エピローグ 五年後の二人
青が瑠里の家で正月を迎えたあの日から、五年の月日が経った。
青、26歳。
実業団の全国大会の花形、ニューイヤー駅伝の常連である関西屈指の実業団陸上部の駅伝メンバーとなっていた。
大学三年、四年と出雲を走る全日本大学駅伝に出場を果たし、チーム成績は関東勢には全く及ばなかったものの、個人として区間賞を取り、数社の企業から注目を浴び、誘いを受けた。
敢えて関東ではなくて関西を選んだのは、間違いなく瑠里がこの地に居たからだ。
瑠里、24歳。
選手としての競技生活は、大学で終えた。
四年生の記録会では、関西の大学での大会記録を作り、青と同様、企業からの誘いはあったのだが、元々目指していたものが明確だったので、迷うことはなかった。
二年になって、アスレチックトレーナーを目指すことを決めた。
それも日本陸上連盟公認の資格を取る為に授業の組み直しをして在学中に取れる科目を選択した。
そして、卒業と同時に、試験を受け、資格をゲットしたのだ。
現在は、経験値を積むために瑛子の紹介で、京都のスポーツ選手専門の施設で整体や鍼灸の勉強をしながら勤めている。
今日は、青にとって三回目のニューイヤー駅伝の日だ。
一年目は、1区、二年目は3区、そして今年は、初めての4区最長距離区間に挑戦する。
それは今年度、初マラソンを走ることを見据えての挑戦だ。
駅伝とトラック1万を主に活動してきたが、トラック競技からマラソンへの転向を決意したのだ。
年齢的にも体力的にも今のタイミングがベストだと、チームコーチと本人の意向だった。
「 母さん!始まるよ!」
リビングから瑠里は瑛子を呼んだ。
ニューイヤー駅伝は、毎年群馬県で行われていて、ついて行きたい気持ちは山々だが、大学の時のように帯同出来るわけでもなく、青の走りを丸々観られることもない。
なので、毎年自宅のリビングから瑛子と二人で応援している。
テレビなら、最初から最後まで映してくれるし、その表情までもよくわかる。
今年は、青にとっての新たな区間の挑戦となるので、ワクワクとドキドキが止まらない。
群馬県庁前を大勢の人達に囲まれ、今年のニューイヤー駅伝が号砲と共にスタートした。
全国の予選を勝ち抜いた全32チームが白バイ隊を先導に一斉に走り出す。
9時過ぎから、午後2時頃まで、百キロのコースを各チーム精鋭7名で争う。
青の4区は、22キロの最長区間、エース区間と呼ばれていて、ほぼハーフマラソンと同じ距離だ。
3区のランナーが青に襷を渡した。
チームとしては12番目だったが、瑠里と瑛子は前のめりで画面に釘づけになった。
おそらくは、初めての距離への挑戦で若干緊張して見える。
瑠里は、いつものように腕時計のストップウォッチを入れた。
1キロのラップタイム、腕振り、ストライド、頭の位置、体の傾きなど……アスレチックトレーナーとしての目線でも青の走りを見つめる。
15キロを過ぎた辺りで、瑠里は軽く首を捻った。
青の走りに大きな変化は無かったものの、小さな違和感を感じた。
ペースは、悪くない。
このまま行けば、初めての20キロ越えにしてはまずまずのタイムでゴール出来ると思う。
もちろん、トラックを走るのと駅伝を走るのとでは、負荷も変わるしフォームもトラックのようにはいかないことは、わかっていたのだが。
最初は少しの違和感だったが、それも20キロの頃にはハッキリとした変化になった。
腕の振りが少し変わった。
その原因は、体の若干の傾きだ。
いつもは決して崩れることのない軸がブレた。
やはりレースでの20キロ超えは未知数なのだな、と瑠里は思った。
青の顔が少し苦しそうに歪んだ。
それでもチーム順位は3つ上げている。
「 青君!もう少し!気合よ、気合!」
瑛子が拳を握りしめて声を上げた。
「 青!!ラストスパート!! 」
瑠里も思わず声が出た。
残り二百メートルで、青のラストスパートが始まり、ギリギリもう一人抜き去り、8位で襷を渡した。
タイムは、1時間4分18秒。
区間賞には及ばないが、4分台ならまずまずのタイムだった。
瑛子と瑠里は、歓声を上げながらハイタッチをして喜んだ。
ひとしきり騒いだあと、ふと瑠里が真面目な顔つきで、瑛子に問いかけた。
「 母さん、青、どこか痛めたんじゃないかと思ったんだけど、どう思う?」
瑛子は、腕組みをしながらうーんと考えた。
「 ……確かに、20キロくらいから苦しそうだったわね。でも、あのラストスパートが出来たんだから、どこかを痛めてる程では無いんじゃない? 」
今度は瑠里が唸った。
違和感を感じた15キロ過ぎから、ハッキリとした変化が見えた20キロ過ぎの青の走りを頭の中に呼び起こす。
「 痛めたとしたら……背中かも。軸がブレて、腕の振りが乱れたから、肩甲骨周りかなぁ?」
同じように腕組みをして真剣に思案している瑠里に、瑛子は感心して笑った。
「 私は、町の整体師だから陸上のこともスポーツのことも、知識が浅いし、患者さんの体を触らないと状態もわからないわ。でも、貴女はもっと専門職なのね?彼のフォームの乱れであれこれ推測出来るんだから、大したものだわ!」
突然の瑛子の褒め言葉に、瑠里はキョトンとした。
「 大輔が……お父さんが、生きてたらさぞかし喜んだでしょうね。結果、同じ職業を選んでくれて、尚且つ私達を遥かに追い越してくれたんだから。」
「 母さん……」
瑠里の顔が緩んだ。
母の言う通り、父は喜んでくれているだろうか?
