硝子の琴
瑞原チヒロ
硝子の琴
王の愛せし
王を愛せし
心響かせ
*
透き通った空間があった。
一面柔らかな銀光に満ち、それ以外の色は見られぬ。地面より盛り上がる小山さえも透けるような銀色で、時折鼓動のようにきらりと光る。
その、小山を背後にした平らかな場所に――
一人の娘が、いた。
美しい娘だ。まるで自身が光を生むかのように、その輪郭は柔らかな乳白色の光が縁取り包む。
磨いた真珠のような肌を覆う白い布地の裾が、ふうわりと地面に広がっている。
透き通った空間では、その娘だけが異質だ。か細い
長く伸びた髪もそれは見事な純白をしている。地面に座り込むようにしている今、その髪の先は地につくほどの位置にある。娘がほんの少し頭を動かすたび、純白の先端たちが地上をくすぐるようにかすかに揺れる。
伏せられた長い睫の下、宝玉のような紅の瞳が、粛として光を湛えている。まるで冬の夜に一人煌々と輝く、孤高の月の静けさ。
その、細い両腕に。
――抱かれし、冷たい色の
娘のたおやかな指先が弦を弾くたび、
ほろほろ、ほろほろと竪琴が
足音が、透明な空間を揺らした。
弦を弾く指がつと止まる。
娘は顔を上げた。闖入者は乱暴な足取りで娘の前にやってきた。どの方向から現れたのかは分からぬ。――否、方向など意味はない。男がそもそも違う空間から来たことを、娘は知っている。
「息災だったか」
娘を見下ろし、男は言う。
細部を飾る宝石もきらびやかな、若々しく雄々しい若者。荒ぶる者の印象を
娘はその紅色の瞳で、男の
娘を見下ろすは、遠い世界の海の色。
娘の懐かしき故郷に似た色。
無言の娘を、男もまた無言で見下ろし続ける。眉間にしわを寄せたまま、じっと。
やがて、男は重い口を開いた。
「そろそろ考えは変わったのであろうな」
底に、有無を言わせぬ力を
娘は淡く瞳をまたたかせる。
小さく顔をかたむけ、それからゆるりと首を振った。
男の瞳に怒りの炎が灯った。
「強情なやつめ。なぜ分からぬのだ――もはやお前の行くべき場所は我の元にしかない。それともこの狂った世界で永遠に過ごそうというのか」
言葉に応じるかのように、空間が銀色を強くする。それはほんの一瞬の輝きに過ぎず。彼らに干渉することもない。
再び光を鎮める空間の中央で、娘は小さな唇を開く。
か細く、空にかき消えそうな、流れ落ちる夜露の声で。
「あなたさまの隣には、行けませぬ」
それは
男は声を荒らげた。
「なぜだ。なぜそこまで我を拒絶する。そなたは我を愛しているのではなかったのか」
娘の紅い瞳がひととき悲しげに揺れる。いいえ、と答える声は、それでも静けさを失わず。
「いいえ、あなたさま。わたくしはあなたさまを愛しております。この世が終わるまで、わたくしの心はあなたさまのもの」
「ならばなぜ」
「けれど世には守らなければならぬ理がございます。わたくしはあなたさまの隣にいられませぬ。それがこの世の
何が
逞しい片腕を広げ、彼らを包む異常なまでに透き通った世界を示し。
「見ろ、この狂った世界を。時の止まった世界を。この場所を作り出したのは我だ――我が望めば時さえ意のままになる。その我の前で、何がこの世の
娘は目を細めて男を見る。まるで遠い世界にいる者を見るかのような眼差しで。
「そうしてあなたさまはすべてを意のままになさる。だからわたくしはあなたさまのものにはなれませぬ。それは何故なのか、お分かりになりませぬか」
「分からぬ――」
男は苛立ちまぎれに顔を振る。「分からぬ」
再び娘を捉えた視線には、憎悪に似た何かが忍び込んでいた。
「そなたは、そなたたちは、どうしてそうなのだ。そなたの一族は、我の
激情が空気を揺るがし、目に見えぬ力が娘の頬を打つ。
しかし娘は声ひとつ立てぬ。ひととき崩れた体勢をゆるりと直し、凛と男を見上げる。まばたく目は清かに澄んで、何物にも犯されぬように見える。
ただその頬だけに痛ましい赤みがさして、それを見た途端男の顔は泣きそうに崩れた。
「ああ」
