2、
働けるようになってから一人暮らしを始めた。派遣社員の給料では生活するので精一杯だったけれど、お母さんの家には毎月送金をしていた。すねかじりのろくでなしを二年も養ってくれた贖罪だった。無償で愛情を受け取れるほど世界を信じられなかった。
縁もゆかりもない土地で淡々と仕事をした。真面目だけど地味な子、というレッテルが張られていることは、学校にいた時と何ら変わらない。「美波ちゃんて彼氏いたことあるの? もしかして処女?」と飲み会でからまれた時には、セクハラまがいの言動への嫌悪感よりも先に、あたしが経産婦に見えないことへの安堵があった。あたしはわざとつっけんどんに返事をする。かわいくない、という言葉に聞こえないふりをしながら。
仕事の退屈さにさえ耐えていれば、日々は平穏に過ぎる。期待をしていないのだから失望させられることもない。
それでも気持ちが沈むときは、身の回りを「月」でいっぱいにした。月ちゃんがいなくなってから、あたしの地軸はぐらぐらになって、いつでも嵐が吹き荒れた。だけど目に見えるところに月があれば、少しは安心できる気がした。ペンやキーホルダーを集めても、心の空洞はいつまでも埋まらない。ただの気休めで子供だましだ。でも何もないよりはいい。
そんな収集癖が災いしたのか、ある時、同僚に声をかけられた。
「美波ちゃんてさ、三日月宗近好き?」
凛子ちゃん。あたしと同じ派遣の子。野暮ったくて少し太っていて、全体的にどんくさいし仕事もできない。みんなどこかで彼女を嫌っていて、ストレスのはけ口にしている。可哀想だとは思う。でも正直、この子のおかげで自分が槍玉にあげられずに済む。
「何それ」
聖域に土足で踏み込まれた気分だった。話しかけないでほしいオーラを出してもちっとも察してもらえない。話なんて聞きたくもないのに、ゲームがどうとか長々と語り始めた。美波ちゃんって月のモチーフいっぱい持ってるから、だから好きなのかなって思って。稚拙さの混じった話し方は優しくて、人の好さがにじみ出ていて、それがなおさら神経を逆撫でる。
「ねえ、お昼一緒に食べない?」
「……まだ仕事残ってるから」
あたしがきっぱりそう言っても、凛子ちゃんはしばらく傍を離れなかった。無視して仕事を再開させると、やっと凛子ちゃんはあたしの傍を離れた。
何かされたわけでもない。悪い子じゃなないし、憎まれるようなことなんて何もないのに、凛子ちゃんはなぜか嫌われているし、あたしもなぜか嫌ってしまう。理由がわからないのが余計にイライラする。凛子ちゃんはそういう負の感情を掻き立てる何かを持っている。たったそれだけのことで強く当たることに自己嫌悪はあるし、それがなおさら彼女への加虐心につながっているのかもしれない。と他人事みたいに思う。
飲み会で強いお酒を飲まされて、それからまるで記憶がなかった。あたしは座敷で横になっている。いっそ吐けたら楽なのに、何も出てこないからなおさら気持ち悪かった。
足腰が立たない。力の入れ方を忘れたみたいだ。もー、この子どうすんの? あんたが無理やり飲ませるからじゃん。誰か持ち帰ればぁ? なんでだよ。複数の笑い声。
あー、嫌だな、と思う。妙に冷静な自分に嫌気がさす。こんな人たちと明日からも働くのか。いっそ離れてしまいたいのにどこにも行けない。学歴も身寄りもスキルもないのに、ここを離れて誰が雇ってくれるんだろう。そんな不安でがんじがらめになって、身動きが取れない。家にいたころとまるで同じ。
あたしの時間はどこで止まってしまったんだろう。ふらふらになって店を出ながら、ぼんやり考えていた。月ちゃんがいなくなった時の小さいあたしは、まだ心の中にいて、時折寂しいと泣きさけぶ。寄りかかれるものなんて何もないのに。誰も助けてなんてくれないのに。
あたしが産んだあの子は、ちゃんと誰かに愛されて眠っているだろうか。
