一. 親になるということ、親を知るということ

 トントントンと規則正しい包丁の音がする。

 それから珈琲と程よい空腹感を促す朝食のにおいが鼻を擽った。

「ん……」

 龍之介は眠い目を擦りながら寝台ベッドから降りるべく手を付いた――がそれは空を彷徨い、身体全体が床へと真っ直ぐに吸い込まれて行く。

ドスン

 薄暗い部屋に鈍い音が響いた。

「ふがっ」

 隣で寝息を立てていた太宰が勢い良く飛び起きると同時に、台所から慌ただしい足音が近づいてくる。

 床の上で転がりながら龍之介は状況を理解出来ずに数度瞬きした。

「また落ちたのかい? 君は間抜けだねえ」

 もぞもぞと寝台ベッドから伸びた手に抱え上げられ、寝台ベッドへと戻される。

 不服である。折角一人でベッドから降りられたのだ……と頰を膨らませて太宰の方を振り向くと、騒々しい音を立てて扉が開いた。

「龍之介、大丈夫か」

「ぶふっ見てよ、この不満気な顔」

 太宰を無視して扉から姿を現した中也に手を伸ばす。

 けれども太宰に抱き寄せられ邪魔をされた。頰がもう一つ大きく膨らむ。

「痛いところねえか?」

 顔を除き込んだ中也と視線が重なると、龍之介の瞳から大粒の涙がぽつりと落ちた。

 云われれば意識してしまい、一番最初にぶつけた額から痛みが広がる。

「ありゃ」

 中也はそっと頭を撫でて、外傷がないか隈無く触れて確かめた。たんこぶも出来ていない。

「特に、大丈夫そうだが……」

 泣かないようにしたいのに痛くて涙が溢れ出る。龍之介はそれが悔しくて太宰に抱き付くと、優しく頭を撫でられた。

「龍之介の事は私が見ておくよ」

「なんで――」

「銀ちゃんの視線がとても痛い」

「はっ」

 ベビーベッドの柵に掴まり立ちをしていた銀の大きな瞳が、じぃっと中也を射抜く。

 不意に龍之介のお腹がぐうぐうと空腹を訴えかけた。

「父、おなかがなりました」

「だそうですよ」

 太宰は泣きながらも空腹を訴える姿を微笑んで見詰めながら、龍之介をぎゅっと抱きしめる。

 中也は優しく龍之介の頭に手を置くとエプロンの紐を締め直して、銀を抱き抱えた。




 これはどこかの世界の少ししょっぱくて甘酸っぱい家族のお話。


――やちゅがれは、今日も幸せでおなかいっぱいです。











一. 親になるということ、親を知るということ


 その日、ヨコハマには雪が降っていた。

「あいつ自殺してそうだな」

 中也は同居人の心配などせず、ベランダから雪を眺めて溜息をく。

――夕飯何にするかなぁ……。

 不意にインターホンが鳴り、中也は玄関に向かった。

「中也! 扉開けて、それから森さんに電話して! 車も!」

「はぁ?」

 扉向こうのやかましい声に怪訝な顔をして扉を開けると、眼前に広がる有り得ない光景に目を見開く。

「はぁッ!?」

 そうして中也は大声で叫んだ。

 そこに立っていた太宰は赤子と子供を抱えていたのだった。

「なっ何だそれ!」

「拾ったの! 兎に角応急処置しないと」

「犬猫じゃあるまいし子供拐かしてくるんじゃねえ!」

「後で説明するから、早くしないと死んじゃう!」

 今迄見たことの無い太宰の必死な様子に中也はたじろぎながら、部屋に引き摺り込む。

「意識は?」

「さっきまで有ったんだけど……」

 朦朧としている子供の顔を太宰は覗き込み、途切れ途切れの呼吸に更に顔を青褪める。赤子の方はもう眠っており呼吸は僅かしか聞き取れない。

 中也は子供の顔と赤子の顔を見てある事に気付き、息を飲む。二人は確かに彼らにそっくりだったのだ。それはもう似ているというよりも同一人物と云った方が正しいだろう。けれどもそれに気付かない振りをして毛布や暖かい上着を掻き集めた。