膝をつき、両手を伸ばす。娘の抱く竪琴を越え、娘の顔を包む。平素は力に溢れたその指先が、弱々しく震える。
「すまぬ。痛かったろう」
娘はすうと微笑む。
「わたくしは痛みなど感じませぬ、あなたさま」
男は狂おしいほどの感情をのせた視線で、娘を愛撫するように見る。娘のまとう白い布を透かし、愛する者の全てを見る。
頬を包み込んだ両手を離さぬまま。
愛おしさに震える指先はやがて、娘の唇に触れる。花開く前のつぼみのように初々しいその場所。
顔を近づける。娘は動かぬ。嫌がる気配も逃げる気配も微塵もない。
けれど、その瞼を下ろすこともない。
波紋の生まれぬ湖面のような眼差しを、男に向けたまま。
唇をかすめる直前に、男は止まった。
切なげな溜息を残し、体を離す。名残惜し気に娘の顔から両手を下ろしながら、
なぜだ、と一言の呟き。
その問いに答える言葉はない。代わりに、
「わたくしはあなたさまのものにはなりませぬ。けれどあなたさまをけして恨みませぬ。わたくしも、わたくしの先代たちも、みな……この世が果てようとも、あなたさまだけを想いまする」
男は娘の紅眼を覗き込む。
その顔が、微苦笑に揺れた。
「残酷なことだ」
娘はとろりと艶やかに微笑う。
「あなたさまの生み出したわたくしたちですゆえ」
男は初めて笑った。愉快そうに声を立てて。
その笑い声が、空に消える直前に
男は囁く。地深く、ひたすら落ちていくような声音で。
「……ならば永遠にここにいるがよい。時の止まったこの場所で、音の鳴らぬその竪琴を抱いて、魂が朽ち果てるまで」
娘の腕の中、透明な色を持つ竪琴が光を弾く。
娘は無言で、立ち上がる男を見ていた。すうと逞しい背を伸ばせば先ほどまでの弱々しさはどこにも見えぬ。全てを射抜く
この世に特別な存在というものがあったなら、それはおそらくこの男を指すのであろう――
男は王者となるべく生まれた者。
だがあまりにも力に満ち溢れていたがために、王者になることすら放棄した者。
この世の全てが男の思うがまま。思い通りにならぬことはない。思い通りにならぬものはない。
たったひとつのことを除いて。
動きひとつで存在を生み出し、また存在を消し去るその指が、娘の視線の先でぴくりと動く。
何かをこらえるようにそのまま、拳の形を取り。
男は娘に背を向けた。
「また来る」
数度の足音ののち、その姿がかき消える。
――本当は一瞬で望む場所へと行ける男が、それでも足音を響かせるのは、言葉に出来ぬ心がそこにはあるからなのかもしれぬ。
娘は男の消えた空間を見つめ、やがて目を伏せた。麗しい睫が震える。けれど涙を流すことはない。
愛しいあなたさま。誰も聞くことのない、甘やかな囁きが、静かな世界に落ち出でた。
「我らの命さえ意のままに操るあなたさま。この世の全てがあなたさまのもの。ゆえに永遠に孤独なあなた。……わたくしはあなたさまの隣には参りませぬ。それがわたくしの、わたくしたちの魂の祖の望んだこと。わたくしたちが唯一あなたさまにしてさしあげられること……」
細くしなやかな指が、膝の上にある竪琴の弦に添う。
たったひとつあの男が娘に与えた、この透き通るような楽器。音を奏でることのない、硝子の竪琴。
膝から落ちただけでたやすく砕けるその脆く儚い物体で、男は娘の心を試す。かつて豊穣の大地に生まれし頃、竪琴を爪弾くことを何より愛した娘の腕に、それのみを与えることで。
――閉じられた、この時を刻まぬ世界。
ただただ清浄な銀色だけが続くこの場所に一人きり、娘は硝子の竪琴を抱く。
添えた指先が弦を弾く。今にもぷつりと切れて落ちそうな、張り詰めた弦を。
音は鳴らぬ。
ただ、ほろほろと啼くだけ。
……誰も知ることのない想いをのせて、泣くだけ。
王の愛せし
王を愛せし
心響かせ
それは硝子の
(終)
お題配布元:Pentas「ありがとう」
硝子の琴 瑞原チヒロ @chihiro_mizuxx
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます