まえがき
この文章は、胎児の心停止が判明してから妻が出産する前に、捨てアカウントで別所に書きなぐったものです。
お見苦しい文章ですが、心の整理を付けたおはなしを書く前にはこのくらい困惑していたということを残しておこうと思います。
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どうしようもないことがあった。
それは悲しいとされることだけれど、実際どうしようもないので自分は落ち着いている。大丈夫。あまりにも若すぎたとただ思うだけ。
そもそも大変なのは自分ではない。妻の方だ。私はわずかながら支えることしかできない。さっき手を滑らせて水出し麦茶のガラス瓶を割ってしまったけれど、さいわい寝室の妻を起こすことはなかったようだ。そう、だから大丈夫……
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もともと結婚するつもりなんて更々なかった。そもそも恋愛というイベントそのものが自分には無縁だと思っていた。
一時期アセクシュアルという自己認識を持とうとしてみたこともあるけれど、そういうわけではなかった。ただ恋愛感情は薄い方で、かつて「俺の嫁」というオタク用語が流行っていた頃は「いうてお前ら二次元とはいえど、そんなに強い独占欲を特定の誰かに向けることはできるんじゃないか」といくぶんか羨ましく感じていたものだ。
綾波レイのフィギュアで部屋を埋めていた友達に対して惣流アスカ派を気取っていたような気もするが、実際のところアスカ萌えというよりは「負けてらんないのよォと叫び藻掻きながら量産機に敗れる旧劇のアスカ」のシーン萌えだった。ちょっと今見返す気力はないが、命の煌めきを爆発させた物語表現として最高峰だと思う。
もう一つ自分にとって特別なアニメシーンがあって、それは「見えるんだよネと企画している学園祭の未来予想図をたかちゃんに伝えるまなび」のシーンで、いやほんとこれも凄い物語表現で、まなびストレート!は初任給で箱買うくらいには思い入れのあるアニメでラブライブやガルパンと並べて廃校三部作と勝手に呼んでいるのだけれど、ともかくこのシーンは特別で、近くて遠い未来の学園祭を精緻に幻視しているまなびの眼差しをたかちゃんが垣間見るという情景をそれとはまったく関係のない校庭の空気感を描写することで去来させるという離れ業をやっていて、学園祭当日まなびは運営テントにいてみんなの活躍を目の当たりにできないというところまでセットで最っ高なんですよね。
……ああ、違う。今はこんなオタ語りに逃避しているべき時ではなくて。非日常的なイベントのリファレンスがそんなところにしかなくて。なんだっけ、なぜ結婚するつもりがなかったかって、それはひとえに命の責任を負うことが怖かったからだ。医学部に進学する同級生を横目にしながら自分にはまず選べない道だと思っていたし、防衛系の受託をしている先輩の話を聞きながら同じプロジェクトに突っ込まれないようにと怯えていたし、転職した日にエレベータで聞いた「まぁうちのサービスが障害起こしても人が死ぬことはないので気楽っすよね」「いやそれは想像力足りてないだけでピタゴラスイッチ的にもしかしたら……」という雑談がひどく耳に残っていて。ああ、違う。こういう話でもなくて……
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妻との出会いは私にとって、空から女の子が降ってきたようだった。
わりと都合が良すぎる展開で、巻き込まれ鈍感主人公をロールしていなかったといえば嘘になる。自分の人生に恋愛ルートは実装されていないはずだったのに、大型パッチが適用されてアルバムモードが解除されてイベントCGが追加されていった。
ある日、子持ちの結婚を前提としたお付き合いを考えてほしいと伝えられ、いよいよ聞こえないフリもできずパニックに陥った自分は、結婚すると趣味の創作をする時間がなくなるかもしれないというクソみたいな理由で自己完結したのち一度お断りをした。たいがい創作は人生の岐路に立った時の言い訳に使われてきた。しかしろくに作っているわけでもないクソなので、俺の頭の中には腐海が広がっている。