気が付くとあたしは一人ぼっちになっていた。みんなさっさと二次会に行ってしまった。駐車場の車止めにしゃがみ込む。今になって吐き気のピークが来て、無理やり口を引き結ぶ。
「美波ちゃん、ここにビニール袋あるよ」
不意に、誰かがあたしの背中をさすった。凛子ちゃんだった。のんびりした声を、初めて苛立たしいと思わなかった。そう思う余裕がなかっただけかもしれないけれど。
「吐けるなら吐いた方がいいんだよ。お水、飲める?」
黙って首を横に振る。液体なんて何も入る気がしない。「頑張って飲んで。吐くなら吐くでよくなるから」無理やりボトルを渡される。舌先で水を触るだけで、すぐに吐き気が押し寄せる。我慢できなくなって、ビニール袋に口を押し付けた。胃が痙攣しているのがわかる。胃酸のツンとしたにおいで余計に気持ち悪くなる。水をほんの少しだけ飲んで、吐いて、をしばらく繰り返した。冷や汗と涙で服がじっとり濡れた。すっきりすると寒いくらいの夜風が心地よかった。あたしの横に座っていた凛子ちゃんは、ふかふかした身体が温かかった。ごめん、とうわごとのように口からこぼれるたびに、力なくもたれかかるあたしの肩を、凛子ちゃんがそっと叩いた。
凛子ちゃんは、うちの方が近いから、とアパートにあたしをあげた。子供じみた勉強机の上に、アニメっぽい絵のキャラクターのポスターが貼られている。あれが三日月なんとかだろうか。視界がぼやけて文字が読めない。
いつの間にか凛子ちゃんちで寝入ってしまった。目が覚めた時の空が妙にきれいに見えた。気持ち悪さは随分マシになっている。水も一口、ちゃんと飲み込めるようになった。口の中がまだ変な味がして、勝手にシンクで口をゆすがせてもらう。
「気分、よくなった?」
凛子ちゃんが眠そうに目をこする。起こしてしまったみたいだ。「うん、だいぶ」ありがとう、という声に険がないことに、自分で驚く。
「……なんで助けてくれたの」
「ん?」
凛子ちゃんがのっそりと身体を起こす。「えーっとねえ」あくび交じりののんびりした声。
「だって、あんなところで一人にできないよ」
でもあたしはあんたにさんざん冷たくしたよね? 浮かんできた言葉は喉の内側から出ていかない。どれだけひどい仕打ちをされてもあたしは目をそらしていた。昔の自分を見ているみたいで、その属性を肩代わりしている凛子ちゃんを見ていたくなかった。嫌うことで、あたしはそっち側にいないのだと確認していたかった。そうすれば弱くて醜い自分を見なくて済むような気がした。
どうしてこの子は、ただの他人に、無償の優しさをふりまけるんだろう。
「……わたしね、美波ちゃんのことずっと気になってたんだよ」
あ、変な意味じゃなくてね、と凛子ちゃんは慌てて付け足す。そんな言い訳しなくてもいいのに。
あたしは返事の代わりに水を飲む。空っぽのお腹を水がじわりと象る。
「目が苦しそうだったから」
「……そんな目、してた?」
「うん」
きょとんとした顔の凛子ちゃんを見て、あたしもこの子に憐れまれていたのかもしれない、と思った。そんな風に思われた自分がすごく可哀想な、惨めなものみたいに思えた。
「ずっと何かと戦っているみたいだったよ」
ごめんねわたし気持ち悪いね、と凛子ちゃんが早口で言って、何かを誤魔化すみたいに笑った。この子にそんな自覚があったんだとあたしは驚いた。何をされてもへらへらしているのは、ただ能天気なだけだと思っていた。
自分を守るための笑顔は、唇の端がぴくりと歪む。
あたしは息を深く吸って、吐いた。「ちょっと外散歩しない?」声が少しだけ震えた。
夜の三時。どこかの家から赤ん坊の泣き声がする。この時間でも寝ない子供がいるのだ、ということを初めて知る。
あたしと凛子ちゃんは住宅街をゆっくりと歩いた。月は雲に隠れてしまっていてどこにも見えない。だけど風が涼しくて、いい夜だった。
