カノン・ロプテ
真花
カノン・ロプテ
一階はバー、ブログで見た通りだ。看板が見える、「ロプテ」、僕は垂直に方向転換して、湖に歩く。
きっと大丈夫、計画通りになる。
でももし失敗したら、僕はうっかり死ぬのだ。
スニーカーが重い、心臓のリズム、荒くなる息を整えながら、水際に向かう。まだ静か、まだ何も起きていない。
祈るべき神様を持つ人ならこんなとき、神様を呼ぶのだろうか。それとも謝るのだろうか。何をしても上手くいかないとき、理不尽な不幸のとき、神様を恨むのだろうか、それでも感謝するのだろうか。打破するために選んだことが何でも、神様は許してくれるのだろうか。それとも、僕みたいになったときに初めて神様を必要とするのだろうか。僕は、神様を選ばなかった。僕はミライママを選んだ。彼女が僕を見付けてくれるか、何に祈ればいい。
踏み抜いた湖面から波紋が遠くまで渡る。触れた水から僕が吸い出されるように体に震えが走る。もう腰、このままだと僕が沈む。
引き返した方がいいのかな。
いや、ここまで進んだら、もう最後までやらなきゃいけない。
水に侵された脳がそう決めたのか、闇に慄いた頭がそう指示したのか、分からないけど僕は、前に、深度とともに接近する死へ踏み込む。
踏み込んだ途端に、僕の中に激しい音楽が鳴る、外の音が何も聞こえない。
次いで見えなくなった。
他の五感も同じように痺れて消えるのだ。
でも、思考は澄んでいる。
次の一歩で肩。
……進まない。
頑張っても、前に行けない。
生き物としての本能の抵抗だろうか。
頬に打撃。
分厚い毛皮があるみたいに鈍い。前に進めない。
また。
少しだけ痛い。
さらに二発。
同時に、音楽が消えた。急速に視界に色が戻って来る。頬の燃えるような疼痛。
「あんた! 何やってんのよ! 死ぬわよ!」
湖の中に僕と同じだけ体を濡らした誰かが、僕の頬を打っている。有効な五発目にここが間違いなく現実だと理解させられる。目の前の彼女の溶けた化粧、びしょびしょの服。
「ミライママ」
振り上げた六発目、彼女は、「お」と動きと止めて僕の眼を見る。僕がさっきまでと違うことを読み取ったのか、名前を呼ばれたからなのか、彼女は手を下ろす。水に浸かったまま僕達は眼を合わせて、二人とも肩で息をしていて、彼女が先に落ち着いて、ふう、と息を
「とにかく陸に戻るわよ。いいわね」
強い声に「はい」と応える。
彼女に腕を掴まれながらも僕は湖から自分の足で抜け出した。
「私の店があそこにあるから、そこで着替えなさい」
僕は彼女に連れられて、湖畔の「ロプテ」に入る。ブログの写真で分割してイメージされていたものがピピピと繋がって、思っていたよりずっと広くて、誰もいない。柔らかくも芯のある照明、呼吸するような木の壁、色味も形も統一感のない小物達はママがキュンとしたと言う共通点で並んでいる。
「バスタオル取って来るから服脱いじゃってて。店は八時から開けるからまだ一時間はあるし、入り口の鍵を閉めておけば安心でしょ?」
ママはブログから想像した通りのママで、計画通りに助けてくれた。せっかくの化粧がびちょびちょでズルズルになっても、僕を助けてくれた。ママが二階に上がるのを目で送って、言葉に従って服を脱ぐ。水を吸って重く、テーブルに置くのが憚られて床に並べた。僕は素っ裸になってから、バスタオルが先に必要だ、床からシャツを拾って股間を隠す。
トントントンと階段を降りる音がして、ママが僕を見て笑う。
「そうね。そうなるわね。……はい、これ。着替えはこれね。私はシャワー浴びてメイクをするから八時になったら入り口の鍵を開けて、札を『open』にしといて。常連しか来ないから事情を説明すれば勝手にするわ」
ママは「よろしくね」とウインクすると上の階に行った。
体を拭いて、ママが貸してくれた服を着る。ちょっとダボダボだけどハーフパンツには紐が付いていたからそれを縛れば格好は付いた。
カウンターと、四人掛けの席が二つ。一人で切り盛りするには広過ぎるくらいだ。もしかしたら僕が知らないだけで、従業員がいるのかも知れないし、前は二人でやっていたのかも知れない。テーブルに就いて、肘を突いて、ママが登った階段に彼女の跡を見る。
僕がこのまま店のものを盗っていなくなることを考えないのだろうか。
ママのシャワーに押しかけることを危惧しないのだろうか。
もう一度ここから出て、湖に沈むことを考慮しないのだろうか。
でも実際の僕は、大人しくママが帰って来るまで店番をしようと、決めている。
冷蔵庫がカウンターの裏にあって、そこからジンジャーエールを一本。生まれて初めてジンジャーエールを飲んだのがいつか忘れてしまったけど、生き残って最初に飲むのにジンジャーエールはとてもよい。甘くない方だからかも知れない。
ママはシャワーを浴びている、音がする。
一通り店の中にあるものを吟味しようかと思って、やめた。横になりたいけど場所がない。テーブルの上に寝転がるのは不遜だし床に伏せるのは不衛生だ。立っているよりマシだから、椅子に座る。天井を見て、カウンターを見て、テーブルを見て、その後はぼーっとする、視界に入ったものが映らない。ほんの数分の水だけでここまで疲労した、プールや風呂と違う、海水浴とも違う、水と遊びに行ったのかそれとも喰われに行ったのかの違いかも知れない。
――
「僕は」
拳を握り締める。中学も高校も同じで、人間関係が入れ替わる大学に期待したのに、結局同じことが繰り返された。どうしていつも僕なんだ。でも。
「今はもう、違う」
ノックする音。まだ十五分前だけど、扉を開ける。
「あれ? ママじゃないの?」
「ママは今シャワーを浴びてます」
「君、彼氏?」
男は眉を少し寄せて口の端を上げる。
「違います。さっき拾って貰った通り過がりです」
「そっか。ま、いいや。ちょっと早いけど店に入れてよ」
外で待たせるのなら、わざわざ僕を店番にはしないだろう。
男はカウンターの中に入って、ビールを自分で注ぐ。手慣れていてまるでプロの業だ。
「君も飲むかい?」
「はい」
ジョッキを受け取って、テーブルの席に座ると男が「おいおい」と手招きする。
「君は今、ママの手下なんだよ。だから、そこで客の顔で飲むんじゃなくて、カウンターの中に立って飲まなきゃ」
「なるほど」
カウンターにも背の高い椅子があって、それに座る。
「乾杯」
男の音頭にグラスをぶつけて、生ビールを飲めば、生きていてよかったと再び思う。
「暫くここにいるのかい?」
「分かりません。何にも決まってないです」
「じゃあ、ママのところで働くことになるだろうね」
笑顔をくれるけど、その意味を測りかねる。男が「ツマミにそこの、そう、そこそこ、柿の種、皿に出して」と指示するに任せて提供したら、「キビキビしてていいじゃん」とまた笑う。自分にも出して、ダボダボの服で、カウンターの内側で、知らない男を前にビールを飲む。
ひとつまみポリポリ噛んだら彼はカウンターの側に来て、僕に何かするのか、下の方にあるものを弄ったら店内に音楽が始まる。ショパンの「雨垂れのプレリュード」だ。操作を終えた彼は元の席に戻りながら。
「この店はクラシックを流すんだよ。いつもね。この曲好きなんだ。こういう気持ちだから好きなのか、聴いているからこういう気持ちになるのか、分からないけどさ」
どういう気持ちなんだろう。彼の表情からは、少しの切なさだけが読み取れる。そんなに単純じゃないのだろうけど、僕にはそこまでしか届かない。
「僕は、埃っぽい寂しさを感じます」
「うん。それは家族のことかな?」
「きっと、別れた家族です。死別じゃなくて、他の、許し合えない理由があって別れた」
「でもその写真を捨てられない」
「雨音の中、僕はしまっていた写真を、薄暗い部屋で見るんです」
彼はニカっと笑う。
「それでも家族の許には帰らない。帰れない。だからここで酒を飲むんだ」
「それが不思議と美味しいんです」
背景に「雨垂れ」は続いている、僕も彼も、ジョッキを空ける。
「俺はシゲ。シゲさんと呼んでくれ。君は名乗れる名前はあるかい?」
僕が漂流者や逃走者だと目星を付けて、そしてそこを守ろうとしてくれている。シゲさんは優しい。十分前に出会ったばかりだけど、そうだと何回も感じた。壮年で、禿げていて、細身で、優しい。でも彼を形容するなら「優しい」が一番捉えている。
僕は高志だけど、甘えたい、僕に僕の新しい定義をしたい。
「ないです」
「じゃあ付けようか」
「気に入れば採用、のルールでいいですか?」
彼は微笑むけど笑わない。柔らかいところにちゃんと手を添える。
「ああもちろん」
シゲさんは二杯目のビールを二人分作りながらぶつぶつ考えて、二人の間にあるカウンターに橋を渡すようにジョッキを並べる。
「アキ、はどうだい?」
「秋に来たからですか?」
「そう。そのまま」
ドアが開いて、シゲさんは振り返る。
革ジャンの男。
「どうして服が床にあるんだい?」
男が誰か認識してそれで十分とこっちに向き直ったシゲさんと、男の両方の視線が僕に集まる。
「あ、すいません。すぐに片付けます」
「お? ママの恋人かい?」
男はシゲさんと三つ席を空けてカウンターの反対側の端に就く。
「違います。通り過がりに拾って貰ったんです」
「ふーん。名前は?」
僕はカウンターから出て男の横を通って、脱いだ服を集める。
「アキです」
「アキくん。俺はテル。よろしく」
シゲさんが笑っているのがテルさん越しに見える。部屋の隅に濡れた服を纏めて隠して、元の場所に戻る。注文を訊こうか、いや、訊いたところでどうも出来ない、椅子に座ってビールを飲む。シゲさんがテルさんに「ビールでいいか?」、テルさんは「ウイスキー、ストレートがいい」と、やっぱり自分で作りに来る。
「アキ」
テルさんが死角に入った瞬間にシゲさんに呼ばれて、「はい」と応えると、シゲさんは下手糞なウインクをくれる。
「いい名前だな」
「お気に入りです」
テルさんは出来上がったグラスを片手に、ボトルを反対に席に戻って、宝物を吸い込むみたいに飴色を飲んで、ママグッズの、多分、くるみ割り人形を見詰めたまま動かなくなった。
ママは来ない。
シゲさんは「ワルトシュタイン」を聴いている顔。
僕は二人を緩やかに交互に眺めて、ゆっくり呼吸をしている。僕はここから出されない。でもそれはママの力、僕はここから出されないことに、呼吸をする。カウンターの中からしか見えないところに時計がひとつ。八時以外の全ての文字盤がない。それでもいいのかも知れない。
窓の外は真っ暗で、そこに湖があることも分からない。ここが宇宙の別の片隅でも気付かない。
「シゲさん」
テルさんの声に僕は彼を見る、硬い顔。
シゲさんはまるで彼に呼ばれることを知っていたみたいに自然に「何だい」と応える。
「ちょっと聞いて欲しいんだけどさ」
「うん」
テルさんは体をシゲさんに向けて、グラスを隣の席の前に置き直して、すぐにそれを掴んで煽る。勢いのある動きなのに、グラスが着地するときの音が丁寧で、彼はきっとそう言うこころなのだ、僕は二人の間の均等な点を眺めながら、両目の脇で二人をそれぞれ捉えて、ジョッキを傾ける。
「チームに新しく入った
シゲさんはひと呼吸考える。
「いつから来たんだい?」
「先月から。経験者で実力もそれなりにある」
また間を取る。何のチームだろう。
「問題点ってテルから見てあるのかい?」
テルさんは視線を忙しなく動かして、うーん、と唸る。
「柴田は、自分が上手いからって、特別扱いされたがっているように思う。何て言うか、『俺様』みたいな感じかな」
「そう言う彼? 彼女? を見てテルは何を感じる? 考える?」
「彼だよ」
言った切りテルさんは考え込む。シゲさんが空っぽになったジョッキを持ってビアサーバーの前に立ち、「アキ、君も飲むか?」と問うけど僕は「もう十分です」、シゲさんは、そうか、と呟いた後に「俺にはビールは無限に飲める飲み物なんだ。不思議なことに水ではこうは行かない。他の酒でもやっぱり行かない。だから、ビールを飲むんだ」と僕に言っているのか、ビールの神様に言っているのか判別し難い恍惚の眼を浮かべて、また完璧に注ぐ。
悩むテルさんの後ろを通りながらシゲさんは「ソフトドリンクは下の冷蔵庫の中に入っているよ」と優しい。この優しさをテルさんも食べに来ている。でも優しさと単純さと考える主体が誰かは、同一ではない、だからテルさんがこうなっている。
シゲさんが座って飲んで、テルさんがフリーズして、僕は助言に従って冷蔵庫を開けた。開けるのは二度目だけど、新しく開けた。
水のペットボトルを取り出して、グラスに流れ込ませるとき、小さな龍がとぐろを巻いて溶けた。どんな水よりも神聖な水がここにあって、僕は暫くそれを見ていた。
僕が見ていて、シゲさんが飲んで、テルさんが考えるのは、三つ巴のようで三つ別の停滞だから、いつだって均衡を破っていい。だけど、三人とも自分のすることに集中して、それが許されているから、部屋はいかにもブラームスっぽい音楽と共に、静かで、柔らか。
「俺は」
音と時間を止めたみたいにテルさんの声が通る。
「輪に入る資格も能力もある奴が、下らないことでそのチャンスを壊すのが、嫌だ」
シゲさんがそれを受け止めるだけの間。
「嫌ってのは、どう言う感情だい?」
「腹が立つ。壊すことにも腹が立つ。チャンスだと気付いていないことにも腹が立つ。最初に普通のラインから始められることが特権的だと考えないことにも腹が立つ」
テルさんの顔は青くて、外よりずっと湖だ。
「じゃあ、それを教えてやればいいじゃないか」
テルさんはもっと青くして、言われながら息を大きく吸い込んで、溜めた息吹を声にする。
「分からないまま痛い目を見ろって思っている自分が一番嫌いだ」
そうか、と深く頷くシゲさんの胸に、テルさんの嘆きがホールドされたのが見えた。
「テル、ものごと、考え方をポジティブにしたって何にも解決しないんだ。自分の嫌いを見付けたら、二つしかない。その嫌いと一緒に沈むか、嫌いを解消するかだ」
「俺は」
テルさんの視線が落ちて、探し物をしているみたいに這い回る。シゲさんはビールを飲んで、僕も幕間に水を飲む。テルさんは飲まない。一番カラカラなのに飲まない。ママは降りて来ない。
扉が開いて、ポップな男性二人が入って来た。
「いらっしゃいませ」
「あれ? ママは?」
ピンク髪が問う間に、もう一人のブルー髪はテーブルに収まっている。
