世界のひみつ

藤光

世界のひみつ

 おなかからはいのちの音が聞こえてくる。ごおおとかずううとか。なにかが吸いこまれるような、あるいは吐き出されるようなふしぎな感覚。わたしは、なめらかな姉のお腹に耳をあててその気配を探る。真似をしてわたしの小さな姪が母親のお腹に耳をあてている。

 ぽこっ。

「あ」

「げんきに蹴ったね」

 小さな姪とふたり顔を見合わせてくすくすと笑う。

 頬に感じるいのちの波動。じんわりと、温かさにくるまれた感情がわたしの胸のなかに広がる。いいなあ、赤ちゃん。そっと姉のお腹をなでた。


「もうそろそろあなたもね」


 姉がいう。そうだ、やがてわたしも――。


 いちばんに気づいたのはわたしで、それをさいしょに読んだのもわたしだった。

 わたしの家は花で埋めつくされている。

 サクラ、ネモフィラ、クレマチス――。ナデシコ、タンポポ、チューリップ。

 美しく咲いたバラの絡まる玄関のポストに突っ込まれたそれを取り出すと、ばね仕掛けで紙を留めている硬い板だった。


「回覧板ね」

「かいらんばん?」


 ご近所を回覧してお互いに連絡事項を共有するための道具だよ、読んでみてと姉がいった。


「注意しましょう!――だって」


 回覧版に挟み込まれた紙には、大きな赤い文字で『注意しましょう!』と書かれていた。


「いま世界中で森林伐採と、異常気象と、感染症の拡大が収まらなくなって、製紙工場がストップするという噂が流れています。でも、そんなのはすべてデマです、うそです。製紙工場はストップしませんし、紙はなくなりません。だから、トイレットペーパーを買い占めるのはやめましょう 秘密警察」


 そう教えてあげると、まいにち両手で抱えるほどトイレットペーパーを買ってきていた母は、ほうっと太いため息をついた。


「よかった。こうなる前にたくさん買っておいて、ほんとうによかったわ」


 トイレ脇の物置には、トイレットペーパーが山のように積まれている。これだけあれば安心だ。何か月も、何年もわたしたちはトイレットペーパーのために、頭を悩ませることはないだろう。ただ、心配のなのは離れたところに住む祖母がトイレットペーパーを蓄えているかどうかだった。それに読み終えた回覧板はつぎの家に回さなければならない。つぎは、祖母の家の順番なのだ。


「回覧板とトイレットペーパーをもって、おばあちゃんの家へ届けてくれる?」


 祖母の家は森を抜けて、丘を越えて、ずっと道を歩いていった先にある。姉はおなかが大きいし、母は足が悪い。祖母の家に行けるのはわたししかいない。


「いやよ」


 わたしが嫌がると、母も姉も困ってしまった。まだ話のよく分からない小さな姪までかわいい眉根を曇らせている。


「お願い」

「――そうだ。あなたも大きくなったし、おばあちゃんからをいただけるよう、お手紙を書きましょう」

「ほんとに?」

「ええ。だからおばあちゃんへ届けものしてくれるわね」

「いいわ!」


 母も、姉もじぶんの宝石を持っているのに、まだわたしにはなかった。


 ――まだ、あなたは小さいからね。


 やっと、おとずれたわたしの番。母や姉のようにわたしの家族を作りたい。わたしは喜んで祖母の家へ届けものをする準備を整えた。トイレットペーパー、回覧板、祖母へのお手紙。


「よく聞きなさい。おばあちゃんの家にゆく途中、に出会うことがあるかもしれない」

「草の人から話しかけられても、決して応えてはいけない。どこか知らないところへ連れて行かれてしまうよ」

「道はまっすぐ続いているから、まっすぐたどりなさい。分かれ道に行き当たってもまっすぐ道を進むのよ」

 

 母と姉は、口々にそういいながら、出発するわたしの世話を焼いてくれた。ふたりとも少し寂しいかったのだろう。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 家族三人に見送られてわたしは家をでた。

 梅雨空の厚い雲が割れ、いっぱいの日差しが道を輝かせる朝だった。道は左右に揺れながらもおおむねまっすぐに続いていた。一面の草原がつづく。たっぷりと雨を受けた雑草たちは、思い思いの方向に伸びはじめて緑が鮮やかだ。わたしは手に持った荷物をときどき確認しながらどんどん進んでいった。