「森さんに電話するからくるんどけ」

 赤子の体を極力動かさないようにして、中也はセーターやパーカーで包む。その間に太宰を指示して毛布で子供を包ませる。

 そうして中也は電話を掛けながら車の鍵を持って外に飛び出そうとして、玄関で立ち止まった。

「そうだ、手前携帯は?」

「職場に忘れた」

「チッ、車温まったら家電に掛けるからそれから連れて来い」

「解った」

 それから二人は騒々しく喧嘩をしながら森の居る病院に駆け込んだのであった……。




     =====+++=====




「確かに私は何時いつでも頼って善いと云ったよ。でもね、もう少し落ち着いて行動してね?」

 森は溜息をいて太宰と中也を交互に見詰めた。

 時刻は十九時を少し過ぎた頃、大騒ぎしてやってきた太宰と中也から子供と赤子を引ったくり、粗方処置を済ませて森は草臥れていた。

 ただでさえ今日は急患が多く普段よりも疲れており、その上で大きな子供二人の面倒まで見なければならないのは心底疲れる。

――全く、君達は幾つになっても変わらないねぇ……。

 今にも喧嘩しそうな二人を見据えて、頭を抱え込む。多分わざとそうしているのだろう、お互いの変化に気付きたくないから。森は全てを見透かして、それに相応した態度を取る。

「病院では静かにしてなさいと何度云ったら解るんだい?」

 揃って頷く太宰と中也の頭を撫でて満足気に微笑んだ。昔から変わらない彼らのその仕草に森は少しだけ安堵する。それは恐らく自分自身で把握して、予測出来る範囲内に彼らが留まってくれているからだろう。

「森さん、子供は?」

 太宰に声を掛けられ組み立てていた思考を一旦掻き消す。先ず最初にやるべき最適な行動は——。

「油断は出来ないけれど今のところは落ち着いているよ。ところで治君、あの子は何処で出会ったんだい?」

 今度は医者としての瞳で太宰を見透かした。どんな理由があろうとも子供を誘拐するのは認められない。とはいえ状況的には救助になるであろう。

 居心地悪そうに視線を逸らし、太宰はゆっくりと唇を開く。

「拾ったんだよ」

「何処で?」

「港湾地区」

 中也は大声で怒鳴りそうになるのを口を抑えて堪えた。

 森と中也に睨まれて萎縮する太宰は年相応のようで、けれどもそれがわざとそう見せているのだと知っている二人には通用しない。

「あそこは危ないのは知っている。本当に偶然――いや、必然かなぁ……」

「それでどうやって拐かした」

「違うって中也、何度も云ったでしょう。本当に拾ったんだ。路地裏で凍えて座っていてね。善く在る手口だよ。子供にはそこで待っているように云い聞かせて捨てて行く。中也だってそうだったでしょう?」

「そうだけどよ……手前のそれは――」

「解っているよ、だけれども云わないで。ちゃんと今度こそ側に居て大人になるまで見守るから、だから今回は見逃して。お願い、私が育てたいの」

 く声を荒げないようにしながら訴えかけると、考え込む森と中也を交互に見詰める。打算的な振る舞いは二人には見透かされている。ならばこそと出た言葉は酷く馬鹿げていて、それでも太宰の本心だった。

「成る程ね……」

 森は頬杖を突いて考え込む。落ち着いているように振る舞いながらも内心は混乱していた。今迄太宰はこのように必死になることは殆どなかった。勿論それは森が知っている範囲では、の話だが……太宰の瞳には普段とは違う芯のある光が宿っており、それに射抜かれて瞳を細める。

