第52話 未来へ
気づくと、ただただ真っ白な空間が続いていただけの場所から、今度は雲ひとつない青空へと投げ出されていた。
吸い込まれるように澄んだ水色を見て、再び陽の当たる場所に出てこれた喜びを噛みしめる。
空が、こんなにも美しいものだということを、ワシはこれまで気づかなかった。
そして――ワシの右手は、何十年も求め、想い続けた相手の暖かな手に包まれている。胸が一杯で、苦しくて。今にも泣き出しそうな気持ちを、必死に押さえた。
「幸せとは、こういう何気ない喜びを言うものなのですかね」
「そうですよ。大切な方と、ただ一緒に、毎日を過ごせるだけで、心は温まり、癒やされるものなのです。でも、人間とは厄介なもので。気位の高さや、嫉妬、欲望で眼が霞み、生きているうちに気づけないことも多い。なかなか、難しいものです」
静江は、きょろきょろと辺りを見回しながら、「二人」を探しているようだ。小動物のように忙しく動き回る様が面白くて、しばらく見つめてしまっていたが、彼女にすべてを任せてしまうのは申し訳ない。ワシも捜索に参加することにする。
「あら、あそこではありませんか。ほら、あの川沿いの」
「よく……見つけられましたね。静江さんは、二人とは初対面のはずでは」
ただ、思った疑問を口にしただけのはずだったのだが。静江は目を細め、しかめ面をしてこちらを見た。
「閻魔様が私の心意気を買って、賭け事を承諾してくださった後、私は再び魂だけ、現世に戻りました。手助けは一切できない約束でしたが、ずっと貴久様のお側で見守っていたのです」
つまり、ワシが自暴自棄になり、屋敷の中に籠もり、その後町へ出てからこれまでのことを、ずっと見られていたということか。
「ですから、秀明さんや、淑恵さんのことも、よく存じ上げております」
「そうだったのですか」
「ええ。貴久様が私の亡骸を、放置してお出かけになられ、そのまま戻らなかったことも」
「あっ」
たしかに人間というものは、身内の死を丁重に扱い、墓を立ててやったりすることは、知識としては知っていた。……だが、自分もそうせねばならない、というところまで、失意のどん底にいたワシは、思い至らなかった。
「……貴久様が放置された私の遺体は、その後さらに時間が経って、あの山が切り開かれることになってから発見されました。身元不明の遺体が、昔屋敷があった場所から出た、ということで大騒ぎになったのです。小さな町ですから」
「う……申し訳ない」
「この件に関しては、私は怒っておりますのよ。せめて土の中に埋めてくださったって、良かったではないですか。……まあ、もういいです。人間の習慣や文化は、私がこれから、沢山教えて差し上げますから」
まだ不満げな顔はしていたが、その頬には、紅がさしていた。繋がれたままの右手を、きゅっと握り返してくる彼女に、再びときめく自分がいる。
「さて、そんな話をしているうちに、お二人はベンチに座られたようですね。さあ、参りましょう」
切り替えの早い静江に戸惑いながらも、手をひかれるがまま、彼女の後についていった。
* * * * *
夢を見るように、新しい秀明の人生は視ていた。
だが、「武」を、自分の目で見たのはこれが初めてだ。
赤子のころから、その生命の灯火が尽きるまで見守っていた秀明は、人の幸せを優先し、自分の命をどんどんすり減らしていく、変わった人間であった。
それでも秀明は、いつも、明るく笑っていた。
その表情の奥底に、苦しみや、哀しみを抱えながら。
だが目の前にいる武は、かつて別れた妻に――本人にはそれはわからないだろうが――再び結婚を申し込んだ武は、幸せの絶頂にいるようだった。
「幸せそうで良かったですね」
静江は二人の仲睦まじい様子を、まるで自分の子どもの結婚を喜ぶ親のように、暖かな眼差しで見守っている。
「……そうですね。もう、私がかけた呪いもきちんと消えているようです。この先は、こんな力に惑わされることなく、自分たちの力で生きていけるでしょう」
他愛ない会話をしていた武とみさきだったが、どうやら武はみさきに伝えておきたい話があるらしい。
だが、その会話の内容は、みさきだけでなく、ワシの度肝を抜くものだった。
「……笑うなよ……俺さ――前世の記憶があるんだよ」
(前世の記憶だと? ワシは淑恵の記憶には干渉したが、秀明の魂には何もできていない。一体どういうことだ)