俺の考えた最高のシーンを背負いながらそこまで辿りつくドラマを組みあげられずに構想止まりなまま放置された無数のキャラクターたちの墓場である。たいがい俺の考えるキャラクターはろくな目に合わない。幸せにしたい気持ちもなくはないのだが、彼らの世界はどうしても滅んでしまうので必然的にどうしようもない終わりを迎えることになる。だが、そこまで描けた試しがほとんどないため、叫び藻掻きながらも終わりを迎えられただけ幸せなのではないか、そもそも生まれることすら叶わなかったキャラクターたちはもはや、などと考えるだけ考える俺はクソである。
……ああ、違う。こういう益体のない自己嫌悪に逃避するべきときでもなくて。なんだっけ、じゃあどうして結婚する気になったかって、それはメイカーフェアで知育玩具に目を輝かせていた彼女を、そういう近くて遠い未来の幻視を垣間見させてもらって、それでこの人が子を育てる姿を傍で見てみたいなってそう感じたからだ。
それは悪くない気がした。とくに世界が滅んだりしないつまらないエンディング後のありふれた日常も悪くない気がしたんだ。
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絵本のテキストを書いてほしい、と妻に冗談めかして言われた。生まれてくる子へのプレゼントにしたい、と。
そもそも私にとって絵本の記憶といえば、様々な地獄が事細かに描かれた絵本が怖かったとかそのくらいで、どういうお話が一般的なのかもよく分かっていない。絵本専門士の資格を持っている友人にアドバイスの一つでももらえばよかったのだが、その友人は自分の創作物をいつもわりと楽しんでくれる奇特もとい貴重すぎる存在なのでこっそり作って驚かせようという欲が出て、ゴールデンウィークにえいやで書いてみた。
これがまぁおよそ絵本には似つかわしくないと妻にツッコミをもらうくらいにはろくでもない話になった。大筋としては、主人公は身に余る夢を抱くも周りの期待に潰れて引きこもってしまい、とあるストーカーがその夢の残滓を勝手にかき集めて歪なナニカを作りあげようとするもののそれも叶わず、しかしその姿に感化された主人公は新たな挑戦を始めてそれもまぁ叶うかどうかはよく分からないしかつて抱いた夢とはだいぶ形は変わってしまったのだけど、これからは地道に頑張っていくよという感じだ。
いわんことはない。こんなものは新しく生まれていくる命への贈り物ではない。自分自身の半生をめいっぱい盛っただけである。読むときも書くときも主人公に自己を投影するようなことだけはすまいという謎の矜持はどこにいってしまったのか。趣味ということを言い訳に、ずっと自分だけを対象にした物語を書いてきた。それがようやく自分以外の読者を想定した途端に、できそこないの自分ができそこないの物語になってしまった。そんなんだから俺は自分語りしかできないクソオタのままで……
開き直って言い訳をすると。今年は仕事の頑張りどころという気持ちがある。自分は研究開発まわりで日銭を稼いでいるのだけれど、研究開発というのは多産かどうかはともかく多死なのは間違いない。人事を尽くしても実を結ばないのが普通で、それはもうどうしようもない天命なのだけれど、たいがいの現場はしょうもないことで挫折する。
だってねぇ私たちはそうだったでしょう。最近あちらで華々しく公開されて話題になっているやつ、うちはかなり早い段階であの人たちが手を付けていて、あのまま取り組めていればもっとずっと良いものになってたかもしれないのに。炎上案件に駆りだされたまま帰ってこれなくて……中間報告をにこやかに受け取った偉い人が理解できなくて……技術マウントの取り合いで自壊してしまって……そんなつまらないことで魂を込めた研究開発はたやすく潰えてしまう。それは悔しいから、せめて死ぬなら産まれて世に価値を問うてからにしてほしいから、次こそは、次こそは、って踏ん張っているつもり。みんな散り散りになってしまったけれど、きっと、どこかで。
でも、ときどき、無性に切なくなる。コンテナを立てては潰し、機械学習モデルを学習させては潰し、マルチエージェントシミュレーションをぶん回しては潰し、過ぎた道を振り返れば墓標ばかりで。人工知能なんてキャッチコピーを冷笑しながらそのブームの恩恵に預かってきたけれど、俺が潰した数多の計算リソースに魂は宿ってなかったと本当に言いきれるのだろうか? いつか彼らに復讐されるのではないだろうか? その日が来ることを自分は願っているのではないだろうか?