――死にたくなる程に聡明な君のその変化は私にとっては嬉しいけれども、果たしてそれが善い変化なのだろうかねぇ……。

 机の上にある診療録カルテを見詰めて、森は耳に掛けていた万年筆を手に取った。

「確かに書類の偽造は私なら出来る。だけれども簡単なことでは無いんだよ、治君」

「知ってる」

「君に子供の世話は無理だと思うよ。賢いからこそ子供の行動が理解出来ないだろう? 君のことだ、馬鹿だと告げて突っ撥ねるんじゃないかなぁ?」

「……やってみなきゃ解んないのに決め付けないでよ」

「そうかね? 中也君に任せて逃げてしまうのではないかい?」

 太宰はぐっと両手を握って考え込み、それからゆっくりと立ち上がった。

「お願いします。今度こそ行動を改めます」

 太宰は生まれて初めて二人に頭を下げた。そのことに二人は驚いて唖然とし、そして少しばかり後退あとずさる。

「座れ、太宰」

「うん」

 大人しく、素直に。今度は演技じゃない。太宰は本当に心から、あの二人を育てたいのだ。

 中也は確りと頷くと己の左手首を見て、もう一度太宰を見据える。

「俺は手前の好きな言葉を選んで諦めるように説得する事も出来る。でもそれはしねェ。俺は俺の言葉で手前の覚悟を受け入れてやる」

「うん?」

「だから約束しろ、太宰」

 きょとりと首を傾げる太宰の胸に、中也は左手の拳を優しく当てた。

「絶対に死ぬな。もう二度とだ。誰かを、何かを探して見付からず絶望するのは構わねェが、その度に死なれたら……あの子供がどう思う? 育てたいなら約束しろ」

 中也は真剣に太宰を見詰める。背を預け共に過ごした時間、それら全てを引っ括めて太宰の行動を理解しようとしていた。

 今迄のような気紛れではないのかどうか、本当に今度こそ逃げずに向かい合うのかどうか、見極めることは出来ずとも覚悟の片鱗くらいは感じ取ろうとしていた。太宰の胸に当てていた拳を下ろし、深呼吸をする。

 喧嘩をしないように意識するのは容易ではない。思わず口先から溢れそうになる悪態を飲み込んで、中也は本心を曝け出す。

「俺はな、手前の六十%は嫌いだ。だが二十%は信用し信頼している。残りの二十%は長年の経験と勘、だ。……相棒としてずっと共に過ごしてきたからこそ、太宰治という人間をずっと見てきたからこそ、俺は手前を理解しどんなに嫌いだとしても一緒に居ることを選択した。……その方が俺にとって利益があるからだ」

 目を見開いて太宰は中也の言葉を一文字も聞き逃す事なく、耳を傾けていた。

「あの子供、本当に見放さずに育てると決心出来るか? もう二度と逃げないと誓えるか? そうしたら……」両手を握りしめ、己を映す鳶色の瞳に宿る、懐かしい光に笑みを溢れさせた。「そうしたら手伝ってやるよ、太宰」