「シャワーかメイクをしています」
「君は彼氏?」
「違います。拾われただけです。アキです」
「よろしく、アキ。ビールを二つと何かおつまみをお願い」
シゲさんに助けを求める視線を送ったら、ウインクが返って来た。「了解しました」、ピンクはニコッと笑ってブルーの横に座る。テルさんの脇を抜けてシゲさんがビールを二つ作ってくれて、冷蔵庫からタッパーを取り出し、そこからサイコロ大のものを十個くらい小鉢に盛り付ける。
「それ何ですか?」
「クリームチーズの醤油漬け。美味いよ」
楊枝で刺して渡されて、噛めば、口の中にホワンと広がる濃さ。顔だけで「美味しい」を表現したらシゲさんが嬉しそう、僕はお盆にそれらを乗せてピンクとブルーのところに行く。
ピンクがおつまみを見て、パアと明るくなる。
「これこれ。アキ、分かってるね。食べたことある?」
「はい。とっても美味しいですよね」
「ここに来る十分の一はこのチーズのためと言っても過言じゃないよ。もう五年は通ってるからね」
「常連さんですね」
一礼して下がる。シゲさんとテルさんは待っていてくれたのか、次の一言を発していない。
カウンターに戻って、ビールを飲んだら、チーズの残り味と混ざって、もう一段美味しい、それが顔に咲いてしまうのを止められない。テルさんが深刻に陥っているのに、シゲさんが真剣に受け止めているのに、僕はママの作った味に酔っている。僕は楽に呼吸をしている。
ピンクとブルーがひと笑いした。
テルさんがシゲさんをじっと見る。
「俺は嫌いな自分と心中したくはない。嫌いな俺を、変えたい」
シゲさんは顔色を全く変えない。
「じゃあ、どうする?」
「柴田のことはまだ好きでも嫌いでもない。だから、彼に言う。自己満足かも知れないけど、彼が今問題を起こしつつあることを伝えて、改善方法を教える。俺はチームのキャプテンではないけど、古参としてそれくらいしてもいい筈だ」
シゲさんがゆっくり頷く。
「自分で動くしかないよな。それでいい。結果が出たらまた次を考えればいい。なあ、テル、一番大事なのは気持ちだよ。テルの気持ちだ。そこに照らし合わせて、どうするかを決める。今、そうしたんだよ」
シゲさんの言葉がテルさんを駆け抜ける。
何かに到達した、シゲさんに訴える眼。
「俺は、皆で仲良く野球がしたい。そのために働くのは平気だ。俺の根っ子はこの気持ちかも知れない」
シゲさんがニヤリと、下手糞に笑う。
「きっとそうだな。そしたら、やるべきことはもっとシンプルに解釈出来る」
「新しい仲間になれるように介助する。俺は、……俺は、柴田と野球がしたい」
テルさんの青に生命が吹き込まれて、赤く開く。
僕にはテルさんのような人は一度も現れなかった。柴田さんが秀でていて、僕が劣等だから、差し伸べようとする人がいたり、いなかったりするのだろうか。それとも、テルさんかそうでないかの問題なのだろうか。龍の水は留まって、水のようで、ゆらゆらとしたら波紋が龍にいっとき戻る。水にしたり龍にしたりを繰り返して、自分がそこに映るのを嫌うように、水面を不安定なままに保つ。
二人が遠くなって、会話も遠くなって、カウンターの内側が金魚鉢のみたいに膨れる。
僕は映らない。
水を揺らす。
「アキ」
飛び込んで来たシゲさんの声、顔を上げれば二人が僕を見ている。
「はい?」
シゲさんは一瞬考えてから続ける。
「アキは野球をやったことがあるのかい?」
「少年野球はしてました」
「『は』」
「レギュラーになったことはないですし、中学からは野球から離れてます」
シゲさんはテルさんに視線を送り、その視線を受け取ってからテルさんがもう一度僕を見る。ここにない筈の夏のツンとした匂いがした。
「じゃあルールと基本的なことは、分かるんだ?」
「一応」
でも野球は僕の構成要素からもう外れている。杵柄は酔える程積み重ねていないし、巧妙な仲間外れはグラウンドでも存在して、僕のいつも通りはスコーピオンズの頃に完成された。あとはその焼き増し。
手許の水に龍が浮かばない。いくら振っても浮かばなくて、鏡にしても僕を映さない。
「アキくん、今度の日曜日にさ」
「テル」
シゲさんが遮って、首を振る。テルさんは言いかけたままの形で固まってから、元の構えに戻る。
僕はほっとして、シゲさんは小さく息を
でも時間は粘着いて、僕達の三角形の中に生まれた歪みが整うまでは耐えなきゃいけない。三人ともが誤魔化すようにグラスを空にする。空になったグラスに次を容れる。チャカチャカした動き、急によそ行きの服に着替えたみたいで、じわりと漏れた笑いをシゲさんに渡す。彼は鏡映しのように笑って、テルさんの方を向いて、伝染したテルさんが笑いながら僕を見る。一周回って帰って来た笑いは、元と僅かに色味が違う、僕自身のそれと三人を通過したそれを、重ねて、そのズレに三角形の歪みを整える力がある。
僕はまたここで呼吸をすることが出来る。危うくなんてない、取り戻せることは分かっていた。
時間はさらさらに戻る。テルさんが、やっぱり言いかけはよくないわ、と僕を呼ぶ。
「日曜日の草野球に参加しないか、訊こうと思ったんだ。だけど、アキくんは野球したくないだろ?」
「したくないです」
「だからシゲさんに止められたんだ」
シゲさんが継ぐ。
「したいかどうかは瞳を見れば分かる。……この話はここでお終い。な?」
そう言うことだって分かっていたのに、言葉になったら、凝固するみたいに纏まった。三人とも黙って、だけど粘着かない。
ブルーとピンクだけがひっきりなしに喋って、笑って、僕達はプロコフィエフの「プレリュード三番」を聴いているような、何も聴いていないような、静けさはコットンのワンピースのように広がる。
ピンクが「ママ!」、階段にはターコイズブルーのドレス。
湖の精がいたら彼女だ、降り立ったミライママは店内の一人ずつの顔を確かめる。
「みんな、お待たせ」
拍手のひと煮立ちに迎えられながら、ママは僕の隣に立つ。
「お疲れ様。でも少なくとも今日はあなたはこっち側よ」
「よろしくお願いします」
シゲさんが身を乗り出す。
「ママ、今日は何があったの?」
「彼を拾ったときにうっかり湖に落ちちゃったのよ」
「アキはどこに落ちてたんだい?」
僕は答えなくてはならない、だってみんなのママを長時間奪ったのだ。僕が口を開こうとするのをママがカウンターに隠れた手で制する。
「湖畔よ。私のドジっ子も大概よね」
「確かにママって、ドジなところあるよね。それがまたかわいいんだけど」
「シゲさん、それ、口説いてる?」
シゲさんは、えへへ、と曖昧に笑って、引っ込む。
「あなたアキって言うの?」
「シゲさんが名付け親です」
「そう。アキね」
ママは次はテルさんと話し始めて、シゲさんは一人で黙っているから、僕は横耳でママとテルさんの話を聞く。やっぱり草野球の話で、テルさんはママに応援に来て欲しい。シゲさんに相談した話は出なくて、僕の野球の既往のことも、テルさんは彼の活躍をママに詳細に伝える。
ママはその後にピンクとブルーのところに行く。注文があって、シゲさんと応じて、ピンクとブルーはママが来たことを子犬のように喜んでいる。笑いがポンポン跳ねる。テルさんはウイスキーを注ぐ。シゲさんはビールを注ぐ。僕は水を注いで、また三人とも黙っている。
同じ黙っているだけど、ママが空間にいる暖かさを僕達は食べている。僕はもっと息が出来る。
ピンク達のところからカウンターにママが戻って来て、僕は席を彼女に譲る。
「別にいいわよ。テーブルで座ってたし」
「僕もずっと座ってますから」
シゲさんが手招きして、ママは座らずに、彼の前へ向かう。
「ママ、今流れている曲、俺、大好きなんだ。『主よ人の望みの喜びよ』」
「私も好きよ」
「今日はピアノ曲しか流れないね」
「そう言う設定に、いつの間にかなってたわ」
ママの笑顔が嬉しくて体の栓が抜けたみたいに、シゲさんが全身で笑う。でもその暴れる喜びが渦を巻いて収束して、シゲさんはロマンティックに真剣な顔になる。
「今日と言う日には、ピアノがいいと思ったんだ」
「そうね。ありがとう。その通りだわ」
ママの表情に一瞬だけ翳りが差して、でもすぐに元の力ある顔に戻る。
「何か俺、今が一番満足してる。今より前も、きっと後も、こんなに胸が膨らまない。ママ、今日はこの辺で帰るよ」
「分かったわ。またね」
シゲさんは会計をして、「アキ、またな」と手を振って出て行った。ママの指示で彼の座っていたカウンターを拭いた後に、店の中を見渡したら、シゲさんが抜けたところに穴が空いている。次の誰かが来たらそこに座るのだろうけど、シゲさん以外はその場所の本物じゃない。
テルさんは野球の活躍の二周目、さっきと同じ内容を、ママは感心しながら聴いている。僕がたとえピンクとブルーのところに行っても、彼等は喜ばない。カウンターの中で座って、水を飲む。
ピンク達のところから注文が入った、ママに伝えると彼女が用意をして提供する。だからママがピンク達のところに行く、そのまま話す。テルさんは途中だったかも知れないし、三周目ならもうどこで切っても完結のように思うけど、ウイスキーが回り切って、視線が定まらない。
「テルさん」
「ん? アキくんか。どうした?」
「用はないんですけど、声掛けたくなって」
テルさんは微笑もうとするのがアルコールで麻痺して、不恰好な顔。
「嬉しいねぇ。でも生憎、そろそろ帰るわ。ちょっと今日は飲み過ぎた。最後に水を一杯ちょうだい」
僕は新しいコップになみなみと注いで、テルさんの前に置く。彼は一気にそれを飲み干すと立ち上がって、「ママ、お会計お願い」と言い残して「トイレ」とヨタヨタ向かう。
ママが手早く計算して、僕に伝票を預けてピンク達のところに戻る。
テルさんの席も穴になる。
今は中座しているだけだから、彼がいなくても席に温度がある。もうすぐなくなる。
テルさんは会計を済まして、扉の前でくるりとこっちを向いて「アキくん、またな」と出て行った。彼の座っていた場所をきれいにする。カウンターは元に戻っただけなのに、穴ふたつ。
ピンク達はママを独占し続ける。
他に客がいないから問題はないのだけど、僕はあの二人が帰るのを待ち始めている。
ママが戻って来た。
「閉店まで彼等と話すのかと思いました」
「私と話すのもいいけど、一緒に来た人と話すのも、大事でしょ?」
ピンク達はさらにビールを飲んでから、「ママ、おあいそお願い」と呼ぶ。僕とママはそれまでずっと黙っていた。過不足なく黙っていた。ピンクとブルーが店を出て、テーブルを片付けた。
「今日は看板ね」
「もう来ないんですか?」
「来ないわね。常連さんは大体来る時間が一定なのよ。今日の他にもお客さんはいるけど、来るならもう来てる筈。はい、札を『close』にして来て」
僕は返事をして、札を返す。扉の鍵を閉める。
ママはカウンターの中の椅子に腰掛けて、タバコに火を点ける。
「お店は喫煙なんですか?」
「そうよ。でも今日は吸う人がいなかったから私も吸わなかったの。さあ、座って」
シゲさんの席もテルさんの席も座ってはいけないから、真ん中に座る。
「タバコは吸わないの?」
「吸います。けど水浸しです」
「私の吸っていいわ」
煙の味が全身に行き渡って、
カウンター越しに対峙すると、ママの気配が濃い。この店はママそのもので、ママは強い。ブログだけでもそう思ったから、僕は彼女の真似をして、そのつもりになって、結果ここにいる。
ママは煙を吸いながら、遠くを見て、目を瞑って、僕を見る。
「アキ」
背筋が伸びる声。
「はい」
ママが吐いた煙を貫くように、託宣のように、言葉が迫って来た。
「あなたがどうして死のうとしていたのかはどうでもいいわ」
「どうでも……」
「行くところないでしょ?」
僕の落胆を短く堰き止める。
「ありません」
「じゃあ住み込みでここで働きなさいよ。もういいかなって思ったら出て行けばいいわ。でも、一つだけ確認させて」
圧力が押し寄せる、それが何か僕は知っている。視線を切らないまま、僕は頷く。
「ここはゲイバーよ。それは分かってるわよね?」
「分かってます。僕は――」
ママが遮る。
「アキの性的嗜好は今は聞きたくないわ」
それは必要な情報ではないのかな。僕の顔を見てママが笑う。笑うと掛かっていた圧が花びらのように四散する。
「そんな犬みたいな顔しないでよ。私は今、アキをここに置くかの判断をしたいの。それにゲイか否かは含まれないわ。だから、今は言わないで。明日以降なら言いたくなったらいつでも聞くから。……で、分かっているならいいわ。これからよろしくね、アキ」
「はい。よろしくお願いします、ミライママ」
「じゃあ早速、店の片付けをするわよ」
タバコを終えて、一つ一つの作業を教わって、僕の今日の最後の仕事はトイレ掃除だった。ママの指導によれば僕のこれまでのそれはごっこに過ぎなかった。
びしょびしょの服はママの服と一緒に洗濯してくれる、ただし干すのは僕の仕事だ。これから毎日、洗濯をやる。着る物をどっさり貸してくれて、元が誰のものかは訊けない。
「この部屋を使って。明日は三時くらいから仕込みをするから、それまでは自由にしてていいから。家の方の冷蔵庫のものは好きに食べていいわ」
タバコ一箱とライター、三千円をくれた。「日当よ」
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋は三階。ベッドと小さなちゃぶ台以外は窓しかない。シーツを敷いて、横になろうとして自分の体がベタベタして、シャワーを浴びようと階下に降りた。気配のあるドアをノックする。
「ママ」
「何? 入って来ていいわよ」
中のソファでママはテレビを見ていた。芸術関係の番組。振り向いた彼女はまだメイクを落としていない。
「シャワーを浴びたいんですけど、いいですか?」
「もちろんいいわよ。うちはバスタオルは一回使ったら洗濯のルールだから、そうしてね」
「はい」
風呂場は広くて、東京のアパートの四倍はある。お湯をシャワーから出しても空気がなかなか暖まらない。
頭からお湯を被って、体に染まろうとしていた湖が抜け出していく、でもそれはお湯じゃなくてママによってなのかも知れない。
みんなママを目当てに店に来ていた。
湯船に浸かりたいけど、今日は我慢しよう。明日はお風呂をねだってみよう。
体に残っていた湖は中和されていって、溶け出た。もう、無視出来るくらいに、流れ出た。
