歪な残像
Jack Torrance
第1話 歪な残像
糊の利いたワイシャツに黒いスラックス。純白な白衣を颯爽と身に着けテイル。その表情は柔和だが真剣な顔付きだ。年の頃は40半ばを迎えている。その黒々とした潤沢に生えている頭髪。ゴルフで焼けたと思われる小麦色の皮膚。その見た目は10ばかし若く見えた。ダンカン ミッチェムは時計に目をやった。もう直あの少年がやって来る時間だな。毎週、火曜と金曜の16時半は15歳の患者、アーロン フォレスターが来院する予定になっている。その日は火曜だった。15分くらい時間に余裕があったので看護士や医療事務のスタッフが休憩する部屋に行きコーヒーメーカーから一杯コーヒーを注ぎ、そそくさと流し込み診察室に戻る。受付のスタッフに内線でアーロンを診察室に通すように連絡して電子カルテを開いていると診察室の扉をノックする音が聞こえた。「どうぞ」いつものようにアーロンが気乗りしない様子で「こんにちは、先生」と入って来た。「こんにちは、アーロン。調子はどんな感じだい?」アーロンは普段から大人しく口数も少なくダンカンはアーロンの治療に対して己の見立てと投薬する薬、薬の服薬量といつも細心の注意を払いアーロンの一言一句を聞き逃さずに治療に臨んでいた。アーロンは引き籠もりで不登校になって3年。父親のピートと母親のキャンディに連れられてダンカンのクリニックを受診したのは3ヶ月前だった。その前に心療内科や精神科などの他の医療機関は受診していなかった。「学校でいじめられた体験は?」「教師に虐待された体験は?」「対人関係でのストレスは?」「両親との関係は?」様々な質問を投げ掛けアーロンの真意を探ろうとした。しかし、アーロンは曖昧な言葉でダンカンの質問を躱し己の真意は絶対に吐露しなかった。いつも「別に」「そうじゃない」「違う」と僅かな単語を発するのみだった。ダンカンもここまで自分の気持ちを他言しない患者にはそうそう遭遇するものではなく半ば諸手を上げて白旗という状況に近かった。なので、アーロンの診察にはいつも慎重を期していた。アーロンが腰を下ろし言った。「世間一般的には良くない兆候の夢を見ました。僕がある場所に入る夢です。僕はそれがお告げだなんて思っていません。何故なら、それを僕は渇望していると感じているからなんです。先生に今日は相談があります」こんなに積極的に話し出すアーロンは初見だった。多少、面食らったが冷静を装いPCに向かってアーロンの一言一言をタイピングしていく。「アーロン、君からそんなに積極的に喋るのは初めての事だね。君が見た夢。君が渇望している事とは何だね?私に詳しく話してくれるかい?」ダンカンはアーロンを焦らせないようにゆっくりとした口調で尋ねた。「はい、僕にはもう時間がありません。包み隠さずにお話します」ダンカンにはアーロンの言っている事の意図が全く掴めなかった。夢、渇望、時間が無い。チンプンカンプンだった。アーロンは長い引き籠もりで統合失調症のレヴェルまで病状は進行しているのか?「アーロン、私に解るように説明してくれるかい。今、言っている事は君が不登校になり引き籠もった原因と関係があるのかい?」「はい」アーロンは、そう言って15秒くらいの静寂を挟んだ後に雄弁に語り出した。「無知なのに理知を装っている教師。実は破廉恥なのに清楚を装っている売女。高学歴で博識がありインテリぶっているのにマスターベーションに耽る男。莫大な富を所有しているのにその男にとっては小銭くらいの微々たる額の寄付しかせずに自己顕示欲を示す資産家。挙げれば切りが無いくらいの世間体を繕い自分はお前よりも優秀な人間だと見せつける輩達。それは、時に滑稽で偽善者達の烏合の衆。その烏合の衆どもが僕には歪な残像に映るんです」ダンカンはタイピンぐしながら興味深く聞いていた。「アーロン、君の言うその歪な残像。