「貴久様、秀明さんにも術を施していたのですか?」
静江も疑問に思ったらしい。静江の問に対する回答として、ワシは首を左右に振った後、考え込んだ。
(「幸せを切り売りする力」を使い、
そのまま気になって話の続きを聞いてみる。なんだか仲睦まじい夫婦の会話を盗み聞きするようで、多少のいづらさはあるが。
「前世の記憶があるって言っても、生涯のすべてを覚えてるわけじゃねえんだ。最後の一年を、虫食いで覚えてるだけ。俺、前世の最後はがんで亡くなったんだ。結婚してて、奥さんと息子がいて。――でも最後の一年で覚えてるのは、ほとんど奥さんとの記憶だった」
すべての記憶が残っているわけではないのか。これはやはり、さらなる力が働いた、というより、使われた力の副作用の可能性が高い。
一人で納得した顔をしながら、続きが気になって、聞いてしまう。出歯亀もいいところだ、と、自分で自分に苦笑する。
「体もだんだん動かなくなってきててよ、辛くて、苦しくて……死ぬのが怖くて。それで、目の前にいる奥さんに当たり散らしてたんだ。
……甘えてたんだなあ、前世の俺は。奥さんは、俺の言動に怒りながらも、一生懸命世話してくれててな。でも本当に在宅療養の最後の方、俺は言っちゃあいけねえことを言ったんだよ、奥さんに」
武の声は、かすかに涙声に変わっていた。
「『お母さんは、もっと優しい人だと思ったのに』って、言っちゃったんだよ。それを聞いた奥さんは、すげえ落ち込んで。
俺、謝ろうとしたんだ。売り言葉に買い言葉だったって。俺はお前に感謝してる。全然怒ってなんかいねえよって――でも言えなかった。
そのあたりから、俺の意識は混濁して、言葉を発することができなくなっちゃったんだな」
「本当に、最後の最期に意識が戻った時――俺が見たのは、『お父さん、優しく出来なくて、ごめんなさい』って、俺に向かって泣いて謝り続ける、奥さんの姿だった。
後悔したよ――後悔してもしきれねえ。・・だから俺は、再び結婚して、奥さんを持って、幸せにするっていうことに――自信がなかったんだよなあ」
「でもさ、覚悟は決まったからさ。――うんと幸せにするから、今度は絶対に最後まで大事にするから。俺と結婚してくれるかなあ、みさきちゃん」
静江は、武の「今度は」という言葉を聞いて、ハッとしてこちらを見た。
「貴久様、『今度は』って……」
ワシは、静江の質問に、眉毛をハの字にして、笑って返した。
「そうですね。そういうことでしょうね。武は……秀明は。全部わかった上で、『妻』の心の奥底に眠る苦しみを、少しでも溶かしてやろうと、今の話をしたのでしょう。まったく、どこまでもお人好しなやつです」
ベンチで寄り添う二人は、本当に幸せそうで。
ワシは心のなかでつぶやいた。
(どうか、いつまでも幸せで)
「さあ、静江さん、私達も参りましょうか。これから私は、閻魔様に大目玉をくらいにいきませんと」
ふわり、と地面を離れ、またたく間に地上が遠くなっていく。だが、つないだ手は離れない。
「そうですねえ……」
一気に暗くなった静江の表情は、ワシと静江が一緒にいられる時間が、終わりを告げようとしていることを表していた。
「輪廻は承諾してくださいましたが、私と貴久様が、再び次の世で出会えるかはわかりません。そこまで閻魔様に頼み込むのは、さすがにやりすぎですからね」
静江は悲しそうにしながらも、涙をこらえて、気丈にふるまっている。ワシを待ち続けてくれた彼女は、この短い時間だけ、ワシに会うために何十年も待ってくれていたようなものだ。
「探しに行きます」
「生まれ変わったら、きっと見つかりません」
彼女の両肩に手を当て、いつも強気な彼女を真似た、真っ直ぐな眼差しでワシは言った。
「必ず、探しに行きます。だから、どうか、それまで元気で生きていて」
ワシの言葉に、静江は泣きながら微笑み、うんうん、と頷いた。涙で濡れた静江の頬をなで、寂しさに胸が張り裂けそうになりながら、両腕で静江を抱き寄せた。
しばらくその場で抱擁を交わした後。
二つの魂は、どこまでも続く、澄んだ青い空の向こう側へ旅立った。
再びこの空の下で巡り会えることを願いながら。
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