ドライヤーで乾いた髪が、この夜の空気みたいにさらさらして、ママにもう一回「おやすみなさい」を言って、キッチンで冷蔵庫から麦茶を出して飲んで、コップを洗ってから部屋に戻る。プレゼントして貰ったタバコを開けて、吸ったら、今日で一番、生きててよかったが強く、僕は息が出来る、ママ、ミライママ、彼女の懐で、甘えかぶって寝る。
大きな櫛でもっと大きな布を撫でる音がする。途切れなく撫でて、きっと布は無限のように広い。
薄目を開けたらカーテンの隙間から鈍い光が射している。
「ママの家」
夢を毎日見ていた、一枚皮を剥がれたこころに現実の焼き直しが迫って、僕はいつもどうしようもなく立ち竦んで、抜け出せもせず、進めもせずに、朝を迎える。だけど、泣いたことは一度もなかった。感情の蠢く場所よりももう少し深いところで、一塊の絶望が一歩育つ、踏み躙られながら、それでも一日を始める。ずっと繰り返していた、なのに、昨日から今日の間に夢がなかった。
昨日横になったときと、今が繋がっている。まるで撫でられている布のように滑らかに。
このまま寝ていたい。
でも仕込みまでには起きないといけない。時計を探すけど、ない。
外の音に耳を澄ませながら、昨日のことを反芻して、ストーリーが今に至ったところでベッドを出た。
カーテンを開けると霧のように粒子の細かい雨が降っている。遠くまで雲が続いていないのか、雲自体が薄いのか、雨なのに明るくて、眼下には胡桃湖が、雨の重さに少し沈んでいるように、まるで口を開いて僕を呑み込もうと待っているように、あの辺りが僕とミライママが最初に出会った場所だ。
頬は痛くない。
人影はなく、生き物すらいなそうで、僕と、ママと、湖の三者だけが息をしている。ママはもう起きているのかな。時計だけは買わないと、ママに挨拶をしたら街に出よう。
ピアノの音。
「軍隊ポロネーズ」、雄々しいメロディーだけど弾いている人は柔らかく愛のある人、ママだ。音に引っ張られるように階下に降りて、そっと扉を開ければママの背中。熟達した、ピアノと生きて来た人の技術、こころと気持ちと向き合うことをして来た人の情感、僕は音を立てないようにその場所に立って聴く。
やがて終わるとママはくるりと振り返る。
「おはよう、アキ。私は仕込みまでは弾くから、お昼ご飯は適当に食べちゃって」
「おはようございます。部屋に時計がないから、街に買いに行こうと思うんですけど」
「それならそこにある置き時計を持ってっていいわ。それでも行くなら時間までに帰って来てね」
「ちょっと考えます」
ん、と言ってママはピアノの方を向き、ベートーベンの「悲愴」を第一楽章から始める。置き時計は金ピカで天使のレリーフが彫ってある、手に持って背中でママを聴きながら、自分の部屋に戻る。
ちゃぶ台に時計を置いて、タバコに火を点ける。
「用がなければ街まで出る必要はない、と言うよりも、ここにいる間はママと買い出しに行く以外で街に出ない方がいい」
霧雨の光の砕きを見ていたら悟って、それは僕がここに来た理由によっている。
ネットに繋がらないし、携帯もない。ママのところに行けば見れそうだけどテレビもない。
「でもママがいる」
「悲愴」が第二楽章にかかる。途端に、書くことだけはしたいと気付く。
曲が終わるのを見計らって、ママの所にまた行く。
「ママ」
「どうしたの?」
「ノートとペンは、あった方がいいと思うんです。近くにないですか?」
「街に行かないとないわね。ここは本当に何もないのよ。今日だけ待てるなら、シゲさんに買って来て貰いましょう」
いいのかな。シゲさんはお客さん。
「大丈夫よ。それくらいはしてくれるわ」
「……、じゃあ、お願いします」
「ん。言っておくわ」
「ありがとうございます」
まるで僕は喋れて歩ける赤子だ。
頭を掻きながら部屋にまた戻って、ベッドに横になる。
「テンペスト」「愛の夢三番」「アラベスク一番、二番」ママの演奏が、ママの声が、雨の音をそっと横に押して、続く。僕は耳だけになってどこにいるのかも何を見ているのかも忘れて、ママの夢の中、「ラ・カンパネラ」の後に短い間が開いて、その引力に集中する、シゲさんと戯れた「埃っぽい寂しさ」、次の音を待つ。
レ。
レ。
始まった音楽は僕の知らない曲で、ママが書いた曲だってすぐに分かった。
永遠ではないこと。
それでも愛はあること。
その
何度も繰り返しては、もっとよい結末を求めて、裏切られて、でも諦めなくて、夢は叶わなさを積み重ねる程に強くなる、永遠ではないこと、それでも愛はあること。
「ママ」
涙。
涙がいつの間にか流れていて、止まらない。
「僕は」
ママの曲が次の楽章に入る。死のメロディー、何もかもが死に絶えた平野にママが一人で立っている。それが意味するのは愛の終わりだ。でも、それは愛が終わったんじゃなくて、愛はあるのに終わった。きっと、大切な人を失った。ママは今もそういう気持ちなのだろうか。それとも克明に呼び起こしているのだろうか。まさか全部が作り物だということはないだろう。
死の生んだ隙間が僕に思考を許したから、涙が止まる。
第三楽章は勇者の歌。またただ聴くだけになって、涙の中に佇む。
「ママは立ち上がった」
僕も立ち上がらずにいられない。部屋の中央、窓の外の雨の湖を捉えながら、屹立する。
次の楽章に進む。
それは昨日の夜、この店で起きていたこと、温度も、空気も。ホッとして、ベッドに座る。それが終章で、ママはそこで演奏を終えた。僕はタバコが急に吸いたくなって、火を点ける。
「ママ」
吸い終えたら横になる。そのままでいたかった。
でもママが弾き終えたなら、仕込みの時間だ。
階段を降りる手前の壁に写真が掛けてある、気付かなかった、湖をバックにして五人が写っている。真ん中には若いママ。左側で笑っているのはシゲさん、後の三人は分からない。
トントンとママの来る音。
「あら、最近はその写真も見てなかったわね」
「このお店の始まった頃の写真ですか?」
「どうしてそう思うの?」
「始まる、って感じがするから」
ママは写真を壁から取って、両手で慈しむ。
「そうよ。始まりの日。でも今日をちゃんとしないとね」
「はい。仕込みですね」
ママは写真を元の場所に戻して、僕を先導するように降りる。
「あの頃は、って昔話、アキは嫌い?」
「すごく興味があります」
「じゃあ、まずは掃除をしましょう。掃除の間は無駄口はダメよ。それが終わったら、私の話を、少しするわ」
「仕込みじゃないんですか? 掃除は昨日の夜にしたばかりですよね?」
ママは首をゆっくり振る。
「まずは掃除。それはお店の鉄則よ。ちゃんと今日の分をきれいにして、お客さんを迎える準備をしないとダメよ。玄関の外とか、小物の間とかもしっかりやるの。昨日のトイレ掃除くらい、手を抜かないで、やるの」
全ての掃除のやり方を指導されて、時間をかけて清掃して、整頓する。
汗をかきながら終えてみれば、店の隅々にまで手を入れた感触。店がずっと僕に近くなった。
「いい色になったわ」
「色?」
「掃除をすると店の色が変わるのよ。湖と一緒ね」
手を洗ったら、飲み物の補充や氷の準備、ビアサーバーの点検をして、おつまみの仕込みに入る。
「この湖に魅せられて、私は店をここに構えたの。もうずいぶん前のことよ。この県にはゲイバーなんてまだ一軒もなくて、反対する人もいたわ」
「ママはそれまでは何をしていたんですか?」
「東京のお店で働いてたわ。ナンバーワンだったのよ、すごいでしょ」
横顔のまま話すママと、その手許を交互に見て、僕は首を振る。
「ママなら当然だと思います」
「子供の頃の将来の夢って、叶わないんじゃなくて、夢が変わっちゃうのよね。大人になってからの夢って、諦めるのがすごく難しくて、それは次の夢が生まれないからかも知れないけど、私は自分のお店を出すことにとっても執着したの。アキは子供の頃にどんな夢を見たの?」
それを吐き出すのは、イガ栗を口から出すみたいに、その道中が細かく夥しく傷付く。でも、ママには情けなさも一緒に渡してもいいかも知れない。僕の躊躇に彼女は黙って手を動かしている。秘密ならそう言えばいい。そうじゃなくあろうとしている勢力が僕の中で強くなって、言葉を押し出す。
「野球選手に、なりたかったです」
「そっか。叶ってないのは見れば分かるわ。今は、夢はある?」
「ないです。何もないです」
「だから、ここにいるんだものね」
僕の顔を見てママが笑う。
胸に鈍痛が滲む、僕は笑えない。
ママは手許に視線を戻す。
「この店は私ともう一人がボーイで、二人で始めたの。写真に写ってて、シゲさんと後二人は、この店に通うって決めてくれた人達。シゲさん、そのために引っ越して来たのよ」
「気合いが違いますね」
「湖がね、私を呼んだのよ。胡桃湖の伝説は知ってる?」
「ママのブログで読みました」
ママは嬉しそうに恥ずかしそうに「あら、読んでるの?」と声のトーンを高くして、僕が「ブログでママのことを知りました」と告白すると「書いた甲斐があったわね」とまた柔和に笑う。
「その伝説は、逆さまに雨が湖から降る、それを見たくて、私はここに店を構えたの」
「見られましたか?」
「今のところは一度も。でもきっといつか見られるわ」
作業に集中する。枝豆を枝からちぎったり、野菜をカットしたり、チーズを切って漬けたり。
窓の向こうではまだ霧の雨が降っていて、でもここは店の中で、ママが横に立っていて、一緒に仕込みをしている。漬けダレに鶏肉を漬けて、ママが手を洗う。
「この店の名前、由来を知っておいて」
次の作業を始めようとしていたけど、ながらで聞いてはいけない、僕はママを向く。ママは一回だけゆっくりと瞬きをする。
「私と、最初に一緒に始めた彼が好きだったアニメ映画があってね」
ママの声だけが響く。
「その中に出てくるアンドロイドの子が『ロプテ』って名前なの。そこから取ったの」
「ロプテ」
「昔の映画だからね、知らないわよね」
僕が頷くのを待ってからママは続きを始める。
「ロプテはロボット帝国からのスパイなの。でも本当は人間と仲良くなれるんじゃないかってずっと思ってて、出会った主人公達と色々あって友情を築くの。そして愛も。ロプテは使命よりも友情を、愛を取って、ロボット帝国は撃退される。そこで物語はハッピーエンドで終わるけど、ロプテのしたことは裏切りよ。その後ロプテがどうなったのか、ロボット帝国とはまた戦うのか、和解してロプテの夢見た共存になるのか、全然描かれてないのね」
ママは新しい楽章が始まるように切り出し直す。
「でも私にとって、どんなお姫様よりもロプテに憧れたわ。きっと彼女のようになる。そう信じて、そうやって生きたわ。だから、いつになっても友情と愛のために生きられるように、この店に『ロプテ』と付けたの」
ロプテ。
「他のことはどうにでもなるわ。このことだけは覚えておいてちょうだい」
「刻みました」
「アキ、あなたはうちの一員よ。いつか去るその日が来ても、ずっとうちの子だからね」
僕は息を大きく吸う。それを吐けば、全部が涙になる。泣けばいいのに、僕はそれを我慢して、息を詰めて、ママの眼をじっと見る。
「ん。じゃあ、残りを片付けちゃいましょ」
頷いて作業をしながら、溢れそうなものを全部元の器に返した。
六時には全部の仕込みが終わって、ママと順番に手を洗う。
「七時半になったら店でお客さんを待って、八時になったら開店。それまでは自由にしてて」
ママは階上へ、僕も部屋に戻る。
階段のところでさっきの写真、どの人がママの始まりの仲間かは分からない。でも、そこに恋があったかも分からないし、今ここにママがいる、だから、そういうもの全部ロプテの内側に秘めさせよう。
ママは湖を見ている筈だ。
僕も窓の向こうを眺める。
陽が落ちて、止まない雨と一緒に湖は真っ黒。僕はあの中に入った、黒は死。ママが助けてくれなかったら、僕は。
ママは同じ湖を見詰めて、きっと違うことを想っている。
七時四十五分、ドアをノックする音。
きっかりだ。きっとシゲさん。開ければ彼、傘立てに傘を挿して、手に紙袋。
「アキ、今日も会えたね。はい、これおみやげ」
お礼を言いつつ彼を迎える。シゲさんは昨日と同じ席に座る。ママのピアノと掃除で二度新しくなっても彼のための席は穴のままだったから、胸を撫で下ろすような収まり、今日が本当の僕の初日だ、頑張ろう、頑張ろうなんていつ以来だろう、シゲさんのために頑張ろう。
「開けてみてよ」
ノートが二冊に鉛筆五本と消しゴム、肥後守。
「ありがとうございます。欲しいものが全部。……でも、肥後守なんて、高かったんじゃないですか?」
「いや、大したことないよ、ママに半分貰うし」
僕の検分に下手糞なウインクで返して、シゲさんは自然な動きでカウンター側に来る。ジョッキ。
「しばらくはいるのかい?」
「そうしようと思ってます」
僕の分もカウンターに並べて、定位置にお互い座る。「今日はチーズを漬けた、昨日のアレを出してちょうだい」、自分で仕込んだタッパーから器に盛り付けると、僕がこの店を切り盛りしている錯覚、錯覚だって分かりながらシゲさんの前に置く。「おひとつどうぞ」、渡された爪楊枝から口に含んだチーズはママの味がした。
「ずっと通ってるけど、この味は変わらない。時間は残酷に俺をじじいに変えて行くけどね」
またウインク、でもさっきより弱気。茶目っ気な筈なのに、凹みが掌に察知されるような、黒い、胸騒ぎを伴う。彼を観察しても理由が分からない。でも訊いていいのだろうか。僕にその資格があるのだろうか。
シゲさんは言った切り黙って、ビールを飲んでは黙って、でも機嫌が悪い訳じゃない、違和感はこびりついたまま。彼が話さないから僕も静かに、ゆっくりと飲みながら、音楽がない、僕の中にはママの演奏が残っているし、この店にもそれは保たれている、それで十分だけど、シゲさんは昨日は勝手にピアノ曲を流していた。
落ち着かなさの中に立っていることもこの仕事の内なのだろうけど、僕は仕事でここにいるのかな、いや、そうだ。ママに任されている。シゲさんに話しかけないことが、今するべきことだ。
彼は何を見詰めている、分からない、何かを見詰めている。
喋らないシゲさんと、僕の間に張ったものがたわんで揺れる。たわんだままで維持するから、話すよりもずっと削られる。
しんどい。
でも待たなくちゃ。
何を? シゲさんの言葉を?
