月のいなくなった夜

澄田ゆきこ

1、

「もし月がなかったら、地球はどうなると思う?」

 あたしの一番最初の記憶は、月ちゃんの優しい声から始まる。あたしはまだ小さくて、月ちゃんの膝の上にすっぽり収まっている。えー、わかんない、とあたしは甘える。月ちゃんは頭がよくて、色々なことを私に教えてくれる。あたしがこんな風に安心して答えを待てるのは、月ちゃんの傍だけだった。

「夜が真っ暗になる?」

「それだけじゃないんだよ」

 月ちゃんは得意げに言って、薄い雑誌のページをめくる。きれいな白い指が、地球と月の写真をなぞる。

「月がなくなっちゃうとね、地球は一日が八時間になって、嵐と高波で不安定になるんだよ」

「なんで?」

 思いもしなかった答えに、あたしは頭をそらせて月ちゃんの顔を覗き込む。足をばたばたさせるあたしを宥めるように、月ちゃんは静かに話し始める。

「月には引力があるでしょう。地球の水を月が引っ張るから、それで潮の満ち引きが起こって、地軸を安定させたり、一日を二十四時間にしたりしてるんだって。月がなくなって、自転が早くなると、そのぶん風や波が激しくなって、地軸もぐらぐらになって……」

 怪談でも語るような口調。どんどん怖くなってきたあたしの体を、不意に月ちゃんがぎゅうっと抱きしめた。「怖くなっちゃった?」「ちょっと」強がる私を月ちゃんが撫でる。「大丈夫。月子はいなくならないよ」「本当?」「本当だよ」

 あたしは月ちゃんが大好きだった。頭がよくて優しくて、いつだって暖かかった。黒くて太いあたしの髪と違って、月ちゃんの髪は色が細くて、少し茶色ががっていて、きれいだった。それがお母さん譲りなんだ、ということをあたしは知っていた。月ちゃんは大人びていて、テレビに出ている人みたいにかわいくて、だけどいつも、少し悲しそうな顔をしていた。

「私が言いたかったのはね、月子と美波は、すごく関係が深い名前だってこと」

 その言葉が嬉しくて、あたしはぽっと胸が温かくなる。


 月ちゃんの言っていたことは、半分は嘘で、半分は本当だった。

 月ちゃんは突然あたしの前から消えてしまった。人が死ぬ、ということが、わかるかわからないかという頃だった。「あいつはバカだから命の価値もわかんねえんだよ」月ちゃんが自分の命を絶ってしまったことを、お父さんはそう言って笑った。お母さんはずっと前に出て行ってしまっていた。お父さんとふたりだけになった家の中は、月のなくなった地球の話そのものだった。毎日嵐が襲った。普通の嵐と違うのは、飛んでくるのが茶碗やコップやテレビのリモコンだってこと。投げるのがお父さんだってこと。お父さんは毎日お酒を飲んでお母さんや月ちゃんの悪口を言った。学校の先生は気の毒そうに遠巻きから眺めるだけで、あたしの家がどうなっているかなんてまるで興味なさそうだった。吹き荒んだ家の中であたしを守ってくれるものは、もうどこにもなかった。

 ねえ月ちゃん。

 あたしは毎晩、布団の中で呼びかけた。

 どうして行ってしまったの、月ちゃん。

 布団は涙を吸って重たくなるばかりだった。

 月ちゃんが死んでしまったと聞いた時、あたしは最初病気だったからだと思った。あの頃月ちゃんはいつも具合が悪そうで、台所に立つときも、決まって顔色が真っ青だった。それなのに、妙に体が熱くてぐったりしている日もあった。何か重い病気なのではないかと思って、何かが月ちゃんをさらってしまう気がして、あたしは毎日怖かった。

 ぐずぐずと泣いているのがばれると、お父さんが不機嫌になって怒鳴り込んでくる。顔やお腹を蹴られることもある。だからあたしは必死に枕に顔をうずめた。熱い呼気がこもるのを感じながら、あたしがうんと小さかった頃、お母さんがいなくなった時も、月ちゃんはこうやって泣いていたのかもしれないと思った。誰にも守られなくなって初めて、月ちゃんのことを守ってくれる人もずっといなかったんだと気づいた。


 月ちゃんの死の原因に気が付いたのは、あたしの年齢が月ちゃんに追いついた年だった。高校生になったあたしは、あの頃あんなに大人に見えていた月ちゃんよりも、ずっと子どもで、バカだった。甘い言葉だけを吐く年上の男に簡単にほだされて、「愛している証拠だから」「大丈夫だから」と避妊をしないことすら、言葉通りに受け取って飲み込んだ。男の人に意見するのが怖かった。愛しているという言葉を信じていたかった。

 生理が長いこと遅れていた。なんでもなかったにおいに気分が悪くなったり、そのくせ食欲が止まらなかったり、身体がどうにもおかしかった。もしかして、と思って試した検査薬には、はっきりと陽性のマークが浮かんだ。ぐちゃぐちゃした感情の波が一気に押し寄せた。