 少し様子が変だ。行けども行けども森がみえてこない。祖母の家は、「森を抜けて、丘を越えて、ずっと道を歩いていった先にある」はずなのに。目の前にはわずかな起伏がつづく草の平原が見渡す限り広がっていた。やがて、分かれ道にでた。


「まっすぐ道を進むのよね」


 まっすぐつづく道は迷いようがない。休憩しようと、ちょうど道の分かれ目にある木の切り株に腰を下ろして気がついた。ここには草に埋もれるようにして、一面に木の切り株が広がっている。数えきれない。ずっと道の先へつづいている。やはりここは分かれ目だ。草原と森との分かれ目だったんだ。いまは、切りひらかれてなにもないけれど、ここから道は森に入るんだ。


 視線をもどすと、さっきまでだれもいなかったはずの、まっすぐでないほうの分かれ道にが立っていて、わたしはぎょっとした。背はわたしより頭ひとつ分くらい高く、顔は鮮やかな緑色で、目は瞳がなく、深い藍色をたたえている。その人は手足が長く、とてもやせていた。


 ――草の人だ。


 わたしは目を合わせないように立ち上がった。草の人はじっとこちらは見ていた。はや足でその場を立ち去る。消えてしまった森をぬけてゆく道へ。しばらくいって振り返ると、草の人はまだ同じ場所に立っていてこちらを見ていた。わたしは走り出した。


 太陽が空のてっぺんに差しかかるころ、祖母の家にたどりついた。

 祖母の家も、わたしの家と同じで、花に取り囲まれている。ただひとつちがうのは、ここで咲いている花はコスモとだけということ。赤、白、紫。濃いのや、薄いのや、まだらのコスモスに覆われている。わたしがひとりでやってきたことに祖母は驚き、いっしょに住む叔母と従妹たちはよろこんで家に迎え入れてくれた。


「回覧板を届けにきたよ」


 そして、回覧板とトイレットペーパーとを祖母に手渡した。


「おやおや、ありがとう。秘密警察のいうとおり、紙が品薄になって困っていたんだ」


 わたしは、叔母と従妹たちが作ってくれたお昼ごはんを食べてから家に戻ることになった。おいしいごはんと楽しいおしゃべりの時間が長いなと感じられるようになったころ、そっと母からあずかったお手紙を祖母に手渡した。ひと目見た祖母は「おいで」とわたしの手をひいて地下室へ降りた。


 祖母は、ひんやりとした小さな部屋にわたしを立たせると、あたまのてっぺんからつま先まで見渡した。ひょろりと棒なような手足、薄い胸、居心地の悪くなったわたしはじぶんの身体を抱きしめたくなった。


「ふん。少し早いようだけどいいだろう」


 そういって祖母は、小さなタンスの小さな引き出しをつぎつぎと開けてゆき、そのなかから透明の箱を取りだした。


「おまえのだよ」


 これは、おまえだけの宝石だ。これからのおまえ自身も同然のものだからね――祖母はわたしの目を覗きこみながら念を押すようにいった。


「だれからどんなに話しかけられても、母親いがい、だれにも見せてはいけないし、渡してもいけないよ」


 これは世界のひみつなんだから――。


 うきうきとして受け取った透明の箱を、明りとり窓に透かして見ると、小さな小さな箱のなかに豆粒のようながいた。それは黒くて、ねじれていて、どこに頭があるのかわからず、いくつもの曲がった足をうごめかしていた。それを見た瞬間、耳の奥に頭から血の気が引いてゆく音が聞こえた。


 ――いや。こんなのだ。


 それから祖母の家を出るまでのことはよく覚えていない。ずっとわたしの宝石のことが頭を離れなかったからだ。こんなに醜いものがわたし自身も同然であってよいわけがない。こんなの、いやだ。


 家を戻らなければならない時間になると、叔母や従妹たちがいろいろとおみやげを持たせようとしてくれたけれど、すべて断り、ポケットに宝石の箱ひとつ持っただけで祖母の家を出た。


 むせかえるようなコスモスの花々の向こうから、祖母が家へ帰るわたしを見送ってくれたのに、わたしは「ありがとう」も「さようなら」も言えなかった。わたしは、わたしのことが可哀そうで胸がいっぱいだったから。


 丘を下り、いまはなくなってしまった森を抜けると、やがて分かれ道に差し掛かった。けさ、わたしが腰を下ろした木の切り株に草の人が座っていた。やはり、じっとわたしを見ている。わたしは目を合わせないように、まっすぐ前だけを見てその場所を通り過ぎようとした。


「きみ」


 けさとは違って、草の人はわたしを呼び止めようとした。


「逃げないで。もしかして虫をもっていないかい」

「……」


 虫? 駆け抜けようとした足が止まってしまった。虫。

 黒くて、ねじれていて、いくつもの曲がった足をもった……虫?