「月がなくなると地球がどうなるか知ってる?」
二人分の影が、外灯に合わせて伸び縮みする。まだ足元はおぼつかなくて、時々ぐらっとなっては、凛子ちゃんが肩を支えてくれる。
「考えたことなかったなあ。……なんだかちょっと寂しそうだね」
そうかも、とあたしは少しだけ笑う。この質問をして、寂しい、と答えたのは凛子ちゃんだけだった。元彼には、そんなこと考えても仕方ないでしょ、と一蹴されたっけ。現実的に考えて、そんなことは起こらないんだから。そんな風に言った彼を賢いと思っていたし、あたしは愚かな質問をしたのだと恥ずかしくなった。そんな愚かな自分を好きでいてくれた彼を愛おしいとさえ思っていた。
たった五年前。だけどもう遠い昔の記憶だ。そうか、あの子はもう五歳か。名前も知らない子供のことが脳裏をよぎる。
「月がなくなると、地球はめちゃくちゃに荒れるんだってさ。なんかこう、引力がなくなったり、そういうので」
「へえー! すごいね、美波ちゃん頭いいんだね」
「そんなことないから」咄嗟に否定する。
月ちゃん。何度も空に投げた言葉を、あたしは手の中にぎゅっと握りこむ。
「姉が、教えてくれたの」
姉。そんな他人行儀な言葉で月ちゃんを呼んだのは、初めてだった。
「月子っていうの。大好きだった」
鼻のあたりがつんと熱くなる。
そっか、という声が静かに夜気に溶け込んでいく。
「だから月のモチーフだったんだね。わたし、無神経なこと言ったね。ごめん」
謝りたいのはこっちの方だった。だけど謝罪はうまく言葉にできなくて、その代わりにあたしは訥々と語った。
月ちゃんがいなくなったこと。バカな男に孕まされて、子供を里子に出したこと。
「……知らなかった。美波ちゃん、お母さんだったんだ」
「お母さんじゃないよ」
「え?」
「その子の『お母さん』は、別にいるの。あたしはただの、産んだ人」
あの時身体にできた傷が、ずきり、と痛んだ。凛子ちゃんは言葉を探しながら、あたしをじっと見ている。
「会えないの?」
「そういう仕組みだからね」
「寂しくない?」
「そんなこと、思っちゃいけないの。あの子はにはちゃんとした、選ばれた家族がいる。それで幸せならそれでいいんだよ」
精査された家族。経済的に安定していて、子供を慈しむ覚悟と素養があって、きちんとした生活と愛情を保証できる両親。あたしは何一つ手に入れられなかった、子供として当然の権利。
でも、だからこそ、これでいいんだ、と思う。思わなくちゃいけない。後ろ盾もない、歪に育ったあたしに、まともな愛を注げるはずないのだから。
「でもわたし、美波ちゃんは、ちゃんとお母さんだと思うよ」
その言葉をあたしはどう思ったのだろう。無責任だ、無神経だと思ったのか。優しいと思ったのか。それすらわからないまま、ぱた、と雫が地面に落ちた。
凛子ちゃんは明らかにうろたえた。ごめん、わたし本当余計なことばかり言っちゃうの、ごめんね。謝罪と自虐を繰り返しながらおろおろとあたしを慰めた。泣きたくなんかないのに、いくら涙を手の甲で拭っても、目から零れ落ちるものはあふれて止まらなかった。
しゃがみこんでしまったあたしの肩を、不意に、あたたかくてやわらかいものが包んだ。凛子ちゃんの肉付きのいい腕は、不思議なくらい心地よくて、なおさら苦しかった。あたしは凛子ちゃんにしがみつきながら、肩に顔を押し当てて、子供みたいに泣いた。
おかあさん、という言葉がひとりでに口から洩れた。
とんだ醜態を晒してしまった。
一度冷静になると、自己嫌悪は走り出して止まらなかった。凛子ちゃんのTシャツの肩はぐしゃぐしゃに濡れている。
「ごめんね」とあたしは目を伏せる。
「いいよ、気にしないで。どうせ安物だし」
凛子ちゃんの態度は痛ましいくらいに明るい。違うの、という声が情けなく震える。