 まだ高校生なのにどうするの。産むのにも堕ろすのにもお金がかかかることは知っていたけれど、具体的にどのくらいかかるのかも、どうやって工面すればいいのかもわからない。父親に金の無心なんてできるわけがない。どれだけ罵られるのかは身をもって知っている。一縷の望みは、妊娠をしたと告げれば、彼がこの家から救い出してくれるかもしれないということだけだった。

 望みはすぐに絶たれた。妊娠の話をした途端、彼は音信普通になった。

 絶望という場所にはこんなに簡単に落ちるのだと知った。眠れない夜ばかりで神経が逆立った。「なんか胸でかくなったな」とニヤニヤしながら言ってきた父親にキレて、倍のエネルギーでキレ返されて、下っ腹を蹴られた。とっさにお腹を押さえた一方で、いっそもっと強い力で蹴ってくれればいいのにと思ってしまった自分に寒気がした。

 無理にでも身体を休めようと横になっても、余計なことばかりを考えた。胃がむかむかする。うんざりしながら寝返りをうった途端――不意に、かちり、と何かがつながった。

 月ちゃんの体調が悪かったこと。極端に暑がったり寒がったりしたこと。

 夜になるとベッドの下段から聞こえた、おぞましい物音。

 封じていた記憶が抉りだされて、あたしはたまらずトイレに駆け込んで、吐いた。

「なんだよ汚ねえな」

 空きっぱなしのドアの傍から父親の声がする。尻を蹴られて、歯と唇を便器にぶつける。

「あんたが月ちゃんを殺したんだろ」

 あ? と濁った声がする。怒気を肌で感じる。

 血の味が口の中に満ちていく。

「月ちゃんはあんたのせいで死んだんだ」

 次第にあいつの表情は、怒りから、嘲るものに変わる。

 何言ってんだ。とうとうイカれたのか。そんな昔のことなんて蒸し返すんじゃねえよ。下卑た笑いが降り注ぐ。あいつはバカだったんだよ、何度言えばわかるんだ、お前の脳みそじゃそんなこともわかんねえのか――

「あんたが夜何してたのか知らないとでも思った?」

 ぴしり、と余裕ぶった笑みが凍った。


 父親がいない隙をついて、あるだけのお金をも持って、お母さんの家に駆けこんだ。最後の希望だった。お母さんはあくまで父親とあたしを和解させようとした。いくら嫌だと言って泣いても聞いてもらえなかった。「結局あなたはお父さんに頼るしかないんだから」あきれたように言われた時、目の前がぷつんと真っ白になった。嵐、だ。

 気づいた時には、めちゃくちゃになった部屋の隅で、お母さんがあたしを怯えた目で見ていた。腕の中には泣きじゃくる小さな子供。お母さんと再婚相手の子だ。何も奪われず、まっとうに愛されて育った子。不意に憎々しい衝動が沸き上がってきて、それに自分で恐ろしくなって、やっと冷静になった。破れたカレンダーと倒れた食器、割れたガラス、何かがぶちまけられた壁。これはあたしがやったのだとしばらく信じられなかった。お母さんのふくよかな腕の中で慰められる子供がうらやましかった。

 あたしもああやってお母さんに慰められたかった。月ちゃんがそうしてくれたみたいに。

 それからお母さんはずっと優しくなった。腫れ物に触るよう、という方が近かったかもしれない。中絶には元彼の同意がいるとかで医者は了承してくれなかった。精神科と産婦人科に交互に通いながら、あとは死んだように床に転がっていた。暴れたせいでエネルギーが枯れてしまったのかもしれない。バイトは無断欠勤が続いてとうにクビになっていた。お母さんが憎いくせに甘えるしかない自分が許せなかった。

 子供は特別養子縁組に出すことになった。あたしなんかに育てられるより、まともな両親のもとにいた方がいいことはわかりきっていた。手続きのために、支援者の人と彼の家に行った時、彼の母親らしき人は、こちらを見るなりすごい剣幕で何かをまくし立てた。あの子はむしろ被害者なんです、と言う目ははっきりとあたしを見ていた。支援者の人が特別養子縁組のことを話すと、拍子抜けしたとばかりに「ああなんだ、そういうことですか」と書類をひったくった。後日送られてきた書類にはしっかりと彼の名前が書いてあった。とうとうあたしに会おうとしなかった彼には、びっくりするほど何の感情もわかなかった。

 あたしの生気はどこにもなかったのに、お腹はどんどん大きくなった。子宮の内側にだけこんなに生命力があふれているのがなんだかおかしかった。お腹と腰の鈍い痛みも、「まだ若いのに。バカなことをしたのね」という看護師の言葉も、お産の時の裂けるような感覚も、すべてが遠いものに思えた。お産が終わった次の日に自殺未遂をした。どうしてそんなことをしたのかと訊かれても、言葉は何も出てこなかった。

 里親に引き渡す前、たった一回だけ、子供を抱いた。小さくて柔らかくて、今にも消えてしまいそうなほど儚い。なぜだか急に、月ちゃんがしてくれた話を思い出した。月がなくなった地球の話。その語り口が怖くて、月ちゃんに身体を摺り寄せたこと。

 子供はほどなく里親の手に渡った。あたしたちを捨てたお母さんを憎んでいたくせに、あたし自身が子供を捨てた母親になるなんて、悪い冗談みたいだと思った。





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