「なにか持っているんだね。もしよければ、きみのととを交換しないか」


 草の人が、手のひらをひらいてみせるとその上に、虹の色に輝く小さな甲虫が現れた。太陽のひかりを受けてぴんぴか光るコガネムシは、自然の宝石のように美しかった。わたしはその七色の輝きから目を離せなくなってしまった。わたしが欲しかった宝石はこれじゃないだろうか。

 思わずポケットから透明の箱を取り出すと、太陽に透かしてみた。わたしの宝石は、あいかわらず黒く、醜い腹をさらしてうごめいていた。こんなのだ。


「いいわ」


 虹色の甲虫とひきかえに、黒い宝石を受け取った草の人は、目を細めて喜び、大きく口を開けて笑い出した。あっはっは。あっはっは。「これでおれたちは救われる!」緑色の顔が大きく裂けて真っ赤な口が現れた。なかで血の色をしたリボンのような舌が踊っていた。わたしはとても間違ったことをしてしまったと気づいて叫んだけれど、もう遅かった。世界のひみつは――。


「やっぱり、だめ。返して」


 とたんに笑いながら草の人は、見渡すかぎりの草原に飛び込んで見えなくなってしまった。「まって……」そう言いかけた、わたしの口へ虹色の甲虫が飛び込んできて口をふさいだ。

 ガリッ。

 吐き出そうとしたけどダメだった。苦い、苦い味が口のなかと体中に広がった。その場に突っ伏してえずく私の耳に、笑い声だけがこだまのように何度も草の海から聞こえてきて、そのうちに消えた。


 結局、わたしはなにも持たずに家へ戻った。

 母と姉から口々に、祖母に宝石をもらうことができたのかときかれるのが心苦しかった。「まだ早いといわれて、宝石はもらえなかった」とだけ話して、じふんのベットにもぐりこんだ。疲れていたし、気分が悪かった。母や姉の宝石はどんな色や形をしているのだろう。眠るまえにそんなことを考えた。


 夜中に目を覚ますと、眠るまえよりずっと気分が悪く、おなかも痛くなってきていた。

 トイレに駆け込み便器に吐いた。祖母の家でごちそうになったものをぜんぶもどしてしまった。でも、そのなかに虹色の昆虫は見当たらず、代わり下腹部に激しい痛みがやってきた。波のように押し寄せる痛み。


 ――だめ。なにかがでてくる!


 トイレを汚してはいけない。ぐるぐる巻いたトイレットペーパーを下腹部に当てたとたん、それは多量の体液とともにわたしのなかから排泄された。おそるおそるトイレットペーパーをひらいてみるとそれは、ぬめぬめ光るそれは、黒くて、ねじれていて、いくつもの曲がった足をもった――虫だった。


「おねえちゃん?」


 小さな影がトイレの戸口に立っていた。

 われに返って気づいた。夜、トイレに起きた小さな姪が一部始終を見ていたことに。わたしはトイレの床にしゃがんだまま、汚れた紙についた黒い虫が小さな姪の口に飛び込まないよう抑えているだけで精いっぱいだった。


 つぎの日、秘密警察がやってきてわたしを連れ去った。

 ネモフィラとクレマチスとチューリップが、連れ去られるわたしを見送った。

 わたしが春の花壇に戻ってくることは、ついになかった。





【回覧板】


『注意しましょう!』


 さいきん、子どもを授かるために「宝石」と称する昆虫を食用する習慣が一般にまで広がりつつあります。でも、そんなのはすべてデマです、うそです。昆虫は「宝石」ではありませんし、「宝石」を体内に取り込んだからといって、子どもが授かるわけではありません。だから、宝石や「宝石」と称する昆虫を食用にするのはやめましょう 秘密警察


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界のひみつ 藤光 @gigan_280614

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