君の言わんとするところは解らないでもないけれども、そもそも人間とは人に見せたくない陰が存在していて、それを人に悟られないように世間体を繕っているのではないだろうかね?そして、人間には人から崇められたいという自己顕示欲というものも持ち合わせている生き物なのではなかろうかね?」ダンカンは諭すようにアーロンに言った。「だから、僕はそういった輩達に鼻持ちならない高慢さを感じて虫唾が走るんです」アーロンは少し苛立たしげに言った。「なるほど。君はそういった輩達や俗世間から自分を切り離す為に家に籠もって自分を隔離しているという訳なんだね」ダンカンは合点がいったようにアーロンに尋ねた。「ククククク」アーロンが含み笑いした。「アーロン、何がそんなにおかしいのかね?」「先生、歪な残像に見えるのは奴らじゃなくて、寧ろ僕なのかもしれません。僕の心が歪んでいるんだと思います。僕が俗世間との隔たりを保つ為に家に籠もっている訳じゃありません。僕が奴らを隔離してやっているんです。僕は奴らを殺してやりたいという欲求を渇望しています。その一線を超えない為に僕は家から出ないようにしたのです。3ヶ月前から僕はこのクリニックに親から連れて来られました。先生、僕にはあなたも歪な残像に映るのです。今日、僕はその渇望している欲求を実行に移す夢を見ました。その夢はリアリティでマスターベーションやセックスよりも官能的で刺激的でした。そして、僕は少年刑務所に収監されるという結末で目が覚めました。明日、僕は父の拳銃とサヴァイヴァルナイフを持ってその歪な者達を抹消しようと思っています。疼くんです。この手が。先生、僕と先生の間には守秘義務が発生するんでしょ?」アーロンは不敵な笑みを浮かべながらオルガズムに到達した際の恍惚な表情をダンカンに見せつけて口を閉じた。ダンカンは愕然とした。アーロンの言っている事はフロイトの理論で言うところの快感原則の彼岸ではなかろうか。不快な緊張によって齎される心的ストレス。その緊張を減退させ、不快を回避して、快感を生じさせ望んだ結末に辿り着くように自己をコントロールしようとする。しかし、有機体が自己保存するという観点からすれば、快感原則は適切ではなく、むしろ危険なものだ。なので、自己保存の欲動によって自我の現実原則が快感原則に入れ替わる。心の欲動は、早期の状態を回復しようとする強迫であるとして、一切の生命体は最終的に死を目的としているのではないかというのがフロイトの説だ。アーロンの例は顕著な例ではなかろうか。アーロンのサディズムが死にタイする欲動が自分ではなく嫌悪感を抱く人物へと対象が向けられたものではなかろうか。「アーロン、守秘義務というのは君が言っている殺人を仄めかすような事案には該当しないんだよ。児童相談所に連絡して君の適切な治療が行える施設を探して君が殺人という衝動を取り除くまで隔離しなければならない。理解してくれるね」アーロンは身じろぎせずにダンカンの言う事を黙って聞いていた。アーロンは児童相談所に通告され然るべき処置が執られた。人里離れた精神療養所。口髭を蓄えオメガの腕時計をしたいかにも鼻持ちならない高慢な医師。俺がお前の治療をしてやっているんだぞとその医師はオーラを発していた。「アーロン、今日の調子はどうかね?」「別に」「そんな反抗的な態度じゃここは出られんぞ。もっと強い薬を与えるとするか」ニタニタと笑いながら医師は言った。アーロンは医師が目を離した間隙に医師の机に置いてあった万年筆を掴み医師の頸動脈目掛けて突き刺した。首から血飛沫が吹き出しアーロンを赤く染めていく。「ヒヒヒヒヒ。おい、藪医者。お前にはお仕置きと言う強い薬が必要だったから投与量限界に投薬してやったぞ。お前の歪んだ心を僕が矯正してやったんだ。有り難く思え。僕に感謝しろよ」
歪な残像 Jack Torrance @John-D
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