作りだした命とは程遠いものたちがせめて未来につながるものであったならばと願うのはひどく無責任な祈りではないだろうか。
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妻がお手洗いに起きたので、ガラス瓶を割ってしまったことを謝る。
笑いながら怪我がなくて良かったと気遣われ、本当に気丈な人だと思う。
昨日も私含め親戚一同をがっかりさせてごめんなさいとばかり気にしていて、そんなことどうだっていいのに。あなたと二人で健やかに生きていければ、それで。
もっと早くリングフィットアドベンチャーを始めるべきだった。このご時世に引きこもりが過ぎてただでさえない体力が消失している。こんな握力では首の据わらない赤子をしっかり抱きかかえられることすらできない。こんなことでは……
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最近、ベルセルクを読んでいる。作者の訃報に触れてからというもの、アプリの無料回復で毎日少しずつ読んでいる。このマンガには主人公の赤子と思しき魔物が出てくる。それをほんの少しだけ羨ましいと思う。
赤子という存在は象徴的だ。それは祝福とともに恐怖も備えていて、ホラーゲームなんかでもよく出てくる。DEAD SPACEの赤ちゃん爆弾とか、DRAG ON DRAGOONの巨大赤さんとか。まぁ飛び抜けてセンスが良かったのはDEATH STRANDINGのベイビー装備だと思う。
それらはフィクションならではの救いだ。人として育たなかったけれどなにか物語に影響を及ぼすものであってほしい。べつに悪しきものだって構わない。死後も存在していてほしい。たとえ不意に亡くなったとしても預かり知らぬ異世界で元気にやっていてほしい。黄泉の国はあって、けれどけっして振り返ってはならない。
量子状態を拡大解釈して箱を開けるまで生きているか死んでいるか分からないシュレディンガーの猫がいるとして、そもそも始めから生きていたのかどうかもよく分からない。うみねこのなく頃にの後半戦で、とっくに終わった事件を語りつづけるため際限なく増えていった魔女の世界の魅力的な住人たちは幻想でしかない。そもそも生きていたって、自分以外のことはよく分からない。なんとなれば自分の感情さえよく分からない。
私がまっとうに生きているならば、悲しまなければいけない気がする。深い喪失感を抱かなければいけない気さえする。こんな文章を認めて冷静に誤字脱字を修正しているのはおよそ人らしくない気がする。いや、すごく一般的な受容の過程を辿っているのだろう。これも供養になるのだろうか。いや、ならないだろう。自分の気持ちを整理ようとして、余計にとっ散らかってるだけだ。じゃあなんでこの文章をネットに投稿しようかなんて自分は考えているのか。
結局のところ人は自分が経験したことしか書けない。逆に、誰だってその気になれば人生で一回は大きな物語を書くことができる。そんな言説が大嫌いで創作を志したのに。
むかしむかし書こうとした物語の一つに、様々な世界の最後の生き残りが自らの世界の復活をかけて戦いあうというものがある。その戦いの裏には、植物状態になった姉の夢の世界で暮らす水子のキャラクターがいた。そう、なんというか、存在しそこねた者たちの壮大な復讐を書きたかった。今なら書けるのだろうか。書ききってしまえるのだろうか。
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昨年、出生前診断について調べたことがある。
そのとき自分の中でこう結論づけた。侵されざる命の線引きをしないといけないのであれば、それはへその緒が切れる瞬間であって、それまではいうなれば母体の臓器の一種である、と。
結局そんな線引きは必要なかった。昨年、初めの子は鼓動が聞こえる前に去ってしまったから。
心臓が機能しなかったのであれば魂は宿らなかったはずである。かつて旅行中に見かけた数多の水子地蔵たちを脳裏に過ぎらせながら、ときどき自分に言い聞かせた。
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よく動く子だった。検診のたび先生にもそう言われていた。今度は鼓動もしっかりしていた。
妻と一字ずつ持ち寄って名前をつけた。思いのほか戦国武将みたいな名前になって逞しそうだった。
声が聞こえていたのかどうかは分からない。Amazonプライムデーで買ったEcho Dotが偶然にも流していたジブリ曲セットのひこうき雲が聞こえていたのかどうかも分からない。
かつて私もいたはずの、その場所はどんなふうだったのだろうか。快・不快すら分化する前の感情はあったのだろうか。少なくとも魂は宿っていたはずである。見知らぬ空に憧れることはなかっただろうけれど。
二百三十あまりの日々がせめて苦しみのない安らぎに満ちたものであればと祈っている。けれど最期には羊水のなかで叫び藻掻くくらいのことができるようになっていたのであればとも願っている。確かめることは永遠に叶わず、水天宮で執り行った安産祈願と同じように、私たちは命について祈り願うことしかできない。
そして妻は来週に出産をしなければならない。促進剤で通常と同じように陣痛から始めるそうだ。なぜ子を亡くしてそんな辛い思いをしないといけないのか。コロナ禍なのでオンライン講習で分娩の流れについては聞いていた。コロナ禍なので立ち会いはできない。コロナ禍なので妻は週半分在宅勤務だった。おかげでなんとか仕事を続けられるねと言っていた。私も在宅勤務で手狭になり、新しく家を建てた。もともと借金をするつもりなんて更々なかった。いざローンを組んでみると悪くないキャッシュフローになった気がした。妻と出会ってから想定外のイベントばかり起こっている。妊婦がこんなに大変なこともよく分かっていなかった。その頑張りが報われてほしかった。
◆
私は妻のようにお腹を痛めることはなく無責任ながら、ずっと実感はなかった。今も実感はない。顔を見れば実感が湧くと期待していた。前回は病理検査に出す前の形と向きあう勇気がなかった。今度は顔を見て抱えて名前を呼べるのだろうか。そんなことをしても届くことはない。魂は空に。
ちっさなミネくんのおっきなひみつ 夢霧もろは @moroha
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