大都海

玉乃輔

第1話 捨てられた空き缶

 黄昏の刻、男は相も変わらずに一人輝ける街を背に駅へと向かっていた。誰も彼のことは識別できない。それどころか、この街には誰も他人を識別することはできない。解放された男は、そぞろに人の流れに乗って歩いておったが、前方の人間が何かを迷惑そうに避けているので、男もそれに従って避けようとした。その時、男はみなが避けている何かに一瞥を遣った。そこには学生と思しき者どもがあって、その中の若者と目が合う。男は目を離し、そのままそぞろに歩こうとするが、そのような流れを滞らせる者どもに無性に腹が立った。男はその後どっと疲れに襲われて、流れに頑張って抗い、路のわきへと出た。縁石に腰を掛け、空を見上げると、そこには四角の空があり、何か天上の君が自分を見下ろしているかのようであった。

 駅の目の前には人があふれていた。ここは新宿だから、様々な地域から人がやってくるだろう。中央総武緩行線で千葉県からきている人、埼京線で埼玉県からきている人、住んでいる地域もまた彼らは異なる。年齢だって、いかにも不良な若者からバリバリのサラリーマンまでさまざまである。みな人には無関心で他様に見向きもせず、虚ろなまなざしで歩き去っていく。

 一つだけ注意していただきたいのは、この男は「都会に疲れた」というわけではない。だから、男にとって、東京での彼の現実を投げ捨てて田舎に帰郷することは逃げであるということを意味してた。かといって、男はこの「都会の現実」に対して、これからも勇敢に立ち向かっていく自信もなかった。とにもかくにも男は自分の精神衛生上田舎を心の中では馬鹿にし、しかし都会ではやっていける自信もないという、自家撞着をしていた。

 男はやっと立ち上がり、歩き出す。先ほどは「帰宅ラッシュ」であったから、人であふれかえっていたが、今は相対的に人が少なくなった。ふと、男の頭の中に「銀色の缶」が思い浮かび、後から「ビール」という文字が思い浮んだ。コンビニへ寄りビールを購入する。道路脇でプルタブをあげると、缶は間欠泉のように音をたてる。手に持っている麦酒は、彼にとって楽園の泉かのように見えた。すかさずポケットから煙草を取り出し、火をつける。モクモクと上がる煙は、ふわふわとしながら宙に舞い、四角い空を、手の届かない高いところまで泳いでいく。そして見えなくなって、男ははかなさを覚えた。

 近くの学生集団が、将来について語っている。学生はおそらく未成年だろう。大学生になると急に大人になった気がした。お酒だって煙草だって嗜むし、免許を持っていれば車だって運転する。おおよそ社会的責任もほとんどなく、自由な時間が多い。大学生という時間をもっと有効活用すべきであったと、いまさらながら後悔する。後悔先に立たず。学生が手に持っているのは、甘い缶チューハイ。煙草も吸っているが、慣れてはいないようだ。男は空っぽの優越感に浸った。そして、男のかつての姿を思い出させられた。

 男は、空を見上げ、いつから好むようになったのかわからない麦酒を飲み干して、空っぽの缶をそっと道端に置いた。

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大都海 玉乃輔 @kanayun

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