エピローグ

One Parent Has One Dream

「ママ見て!」



 小さな女の子は顔を泥で汚しながら無邪気に手に持った虫をその母親――百子に見せつけた。



「ダンゴムシ? え、無理!」


「えへへぇ」


「おいやめろっ! ちょっと、追いかけてこないでよ!」



 大の大人が子供に追いかけられて逃げまどっている。

 そんな光景を僕は笑いながら見ていた。しばらくして、その場を収めた百子がこちらに戻ってきた。



「ったくお転婆てんばなんだから。あーまじダンゴムシ無理。あたしも虫なら子供の頃は触れたんだけどねぇ……」


「あの子は小さい頃の百ちゃんに似てるかもね」



 僕は砂場でかがむ男の子のそばまで行って腰を下ろした。



「何か捕まえた?」


「ううん、ドロダンゴ作ってた」



 茶色の髪の男の子は、鼻水を垂らしながらも満面な笑みで、いびつな形のドロダンゴを僕に見せてきた。



「すごいじゃない! こっちはムシじゃなくてドロね。……ほーら、鼻垂らしちゃってもう」



 ポケットに入っていたティッシュでその子の鼻を拭う。



「……俐一はあたしよりなんかママっぽいね」



 後ろに立っていた百子がそう言った。



「ママ、ね……」



 ふふっと笑って、その場で立ち上がる。



「でもさ……よく他人の子を引き取ろうって思ったよね」



 少し離れたところで子供たちを見守りながら百子は言った。



「なってみたかったから、親ってやつに」



 僕は希翼の元カノと連絡先を交換し、彼女の出産までを見守った。そして、生まれてきた子の面倒を見ることを申し出た。この頃になると、彼女も僕を信用してくれているようで「あなたになら」と言ってくれたのだ。



「……仕事と両立できる? それに、これからどうすんのよ。仕事してたら子育てだってできないでしょ?」


「やめるよ、もう貯金も貯まったし」



 子供を育てていくにはそれなりにお金と時間が必要だ。

 僕は真面目に大学院に通い、就職活動をし、それなりのところに就職して、バーでのバイトを続けながら2年ほど正社員として働いてお金を貯めた。これまでの間、子供は施設に入っていたが、このタイミングで引き取ることになった。



「え……貯金だけじゃどうにもならないでしょ。この先どうするつもりなの?」


「文字通り、ママになる」


「は?」


「店を開こうって思ってるの」


「え……バー?」


「そう。たまたま知り合いがバーのママ募集しててさ。皆が自分らしくいられる空間を作りたいと思って立候補しちゃった。バーは夜からだし、子供が寝静まった頃に営業できるでしょう? グッドアイデアじゃない?」



 社会人になってから、ずっと僕は考えていた。自分らしくいられる場所で、自分にしかできない方法で人のためになることがしたい、と。その結果たどり着いたのが「バーの運営」というものだった。長い間、バイトで培ってきた経験があるし、接客を通じて人々に安らぎの空間、時間を提供することができるのならば、それはとても価値のあることだと思う。

 子供はある程度成長し、立って歩くことがもうできているし、丸一日世話が必要という状態でもない。バーの営業は夜からだし子育てはできるだろう。徒歩圏内でバーに行ける場所にも引っ越す予定だ。どうしても僕が手が離せない時は、希翼の元カノが一時的に預かってくれるみたいだし、その時はその時で考えたい。



「……そうかもだけど自営業は安定しないよ?」


「うん、分かってる。……でも死に物狂いでやるの! ……それに、僕には絵もあるし」


「まぁ確かに……結構売れてるんでしょ? 『ぐずついた絵描き』だったっけ?」


「ふふ、そう」


「なんでそんな名前にしたんだか」



 百子はふふっと浅く笑った。

 バイトに正社員の仕事、空いた限られた時間の中で、僕は絵を描き続けた。そしてその作品をインターネットで公開するようになると、たちまちフォロワーが増え、高値で購入を検討したいと申し出る人が続出した。ありがたいことだと思う。 



「覚えやすい名前だって、結構好評なんだよ? まぁ、絵で安定した収入が入ってくるわけじゃないけど、僕の絵が好きで買いたいっていう人は何人かいるみたいだから。今度展示会もやるし……だから大丈夫よ! この子のためならどこまででも頑張れる気がする!」



 子供の笑顔というのは不思議なものだ。

 母性というものだろうか。希翼の子だというのもあるだろうが、この子のためなら頑張ろうというエネルギーが自然と湧いてくる。



「バーと絵か。そんな組み合わせで働いてる人、聞いたことないけど……。まあでも、俐一がそうしたいなら止めない。応援するよ」


「うん、ありがとう」



 優しく微笑みながら百子に言うと、百子も同じように微笑んだ。



「何かあった時は必ず助けるよ。それこそあんたのために死に物狂いになるよ、あたしも」


「うーん、でももう迷惑はかけたくないな……」


「その気持ちは分かるけど……。でも全部自分でなんとかしようとすんのはやめなよ。子供もいるんだから」


「はぁい。その時は甘えまくるね」



 子供の育ての親になるということは、幾分か覚悟のいることだ。大人にならないといけないと思う。でも、百子の前だとまだ自分の中の「こども」が出てしまう。まぁ、いっか。これが僕なんだから。



「ねぇ、なんてところで働くの?」


「バーの名前?」


「うん」


「決めていいって言われちゃったから決めちゃった。エレファントっていうの」


「エレファント……象?」


「そっ」


「なんでエレファント?」


「理由は色々あるけどね……。まず、僕の絵が全体的に灰色っぽいイメージがあるっていうのが1つ目。で、白にも黒にも染まらない、曖昧でグレーな自分を認められる空間にしたいって思ったのが2つ目」



 僕は自分の曖昧さが嫌いだった。男にも、女にもなれない自分の存在が奇妙で許せなかった。恋愛対象がぶれる自分が許せなかった。でも、その曖昧さを受け入れ、自分自身を肯定するようになったことで、物の見方が大きく変わった。



 『誰も君の代わりにはなれない』



 人それぞれ違って当たり前なんだ。グレーゾーンで良いじゃないか。



「3つ目は、像が『家族の幸せの象徴』って言われてるから」



 守るべき存在がいるから頑張れると分かった。これは僕が、双子である嘉一と同じ血が流れている証拠だろう。家庭を持つ……。一度は諦めた夢だったが、あの子のおかげで叶いそうだ。



「……あとは『エレファント』って単純に響きがカッコ良いと思って」


「なんだそれ。あたしも遊びに行っても良いバーなの、そこは」



 百子は覗き込むようにしてこちらを見た。



「もちろんよ、人間であれば歓迎」


「……子供に酒飲ませちゃだめだかんね」


「それはさすがにしないって」



 木漏れ日がやわらかく地面を照らし、その光は周りの自然を温かく彩っていた。太陽の光は、木々の間を通り抜け、地面に小さな光の斑点を作り出している。



 僕の心の中には、希翼の描いた虹がくっきりと浮かび上がっていた。虹は多様性の象徴だ。様々な色が混ざり合い、それぞれが独自の美しさを放っている。僕自身もその一部であり、自分のアイデンティティを誇りに思うようになった。



「エレファント」は、多様性を受け入れ、誰もが自分らしくいられる場所になるだろう。そして、そこは僕自身と、僕の大切な家族にとっても、幸せと安らぎの象徴となるはずだ。きっと……。



 ――After The Rain『完』

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After The Rain 風丸 @rkkmr

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