それとも。
「シゲさん、今日も早いわね」
緑のドレス、ママ。僕が
「どうしたの? シゲさん」
シゲさんは自分で呼びながら、そこで詰まる。ママは待って、シゲさんはビールをグイッと飲んでから、居住まいを正す。あのね、と小さく前置きをする間に、話す覚悟を決めたのが瞳の色で分かる。
「俺、自分が思っていたよりジジイみたいなんだ」
ママが目をまん丸にしてから笑う。
「何言ってんのよ。鏡見てから言いなさいよ」
「病院でさ」
「病院?」
ママの顔に暗雲、笑えない話に対する構え。
「前立腺が」
緊迫しているのはシゲさんじゃなくてママだ。彼の次の言葉に強烈な集中を浴びせている。
「前立腺がどうしたのよ」
「でかくなってるって」
シゲさんは死刑宣告を受けたような顔。ママはプツンと緊張が切れた顔。
「何よ。癌にでもなったのかと思って心配しちゃったじゃない」
「うん。死ぬ病気じゃないよ。でもね、前立腺の肥大って、ジジイの代名詞じゃないか」
「遅かれ早かれよ。そんなに落ち込まないの。治療はして貰えるんでしょ?」
「それはそうだけど」
シゲさんはモジモジとおつまみを見るから、そこに何かあるのか。前立腺を反映した何かがあるのかも知れない。だけどそれは彼にしか見えない、僕は自分に前立腺があることを意識したことがない。きっとそれは、虫垂のようなものだ、機能が似ているんじゃなくて、病気にならなければ意識に上らない性格が同じ。彼くらいの年齢になったら友人と酒のつまみに話すようになるのだろうか。それとも髪の毛の死滅が明らかであっても話題にしないようにそっとそれぞれの胸の中に置いておくものなのだろうか。
ママは静かに待っている。シゲさんのために待っている。
僕がこの場所にいることを二人とも忘れている。
「俺さ」
シゲさんの小さな声。
「うん?」、優しい声のママ。
「癌かも知れないって、最初に言われたんだ。それで怖くて。こんなに生きているのに死ぬのがまだ怖くて、誰にも言えないし、癌じゃなくて、本当に安心したんだ」
「バカねぇ。私に言いなさいよ。どうして黙ってたのよ」
「そうだよね。本当、どうしてだろう。いつも何だって話すのに、言えなかったんだ」
ママが笑って、その笑顔にシゲさんが引き込まれる。
「でも、今日言えたから、よし、よ。もし癌でもきっと今日話してたわ。よく言ってくれたわね、シゲさん」
「ママ」
シゲさんの眦からポロポロと涙が零れて、両手で必死に彼はそれを掬うけど、流れる方が強くて、びしゃびしゃになる。ママはそれを見守りながら僕に「ビールのおかわり持ってって」と囁いて、僕は新しいジョッキに注ぐ。シゲさんの前に置く。
ママがシゲさんに身を乗り出す。
「今日はそこら辺の気持ち、洗いざらい喋って貰いますからね」
「うん。ありがとう、ママ」
シゲさんはジョッキを口に運ぶ。
トン、とジョッキを置いてから、彼は僕を久し振りに発見して、ママがそうした意図を汲んだ顔で、アキ、と呼び付ける。
「何だこの下手糞なビールは」
「すいません」
ママが大笑いする。それに釣られるようにシゲさんも笑う。僕はよく分からないけど、笑った。
「ごめんねシゲさん。よかったらアキにビールの注ぎ方を教えて貰えないかしら」
「それはいいけど、まったく、ママ、悪戯ひどいや」
「私達には理不尽な笑いが必要なときもあるのよ。アキ、ごめんね、使っちゃって」
僕は首を振る。
「いいえ。僕はママの手下ですから」
「違うわよ。ボーイよ」
ママもシゲさんもまだ笑っている。
シゲさんは今夜ばかりはママを長く独占した。一人ずつ、二人の客が来て、それぞれの席に座って、ミントとマメノスケと呼ばれていた。テルさんは来なくて、ピンクとブルーは少し遅れて来た。
一つ一つのオーダーを、ママにレクチャーを受けながら調理したり並べたりして、ママが他の客のところに行っている間にシゲさんにビールの注ぎ方を習った。「今日はビール訓練日なので、ちょっと入れ方が下手糞なビールでよければ半額にするわ。ちゃんとしたのがよければ正規の料金で飲んでね」ママの発令に練習ビールが売れた。他の全員が帰っても、シゲさんはまだ店に残っていた。
「いいわよね?」
ママが右手でピースの閉じた形、シゲさんが頷く。僕も吸いたい、でもママで、シゲさんで、僕だから、シゲさんに訊けない以上は僕は我慢だ。
シゲさんが「アキ」と呼ぶ。
「何でしょう」
「いいかい、仕事ってのは何かを提供することだ。技術でも、物でも、酒でもいい。でもな、ママが提供しているのはもっとでっかい、言うなれば『場』なんだよ」
「場」
「俺はその場の中で、笑って、……泣いて、また笑うんだ。一番の仕事ってのは、人がこころを動かせる『場』を提供する仕事だよ。ママの力をよく学びな」
ママは何も言わない。ママが場を生むには何重もの仕掛けがあって、その一端を僕は見た。でも、シゲさんはそう言う実際的な仕組みのことを言っているのではない、僕がここにいる意味自体を問うている。
「学びます」
「アキは素直だね。でもその素直さは、揉まれてない素直さだ」
そんなことはない。僕は生き残りを賭けて必死の選択をして来たし、ここに来たのもそうだ。そんなに単純じゃない。
シゲさんがニヤリと笑う。
「ほら、すぐ顔に出る。僕は頑張って来ました、って。そこを否定しようってんじゃない。むしろそれはいいことだとも言える。アキ、怒らずに聞きなよ」
「怒ってません」
「ん。俺が言いたいのはさ、揉まれなくて済むならその方がいい、素直さを、まだお前は持ってるってことなんだ。俺はとっくに失っているし、この店に今日来た誰もが揉まれた向こう側だよ。でもお前は違う。揉まれる方に進むか、そうでないかを、今なら選べるんだ」
何をすれば揉まれるのかが分からない。不理解が僕の眉間に皺を寄せる。
シゲさんがそれを見て声を上げて笑う。ママは一歩引いて静か。
「この店で働いていれば分かって来るよ、きっと」
「そうですか」
「ずっと分からなかったら、教えるよ。でも、今日じゃない。ねぇ、ママ、そうでしょ?」
「そうね」
そこからまたシゲさんはママと話し込んで、僕は彼の言ったことがよく分からないまま、タバコも吸いたいし、でも嬉しそうにママと話し続ける彼を見ていたらきっと、意地悪じゃない、だから考えてみよう、徐々に一方的に自分の中に生まれた蟠りが溶けて、普通の僕に戻った頃、シゲさんが帰った。まだ雨は降り続いていた。
「シゲさん、いい顔で帰りましたね」
「そうね。この仕事の醍醐味の一つよ。人間はね、人間じゃないと癒せないの」
トイレ掃除は一発で合格が出た。僕はここにいて、息をして、少しだけ役に立っている。
部屋から見る湖の黒さ、僕は自分の足で湖に入って、目前に死があった。選ばなかった方の未来ではなくて、選ばれなかった方の未来が、湖の中に塗り潰されている。その黒さに引き込まれそう、カーテンを閉める。
閉じたカーテンの向こう側、雨の気配、じんわりと侵食して来る、それを押し返すように息を吐いて、低いテーブルに貰ったばかりのノートを広げる。今日一日のことを書いて、学んだことを書く。シゲさんの言った「揉まれる」の意味は分からない。「アキ」になる前のことを忘れた訳じゃない、僕は僕であろうと努力し続けた。それはもしかしたら彼の言う「素直さ」を保ったのかも知れない。逆説的なようで、一元的に説明が出来る。それと「揉まれる」ことは両立するのだろうか。それとも二律背反なのだろうか。それが何か分からなければ、検討することは無意味……、結局ふりだしに戻って、「揉まれる」が何かを知ろうとするところから。
鉛筆を置く。天井を見る。答えはどこにある。分からない。分からないまま今日は終わり。
日付を書いて、「アキ」とサインした。
僕のことがママのブログに書かれているかも知れない。確かめるなら、街でネットカフェに行くか、ママかお客さんに訊くか。ここに来る前、僕は「ミライのブログ」を
「ミライのブログ」に、でも、書かれていることは殆どがママの考えや感性のもので、店の出来事に触れられるのは稀だった。店の宣伝のためのページはあっても、更新されたことはなかった。
僕が体に入れていたのはママの成分で、だから、ここに来た。だから、ママの真似をした。
あれだけ欲していたブログを、見られなくても何ともない。
「当たり前か」
部屋を出れば、階段の前にあの写真。
シゲさんが若い。言う通り残酷だ。
ママも若い。あまり今と差がないけど微妙な違いに若さが差し込んでいる。あとの三人も、年月を経て、その分だけ老いて、でも同じ本人だってきっと分かる。
「シゲさんとママで加齢に差が酷い」
時間は本当に平等に流れているのだろうか。人ごとにも、同じ人の中でも変化するんじゃないだろうか。僕の今は、アキの今は、時間が遅い。一日が長いんじゃなくて、体感されるものがしっとりして、肌に引っ掛かりがある。ママに流れている時間に巻き込まれているのかも知れない。
「それも当たり前かな」
写真にそっと指で触れて、ママの部屋を訪ねる。
「ママ」
「はーい」
ドアを開けたママは午前中なのに化粧が済んでいる。
「どうしたの?」
「ご飯を作ろうと思うんですけど、ママも食べますか?」
「あら、いいわね。和食? 洋食?」
「パンとハムエッグとか、そんなのしか出来ないんですけど、どうでしょう?」
「素敵。よろしくね」
ママが笑うと黄金の魔法の粉が撒き散らされる。僕は限界までそれを吸引して、ふわふわした気持ちでキッチンに立つ。人のためにブランチを作るのは初めて、いや、大切な人のために。
フライパンで焼いて、パンをトーストして、サラダ。ドレッシングがないから塩と酢とオリーブオイル、胡椒で作った。
「ママ、出来ましたよ」
「はーい」
ママはカットソーとジーンズ。
「いいわね、嬉しいわ」
「早速食べましょう」
向かい合って座ると家族みたいだ。
「サラダのドレッシング、手作りなの?」
「見よう見まねですけど」
「美味しいわ。ハムエッグもいい焼き加減。自炊してたのかしら?」
「はい。でも大したレパートリーはないです。同じもののローテションでした」
「分かるわ、気合い入れないと、食事も服もそうなっちゃうわよね」
ママの食事のマナーは先の先まで神経が届いていて、僕はその所作にエロスを感じて一瞬目を逸らしたけど、違う、存分に味わおう、鼓動を感じながら彼女の食事を見る。
食べ終えて、ごちそうさまを二人で言ってから、ねえ、ママ、と僕の声に、ママは、どうしたの? と柔らかい。
「時間って、一律に流れてないんじゃないかって思うんです」
「どうして?」
「ここに来てから、僕の感じる時間がゆっくりなんです。それが不思議で、訊いてみたくて」
そうね、とママは考える。キッチンのすぐ脇のダイニングは少し青い。その青さはママの知性が漏れたものの集積で、僕は質問をする前からその青い空間の中にいた。
「人体には一律で、人間には変動する、かしら」
「人体と人間、ですか」
「人体は物理現象よ。そこにロマンはないわ。でも、人間はロマンだけで出来ているわ。時間の感じ方がこころによって変わる、と言う以上の時間の変化が、確かにあるわ。それはロマンの輝きによってよ」
「ロマンの輝き」
ママがふふふ、と笑う。少しだけ伏目に僕を見る。
「ブランチのロマン、時間の流れを変えたわ。私には」
「僕にもです」
初恋が特別なのは、具体的で実際的な行動を取ることが出来ないまま、埋もれて、でもずっと埋まり切らずに顔を出すからだ。僕はママにそういう何かをしない。立場がそうだからじゃないし、勇気がないからでもない。ママは僕の初恋になる。僕はママに焦がれても、ママが大切過ぎるから、その手を握れない。
「ありがとうございます。片付けます」
「あら、片付けくらいはやるわよ」
「いいです。やらせて下さい」
ママは悪戯っぽく笑って、「じゃあ、お願いね」と残してダイニングを出ようとして、くるりと振り返る。
「今日は買い出しに行くわよ。片付けが済んだら準備してね」
「はい!」
歩くのかと思ったら、車だった。赤い箱バン。店の裏側に駐車場があって、湖の方ばかり見ていたから気付かなかった。
「胡桃湖駅に街があるから、そこまで行くわよ」
乗り込んで車窓から見る「ロプテ」と反対側に胡桃湖。横にはママ。すぐに店は消えて、右手に湖がずっと続く。奥には森も見えて、鳥が飛んでいる。この道を歩いて僕は来た。電車に揺られ半日以上をかけて胡桃湖駅に到達して、僕は歩いた。
すれ違う車も追い抜く人も全然いなくて、低速で畔を独占する。
常連の人達もきっとこの道を歩いて店に来て、歩いて駅まで帰る。
何かを喋るより早く駅側の駐車場に着いて、そこは商店街の端っこだった。
「反対側まで行って、戻りつつ買い物をして、車に到着する、って作戦よ」
「分かりました」
ママは何もしなくても目立つ、化粧だけじゃなくて気配が溢れ出ている、でも、街の誰もママに反応しない。僕は何があっても堂々としていようと決めていたけど、穏やかに行路は続き、やがて商店街の反対側に出た。
「おつまみの材料と、私達の生活用品がターゲットよ」
「お酒とかはいいんですか?」
「お酒はお店に運んで貰ってるわ。さあ、行くわよ」
それだったらこんな端っこまで来なくてもよかったんじゃないのかな。
「あ、ママ、今日は買い出しですね」
商店街の一番端の美容室から、常連のピンクが出て来てママを捕まえる。
「そうよ。どう? 繁盛してる?」
「今日は忙しいですよ。いつもこうだといいんですけどね」
「また私のカットもお願いね」
「もちろんです。ママは一番の常連さんですから」
ピンクがひまわりのように笑う。
