや椅子は氷漬けにされており、壁紙には霜が降りていた。


 エディルスが呆然と立ち尽くしていると、テーブルの傍に立っていたクローバー夫人が、血の気のない顔でエディルスを見た。



「エディルス……! どうしましょう、アンが……!!」



 慌てふためくクローバー夫人の足元に、アンが胸を押さえて蹲っているのが見える。エディルスが急いで近寄ると、その異様さがはっきりと輪郭を持ち始めた。



 アンの栗色の髪の毛は、びっしりと霜が降りて、老人の白髪のようになっていた。


 いつもは林檎の赤みを借りたように血の気のある頬は、雪化粧をしたかのように白く、ひんやりとしている。アンの身体が小刻みに震えていなければ、死体と間違えても可笑しくないほどであった。


 エディルスはアンの背に腕を回すと、いたわるようにさすってやった。



「アン、聞こえるか。どこか痛いところはあるか」

「エディ……ルス……寒い……暖炉を焚いて……お願い……暖炉を……」



 アンが苦しそうに、薄らと開いた口から白い吐息を漏らす。エディルスは顔を顰めると、クローバー夫人を見上げて尋ねた。



「いつから、こうなりましたか」

「わ、私も帰って来たばかりだから、分からないわ……」



 エディルスは氷に覆われた時計の針を見上げると、自分が着ていた外套でアンを包み、背中と膝の裏に手を回してアンを抱きかかえた。



「クローバー夫人、俺はアンを抱えて国立病院へ行きます。クローバー夫人は、サンレーゼ大通りで、馬車に乗って来て下さい」


「わ、分かったわ……」



 クローバー夫人の返事を聞くや否や、エディルスはドアを乱暴に開けて、外へと飛び出した。何かに追い立てられているような凄まじい走り方で、馬車が通れない路地を駆けてゆく。エディルスはぐんぐんと変わる景色を少しも気にせずに、敏捷な動きで路地を駆け抜けていった。



「アン、絶対に死ぬなよ。絶対に死ぬな……!!」



 アンが返事の代わりに苦しそうに息を吐き出す度に、白い吐息が周りに広がり、霧散してゆく。エディルスはアンを固く抱き締めながら、震える声で何度も「死ぬな、死ぬな」と唱え続けていた。



「見えた……! アン、中央通りだ!! もうすぐだ!!」



 エディルスが声を掛けた時だった。アンの喉から、何かを詰まらせたような音が響き渡り、鉄臭い血がエディルスの頬に掛かった。何が起こったのかが分からず、エディルスは足を止める。


 アンは喉をひゅうひゅうと鳴らすと、もう一度、大きく咳き込んで、血を吐き出した。



「エ……ディルス……」

「アン……!!」



 目に涙を浮かべるアンを見て、あぁ、間に合わないと、エディルスは悟った。アンの頬には霜が降りており、それが睫毛にまで回っている。エディルスが頬に触れると霜は解けていったが、すぐにそれ以上の速さで、霜が降りてきた。



(駄目だ……ここで死んでしまう……)



 たとえ、どれほどの速さで駆けようとも、病院までアンの命は持たないだろう。とても短い蝋燭の上でとろとろと揺れる命の炎は、それほどまでに、弱々しい。しかし、エディルスはアンを抱え直すと、中央通りを駆け始めた。ゆっくりゆっくりとした足取りから、徐々に速さを増してゆく。


 エディルスの目には、大粒の涙が浮かんでいた。



「星屑の女神よ……百の目で見ていらっしゃるのであれば、どうかお助け下さい……大切な人の忘れ形見なのです……!!」



 エディルスが悲痛な声で叫んだ途端、風が逆巻くような音が響いて、身体がぴたりと硬直した。身体の芯にまで響くような音に、身体の奥がぶるぶると震える。エディルスが石畳に膝をつくと、目の前がぽうっと明るくなった。


 それは、青白い光を孕んだ小魚の群れだった。夜闇から出て来た透明な小魚たちが、青白い光を腹に抱えて渦を巻いている。透明な鱗が、青白い光を受ける度にキラリキラリと銀色に光る様は幻想的だったが、エディルスには不気味なものに感じられた。



(どうして、街中にロゥがいるんだ……!!)



 ロゥとは、森の中に群れを成して棲む小魚の妖精のことだ。春にだけ青白く光る卵を腹に抱えて、森の木々に産卵する。いつもは姿を見せないこの妖精が、街中に現れているということが、この状況の異様さを物語っていた。


 エディルスは顔を顰めると、その場から離れようとした。しかし、何故かその場に縫いつけられたように動けない。


 ロゥが、エディルスとアンの周りを八の字を書くように回ると、夜闇の中から灰色の外套を纏い、目深にフードを被った女が、そっと歩み出て来た。



「私を呼んだのは、お前か」



 その女のしわがれた声を聞いて、エディルスはひゅっと息を呑みこんだ。死を錯覚させるほどの黒々とした気配に、恐怖で喉が張りつく。冷や汗が頬に伝わるのを感じてエディルスが唾を飲み込むと、女は手を招くような仕草をして、ロゥを夜闇の中にゆっくりと溶け込ませた。