――嗚呼、手前のその瞳はあの頃と一緒だな……。もう一度背を預けて闘いたくなっちまうじゃねェか。

 太宰は拳を握りしめて中也の顔を見る。その姿は隣に立っていた頃の中也を想起させた。

 覚悟、それだけでは足りないもっと大きな何か。それこそ命を掛けて生きていたあの時のような、ずっと重いもの。

 掌には余るだろう。太宰の細腕では支えきれないだろう。

 ずっしりとしたそれを相棒として受け止めた。

 そうだ、中也は一人で抱え込まず背中を預けろと昔云ってくれた。屹度、多分、絶対、今回もそうなのだろう。

 太宰は昔と何一つ変わらない中也の優しさに大きく頷いて応える。

「逃げないと誓うよ、相棒」




     =====+++=====




 病室に向かおうと出て行こうとして、森に手首を掴まれて中也は目を見開く。

「中也君。これから大事な話をするから座りなさい」

「はい」

 有無を云わせぬその顔に、急いで中也は席に戻る。森はこういう時、恐ろしい。

 太宰も中也も神妙な面持ちで森と対峙した。

「エリスちゃんが様子を見ているから問題無いよ。気にしなくて善い。今大事なのは二人が今後どうするかだよ」

「同居は続けます。太宰一人だと心配ですし」

「うっ確かに。はぁ……」

「嫌なら——」

 ぶんぶんと必死に首を振る太宰を見詰めて、中也は微笑む。仕方がない、でも頼られるのは悪くない。そういう笑みが自然とこぼれた。

 森は二人の頭を粗雑に撫でて、頷く。

「頑張ってね。用品揃える間は中也君のご実家に世話になると善いんじゃないかな?」

「そうします」

「えぇ」

「助言は必要だ。子供育てた事ねェだろ」

 渋々頷く太宰に呆れそうになるが、小言が多くなるのが嫌なのだろうと多少は察して中也は頬を掻く。程々にとは云っといてやろう。

「手続きは私がするから書類だけ書く事。それから紅葉君よりも小百合さゆり君に連絡して、用具を買うのを付き合ってもらうと善い」

「母さんか」

「お古は期待出来ないかなぁ」

「鏡花がなぁ……」

 中也は歳の離れた妹の顔を浮かべ、ついにやけてしまう。

「うわっ、中也顔」

「うおっ、悪ィ」




     =====+++=====




 太宰と中也は子供が眠る病室に入ると、目を見開いた。

 小さい、とは思っていたけれども寝台ベッドが異常なくらいに大きくなったように見えるくらい、とても細く小さい。

「太宰、そういや子供の名前は?」

「未だ聞けてない」

 青白い子供の顔を覗き込んでいると、ゆっくりとその瞳が開かれる。

 小さな手で目を擦り、何度も何度も瞬きをして漸く子供は太宰と中也を見詰めた。

「た、ごほっごほっ」

「大丈夫か」

 何かを話そうとして咳き込む子供の背を中也は摩り起こす。

 子供は驚いて、それから中也を見上げた。

「俺は中也。中原中也。歳は二十五。そこの太宰と一緒に手前を育てる事になった。これから宜しくな」

「やちゅがれはりゅーのすけ、ごしゃい」

 その名前を聞いて中也は目を見開く。この子供は中也が経験した夢の世界の子と同じ顔だったのに、名前も同じだった。その夢がどのような意味を表すのか、中也は不安になって拳を握りしめる。

「どうしたの、中也?」

「何でもねェよ」

 咳き込む子供の背を摩りながら、中也は微笑む。

「寝てる方が楽か?」

「ごほごほするのでねるのはいやです」

「解った」

 寝台ベッドを操作して背もたれを作ると、中也は龍之介の体から手を離し寝台ベッドの端に座った。

「太宰」

「あ、私は太宰治。中也と同じ二十五歳。君を育てたいと思ってるけど……」

 決して近付きも触れもしない太宰をじっと龍之介は見た。

「妹もいっしょですか」

「うん、一緒だよ。名前は?」

「わかりません」

「私が付けても善い?」

 こくりと龍之介は頷き、目を輝かせる。期待しているのだろう。太宰は頬を掻いて、ゆっくりと目を閉じた。

「少し考えさせて」

「そうだ、りゅうのすけの言葉って何処で覚えたんだ」

「箱の中の人の、はなしかたマネ、してます。げほっごほっあとはすてられたあと、いろいろな人におしえてもらました」

 時折息を詰まらせて、時折咳をしながら龍之介はゆっくりゆっくりと話す。

 それをじっと見詰め、慈しむように微笑むと頭を撫でた。

「偉いな」

「箱の中の人ってTVの事?」

「じゃないか?」

 中也と太宰は苦々しさを決して顔には出さず口の中で噛み潰す。

「決めた。妹ちゃんの名前、銀ちゃんにしよう」

 その一言で中也は崩れ落ちそうになるのを堪え、顔を隠す。

「どう?」

「いいとおもます」

「ふふっ、ならそうしよう」

 中也は驚き過ぎて何も言葉が出なかった。

 そんな事を太宰は気にも留めず、龍之介に微笑む。

「これから君は私と中也と一緒に暮らす。でもその前に私達はちゃんとした子育てを知らないから、中也のお母さんのところに行くけど……大丈夫?」

「はい、だーじょぶです」

 龍之介は確りと頷いて、微笑む。

 その笑みに安堵した中也と太宰は揃って窓の外を見た。






 十二月二十日。

 その日、ヨコハマには雪が降っていた。

 奇想天外な太宰の行動に何時いつも振り回されていた中也は、真白に染まる見慣れた街を眺めて大きな決断をする。

――今度こそ自殺させねェ。目の前で死なれるのはもう二度と、ごめんだ。

 それは太宰も同じだった。

 逃げずに闘い生きる選択をする為に必要な言い訳でもなく、もう一度挑戦してみたかったのだ。大昔の友人が成し遂げようとした幸福な日常に。

――ねぇ、何処かで見ていてくれてるかい? 織田作……。




     =====+++=====




「ということで暫くお世話になります。姐さん」

 中也は実家に帰るなり出迎えてくれた姉の紅葉に深く頭を下げる。今は結婚して苗字も尾崎になっているが、妹の鏡花と一緒に居る為に実家で暮らしていた。中也を拾い、父母を説得して共に育ててくれた温情深い美しい姉である。大変若く見えるが中也よりも四つ年上の二十九歳だ。

 未だ歯も生えていない赤子と齢五つの子供を引き取ることになった中也と太宰に、両親と共に手解きしてくれる事になっていた。

「そう硬くならなくても善い、頼ってくれるだけで十分じゃ。ほれさっさと上がりんさい」

「お邪魔します」

 照れ臭そうに頬を掻く中也の手を取り、寂しそうにその瞳を覗き込む。

「ただいまであろう?」

「たっただいま」

 紅葉は満足気に頷くと太宰と手を繋いでいた龍之介を見た。

わっちは紅葉、中也のお姉さんじゃ。暫く宜しくのぉ」

「りゅーのすけ」

 舌っ足らずな自己紹介に瞳を細め嬉しそうに微笑むと、紅葉は龍之介の頭を撫でる。

「愛いのぅ」

「そうかなぁ? 全っ然喋れないし自分の名前すらちゃんと云えないんだよ?」

「子供とはそういうものじゃよ、太宰。其方にもそういう時期があったじゃろう?」

「絶対に無い」

 太宰は龍之介が靴を脱ぐのを手伝いながら、大きく首を振る。

 その様子をけらけらと手を口に当てて笑い、紅葉は嬉しそうに見詰めていた。幼いと思っていた弟分が、親になる。なんとも寂しくて嬉しいことだ。聡明な二人ならば最適な育児と最適な親としての行動をするだろう。でもそれだけは嫌だった。紅葉は瞳を細めて頬に手を当てる。で生きてほしい、そんな我が儘を受け止めてくれるだろうか……。

「あ、そうだ」

 中也の声にあらぬ方へと行っていた意識を戻す。紅葉は改めて中也の腕に抱かれている赤子を見詰めた。

「俺らは先に荷物、車から降ろしてくるから銀と龍之介を見てもらって――」

「あぁ、柔らかいのぉ」

 腕の中で熟睡していた銀の頬を撫でて、それはそれは幸せそうに抱き抱える。

 面食らう中也を引き摺って太宰は外に飛び出した。

「やっぱり辞めた方が善いよ。ねえさんが森さんみたいになる」

 太宰が真剣な表情で揺すると、中也が大声で笑い出した。

「もう手遅れだよ」

「……あれほどじゃなかったでしょ?」

いや、最近はやばい。母さんが面白がって放置してたら悪化した」

「嘘でしょ……」

 太宰の腕を振り解き、車から荷物を降ろすと太宰に手渡す。

「ほらとっとと片付けるぞ」

「何で私が……」

「嫌なら手前だけ追い出すが?」

「もぉ解ったよ」

 文句を云いながらも太宰は荷物を玄関に積んでいく。中也がせっせこ働く姿を見て面倒そうに溜息をいた。

「そういえば小百合さんは? 仕事休みだったでしょう?」

「母さんは鏡花と買い物」

「あー、成る程。うわっチビ大猩々め」

 中也が両腕に大きな鞄を纏めて持って行くのを見て、太宰は舌を出す。

「手前がもやしなのが悪いんだろ。龍之介がちゃんと食事出来るようになったら抱っこしてやれなくなるぞ」

「いや、抱っこしたくないし」

「殴っても善いか?」

「待って鞄で殴られたら痛いから。抱っこしてあげれば善いんでしょ」

 ぶぅぶぅと文句を云う太宰に豚かよ、と中也は溜息をいた。

 こんな状態では前途多難どころではない。いや、太宰のことだからわざとそういう行動をして怠けようとしているのだろう。それでも普段とは違い、ちゃんと働いてくれるようになったのは大きな進展だ。

「それにしてもこの荷物、中也の部屋に仕舞えるの?」

「あァ、空き部屋あったかなぁ」

 中也は実家を見上げて腕を組んだ。母である泉 小百合が相続した、由緒有る日本家屋の大きく立派な佇まいに何時いつも圧倒されるが、今回ばかりはその頼り甲斐ある姿に期待する。

 取り敢えずと持ち運んだ荷物を退かしながら玄関に上がると、居間から紅葉が顔を出した。

「中也の部屋は弄ってないからの。掃除はしてあるから安心せえ。太宰のは使ってない部屋があったからそこを使うと善い」

 廊下に用意されていた掃除道具を指し示され、太宰は引き攣った笑みを浮かべる。

「もしかして……私が掃除するの?」

「当然じゃ。中也に頼らず偶には自分でやるべきなのだぞ。そもそも二人を育てたいと云い出したのは太宰なのであろう?」

「えー……あっ、姐さんそのワンピース可愛いね」

 太宰はここぞとばかりに、紅葉の髪に映える茜色のリブニットワンピースを褒める。嬉しそうに頬に手を当てて瞳を緩ませる姿に、中也はポンと手を叩いた。

義兄にいさんが買ってくれたやつか」

「ふふ、あやつはわっちの服を選ぶのは得意じゃからのぉ」

「おい、太宰。逃げんな、掃除しろ。あねさんを褒めたって俺は絶対手伝わねえからな」

「中也の隣室が空いていた筈じゃぞ」

「えっ……」

 嫌そうにする中也に紅葉は首を傾げる。

「仲が良くなった訳ではないのかえ? 喧嘩しておらぬからと思ったのじゃが……」

いや、龍之介と銀が居るから喧嘩しないように努力しただけだ」

 紅葉は透かさず中也の頭を撫でた。

「偉いのう」

「子供じゃねえんだからやめてくれよ、あねさん。銀は?」

「未だ寝ておる。龍之介は愚図りそうであったから寝かしておいた」

 中也はその手際の善さに感服する。流石は現役幼稚園教諭といったところだ。

「中也が寝かせとかないからねえさんに迷惑掛けたじゃぁん」

「はァ!? 手前がわざと怖がらせて寝かせないようにしたからだろ!」

 腕を組んで紅葉は溜息をく。最早日常茶飯事と化していた何ら変わりのない二人の喧嘩を見て、呆れると同時に安堵もしていた。子供を拾うということが二人にどのような変化を与えるのか、その変化がどの様に作用するのかと恐怖していたのだった。多少は和らいだかもしれぬ、と引き攣りそうになる頬を摩る。

「御主ら本当に二十五かえ? 早速喧嘩しおって」

「それこの前も聞いたぁ」

 太宰が掃除用具を持って階段から落ちそうになりながら二階に上がるのに、中也は素早く付いて行く。

 鞄の量にうんざりする太宰とは裏腹に、久し振りの実家に目を輝かせて楽しげに荷物整理する中也を揶揄いたくなった。けれども此処で大喧嘩を始めたら折角紅葉が寝かせてくれたのが無駄になる、と太宰は堪える。それくらいは弁えている、というよりも紅葉に怒られることが予測出来ているのでしないだけだ。

 昔に比べたら随分丸くなったと自画自賛しながら、太宰は良さげな空き部屋を掃除し始める。

「お、ちゃんとやってんな」

「何しに来たの。水を得た蛞蝓君」

「それ云うなら魚だ。それに楽しくなるのは仕方無ェだろ、俺だって実家帰りゃあ浮かれる」

「何で?」

「思い出っつうのかな……そういうもん。此処で過ごした欠片が散らばってて色々思い出すんだ」

 中也はこぼれるように笑って、それから廊下の柱を指差した。

「この柱さ、昔登ってみたんだよ。子供の発想つうか……今では何であんなことしたのか解んねェけど」

 廊下の天井は高く柱伝いに登れば梁に座れるのだった。中也はその梁を見上げて懐かしそうに頬を掻く。

「んで、この梁に座って下を通ったあねさんを驚かしてみたんだ。ちょっとした出来心っつうか……」

「あ、森さんのところに駆け込んだ時の原因中也だったのか」

「そうそう、真逆まさかあれで気絶するなんて思ってなくてさ」

「姐さんお嬢様だもん、山猿に遭遇したら気絶くらいするさ」

 太宰はやれやれと両腕を広げて廊下に向かう。このくらいの高さなら手で届く、とやってみせると中也が悔しげに見上げており思わず吹き出して笑った。

「そっかぁ届かないもんねぇ、おちびさんだからねぇ」

「おうおう善い度胸してんなあ、ちょっと表出ろや」

 険悪な空気が廊下を通り抜けた瞬間――太宰と中也の間に何かが割り込んだ。

「けんか、だめ」

「鏡花……何時いつの間にそこに」

「ねぇねがにぃに呼んでた、ゴー」

「あっ嗚呼、解った」

 急いで階段を降りていく中也を両手を降って見送ると、鏡花は太宰を見上げた。

「だっこ」

「何で?」

「ちかれたから」

 太宰は大きく溜息を吐いて腕を組む。それはそれは面倒そうにする様子に鏡花は頬を膨らませる。

「私はこれから掃除しなきゃ――」

「だっこ」

 両腕を伸ばし太宰の脚に攀じ登ろうとする鏡花を引き剥がそうとして、視線を感じ其方を見た。

「治君、お勉強しよっか」

 にこやかに微笑んで手を合わせる小百合の様子に冷や汗を掻く。嫌な予感がする、と逃げようとしたが子鳴き爺の如く足に捕まる鏡花の所為で逃げられない。

――本当に泉一家は隠密にけすぎなんだよ……。

「龍之介君をちゃんと育てるって約束したんでしょう? それなら先ずは抱っこから憶えよっか」

――こうなるから中也の実家に行きたくなかったんだ。

 太宰だって子供相手にどうすれば良いのか、どんな行動をすれば子供が喜ぶのか、ある程度の最適解は知っている。でも面倒なのでそれをしたくないだけだ。好かれたいから拾ったわけではない、やり直しをしたいだけ。そんな話をすれば先ず無事ではすまないだろうが。

「最適な行動を考えてるでしょう? 駄目よ、治君。貴方は完璧に隠せても子供は感じ取ることが出来るのよ」

「それは――」

「かぁたまにはしたがう」

「はい」

「子供ってね大人のことをよく見てるの。小さい頭でいっぱい考えて、大人が望むことをするようになってしまう子も居るわ。でも貴方達がしたいのはそういうことじゃないでしょう?」

 小百合は妖艶に微笑んで鏡花を抱き上げた。

「大丈夫、どんなに嫌でも面倒でも子供が嫌いでもおかしくないわ。でもこの話は鏡花が居ないところでね」

「おとにゃのはなし」

「そ、大人の話。治君、夕飯の準備手伝って」

 小百合の視線に太宰は頷かざるを得なかった。しゅんとわざとらしく頭を下げて付いて行く。

 これからの毎日が前途多難どころではないが、覚悟したのだ。頑張らなければならないと太宰は溜息を飲み込んだ。




     =====+++=====




 中也が居間に戻ってぐずった龍之介をあやしていると、スタスタと小百合が鏡花を抱えてやってきた。

「にぃに、その子だぁれ?」

「昨日電話した。龍之介だよ」

「りゅーのじゅけ、ごじゃい」

 ぐずぐずと泣きながら手を広げて龍之介は鏡花と向き合う。

「きょーかはきょーか。にしゃい」

 左と右の人差し指を立てて二を表現する鏡花を、中也は目を見開いて見詰めた。

「足算出来るのか! 凄いな」

「そうじゃろう、凄いじゃろう。鏡花は天才なんじゃ。ふふふっ」

 紅葉がお菓子を持って台所から戻って来た。にんまりと笑いながら鏡花の頭を撫でる。

「にしても大きくなったなぁ」

「せーちょーき」

 小百合の腕から飛び降りると、自信満々に仁王立ちする鏡花の頭を撫でて、中也は声に出して笑う。

「そうじゃ、これからわっちよりも綺麗になるんじゃぞ、楽しみだのう」

「龍之介、あれが親馬鹿ならぬ姉馬鹿だよ」

 よっと、と云いながら太宰が居間の鴨居をくぐって入って来た。

「何か云ったかえ?」

「何でも無いですよ、紅葉こうようねえさん」

「今日は何食べたい?」

「とうふ!」

 鏡花は小百合に飛び付く。

「私お肉食べたぁい」

 太宰が片手を上げると、中也に小突かれた。

「ごら」

「善いのよ、中也。そう云うと思って……今夜はすき焼きよ!」

 何処から持って来たのか『ババン』と国産牛の箱を見せびらかして、小百合は台所にスキップしながら向かう。

「きょーかてちだう!」

「あ、俺も」

「二人は遊ぶのが仕事よぉ」

「だそうじゃ。鏡花の事宜しく頼むぞ」

 この家では紅葉と小百合の指示は絶対である。

 中也と鏡花は渋々、遊ぶ準備を始めた。




     =====+++=====




「だざいさん」

「はい、なぁに」

 夕飯も食べ終わり、居間で寝転がっていると龍之介が頭の横に座ってきた。

「だざいさん」

「なぁに」

「しんでしまます」

 その言葉にはっと顔を上げて、慌てて起き上がる。

「ごめん、怖かったね。私は寝転がるくらいでは死なないよ」

「でもいっぱい食べてすぐにねるとしんでしまます」

 舌っ足らずなその言葉に悲しげに微笑んで、太宰はその柔らかい頬を撫でる。

「うん。でも私は死なない。大丈夫だから」

「なぁ、龍之介。何でそんな喋るの苦手なんだ」

 ひょこりと二人の間に入ってきた中也に龍之介は抱き着く。中也はそれを軽々と受け止めて抱き上げた。

 こういう時は抱っこするんだ、と読唇だけで太宰に伝えれば苦々しい顔をされた。それが太宰だ、仕方ない。それでも変わってもらわねばならない、龍之介の為に。中也はとんとんと龍之介の背中を撫でながら胡座をかく。