「アキのカットも今度お願いしようかしら」
「はい、是非切らせて下さい」
二人は笑って、じゃあまた、と言って別れる。
ちょっと進んだら、ママは「居酒屋フルイケ」に入る。
「ママ、居酒屋さんには買うものないですよ」
「そうね。買うものはないわね。……あ、店長! 元気にしてる?」
入道みたいな男性がママを認めてニヘラと笑う。
「ミライさん、元気ですよ、この通り」
「どう? 最近お客さん入ってる?」
「ぼちぼちかな、例年と比べても同じくらいですね」
仕入れとか物価とかの話と客足の話をしてからママは、またね、と言って戻って来た。
斜向かいのイタリアン、その隣の甘味処、その隣、その向かい、二件向こう、……。選挙で勝てそうなくらいにママは行脚する。僕は一緒に店に入ったり、紹介されたり、されなかったり、店の前で待ったり。
ようやく、八百屋に至ってみれば、この前来ていたマメノスケが捩り鉢巻をして大声を出している。
「ママ! らっしゃい!」
「今日はお勧めは何かしら?」
「なす、きゅうり、銀杏あたりがいいのが入ってるよ。あと、変わり種としては葉トウガラシが美味しいよ」
「あら、素敵ね。今の全部と、後は……」
僕は買い物バッグにどっさりの野菜を抱えて、ママに付いて歩く。ママはまた色々な店に挨拶をして回って、その合間に香辛料とかドレッシングとかを買って、小さな商店街を駆け抜ける頃には三時間以上経っていた。
最後のカフェを出て、ママが僕を振り返る。
「大変だったわね。でも、付き合ってくれてありがとう。お陰で楽に回れたわ」
「いつも、こうなんですか?」
「そうよ。大事なことなのよ」
車に乗り込み、店に戻る。ママは平気な顔をしている。
「仕込みまで、しっかり休んでね」
「そうします」
部屋に戻るととにかく横になりたくて、目覚ましだけかけて、目を瞑った。
夢の終わりにピアノが入って来て、そのメロディーを聴きながらシームレスに現実に戻って来た。まだ目覚ましは鳴っていない、ドビュッシーの「月の光」の後、ママの曲が始まった。もうすぐ休憩は終わって、仕込みが始まる。
目覚ましをオフにする。
出来るだけ体を休ませなきゃ、これから夜が本番なのだ、寝返りを打つと開けたままのカーテン、窓の向こうに曇天が渦巻いている。それでも雲を貫く光が何条か射していて、もし生まれてからずっと雲のある日だけが続いていたらあの光に僕は何を、雲の向こうにある世界がどんなものだと、想像しただろう。きっとそっちの僕もある日、自分で向こう側に行くと決心して、飛ぶのだ。誰に背中を押される訳でもない、自分で決めて、自分で飛ぶ。僕が飛んだその理由が逃避にしか見えなかったとしても、決めたのは僕だ。
ママの曲が第三楽章を終えて、始まった次の楽章が、昨日と違う。喜びも笑いも、もっと根を張っている。
ママの曲はママの人生を映している。つまり、第四楽章は「今」なんだ。今が、前よりもいいとママは感じている、僕の分だ。きっとブログには僕のことは書かないけど、ママのこころには僕が確かにいて、それを演奏という形で表現している。
「ママ」
嬉しくて駆け出して、でも音のしないようにママのところに。
曲が終わるまで彼女を認めながら、静かに立つ、脈打つ感動が全身を駆け巡る。
「アキ、仕込みまではもう少しあるわよ」
「ママの曲、今を演奏しているとこが、前よりもずっと、ずっと希望に溢れているんです。それが嬉しくて、伝えたくて、来ました」
「そうかも知れないわね」
ママの言葉を吸い込んで、僕の嬉しいが声になる。
「僕が来たからですよね」
ママは小突かれたような顔をしてから、柔らかいけど確かな輪郭を持って笑う。
「それは違うわよ」
「え」
「アキが曲に入るには、まだ足りないわね。でもどんな音楽をするかは私の勝手だから、気にしないのよ」
僕は漆喰のように固まったまま部屋を出される。ママは僕が去らない内から別の曲を弾き始めた。知らない、きっとママの作曲したもの。でも、それが僕のための曲とは思えない。
力の入らない体で部屋に戻り、タバコを吸う。
蜜月は始まっていなかった。いつの間にか彼女にそれを求めていた。既にそうなっていると思い上がっていた。内臓だけ落っことしたような気持ちが、煙が消えるより早く羞恥の炎に焼き換えられてゆく。
「ママに直に言ってしまった」
僕はどんな顔をして仕込みをすればいいのだ。ベッドに転がってじたばたしてみても何も変わらない、そうだノート、失敗までの転帰を記す、書いたものを眺めて、ああ、もう一度タバコに火を点ける。
さらりと、流星が流れるように謝ろう。それしかない。
時間。店に出る。
「掃除は任せても大丈夫?」
「出来ます」
頷くママを逃すまいと視線をぶつける。
「さっき、僕、自惚れたことを言ってすいませんでした」
「いいわよ、そんなの。むしろそう言う空想をさせるくらいの音楽が出来たってことが私は嬉しかったわ。これからも感想があったら言ってね」
「はい!」
ママの音楽に食い込めるだけの僕になりたい。恋愛をママとしなくても、ママのこころに残りたい。
掃除を全霊で終わらせたら、敢えてママにチェックをして貰う。
「いいわね。完璧よ」
「よっしゃっ」
「じゃあ食材の仕込みを始めましょうか。今日は葉トウガラシがあるから、これを使った料理を出すことにするわ」
横並びで立って手を動かす。
「あなたもピアノ、弾けるでしょ?」
僕の手が止まる、でもすぐに動かす。
「弾けます。でも下手糞です。レパートリーも料理と同じくらい少ないです」
「好きな曲は何?」
「弾くならパッヘルベルの『カノン』、聴くなら、お世辞じゃなくて、ママの曲が好きです」
ママのにっこりした頬が横顔に溢れる。
「アキがいる内に完成するかしらね」
「きっとしません。第四楽章が出来たら、第五楽章に行くと思います」
あはは、ママの笑い声がカウンターの内側に響く。
「間違いないわね。私が死ぬときまでずっと続くわ。よく聴いてるわね」
「……ママはピアニストだったんですか?」
「惜しくもプロになれなかったのよ。でもピアノは今も大好き。昔はイベントなんて言って、あのピアノ部屋にお客さんを入れて、ビールとか飲みながら何人かでピアノの演奏をしたのよ」
あの部屋で。
「結構窮屈ですね」
「だから少人数ね。シゲさんも参加していたわ」
「シゲさん、ピアノ弾けるんですか?」
「シゲさんは聴くだけ。皆勤賞じゃないかしら」
ママのピアノが変化したのは昨日のシゲさんとのことだ。大事な人なんだ。彼の不安定を抱き締めて、笑顔で返した、それが曲に反映されていた。
葉トウガラシは刻んで、味噌と香辛料と混ぜ込んで、ディップスになった。野菜スティックで食べる。ママと試食して、二人で目をまん丸くして、「これは傑作ね」「傑作ですね」と言い合った。
残りの仕込みを終えたら、ママが「一曲弾いてよ」、ピアノ部屋に行く。
グランドピアノは黒より少しだけ茶色い。皆が座ったであろうソファにママが腰掛ける。
「カノン」
息を吸い込むように構えてから、優しく、労るように、慈しむように。
楽譜通りに三パートを弾いてから、アドリブを始める。と言っても、何千回と弾いている中でいいと思うものを引き出しただけで、それを三パートと同じ分弾いて、元の楽譜にある終わりに繋げた。
曲が終わった後の静寂が好きだ。ママもそれを味わっている。
僕は立ち上がり、コンサートのようにママに一礼する。
「よかったわ」
「ありがとうございます」
「アレンジがとってもキュートだったわ。アキそのものの音ね。よく弾き込んであるわ」
「好きなんです」
「いい音を、この家も吸えて喜んでるわ。これからも弾きたくなったら言ってね。残念ながら私が弾くのが優先だけど」
「はい」
パッヘルベルのカノンは和音の進行が繰り返しなので、クラシックをする人がアドリブをやってみるときに選ばれ易いと踏んでいる。作曲をするママなら、同じようにアドリブなりアレンジをこの曲でやったことがあって、彼女には彼女の音律がカノンにあって、その視点から僕のアドリブ的アレンジを聴いていたのではないか。
「じゃあ、また後で、お店でね」
ママはピアノをもう少し弾いたけど、カノンは弾かなかった。
今日もシゲさんは来て、テルさんが来て、マメノスケが来て、三人で全員だった。葉トウガラシのディップスは好評だったけど、全部は売れない。マメノスケは自分のところの食材が一等賞になったみたいに喜んで、ママと野菜について話し込んでいた。ビールは半額にはせずに、ママと僕の分で練習をして、シゲさんは「八十点」と厳しい。テルさんはやっぱり野球。
「ママ、試合見に来てよ。ママのためにホームラン打つよ」
「そんなマンガみたいに打てないでしょ?」
「いや、ママのパワーがあれば、打てる。野球はメンタルなスポーツなんだ」
「そうねぇ」
テルさんは鼻息荒く、ジェスチャーが肥大してゆく。
「次の試合は、決勝戦、しかも宿命のライバル『キューカンバーズ』が相手なんだ」
「シチュエーションはいいわね」
「でしょ? 一人じゃいまいちなら、アキくんも来ればいい」
シゲさんが視線でテルさんを制する。でもテルさんは止まらない。
「どうだい? アキくん、見るだけならいいだろう?」
「そうですね。見るだけなら」
別に野球が嫌いになってやめた訳じゃない。でもまた野球をするために集団に入るのは嫌だ。レジャーとしてママと行くくらいは、いい。
「我が『ナットクラッカーズ』の栄冠を是非その目で確かめて欲しい。ねえ、ママ、アキくんもいいって言っているし、ねえ」
ママは微かな溜め息、眉を緩める。
「分かったわ。で、いつなの? 試合は」
テルさんが一回り大きくなる。両手をカウンターに突いて身を乗り出す。
「明後日の土曜日」
「何時からかしら?」
「十二時から、胡桃公園の球場で」
んん、とママが考える。
「終わる時間によるわね。仕込みまでに帰らないといけないから、試合途中で帰るのも感じが悪いし」
テルさんはにっこり笑って、胸をドンと打つ。
「それなら大丈夫。試合時間は九十分と決まってるから、前後諸々含めても二時には終わるよ」
「そうなのね。じゃあ、アキと観戦に行くわ」
シゲさんが手を挙げる。
「俺も行きたい」
「どう? テルさん」
「もちろん、応援お願いします」
マメノスケは関係ない顔をして、ディップスをポリポリやっていた。
ママがマメノスケのところに行った隙に、シゲさんが「アキ」と手招きする。
「お前、野球大丈夫なのか?」
「チームに入らなければ」
「そっか、ならいい。当日は思いっ切り応援しような」
僕の胸の中に暖かさが流れて来て、「じゃあ俺は帰るね」シゲさんに、いつもより大きな声で「ありがとうございました」と見送った。
テルさんもマメノスケも帰って、声は命だ、今は空っぽで静か。
土曜日、ママは真っ赤なドレス、僕達は球場まで歩いた。曇天の下、湖から水の匂いがふわりと流れて、日傘を差すママ、僕は手作りのサンドイッチと缶ビールをバッグに入れて。
「野球の試合なんて観るの、いつぶりかしら」
「前は観てたんですか?」
「そうね、テルさんが若い頃だから、もうウン十年前の話ね」
「ママはスポーツはしないんですか?」
「午前中に走ってるわよ。でもそれ以外はしないわね」
僕はママの脚を見て、自分の脚を見る。
久し振りに蝉の声が、一匹だけ聞こえる。間の期間はどうしていたのだろう。それ以上に、メスは寄ってくるのだろうか。もう一匹もいないか、逆にオスがラストワンだから大量にメスが来るのか。有利なのか不利ななのか全体像が見えないと分からない。これから始まる試合が優勢なのか劣勢なのかも、見てみないと分からない。
球場は内野側に観客席があって、テルさんのチームが三塁側のベンチと言うことでそっちのスタンドに陣取る。グラウンドでは練習をしている。スタンドの端から、僕達を見付けたシゲさんが手を挙げて近付いて来た。
「お、もうお弁当出してるの?」
「シゲさんも食べましょうよ、十分な量を作ってあるわ」
「ママのお弁当なんて、嬉しいねぇ」
缶ビールを開けて飲むシゲさん、僕はサンドイッチを食べる。
「おーい!」
グラウンドから大きく手を振る声。
「来てくれてありがとう! 見ててくれ!」
ユニフォームに「3」のテルさんは決まっていて、「おい、誰だよ?」とチームメートに小突かれていた。
「さあ、テルさんは鬼神の働きが出来るかしらね」
ママは僕達によりも、グラウンドに、テルさんに言う。
テルさんのチームは後攻で、彼はライト。
「守備でテルの出る幕あるのかな」
シゲさんが呟いた通り、一回表はテルさんは何もしないまま終わった。その裏も三者凡退でテルさんまで回らず、僕達は何を応援しているのだろう、テルさんじゃなくてチームじゃなきゃいけないのかも知れない。
三人でサンドイッチを食べながら、無言で試合が進むのを見守る。二回の裏に四番でテルさんが出て来たところは「テルさーん」と声を枯らしたけど、三振した。
その後もランナーの出ないまま試合は進んで、テンポよく回だけは重ねて、シゲさんが「玄人好みの投手戦だね」とママに囁くけど、ママは「テルさんの一発待ちよ」と取り合わない。僕は乱打戦だろうとどっちでもよくて、テルさんに何か言葉をかける根拠になることがあればと念じる。このままじゃ引き分けで試合が終わってしまう。
打者二巡目、テルさんの第二打席。ママが立つ。スタンドの最前線まで駆け降りて身を乗り出す。
「テルさーん! 打ってぇー!」
キューカンバーズのピッチャーがその声にママを見る。
あ。集中力が切れた。
帽子を触って、もう一回撚り合わせようとしているけど、彼の集中力は一球投げないと戻らない。
放った球。
カァン……!