さすが、俺達の娘だと、あの豪快な笑顔で笑ってくれているだろうか?
瑠里は、目を閉じ、胸に手を当て、父を想った。
「 ただいま 」
駅伝の二日後、青が帰ってきた。
五年前に初めて高宮家の正月に訪れて以来、正月や盆休みなどの長期休暇になると、青はここへ帰って来るようになった。
帰る家を持たなかった青の唯一の帰る家になっていた。
瑛子も娘のボーイフレンドというよりは、息子のように扱っていた。
まぁ、青が戸籍上の本当の息子になる日もそう遠くはないだろうが。
「 青!お帰りなさい!」
今か今かと待ち構えていた瑠里は、玄関まで飛んで出た。
「 おぅ。」
目深に被っていたキャップを人差し指で軽く持ち上げると、笑顔で飛び出してきた瑠里に、青が優しく微笑む。
左肩に掛けているリュックを玄関マットの上に置いた青に、瑠里は両手を広げた。
「 ん?なんだ?」
「 ただいまのギュゥして!」
「 ……ここでか?」
少し困った顔で尋ねた青に、瑠里は当然と頷く。
「 ちゃんと上着も脱いでね!」
瑠里はニコニコ顔で、両手を広げながら青がダウンを脱ぐのを見守る。
青が腕を袖から抜き終わるのを待って瑠里はその胸に飛び込む。
実業団に入ってからひとまわり広くなった胸に抱きつくと大好きな青の香りを目一杯吸い込む。
駅伝に向けての練習や調整で忙しかった青と会えるのも1ヶ月ぶりだった。
青は少し遅れてしっかりと瑠里をその腕で抱きしめた。
相変わらずほっそりとした華奢な体を加減して抱く。
すると、自分に抱きついていた瑠里の両腕がもぞもぞと背中を這い始める。
所々押さえたり、指で筋肉をなぞったり、様子が変だった。
「 おい、何してる?」
青が思わず体を離そうとすると
「 ダメ!そのまま!」
瑠里はそのまま青の背中のあちこちを調べるように触ると自ら体を離して青を見上げた。
「 ねぇ、左側の背中痛めてない?」
いきなりそう聞かれて、青は眉を上げた。
「 ……そう見えるか?」
瑠里は、例のごとく指を立ててニンマリ笑う。
「 駅伝、15キロ過ぎから軸がブレ始めてたからね。腕振りがいつもと違ったでしょ?左腕の振りが上がりきらなかったから、背中かなぁと思って触ったら肩甲骨周りが凄く張ってる。」
青はゆっくりとキャップを脱ぐと、得意気な瑠里にバサッと被せた。
「 正解。トレーニングでちょっと失敗した。」
「 やっぱり!」
荷物と上着を手に、玄関を上がってリビングに向かう青を、瑠里はいそいそと追いかける。
「 青君、おかえり!駅伝、お疲れ様!」
ダイニングに居た瑛子が笑顔で迎えた。
「 ただいまです。」
青は、礼儀正しく一礼する。
瑠里は、青のキャップを被ったまま青の前に回り込む。
「 ねぇ!ちゃんと治療した?メディトレに申告した?」
青はやれやれと苦笑する。
「 まだ何もしてない。真っ直ぐこっちに帰ってきたからな。」
青の言葉に、抗議を口にしようとした瑠里に
「 ここには二人も居るだろ?整体師とトレーナーが。瑠里が治療してくれるんだろ?」
そう言ってニヤリと笑うと、瑠里は目を見開き、抗議の言葉を呑み込んだ。
「 ……私でいいの? 」
「 その為に、アスレチックトレーナーになったんだろ?」
その通りなのだ。
青に出逢って、自分は夢を見つけ、進むべき道を見つけた。
いつか、青の傍で、彼専属のトレーナーになるのが夢になった。
まだまだ経験が浅いから、その為に今は修行の身だけれど。
「 この休暇の間に、ちゃんと治療するね!任せて!」
「 おぅ、頼む。」
そんな二人のやりとりを、瑛子は微笑みながら眺めていた。
次の日、二人は神社の大楠木のいつもの根元に並んで座っていた。
瑠里の家で、二人が過ごす時は、必ず訪れる場所になった。
