雨のち晴れと曇り
怜 一
雨のち晴れと曇り
どろりとした空気が肺に流れ込む。木々の濡れた匂いが鼻腔を抜け、肺に溜まり、そしてため息に変換された。
「傘、持ってくればよかった」
近所のスーパーでアイスを買い、すぐに帰宅する予定だった。
家を出た時には、すでに鼠色の曇り空であったが、
「ま、大丈夫でしょ」
と、タカを括ってしまったのが失敗だった。買い物を済ませて、さっさと帰宅しようと信号が赤になった横断歩道で立ち止まった途端に、とてつもない勢いの雨が降り始めた。例えるなら、ナイアガラの滝くらいの勢いだ。
「滝は言い過ぎか」
まぁ、なんでもいいけど。
そのくらい強い雨だったので、その場で信号が変わるのを待っていられず、近くにある図書館が入っている建物の出入り口に避難してきたというわけだ。
とっとと帰って、雨に降られたパーカーを着替えてしまいたい。しかし、雨脚は強まる一方で、それに比例するように、私の憂鬱メーターはぐんぐんと上昇していく。
「もう、走って帰ろうかな」
アイスが入ったビニール袋に生温い雨が滴る。これではアイスが溶けるのも時間の問題だ。
「あ、雨」
さて、そろそろ覚悟を決めて走り出そうとした時、私の斜め後ろからそんな声が聞こえてきた。雨音に消え入りそうな声に振り向くと、そこには見覚えのある制服姿の女子高生が立っていた。
その女子高生は、絵に描いた優等生の見た目をした、私と同じクラスかつクラス委員長の立川さんだった。
「あっ、立川さんじゃん。やっほー」
「ひょわっ!」
面白い悲鳴をあげた立川さんは、私の存在に気がつくと、慌てたように手櫛で髪を整えながら、
「と、冨田さん!?なんでこんなところに?」
透明感のある裏返った声で訪ねてきた。
器用だな。
「見ての通り、雨宿り。近所のスーパーでアイス買って、あとは帰るだけだったのに、急に雨に降られてさ。ホント、サイアク」
「あっ、あぁ。なるほど」
落ち着きを取り戻した立川さんは、濡れた私を見て納得したように軽く手を叩いた。
立川さんはリアクションが身体に出ることが多く、その理由を本人に聞いてみたことがあった。曰く、母親譲りらしい。全く、可愛らしい親子だ。
「それより、立川さんはなんで制服なの?クラス委員長って、休日でも制服着なきゃいけないの?」
「そんなことは…。午前中に学校へ行く用事があったんです」
「なに?部活?」
「はい。美術部の活動でちょっと。それが終わったので、ついでに図書館で勉強をして帰ろうと思ったら、ちょうど雨に降られてしまって」
立川さんは困ったような微笑みを見せた。
なるほど。
大体、私と同じ状況か。
「私達、お揃いだね」
「えっ!は、はい!お揃いですね!」
私の何気ない一言に立川さんは困り顔から一変して、まるでこの豪雨が晴れたかのような笑顔になった。果たして、こんな状況がお揃いでなにが嬉しいのか、私にはさっぱり理解できなかった。
立川さん。たまに天然なところあるよなぁ。そういうところも可愛いし、だからモテるんだろうけど。
一向に晴れる気配のない雨雲を一瞥する。この雨雲に二の足を踏まされている私だが、あまり長くは続かないだろうと確信していた。
天気予報になかったゲリラ豪雨だ。一気に降って、すぐ晴れる。経験上、ほぼ100%そうだった。それまでの話し相手が見つかったのは、不幸中の幸いと言えなくもない。
「あっ。そだ」
私は袋の中から青いパッケージの棒アイスを取り出して、立川さんに差し出した。
「これ、よかったら食べる?ガジガジくん」
二人分買ったはいいけど、このままじゃ溶けてダメになってしまう。そうなるくらいなら、形を保っているうちに立川さんに食べてもらう方が、このアイスも本望だろう。
「えっ!?いいんですか?」
「いいよいいよ。てか、ガジガジくんでテンション上がる立川さんとか、マジ面白いんだけど」
「そ、そんな面白くないですよ!」
大きく目を開いて驚いたと思えば、瞼を閉じて口元を手で押さえ、照れ隠し。ほんと、山の天気みたいにコロコロと表情を変えるから、見ていて飽きない。
「じゃあ、お金を」
「そーゆーのいいから。ほら」
学校指定のカバンから財布を取り出そうとする立川さんに、押し付けるようにアイスを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「ん」
押し付けてるのは私の方なのだが、それを言ってしまうとややこしくなってしまうのでやめた。
私も自分用に買ってきたアイスを取り出して、一口齧る。鋭い冷たさとケミカルなソーダ味が口いっぱいに広がり、さらに、細かく砕かれた氷のシャリシャリとした食感で清涼感が増幅する。
蒸し暑い夏に食べる氷菓子は、他の季節に食べるより何倍も美味であり、そして、なにより七十円というお財布に優しい価格が貧乏な高校生には有り難かった。
ゆっくりと座れる場所もないので、制服姿の立川さんと部屋着のパーカーを羽織っている私は立ちっぱなしのまま横に並んでアイスを頬張る。
たまたま通りかかった人が私達を見たら、変な二人だと思うだろうか。しかし、幸いにも図書館に出入りする通行人はいない。それに、普段なら同類に括られない存在の立川さんとセットにされるなら、あまり悪い気はしない。
「そういえば」
立川さんは、思い出したように話し始める。