ナットクラッカーズの大歓声。右腕を掲げるテルさん。
「本当にホームラン打ちやがった」
シゲさんが棒立ちになって呟いて、僕は言葉が出ない。
ママは飛び跳ねて喜んでいる。
塁を回って、テルさんはママにもガッツポーズを捧げる。バックホーム、ベンチの歓迎。
試合で入ったのはこの一点だけだった。
終わった後、ベンチの近くまで行って、テルさんを呼ぶ。
「アキくん、見た? 俺のホームラン」
「見ました。凄かったです。でも、僕よりもママがキャーキャー言ってました」
ママのところまで引っ張って来ると、テルさんはまた右手を格好付けて見せる。
「ママのために、ホームラン、打ちました」
「凄かったわ。まさか本当にあのタイミングで打つなんて」
「でも、ママのおかげでもあるんだ。あのとき、応援に投手が集中力が切れた」
「何言ってんのよ。応援があるのは当たり前。集中力の管理は選手の仕事でしょ。その穴を見逃さなかったテルさんが偉いのよ。それに何もなくてホームランなんて打てる訳ないでしょ? ちゃんと練習を積んでるってことよ」
テルさんが頭をポリポリ掻く。
「全部お見通しだね」
「ううん。だからこそ、おめでとう。優勝よ。MVPでしょ、間違いなく」
「うん。MVP。ありがとう。じゃあ、みんなのところに行かないと。またお店で」
テルさんの背中を見送って、僕達三人は笑って、帰路に就いた。
その夜、お店にやって来たテルさんは既にしこたま酔っていて、いつもの席に座ったら、無限ループで今日のホームランを語り続けた。
目覚ましを掛けなかったけど、いつもと同じ午前中の深い時間に、パチっと起きた。
日曜日はロプテは休みで、僕は何もやることがない。ママはママのやりたいことがあるだろうから彼女にくっついている訳にもいかない。しばらくは街に一人では行かないと決めている。
タバコの煙が僕の周りに停滞する。白い筋が大きな輪っかになって、ゆっくり広がる。野球を観ても、野球を観るママを見ても、大丈夫だった。新しい観客のように試合を追って、馴染みの応援のようにテルさんを鼓舞した。煙が徐々に遠ざかる。十分に離れればそれはもう僕にとって煙ではなく景色だ。景色なら脅かされない。
作り置きのサンドイッチを食べたら、ロプテの外に出る。ママの気配はなかったから、もうどこかに行っているのだろう。渡された鍵が僕の自由を証明している。
「今、僕にとっての世界は、『ロプテ』と、湖と、道だけ」
真っ直ぐに湖に向かう。
でも、入らない。
水が寄せては返すこの場所から、僕は真っ暗に落ちようとした。違う。真っ暗からさらに落ちるか、ママに拾われるかの、勝つと信じた賭けに出た。あのとき、失敗してもそれはそれでいいとどこかで思ってはいなかったか。今ぬくぬくとママの懐に生息して、もう一度同じことは出来ない、僕は勝ち取ったのだろうか、それとも、負け取ったのだろうか。
僕は死んでいて、これまでよりも生きている。
しゃがんで、水に左手を浸す。小さな音は、そこにも
道まで戻り、街とは逆の方に、湖を左手に見ながら進む。
僕の歴史を知らないシゲさんが「揉まれてない素直さ」と言ったのは、あの日あのときだけの僕にそれを感じたからだ。もしかしたら人の歴史なんて大きな意味を持っていないのかも知れない。意味のある歴史なら全部その人の今に記されていて、見えるんじゃないだろうか。僕がどうやって生きて、まるで死んで、ここに至ったかを知るよりずっと、そのとき僕が「どうであるか」の方が彼が僕を判断するのに重要で、有用で、それはママが僕を手許に置くと決めたのも同じなのかも知れない。
それとも、その瞬間の手応えに判断を任せることが出来る人が、ロプテにはいるのかな。それは誤ると大怪我をする。だけど、出会った人は皆、そうやって判断をしている。
「僕は出来ない」
水鳥が水面を突いて遊んでいる。
太陽を見ていない。でもどんなに曇り空が続いていても水鳥は生存している。魚も、虫も、関係なく生存している。生存していることと、生きていることは別だ。
「僕は生きたがり始めている」
瞬間の手応えって、そう言う「生きようとする」力を捉えているのかも知れない。いや、悪い奴とか危険な奴であってもそう言うのはあるから、全部じゃない。だけど、ママが僕を置いたのは僕の中の生きようとする何かを感じ取ったのかも知れない。
でもそれがあったからって、何の保証もない。
やっぱり、ママの判断は、分からない。シゲさんの弁も分からない。
頭を濡れ犬のように振って、歩く速度を上げる。
体に集中すると思考が途切れる。途切らせたくてもっと早くする。
道と湖と森だけが延々続きはせず、船着場があった。
十艇くらいのモーターボートが繋がれていて、でも無人だ。少しだけ検分したら、進む。
息が僅かに上がって、汗が流れる。空気が冷たいのか生暖かいのか分からない。
車に二台追い越された。
その車が入って行ったのは「胡桃湖温泉」と表示された施設で、旅館も併設されているようだ。
「温泉」
僕は汗まみれのまま施設に入る。
湖を展望出来る大浴場で、全身をお湯に浸ける。
広い空間が湯気でいっぱいで、自然と流れる溜め息、目を瞑って体を包む温度に意識を集中する。誰かの話し声が聞こえる。
「昨日はお疲れ。負けたねぇ」
「負けた。勝利を祝う温泉の筈が慰安になっちゃったね」
「でもあそこでロプテのママが急に現れるって、反則じゃないの?」
「ハハハ。まあびっくりはするわな」
「
「ギョッとしただけじゃないの?」
掛け湯の音。
「俺は結構綺麗だと思う」
「原田はそう言う趣味はないと思うよ、あと、俺も」
ギャハハ、と二人で笑って、湯船に来た。二人の話は続く。
「お前ロプテに行ったことある?」
「いや、ないよ」
「今度行ってみようかな。あのママがいるんだろ?」
「そうだけどゲイバーだぜ?」
「別にゲイじゃなくても入れるんじゃないの? 確かめる方法ないだろ?」
「確かめられたらどうする?」
「アグレッシブだな、それ」
「その
「綺麗だとは思うんだけどね。それ以上深い仲は、いらないや」
「じゃあ入るのやめとこうぜ、染まってもヤバいだろ」
「違えねぇ」
またギャハハと品性の不足した笑い。
二人はその後、試合の反省会のようなことをして、僕は十二分に体が温まったから、大浴場を出る。体を拭いて、後から後から流れる汗をどんどん拭いて、コーヒー牛乳を飲んで、また拭く。
彼等はロプテをママを何も知らない。外から見たらあんなものなのだ。どれだけ中にママの力が込められていても、外からは見えない、知らなければそんなもの、知らなければ。
この熱は汗は温泉のせいではない。
大浴場に戻ろうと踏み出した、入り口のドアを開けようとした瞬間、体を留められる。
「アキ、ママのためを思うなら、やめときな」
その声はシゲさんのようでテルさんのようで、ピンクやブルーやミントやマメノスケのようで、そうだ。僕を止めたのはロプテだ。振り返って、やっぱり誰もいなくて、でも気配は確かに残っている。
「ママ」
もう一度体を拭いて、もう一本コーヒー牛乳を飲んで、大きな扇風機の前でさらさらになるまで立っていた。その間に二人組は脱衣所を通過して、そのときだけ僕は小さな溜め息を
外に出るまでにおみやげ屋があって、その中にロプテに置いてある小物がないことを確認してから、出口を潜る。もう少し奥まで行こうか、いや、今日は帰ろう。ロプテの空気が吸いたい。
ゆっくりと踏み締めるように、ロプテに向かう。
ママは帰宅しておらず、勝手にピアノを弾くのは憚られて、カレーを作ることにした。
昔、どんなものでもカレーに入れてしまえば食べられると何かで読んだけど、温泉の二人の会話も同じなのかな。
この涙はたまねぎのせいじゃない。
たっぷり八人前作って、ご飯も五合炊く。
炒めて、煮込んで、鍋をぐるぐるしていたら、また涙が出た。
「あら、カレー? 私の分もあるかしら」
「ママ!」
鍋をうっちゃって、ママに駆け寄って、そのまま膝を折って低く抱き付く。
「どうしたの? 泣いちゃって」
「温泉で、二人組が、ロプテとママを、嗤ったんです。僕のことじゃない、でも、僕にはもう大切な場所と人を」
ママの頬が緩むのが伝わって来て、頭を撫でられて、僕の涙は勢いを増した。
「うちのことをよく知らない人はね、バカにするのよ」
「知らないくせに、嗤うんです。だから言ってやろうかと向かったら、ロプテのみんなの声がして、僕は我慢したんです」
ママの手の動きが優しい。
「偉いわ。ここはゲイバーだからね、後ろ指指す人もいるわ。でもだからこそ、穏やかに対応しないといけないの」
「ママは胸を張らずに生きているのが辛くはないの?」
バン、と頭を叩かれる。
「私は日陰者じゃないわ。胸を張って生きているわよ。いい、アキ、人と違うことは劣等でもなければ優等でもないの。ただ、違うのよ。それでも違いのせいで軋轢は生まれる。だから、そう言うところをいい感じにして、そしたらもっと胸を張れるわ。ねえ、アキにだけ教えてあげようか?」
「何を?」
「知りたい?」
何か分からない。けど。
「知りたいです」
「私が私であるために、色んな手を打ってるの。それは、ロプテがロプテであるためにもよ。そう言う努力は惜しむべきじゃないわ。……私らしい、ってのとは違うわよ、私が私なの。いい?」
「ママがママ」
「そうよ」
「僕もいずれ僕になるのでしょうか」
頭をポンポンと優しく叩かれる。
「至る道はそれぞれよ」
ママが僕を起こして、正面に立てば僕の方が背が高い。ママは僕の顔と目をじっと見て、うん、大丈夫、と笑う。
「もう食べられるんでしょ? 不安の半分は空腹で出来ているわ。私お腹ペコペコよ。ねえ、アキ、サーブしてよ」
僕は残っていた涙の粒を掌で払う。
「はい!」
カレーを食べたママが「美味しいわ。今度サプライズメニューで出してもいいかも知れないわね」と認めてくれた。僕はロプテのアキ、ママにカレーをよそう。
次の日、ブランチにカレーの残りを食べて、しっかりと換気をしてから買い出しに行った。
僕達を迎えた商店街は前回と同じ顔をしていて、行脚の意味がもう少し分かったから、荷物持ちに徹する。
今日もピンクの店から始める、談笑するママとピンク、後ろでそれを聞いている僕。
戻って来たママにピンクが付いて来た。アキくん、と声を掛けられる。
「髪伸びたらうちに来てよ。安くするよ」
僕のために側まで来てくれた、初めてこの街で僕が存在した、咄嗟に自分の髪の毛を左手で触る。もさっとしているけど、まだ切る程じゃない。
「伸びたら、是非お願いします」
「待ってるよ」
ピンクは小さく手を振って、僕は一礼してママに追従する。
マメノスケの店では旬とか調理法とか、店の続きのような会話がママ達から流れて来て、今回も野菜をどっさり買った。
挨拶は続く。殆どの人が先週も会っているのに、僕のことを知らない人と扱う。前回会ったことが無効のような空回りしているような、こころの薄皮を剥かれたような徒労感を携えながら次々と会わなくてはならない。ママも最初はこうだったのかも知れない。
ママは街に彼女を振りかけるように、街の糸を少しずつ引っ張って来るように、練り歩き、その交換が終わっても溌剌としている。助手席に乗り込んで溜め息を
「大事なのよ。だから慣れてね」
「ママは凄いです」
「そうね。自分でもこれは凄いと思うわ」
「だから僕も食らい付きます」
店に帰れば、一休みして仕込み。
仕込みが終わればまた一休みして、店を開ける。
店が終われば片付けて、次の日が月曜日、木曜日なら買い出しをしてから、それ以外は仕込みから一日が始まる。日曜日は休み。そのサイクルを何回か回したら、濃密な初体験の連続だった日々がおしなべて知っているものの繰り返しに変わって来た。
湖の上の空はずっと晴れない、ママのピアノは第四楽章をうろうろし続けている。
シゲさんはビールを飲み、僕に注ぎ方を教え、三週間経ったところで「合格」と下手糞なウインクをくれた。そのときにママがご褒美に、と注いでくれたビールは、僕よりもシゲさんよりも美味しかった。
テルさんは野球の話。ピンクはブルーと来て、マメノスケは野菜への愛、ミントは寡黙に飲んでいる。気が付けばお客さんの名前を全員覚えていた。
掃除は完全に任されるようになった。おつまみもかなり。
少しずつの違い、人数とか話題とか、そう言うものはあるけど、概ね同じ毎日が続く。
ママが多くの仕掛けをしてこの「同じ毎日」をロプテに用意していることは分かっている。多分僕の知らない努力の方がたくさんあるし、でもここまでのことを出来るママなら、もっと色々なことが出来るんじゃないだろうか。もっと遠くまで、それがどこかはわからないけど、ママなら行けるんじゃないだろうか。まるでママはどこまでも飛べるのに停滞するために羽を震わせ続けるトンボみたいだ。
だから訊いた、四週間目が終わったとき、仕込みをしながら。
「ママはずっとここにいるんですか?」
ママは迷いない。
「私がやりたいことをやっているのがロプテよ。でももし他にやりたいことが出来たら、お客さんには悪いけどそっちに向かうわね」
「意地でも続ける、じゃないんですね」
「それはそうよ。つまらないことして生きる意味が分からないわ」
僕は腹を殴打されたような衝撃を受ける。ママが続ける。
「でも、今はロプテが最高に面白いの。大事な場所よ」
ママですらロプテで一生を費やすとは決めていない。だったら僕は尚更未定でいい。食らった言葉がじんじんして、最初に湖で助けられたときの頬のようで、僕は休憩時間にノートを広げる。僕はもっとつまらないところからここに来た。そのときは空っぽだったけど、ママの懐にずっといる毎日で、その空虚がひたひたになって来ている。僕は誰かの舞台装置ではもうない。
「僕もママのように、やったっていい」
季節が地滑りのように秋から冬に向かってゆく。
僕が「ロプテのアキ」と自認するようになるのと、ロプテの毎日が日常に羽化するのは、共有するギミックで繋がれたように、同時に進行した。
二ヶ月が経って、アキとして生きることに違和感がなくなった頃、繰り返しはその内に退屈の予感を孕み始めた。
湖は奥を黒く染めて、いつ見ても同じ表情をしている。
僕はボーイとして十五分早くノックするシゲさんを店に入れる。
「アキも馴染んだね」
「まだまだ半人前です」
「ビールは一人前だよ、一つちょうだい」
ママが降りて来て、テルさんが来て、ピンクとブルーが来て、収まりがいい。ママが作り上げた空間を誰もが食んで、癒されている。ピンクとブルーの席から戻ったママに、テルさんが野球の活躍を語り、シゲさんはじっとビールを飲んでいる。
ドアが開く。
僕とママだけは視線を向ける。知らない男だ。
「ミライ。迎えに来た」
店の客全員が一斉にその男を見る。紫のぺイズリーのシャツ、厚い胸板。異物感、客じゃないかも知れない。ママは、困惑と怒りがマーブルになった顔。シゲさんとテルさんも、歓迎しない眼光。ピンクとブルーは半ば混乱しながら注目している。
「今更何を言ってるのよ」
「こんなところで湖に沈むような人生を送るべきじゃない。俺と一緒に飛び立とう」
男がカウンターの前、ママの前に進んで、さあ、と手を差し出す。シゲさんが、おい、と割って入る。
「ジャガー、出て行ったのはお前だぞ。ここに何しに来たんだ」
「シゲ、俺はビッグになった。ずっと湖畔でうろうろしているお前達と違ってな。だから俺はミライを迎えに来たんだ。なぁ、ミライ、俺と一緒に来い」
テルさんが応じる。
「ママはここに必要な人だ。部外者が手を出すな」
「確かに俺は今は部外者だ。でも、最初はここの一員だった。そうだろ?」
写真の右側に写っていた男だ。ママがグッと圧力を強める。
「昔はそうよ。でもあなたは出て行った。だからもう関係ないわ」
「関係なくてもいいよ。改めて君を迎えに来ただけだ。俺は今、社長なんだぜ? パートナーの席はずっとミライのために開けていた。俺が出てったのはこの場所が嫌になったからじゃない。ここに居てもビッグにはなれないと悟ったからだ。フーが死んだのがいい機会だった。あいつは死に、俺は生に、反作用のように動いたんだ」
「フーを侮辱しないで」
ママから黒い炎が漏れる。
「あなたがどれだけ成功したとしても、あなたに付いて行きはしないわ」
「こんな店、もういいだろ? ぐずぐずしている内に人生終わっちまうよ」
僕こそが部外者だ。知らない過去のしがらみとか、成功とか、ジャガーとか。僕は今この瞬間の彼しか知らない。絶対的に知らない。そんなことに判断を委ねて、自分のこれからを賭けることになるかも知れない行動を取るなんて、出来ない。出来ないと思っていた、のに。
「あなたはロプテの何を知ってるんですか!」
僕は大声を上げて、カウンターを力一杯叩いた。
「何だよ、お前」
「僕はアキ。ロプテのボーイです」
「ふぅん。フーの代わりか」
「そんなこと知りません。でも、この店を当たり前に暖かくて、皆が安らげる場にするために、ママがどれだけの努力をしているか、知らないんでしょ!? 知ってたらそんな口きけませんよね? あなたが初期の頃のメンバーだったとして、それが何ですか。ママを迎えに来たって? ママが誰かの迎えを待っているような人だと思っているんですか? 舐めてますよね。ここはロプテです。ロプテの意味を忘れたんですか? 愛と友情のために命を懸ける人ですよ? ママこそがロプテですよ? あなたがやっていることは、ママそのものをバカにした行為です。ちょうど水はたくさんあります。正気に戻るまで頭を冷やして来なさい!」
ジャガーは殴られっ放しで顔を歪める。
「僕にはママを守る権利と義務があります。さあ、ジャガーさん、お引き取り下さい」
睨め付ける僕、睨み返すジャガー、だけど、彼は唇をワナワナと震えさせるだけで次の言葉を発しない。
睨み合いのまま極まる緊張に時間が止まる。
誰も動かない。
誰も遮らない。
永遠に僕達は対峙したままになる。
「ジャガー」
シゲさんの声が鋭く差し込まれた。縛られていた時間が解放される。
「言い返せなかったんだ、帰れよ。よく考えて出直しな。客ならさ、一緒に飲める」
「シゲ。あいつは何なんだ。……まるで獣じゃないか」
「ロプテのアキだよ」
空間全体が彼を排斥しようと内圧を高める、ジャガーが半歩退く。ママが一歩前に出る。
「ジャガー。私を迎えに来ても、私は決して行かないわ。この子が言う通り、私はロプテだから。私は私の人生を自分で切り拓くわ」
ジャガーはたじろいで、威勢の根本を刈られたみたいに縮む。
「ミライ」
「帰りなさい」
彼は何かを言おうとして、言葉が出ないみたいに苦しそうに、そのまま顔を背けて、店を出て行った。ドアは優しく閉められた。店が溜め息を漏らす。
「みんな、ごめんなさいね。昔の常連だった人よ。用件とその答えは見ての通り。嫌な思いさせちゃったわ、一杯サービスするからね」
シゲさんが応じる。
「俺の分はママが飲んでよ」
テルさんも、残りの二人も、同じことを言う。
「みんな。分かったわ。私が飲むわ。でもゆっくりに、ね」
ささくれた空間をそれぞれが慰撫しようとして、そのせいなのかいつもは一つなのに、人数分にパーテーションで区切られたみたい。ママがピンクとブルーのところへ行く。「そうなのよ」「ごめんね」「上手いこと言うわね」、ママの声が聞こえるくらい、カウンターは静か。僕の判断で、シゲさんとテルさんにビールを出した。
じっとそれを見てからシゲさんが煽って、トン、とジョッキを置く。
「アキは根性が座ってるな」
「そんなことないです。ただ、ママとロプテを穢されるのが嫌で。足元ガタガタ震えてました。カウンター越しじゃなかったら言えなかったかも知れません」
シゲさんはニヤッと笑う。
「それでもあそこまで言った。前に、『揉まれてない素直さ』って言ったことあったろ?」
「はい。関係があるんですか」
「関係ない」
横で聞いていたテルさんが吹き出す。
「じゃあ何で言ったんだよ」
「テル。関係ないことが大事なんだよ。なあ、アキ、そう言うことなんだよ。今日のお前の活躍とそれの背骨になっている根性があることと、揉まれてない素直さってのは同居するしお互いに関係なく存在するんだ。だから何が言いたいかって、もしお前が言わなかったら、俺が言ってたってことだ」
「俺だって」
テルさんが胸を叩く。
「ママを守りたい気持ちは、ロプテを守りたい気持ちは、同じだ」
「僕が言うことじゃないです。けど、ありがとうございます」
頭を下げる僕に、二人が「十分その資格はあるよ」「顔を上げなよ」と笑う。バラバラになった細胞が一つのまとまりになった。ママの方でも同じことが起きたよう、落ち着いた笑顔で戻って来た。カウンターの二人とママがやり取りをする内に、全部の細胞が繋がって、店はロプテを取り戻した。
いずれ客は帰って、僕とママだけが残る。
「今日はびっくりさせちゃったわね」
「はい。どこのお姫様かと思いました」
「私が?」
「そうです。だって迎えに来た! ですよ」
「そうね。そんなことしなくていいのにね。でも、私もびっくりしたわ。ジャガーよりも、アキの演説に」
ママは僕が苦笑いするのを見て、あはは、と笑う。
「必死だったんです」
「伝わってるわよ。真剣で、本気の声は分かるわ」
外に出ようとママに連れられて、真っ暗な湖の前。風が柔らかく僕達を撫でる。
そこは僕が沈もうとしたすぐ近く、ママの横に並ぶ。
「この湖に、フーは入って、帰って来なかったわ」
ママは水の果てを見詰める。
「フーは、この店の最初のボーイ。私と彼の好きなアニメの『ロプテ』を店に付けて、彼もピアノを弾いたわ」
つまり、ママの曲の最初の方のテーマは彼だ。二人の関係性よりも曲に組み込まれていることに胸が焼ける。
「アキが来たその日と同じ日に彼は湖に入ったの。命日に、アキは来たのよ」
「どうして、フーさんは死んだのでしょう」
「死ぬ前にはよく、『満足だ』と言っていたけど、そんなことで死ぬとは思えないわ」
いや、世界が定常状態になって、そこに満足したなら、ずっと同じことが繰り返される予測に同じだけ絶望出来る。僕はママの膝下にいる安心の裏に、それが日常へと変貌することへの、胸の芯が抜けるような感覚がある。もし、フーさんが同じなら、累積すれば脱出に手をかけることは当然だ。それを死という形にするか、物理的な離脱にするかは、他の理由が決める。彼はここから逃げたくて、でも、離れたくなかった。
でもママには告げられない。ママが殺したと突き付けるのだから。
「満足の死なら、よかったのでしょうか。……少なくとも、ママは傷付いた」
「いいのよ。昔のことだから。今日はたまたま、亡霊が現れた。思い出してしまったら語るのが、供養じゃないかしら」
「お墓とかないんですか?」
「ないわ。この湖が墓標よ」
「……フーさん。あなたは湖になったんですね。ママをずっと見守っている」
手を合わせる。
だけどママを束縛はしないで欲しい。今はママは自分の意志でここにいるけど、彼女がロプテであるためには、もし彼女がどこかに行きたいなら行かせて欲しい。それだけは約束してくれ。
「さ、戻りましょう」
店に入るとロプテが、ずっと離れていた古巣に戻ったみたいに懐かしい。
片付けを終えたらママがピアノ部屋に行こうと誘う。
「深夜ですよ?」
「周りに誰も住んでないから大丈夫よ。どうしても弾きたくなったの。だから、聴いて」
ピアノの前に座るとママはゆらゆらと手を動かして、ふぅーと息を吐いてから始める。
それはパッヘルベルの「カノン」、僕が弾いてからママが一度も弾かなかった。
僕と同じ構成で、三パート譜面通り、そこからアレンジかアドリブが始まる。
演奏がレクイエムに聴こえる。和音を何度も繰り返して、ずっとずっと、切なく引き裂かれるような想いと、暖かい思い出、自分が今幸せに生きていることを伝えること、希望を持つことが別れと同義であること。
「さよなら、フー」
ママが言った気がした。
きっと今、本当にフーさんと別れた。何十年もフーさんはママのこころの内側に巣食ったままだった。
演奏が終わる。
「アキ、泣いてくれて、ありがとう」
泣いているのはママだ。
何も言わずに、抱き締めて、何も言わずに、離れた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
僕は部屋の前で写真を見る。シゲさん、ママ、ジャガーさん。フーさんとあともう一人がどっちか分からないけど、多分ママの隣にいるのがそうだ。
じっと見て、さよならと手を振るように写真の前を去る。
部屋からもう一度湖を凝視したけど、そこに人はいないし、真っ黒だし、まるでママの店の対極だ。
「おやすみ」
耳を澄ましてもママの泣き声は聞こえない。ベッドに転がる。僕はどうなんだろう。
朝は来て、何事もなかったかのように店は営業したけど、昨日の内にバラバラを一つに結び直したり、それ以前にママがずっと積み重ねて来たことが、その平常運転を支えている。昨日のメンバーとミントとマメノスケも来て、常連が全員集合した。
「昨日は大変だったね、ママ」
シゲさんの声に、ママは「大丈夫よ」と応える。シゲさんはくしゃっと笑う。
「ママが『ロプテ』だからな。アキはいいこと言った」
テルさんも頷いて、僕は照れ臭い。
昨日のことをなぞってみたり、想いを吐露しあったりしていたけど、次第に話題はズレて行き、昨日からさっきまでを切り抜いたみたいにいつものロプテになる。ボーイは客が多い分忙しく、それはママも同じで、その中で僕はピンクに「日曜日に髪を切りたいのですけど、予約って出来ますか?」と問うと、彼は芯から嬉しそうな顔をしてスケジュールを入れてくれた。
日曜日の一時、僕は初めて単独で街に来て、ピンクの美容室「Flamingo」の前に立つ。これまでずっと理容室で切っていたから、何かが違うのだろうけど、分からない。
「こんにちは」
「あ、アキくん、いらっしゃい。この席にどうぞ」
スタイリッシュにさっぱりとした店内にカットチェアーが三台あって、彼以外にも四人のスタッフがいる。誰もが白いワイシャツに黒いズボンで統一されていて、ピンクを含む五人の髪型も色もまちまちなのが、アクセントのようで、髪が全部ではなくて部分で、ここはおしゃれだな、僕は席に座った。
「今日はどんな感じにしますか?」
「すごく短くして下さい。坊主ではなくて」
「ベリーショートですね」
「細かいところは任せます」
「了解しました。では、まずシャンプーから……」
ピンクの手は力があって洗髪されていて気持ちいい。いつもうつ伏せだったのが今日は仰向けなのは、美容室だからだろう。顔に薄布を乗せてくれるのも、ちょっとエロくて、いい。
濡れた髪は鏡で見るとびろりと伸びていて、僕の髪を見る度にピンクは早く切ればと思っていたのかも知れない。
カットは丁寧で、優しい。切られること自体にゾクゾクした快楽があって、いつまでも切られていたい。だけどいずれ髪の毛はなくなる。ピンクはロプテでの饒舌と打って変わって黙って切って、隣の椅子では切る方と切られる方がずっと会話をしている、僕はでも、職人のように手技に集中する彼のスタイルが好きになった。
もう一回洗髪。
ブローをして、ワックスを少し前髪に付けられる。
「どうでしょう?」
同じ短い髪なのに、短髪ではなく、ベリーショートで、そこには柔らかなママの雰囲気がある。
「僕はこういう髪型をしたことはなかったです。だけど、すごく、いいです」
ピンクはまたにっこり笑う。
「よかったです。中性より若干フェミニンなカットのし方をしています。アキさんに一番似合うのはこの形かなって」