「 青、どう?背中、少しは楽になった?」
瑠里が青の背中を軽く擦りながら尋ねる。
昨日は、全体のマッサージを施し、今朝は、肩甲骨周りの筋肉を緩める為に鍼灸治療を施した。
昨年、瑠里は鍼灸の国家資格を取得していた。
「 突っ張るような感覚が無くなったな。サンキュー。」
「 高宮トレーナーにかかればチョチョイのチョイ!よー」
「 瑠里が個人的に担当している患者とかいるのか?」
「 うん!去年の11月から、指名予約の患者さん持つことになったの。針の資格も取ったからねー 」
瑠里は、嬉しそうに報告した。
「 そこは男女関係なく担当するのか?男の患者も持ってるのか?」
「 あれあれ?それはちょっとしたヤキモチですかぁ?」
瑠里がからかう様に青の顔を覗き込むと、青がジロリと横目で睨んだ。
「 うるせぇ。離れてるんだからヤキモチくらい焼かせろ。」
開き直った青に、瑠里はちょっと顔を赤らめながら、白状する。
「 今持ってるのは、三人とも女子だよ。バレーボール部の高校生と、テニス部の短大生と、地元大学の陸上部の子。」
「 なかなかいっちょ前じゃないか。瑠里のくせに。」
「 うわっ!瑠里のくせには余計だよ!」
思わず瑠里は、青にパンチを繰り出したが、当たる前にあっさり腕を掴まれ、そのまま肩ごと抱き寄せられた。
「 今年、秋に初マラソンを走る。」
「 うん。」
「 年明けの大会で、来年夏の世界陸上を狙う。」
「 うん!全力でサポートする!」
そこで青は、瑠里の顔を真っ直ぐ見た。
「 結果はどうあれ……」
「 うん?」
「 全部終わったら、結婚するか。」
何の前振りもない青の突然のプロポーズに、瑠里の瞬きと呼吸が止まった。
結婚……
青と結婚する……
青のお嫁さんになる……
青と本当の家族になる……
胸の奥の方がギュウッとなって熱くなった。
と同時に涙が湧いてきた。
「 おい、返事は?」
青の顔も若干赤らんでいる。
瑠里は、青に顔を寄せ、頬にキスをした。
「 私、青のお嫁さんになる!青と家族になりたい!」
そう答えた瑠里の瞳から、涙が零れた。
高校三年の春、ここで青と不思議な出逢いをした時から、ずっと青が好きだった。
途中、色々なすれ違いはあったが、どんな事があっても、青だけを想って歩いてきた。
「 ありがとう。」
青は、瑠里の涙を指で拭いながらこの上なく優しい微笑みを見せた。
「 六年半前、半分死にかけて彷徨っていた俺を瑠里が見つけてくれてから……本当の意味で俺は人として生き始めたんだと…思う。」
それは初めて聞く青の告白だった。
「 家族というものを知らず、誰とも関わらず、何の目的も持たなかった俺に、生きる目的を教えてくれたのが瑠里、おまえだった。」
その当時の青の生い立ちを思い、瑠里の顔が切なく歪む。
「 あの日から……俺の存在意味も、走る理由も、瑠里になった。俺が生きる理由が、瑠里になったんだ。だから、この人生が終わるまで、おまえと居たい。」
瑠里は、泣きながら小さく何度も何度も頷いた。
不器用で、自分の気持ちを言葉にすることを苦手とする青の告白に、感激して、感動した。
「 ずっと、ずっと、一緒!きっと、私達は死んでからも一緒だよ。そんな気がする!」
「 死んでからも一緒か……瑠里が言うなら、そうだな、きっと。」
青が感慨深気に呟き、瑠里が満面の笑顔で頷く。
ぴったりと寄り添って座る二人を見守るように、樹齢数百年の大きな楠木が爽爽と二人の上で揺れていた。
エピローグ 完
私を思い出して!私は貴方の傍にいる 〜 瑠里と青の不思議な恋物語 〜 美瞳まゆみ @mitou-mayumi
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