「しゃべるとうるさい、です。おこれれます」

「そっか」

「でもだざいさんは、おこりません」

「だから頑張って喋ってるんだね」

 太宰は漸く痛みと悲しみを受け止めようかと少しだけ心が動かされる。でもどうしたら善いのか最適解を知っていても行動出来なかった。

 それを見ながら中也は龍之介を太宰に預ける。

「ちょっと抱っこしてろ。歯ブラシ持ってくるから」

「あっうん……」

 抱きしめようとしたが、龍之介は離れてしまった。

「だざいさんはだめ」

「どうして?」

「さいしょ、ちゅうやさんはだいじょうぶ、云ってくました。でもだざいさんは云ってません」

 子供は感じ取ることが出来るのよ、小百合の言葉が頭の中で響き渡る。

 そうだ、一度捨てられれば相手の嫌な事をしないで善い子になろうとする。中也がそうだったじゃないか、と太宰は思い出した。

 その事がどうしてか受け入れられなくて、思わず其の儘家を飛び出してしまった。




     =====+++=====




『太宰さん』

 何時いつも彼は雛鳥の如く太宰の後ろを付いて来ていた。

『太宰さん』

 成果を求め認められようと踠く姿は滑稽で、そして未熟だった。

 何時いつだって彼を掌の上で転がし、扱い辛い駒だと見捨てた。

『太宰さん』

 長くない命を擦り減らして足掻いて足掻いて努力する姿は、太宰には酷く眩しく思えた。

 己の得た感情に振り回され、どんな世界でも不器用で、どんな世界でもぶれることはなく美しかった。

 そんな彼の死もまた華やかで、蕾の儘落ちた花の如く輝かしい美しさを纏っていて羨ましかった。

「だざいさん!」

「もう五月蝿いなぁ!」

 そうして振り向いた目線の高さに彼は居なかった。

 いや――違う。

 何時いつも見ていた背丈は未だこの世界には存在しないのだ。

 酷い咳が聞こえる方に視線を向ける。小さく壊れそうな君は震える素足で必死に立っており、決して座り込むまいとする意固地さは何処か懐かしいものだった。

――そうだ。忘れてた。

 彼は子供なのだ。

 昔と変わらぬ瞳に絆され拾い掬った小さき命。

――君はだ私しか知らないのだね。

 嗚呼、己を見上げるその瞳は昔と何一つ変わらない。その瞳には何が映るのだろうか、と屈んで目線の高さを合わせる。

 そうしてその顔をじっと覗き込んだ。

「私ね、解らないんだ」

 あの頃よりも幼い彼を見据える。

「ねぇ、君は私に何になってほしい?」

 酷く馬鹿げた質問。

 それでも完璧で賢い頭脳を作られてしまった太宰にとっては必要なことだった。

 彼の咳が治るのをじっと黙して待つ。

――私、前はどうやってたんだっけ。

 あの時は与えられた役割、或いは未来さきを見据えた上での計略を全うすることで優しい人にしてもらい、人を救ってきた。けれども純真そのもののようなあの男には遠く及ばず、彼のようになれなかった。

 こういう時はこうした方が善い、ああするのが最善、数学の計算式のように組み立てられた行動理論を取り敢えず取っ払う。

 そうして太宰治そのもので龍之介と対峙した。

 じっと考え込んだ末、手を伸ばして咳き込む背を摩る。

 暫くずっとそうしていた。

 不意に冬の風が二人を引き裂く。

「だざいさん」

「なに?」

「やつがれのおやになってほしいです」

 真剣な眼差しを受けて太宰は首を傾げる。

「どうして?」

「さむくてこわくて妹を守れなく、てしんでしまかもしれないと思った、げほっごほっ……でもだざいさんにぎゅってしてもらってあかたたくて」

「うん」

「やつがれ、みんなのいう親を知りません。でもそれ、がどういうものなのかは知って、ごほっ。それからそのとき……おもったんです。やつがれの親がこうだったらいいと、だからだざいさんが、いい」

「そっか」

 拙い子供の言葉をゆっくり噛み砕く。

 恐る恐る太宰は龍之介に手を伸ばした。

「私もね、親っていうのがどういうものが正しいのか解らない。でもね私の周りにはそれを教えてくれる人が居るんだ」

 細く小さなその体をかいなで包み込む。

 冬が染み込んだ冷たい体、咳をする度に大きく揺らぐ小さな体、理解しなかったのではなく知ろうとしなかっただけだった。

「ごめんね、芥川君」

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『しあわせ』を紡ぐ 八稜鏡 @sasarindou_kouyounoga

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