「一つ一つの、カットもブローも、頭を洗うのも、すごく気持ちがよかったです」
「美容室は単に髪を切るところじゃないんですよ」
ピンクはそう言いながら椅子を回して、僕は立つ。
「ありがとうございました」
ピンクに見送られて商店街に歩み出して、来たときよりもずっと自信が溢れている。ロプテに来て帰る常連も、こんな風に変化を実感しているだろうか。
ママを始め、次の日に会った常連皆から、髪型は絶賛された。居合わせたピンクは恥ずかしがらずに堂々と嬉しそうにして、だけど、すぐにその話題は流れていつものロプテになる。
その週の土曜日。店は完全に日常を取り戻していた。
「アキ」
シゲさんがビールを持ったまま僕を呼ぶ。
「湖で釣りをしないか? 明日なら店は休みだし、どうだ?」
「誰が行くんですか?」
「俺とお前。以上」
「ママは?」
ママはにっこり、「私はエステ」。
「湖の畔からだと、長い竿ですか?」
シゲさんが想像する顔をしてから笑う。
「いやいや、モーターボートで湖に入って行って、釣るんだよ」
「でもどうして?」
「お前を一人前と認めたからだよ。信頼出来ない相手とはボートに乗れない」
なるほど。
「行きます」
「よし。そう来なくっちゃ」
船着場で待ち合わせることになった。
曇天は渦を巻いていて、太陽の殆どは湖面まで降りて来ない。それでも昼は昼なので、五色に世界は彩られている、だけどその五色は全てが黒い網が掛かっている。「ロプテ」から出て湖を左に見て歩く。水鳥がいる。何度歩いても、この道は水と木の間に僕がいるだけで全てになる。
約束の時間より五分早く船着場に到着したら、シゲさんは来ていた。
「お、早いね」
「シゲさんこそもっと前に来ていたんですよね。でも、天に蓋ですけど、大丈夫なんですか?」
「降ったらすぐに戻るけど、俺の長年の勘によると数時間は
彼の愛艇に、彼の用意して来た道具一式を載せる。
「ライフジャケットは大事だから、教えるからちゃんと着なよ」
「この船の名前は何て言うんですか?」
「ミライ号に決まってる」
船はのんびりとしたスピードで進む。いずれ四方が湖になって、遥か遠くに陸が見える。
レクチャーを受けて竿を振る。シゲさんには教えて貰うことばかりだけど、ビールは独立したし、竿もマスター出来るだろう。
でも何も掛からない。二人でそれぞれに集中して、時間は流れているようで、滞っているようで。
「アキ」
他の音がずっと遠い、シゲさんの声が強く響く。
「はい」
「お前、ゲイじゃないだろ」
ピリ、と空間が張る。
「……ゲイです」
「別に責めるつもりはないんだ。ママが受け入れているんだから、どっちでもいい。でも、俺にはそこがお前にとって重要なことのような気がするんだよ」
僕が見て来たシゲさんは、僕を虐めるためにこんなことをしない。だから別の気持ち、でもそれが何か分からない。
渦の空を仰いで、ここは逃げ場はないし、秘密は漏れない。彼が僕を一人前と認めてくれたように、僕も彼を一人の人間として認めている。ならばすることは決まっている。
「僕は……ゲイになりました」
シゲさんの背中を見る。背中は何も語らない。
「ファッションとか流行じゃないよな。もっとソーシャルな、……そうか、ゲイに逃げ込んだんだな」
胸が抉られる。本物の人からしたら、卑怯だ、そう罵られても、抵抗する権利がない。
「そうです」
「ゲイの優しさも、醜さもある。それでもこっち側で生きて行くなら、俺は歓迎するよ。でもね」
シゲさんの背中から視線を切れない。
「社会は社会だからね、同じ問題だって、あるよ」
「それはここにいて、少しずつ分かって来ました。でもどうして、そんなことを訊くんですか。シゲさんの言う通り、どっちでもいいことなんじゃないんですか?」
シゲさんの背中は沈黙して、竿は一切動かずに、風も吹かない。僕は背中を凝視し続ける。
シゲさんが竿を置いて振り向く。
「アキ、お前、そろそろどっか行っちまうだろ?」
心臓を鷲掴みにされる。シゲさんの射抜くような視線に脂汗が滲む。
「だからその前に、ゲイの中で生きて行くのか、そうじゃない人生に行くのか、ロプテから出るときには決めなきゃならない。俺はそう思う」
ママの真似をして、ママの懐でぬくぬくと生きている。曖昧なままであることを彼女は丸ごと受け止めてくれる。僕は半端なまま、傘の下に入っている。
「ここで受けていることは、外では受けられないと言うことですか」
「違う。同じような場所は幾らでもあるだろう。そうじゃない、そうじゃないんだ」
反発を言いながら、自分でも分かっている、僕の胸の中にじわりと滲む。
僕は目を瞑る。
大きく息を吸って、吐き出す。
「分かってます。僕にとってロプテがママが、シゲさんが特別なことは」
「それだけじゃない」
僕は目を開けて、シゲさんを見据える。
「同じようなどこかでは、本物にはなりません。僕にとっては、ロプテだけが最初で本物」
「そうだ。ここで決めれなければ、お前は一生決められない。でも俺は思うんだ。アキ、お前はもう殆ど決めてるんだって。そうだろ?」
僕は空を見る。雲が渦巻いている。もう一度彼を見る。
「そうです」
「きっと出るときに、ママに伝えてくれ。俺達はいいから」
「分かりました」
シゲさんが、ふ、と笑ったら、二人をがんじがらめにしていた緊張の糸が緩んで、僕も笑う。真剣勝負はここまで、さあ、後は楽しもう、そう伝わって来る。
「でも、どうして僕がゲイじゃないって、分かったんです?」
「知りたい?」
言いながら口角が話したがっている。
「知りたいです」
それはね、と短い前置き。
「普通になろうと言う努力の跡が、見えないからだよ」
「普通になる?」
「三回。通常のアブノーマルな人間は三回それをして、やっと自分に至る。一つ目は『社会の求める普通』になるための努力。二つ目は『そのアブノーマルの普通』になるための努力。普通の側からゲイになろうとするのと、生まれつきのゲイが普通になろうとするのは、ベクトルが逆なんだよ」
頬を打たれたように僕が固まる。
「逆」
「ベクトルの向きと、努力の跡の有無が、お前をゲイじゃないって分からせるんだ」
「じゃあ、僕以外の全員がそれをしていて、だったら、皆、僕の正体に気付いていたってことですか?」
「そうだろうね。でも言わない。必要がないから」
僕はロプテに関わる全ての人の優しさで生かされていただけなのか。
「僕だけが、何も分かってなかった」
「だから必要がないんだって。大事なのは三つ目。『自分の普通』になる、だ。自分らしさと言ってもいい。それを求めて、そしてそれを越えたときに、『揉まれた素直さ』の段に入る。ロプテにいるのは皆その段階に至っている。だからアキがゲイかどうかに拘らない」
「『僕が僕』」
シゲさんがニヤリと笑う。
「そうだ。俺らしさに囚われない、だけど俺が俺である。奇妙に聞こえるかも知れないけど『揉まれてない素直さ』と『揉まれた素直さ』はよく似ているんだ。跡が全然違うけど。アキはアキだった。ずっとそうだった」
シゲさんの言葉が掌をこころに直接当ててそこから成分が浸透するみたいに入って来る。
「僕を一人前って言ってくれたのは」
「そう。ジャガーを追い払ったからでも、ビールを上手に注げるようになったからでもない。アキが、ずっとアキだったからだよ」
竿が引かれる。だけどそんな場合じゃない。
「アキ、引いてるぞ」
「でも」
「俺達は釣りに来ているんだ」
シゲさんから目を離すことはしたくなかったけど、竿を引っ張る。すぐに手応えがなくなった。
「逃げました」
「それも釣りだよ」
それから黙って、背中と背中で、魚が来るのを待つ。
僕は本当に僕が僕なのだろうか。ママに泣き付いた夜、僕が既にそうであるかママは明言しなかった。シゲさんはそうだと言う。僕はただ、ボーイをして、ママと生活をして、皆と笑って、それを繰り返していた。
「僕はロプテで、生きていた」
シゲさんは応じない。
生きている。僕が僕。
逃げ込んだ。それが日常の倦みを孕み始めた。
ロプテで会う人は皆、生きている。
じゃあ、僕がこれから生きるには――。
「シゲさん」
シゲさんは背中のまま。
「うん。それはママに伝えな」
ここまで出掛かっていた言葉を飲み込む。
「……はい。でも最後に一つだけ訊きたいことがあります」
シゲさんが振り向く。
「何だい?」
「どうして僕を助けてくれたんですか?」
あっはっは、シゲさんの笑い声が谺する。
「それが必要そうな仲間がいたら、手を差し出すのが俺の生き方だ」
僕達はボウズで陸に戻った。シゲさんの提案で船着場で別れた。
帰ると、ママがピアノを弾いていた。僕はママに言ってその部屋で聴かせて貰う。馴染みのレパートリーの幾つかの後に、ママの曲が始まる。第三楽章まではいつも通り、第四楽章が、あ、完成した。
第五楽章が始まる。
それは第四楽章に似ていて、でも調とテンポが違って、よりシャープでエッジのある響き。第四楽章が人の和の喜びを表すなら、第五楽章は生命の喜びを表現している。フーさんのことが第四楽章を終わらせたのは明らかだけど、第五楽章は何が基盤になっているのだろう。
未完のまま、区切りを付けたと言う感じで曲が終わる。
僕は立ち上がって拍手を、ママはコンサートのように一礼する。
「ついに進みましたね」
「そうね。まだまだ完成までは程遠いわね」
微笑み合って、音楽の気配が鎮まる、僕は「ママ、話があるんです」とソファーに引っ張る。
「どうしたの?」
「僕、ロプテを出ます」
ママは驚かずに瞬きをゆっくりと一回する。
「そう。今日すぐに?」
「お客さんに挨拶がしたいから、来週、出ようと思います」
「決断したのね。理由を訊かせて貰ってもいいかしら」
僕は一瞬息を詰めて、そこから吸って、ママの目をじっと見る。
「ママ、僕はゲイじゃありません。逃げ込んで来た僕を抱き締めてくれて、僕は僕でいられました。でも、僕が今後、僕が僕でいるためには、偽って逃げたままではいけない。そう分かってしまったから、もう、出るしかないんです」
ママは、ふ、と微笑む。
「いい理由ね」
「ママ、ありがとう」
「アキ、これから生きていれば色々なことがあるわ。ロプテはずっと、あなたの故郷よ。いつ帰って来てもいい。裏切ったなんて思わないで、巣立ちの日は遅かれ早かれ来るの。胸を張って行きなさい」
「ママ」
彼女を抱き寄せて、強く強く抱き締める。
僕は部屋に戻ると、窓の外の湖をしばらく見てから床に就いた。今日も湖から逆さまの雨は降らなかった。
店でシゲさんにここを出ると伝えたら、「壮行会をしよう」と提案された。他の客も承知して、僕のための会が常連全員と土曜日に催されることになった。僕がいなくなる予定があってもロプテの日常は磐石で、ママもいつものママだった。
当日の午後、カウンターの中で仕込みをする。
右にはママ。
「行く宛はあるの?」
「住んでいたところに行ってみます」
「私の携帯とメールだけは、持って行きなさい。何かあったら連絡するのよ」
作業を終えて、僕は曇天の湖を見に行く。ついに一度も晴れなかった。
同じ場所に立って、じゃあね、湖にかフーさんにか言って、部屋に戻る。
七時四十五分きっかりにシゲさんが来た。
「アキ、元気でな」
「本当に、色々ありがとうございました」
八時に近付くにつれ、テルさん、ピンク、ブルー、ミント、マメノスケが揃い踏みして、それぞれの定位置に並んだところで青いドレスのママが登場する。
「みんな、今日はアキのために集まってくれてありがとう。……ねえ、記念写真を撮らない?」
賛成の声、僕達は店の中でグッと集まって、セルフタイマーで写真を撮る。デジカメだからすぐに印刷出来るわ、とママが引っ込んで、十分後に持って来た。
「アキ、お土産はこれだけよ」
「十二分です」
全員にビールを注いで、乾杯をし、挨拶をする。
「僕はここを出ます。でも、ロプテは僕の故郷です。ありがとうございました」
一人一人と少しずつ話をして、ピンクには「髪だけ切りに来てもいいよ」、テルさんには「野球がまたしたくなったらいつでも受け入れるから」と背中を叩かれた。
「さあ、あまり遅くなると電車がなくなるからね、そろそろ送り出すわよ」
ママを先頭に、ぞろぞろ外に出る。
さっきまであった雲が、全部なくなっていた。
満天の星空には、天の川が煌めいている。
「ママ、空が晴れました」
「本当ね」
空は湖に映り込んで、そこにもう一つの宇宙がある。ロプテはずっとこの宇宙の片隅で明かりを灯していた。
全員の顔をもう一度見て、深く一礼したら、僕は歩き出す。
傍に湖、何度も振り返りながら、その度に振られる手に僕も振って、ずっと遠く見えなくなるまで繰り返した。
虫が鳴かないから、波の音と静寂の気配だけが僕の周りを漂う。足音がよく聞こえる。
今世界は僕と湖だけ。怯える気持ちはなくて、英雄のような高揚もない。僕は淡々と生まれる。だから、この道は独りで通らなくてはならない。それは初めて生まれたときと同じ。
街が見えて来た、駅に向かう。
ここに来たときと逆の電車、車両には他に誰もいない。湖の見える席に座る。でも湖は星空を飲み込んではいない、ずっと部屋の窓から見ていた黒をしている。
ドアが閉まり、電車が厳かに滑り出す、僕は見続ける、探してはいけない、見付からない、いずれ湖は視界から引き剥がされて、消えた。
電車のリズムだけが聞こえる。
離れて行く、遠くから順番に固化してゆく。
……そうだ、写真。
見れば、「ロプテのアキ」が写っている。
ひっくり返すと、「Good Luck」、ママの文字、僕は息を吸ってから吐いて、写真をポケットにしまった。
(了)
カノン・ロプテ 真花 @kawapsyc
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