「今更謝ったって仕方ないかもしれないけど。……ずっと冷たく当たって、ごめん」
なあんだ、という凛子ちゃんの声で、場の空気がふわりと弛緩した。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
顔立ちは全然違うはずなのに、ほんの少しだけ悲しそうな笑みは、月ちゃんと似ていた。
着替えるために一度家に戻った。明日もまた仕事がある。あの人たちと顔を合わせるのは嫌だけれど、一人で食べていかなくちゃいけないのだから、仕方ない。
電車はまだ動いていない。そう遠くはなかったので歩いて帰ろうと思ったけれど、心配だから、と凛子ちゃんがついてきた。深刻な打ち明け話のせいで空気はどこかぎくしゃくしていたが、なんでもない話をしているうちに、それも次第に解けた。
心配だ、という言葉を体現するみたいに、凛子ちゃんはずっと手をつないでいた。
帰路もあとわずかという頃になって、今度は凛子ちゃんの方が打ち明け話をした。いじめのせいで高校を辞めてしまったけれど、もう一度学校に通いなおして、助産師になりたいのだと言っていた。
「すごいね」という言葉はすんなり内側から出た。そんなことないよ、と凛子ちゃんは照れくさそうだ。美波ちゃんの話を聞いて、余計にがんばらなきゃって思ったんだよ。推し活のせいでお金なかなか貯められないんだけど。遠慮がちにはにかむ凛子ちゃんがひどくまぶしく見えた。
この子は自分の中に月があるのだ。
月ちゃんが欠けていつまでもぐらぐらだったあたしとは違う。自分を支えてくれるものが、ちゃんと自分の中にある。
よほど照れくさかったのか、凛子ちゃんは不自然なほど早々と話題を変えた。ほどなく家について、あたしたちは別れた。
翌日会社で会っても、昨晩のような打ち解けた感覚はなかなか戻らなかった。二人で話している時は楽しかったと思うのに、凛子ちゃんが誰かに疎まれているのを見ると、それに従わなければいけないような、それができない自分が責められるような気さえした。かといって、弱みを見せた以上、一方的にすげなくすることもできない。腹いせに子供のことをぶちまけられたらここにはいられなくなる。凛子ちゃんはしっかり親しげに話しかけてくるのに、あたしの対応はひどくぎこちないものだった。「仲いいんだね」と社員に揶揄われた時は恥ずかしくてたまらなかった。
ああ、あたしは弱いな。嫌になる。
一日が長くて仕方なかった。いつも以上に業務の時間が耐え難かった。お昼は一人で食べたし、後半には凛子ちゃんが話しかけることも少なくなっていた。それにほっとしている自分が悲しかった。
終業時間が来る。凛子ちゃんはまだ仕事が終わっていない。いつもならさっさと帰るところだけれど、あたしは帰りを先延ばしにしてだらだらと別の仕事をやる。凛子ちゃんが終わったそぶりを見せると、あたしはそそくさと退勤する。一緒に退勤するところを見られるのにはまだ抵抗がある。
少し離れたところで凛子ちゃんを待つ。「カレシでも待ってんの?」すれ違う社員が茶化してくるのをいつも通り無視する。こんなことをして、まるでストーカーみたいだな、と思う。じれったい気持ちで数分をやり過ごす。スマホについたストラップの月がしゃらりと揺れる。
やがて凛子ちゃんがうつむき加減に出てきた。疲れなのか、どんよりと暗い雰囲気をまとっている。あたしが声をかけると、凛子ちゃんはゆっくりと顔を上げた。つぶらな目が真ん丸に見開かれる。
一緒に帰ろ。台本を読み上げるようにあたしは言う。
「三日月なんとかの話、聞かせて」
あたしは月のストラップをぎゅっと握りしめる。
月のいなくなった夜 澄田ゆきこ @lakesnow
★で称える
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