「青年よ、お前に聞いているのだ。魔女召喚の儀式をしたのは、お前か」



 エディルスは呆然としていたが、反射的にはっきりとした口調で否定した。



「そんなことはしていない」



 魔女は「ほう」と呟くと、エディルスが外套に包んで抱きかかえているアンに目をやった。



「しかし、命に代えてでも助けたいものはあるようだ」



 エディルスは冷や汗をかきながら、魔女を見つめる。魔女は少しも表情を変えることなく、淡々とした声で言葉を続けた。



「お前の望みを聞いてやろう。魔女の契約に、何を求める」



 エディルスはかじかむ指先の震えを押さえながら、自分の頭の中にある葛藤を振り払おうとした。



(魔女の契約をしたら駄目だ……本当に戻れなくなる……)



 エディルスは警察官になる際に、誓約の契約書に血判を押していた。警察官は契約書に血判を押した瞬間から、魔女の契約に関わったかどうかを監視されるようになる。警察官が魔女の契約をすると、警視庁に通達がいき、即座に指名手配をされるようになっていた。



(魔女の契約をするということは、この国を敵に回すということだ。俺にそんなことが出来るのか……それに……)



 エディルスの脳裏に、魔女の契約をして捕まった同僚の姿が思い浮かぶ。


 魔女の契約をした彼の代償が何だったのかは、詳しくは分からない。ただ、エディルスはその惨い姿を覚えている。皮膚が剥がされて、身体がぶよぶよとした肉塊へと変わった、その姿を。


 エディルスは魔女の契約をするか否かという岐路に立たされて、やっとその代償と契約の重さを知ったのだった。



(どうする……どうする……!!)



 エディルスがせわしなく息を吐きながら苦悩していると、アンが咳き込む。

 魔女は淡々とした声で、時間の切迫を告げた。



「そう悩んでいる暇は無いはずだぞ」



 エディルスはギリリと歯を食い縛ると、今にも泣き出しそうな表情で、アンの顔を見た。


 魔女の契約は大罪だ。どんな理由があろうとも、極刑は免れない。まして、警察官である自分が魔女の契約をすれば、すぐに追手が掛かるだろう。魔女の契約をしてしまえば、自分の命が助かる見込みはない。


 それでも、エディルスには、アンを見捨てるという決断が出来なかった。



「魔女の契約をして、アンの命を助けて欲しい。大切な人の忘れ形見なんだ」



 エディルスはアンをぎゅっと抱き締めると、覚悟を決めた目をして、魔女を見上げた。魔女は束の間、思考を巡らせるように押し黙る。しかし、暫くすると、魔女は何かに気づいたように、ふと口を開いた。



「魔女の契約をして、お前はどうする」

「警察に自首をする。大罪を犯したことから、逃げようとは思わない」



 エディルスは微かに目を伏せながら、霜が降りたアンの頬をさすった。雪化粧をしたような肌はひんやりとしており、薄く開いた口からは、白い吐息が上ってゆく。


 エディルスは、アンの微睡むようなとろとろとした瞳を見つめて、小さく微笑んだ。



「アン、お前は幸せになりなさい。俺のことは忘れて、生きてゆきなさい」



 エディルスがアンの額に自分の額をくっつけると、魔女は口元に、歪んだ三日月のような笑みを浮かべた。




「魔女の契約は、お前たち二人で一つのものとしよう」




 その瞬間、エディルスとアンの左胸に青白い光が走った。焼き印を押されたような、じゅうっという音が響いて、エディルスは蹲る。堪えきれないほどの痛みが、魔女の契約と共に、自分の身体と魂に刻み込まれてゆくのを、エディルスは、ただただじっと感じていた。




「私が望む代償は、お前たちが死に逃げられないもの。お前たちが一番苦しむもの。そうだな……二人のうち、どちらかが死んだ時、もう一人も死ぬ。そういうものにしよう」




 エディルスは、全身から血の気がサアっと引いてゆくのを感じた。眩しい白い光が目の前にすうっと広がって、身体が透けて消えてゆき、心臓だけが残っているような奇妙な感覚を覚える。自分の腕の中で苦しんでいるアンの体温でさえ、感じ取ることが出来なかった。



「『贖罪の魔女』から、そう容易く死に逃げられるものと思うな。私はいつだって、お前たちを見ている。代償から逃げることは許さない。しかし、私にも心がある。贖罪を行う身として、一つだけ慈悲をやろう」



 魔女は天を仰ぐようにして、大きく両腕を広げた。




「魔女の契約書を探し出せ。そうすれば、代償を返してやろう」




 魔女が小さく呪文を唱えると、青白い光を孕んだロゥが魔女の周りを恐ろしい速さで旋回し始めた。瞬きする間もなく、小魚の群れは魔女を吞み込んでゆく。


 魔女はエディルスに向かって手をかざすと、威厳のある声で口を開いた。




「神をも恐れぬ純真さで、真の道を行け。さすれば、道は開かれる」




 青白い光を孕んだ小魚たちが、夜闇の中に消えてゆく。エディルスが呆然としていると、もうそこには、誰もいなくなっていた。

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