「そろそろ期末試験ですが、冨田さんは大丈夫そうですか?その、テストがいつも赤点ギリギリで、最悪留年するかもって噂を聞いたことがあって」
あー。それね。
「噂じゃなくて本当だよ」
私は、迷わず肯定する。
噂であって欲しかったけど、悲しいことに揺るがない真実である。
聞いてきた相手が明菜だったら、お前もだろとか言って揶揄うこともできたけど、学年上位の立川さんとなると、素直に答えざるおえない。
そこで、私は気付いた。
「立川さん。もしかして、図書館で勉強してたのって期末試験の対策?」
「はい。今回、出題される範囲に苦手なところがあったので、克服できるように問題集を解いてました」
Oh………。
立川さんと休日に会うのは初めてだけど、プライベートも期待を裏切らない優等生っぷりだった。ここまでくると、不思議と安心感すら覚える。
「そ、それでですね冨田さん。その、提案があるんですけど」
「へいあん?」
最後の一口を頬張った私の返事は、実に間抜けなものだった。
右手でスカートの裾を握りしめた立川さんは、なにか意を決したような面持ちで案を述べる。
「もし迷惑でなければ、私と一緒に勉強しませんか?解らないところがあれば、私、教えられると思います。このアイスのお礼もしたいですし、それに、冨田さんが留年するのはい、ぃゃ…なんです」
最後の方は雨音に紛れて聞こえなかったけど、どうやら、立川さんに勉強を教えてもらえるチャンスらしい。これは棚からぼた餅というやつか。ならば、食べない選択肢はない。
「え、それめっちゃ嬉しい。やるやる。やりたい」
「本当ですか!?」
「うん。今回の期末落とすとマジでヤバいからさ。立川さんに教えてもらえるとすごい助かる」
立川さんは大きく肩を上下させ、わざとらしいくらいに胸を撫で下ろす。勉強に誘うだけで大袈裟だと思うが、微妙な距離感の相手に緊張するのは無理もない。
ともかく、期末試験へ向けてこれ以上にない仲間が増えた。明菜と勉強しても、三十分後にはイチャついちゃって勉強にならなかったし。ここで立川さん、いや、立川先生にご指導してもらえれば、真面目に勉強できるだろう。
「それで、いつにしますか?冨田さんの都合が良ければ、今からでも構いませんが」
「ホントに?それじゃあ、これからウチで勉強教えてほしいんだけど、いいかな?」
「はい!って、冨田さんのお家ですか!?」
さっき、立川さんに声掛けた時以上に驚いてるな。やっぱり、いきなり家に呼ぶのは不味かったかな。とりあえず、事情を説明してお願いしてみよう。
「立川さん。ちょっとお願いしてもいい?」
「はい。なんでしょう?」
「今日、私も明菜と勉強しててさ。あっ。立川さん、水沢明菜って子知ってる?B組の子なんだけど」
「えっ」
水沢明菜という名前を聞いた立川さんの表情が、一瞬だけ強張った気がした。
「知らない?ほら、ちょっとギャルっぽい感じの子。その子ウチに呼んで、午前中から二人で勉強してたの。で、その子まだウチにいてさ。立川さんが気まずくなかったら、その子とも一緒に勉強したいんだけど、どうかな?」
「で、できれば、私は冨田さんとふた」
立川さんの発言を遮るように、パーカーのポケットに入れていたスマホの着信音が鳴り響いた。取り出して画面を確認すると、明菜と表示されていた。
「どうぞ。出てください」
優しく微笑んだ立川さんに促され、私は立川さんに背を向けて、電話に出た。
「もしもし。なに?」
「帰ってくるの遅かったから、心配になって電話しちゃった」
「遅いって、まだ三十分くらいしか経ってないじゃん」
「三十分も経ったら、アイス溶けちゃうじゃん。早く持ってきてよー」
「残念でした。アイスは立川さんにあげました」
「えっ!?なんで!?というか、立川さんって誰!もしかして、浮気?」
「浮気じゃないってーの。細かい理由は後で説明するけど、もう、明菜の分のアイス無いから」
「えー!!嘘でしょ!やだやだやだやだー!」
「幼稚園児かっての。とりあえず、もう少ししたら帰るから、いい子にお留守番してな。いい?」
「やだ」
「あっそ。それじゃあね」
「あっ!ちょっとまっ」
通話終了。
少しからかっちゃったけど、手ぶらで帰るのも可哀想かな。しょうがない。また、アイス買いにいくか。
いつの間にか晴れていた空を見上げながら、そんなことを思いつつ、立川さんの方へ振り返る。
「話遮っちゃってごめんね。立川さ…ん?」
しかし、そこに立川さんの姿は無く、地面には青い氷の粒と木の棒が散らばっていた。
晴れた日差しに照らされた氷の粒は濁った雨水へと混ざり、青から黒へと色を変えていった。
+
あの日以来、立川さんと会話することはなかった。学校で顔を合わせることはあった。だけど、なんとなく気まずい感じがして、お互いに声を掛けることはなかった。
夏に雨が降るたびに、立川さんのことを思い出す。あの時、どうすれば良かったのだろうと意味のない後悔もするが、きっと、どうにも出来なかっただろうとも思う。
「美也、どうしたの?」
隣で並んで座ってる明菜が、私の顔を覗き込んできた。
「んーん。なんでもない」
はぐらかした私は、手に持っているガジガジくんを一口齧る。あの日と変わらないケミカルなソーダ味と、微かにする雨の匂いが口の中に広がった。
end
雨のち晴れと曇り 怜 一 @Kz01
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