第60話 回帰

「ごめんね、海果音ミカネ。愛してるよ」


 澪織ミオリは私の心臓を掴んでいた。その指に、さらに力を込める。私の心臓はあっけなく、ぐしゃりと潰れた。


 ――澪織ミオリは私の体が冷たくなるまで、目を閉じて私を抱きかかえていた。


「涙か……私、もう人間じゃないのに、泣けるんだ」


 澪織ミオリはしみじみと呟いた。そして、軽く息を吸うと、静かに目を開く。その時、彼女は驚愕した。


「なに……これ?」


 澪織ミオリは私を抱えたまま、辺りを見渡した。そこには真っ暗で、何もない世界が延々と広がっていた。しかし、よく目を凝らすと、遠くにスポットライトのような光が差している。その下に何かが落ちているのだ。澪織ミオリは私の体を抱えあげて、立ち上がり、スポットライトに歩み寄った。


「これは、さっき海果音ミカネが書いていた、タダノート?」


 澪織ミオリは私を優しく地面に寝かせた。そして、ノートを拾い上げ、ページをめくり始めた。


「おめでとう、澪織ミオリ。あなたがこれを読んでいるということは、あなたは物理法則との戦いに勝ったんだね。


 実はね、私、これを書き終わったら、あなたを封印するための装置になっちゃうんだ。私のことは、私から聴いてるかな? 澪織ミオリは強いから、私の言葉なんて聴く前に、私を殺してるかもしれないね。でも、それでいいんだ。


 私は、生き物の幸不幸を均等に保つための装置なんだよ。おかしいでしょ? なんでそんな装置が必要だと思う?


 私の役目は、生き物の念動力が暴走するのを防ぐことなんだ。念動力は物理法則を捻じ曲げる力。この世界を破壊しかねない力だからね。


 人間は特に、意思の力、念動力を大きく発達させてきた。不幸が積み重なり、絶望に陥った人間は、念動力を暴走させてしまう恐れがある。だから私は、同じ不幸を感じられるように、人間の姿を模して造られたんだ。


 世界は、いや、物理法則は、人間から自分を守るために私を生み出した。


 私には、高校より前の状態が存在しないんだ。記憶はすべて作られたもの。私の姿が高校生の頃から変わっていないのも、私がただの作り物だから。


 私は人間社会に溶け込んで、他人よりちょっと早く根を上げて、不満をぶちまけて、人々の意識を変えてきた。それで、人々の意思が暴走しないように、制御してきたんだ。


 でも、澪織ミオリの力はもう制御が利かなくなっている。澪織ミオリの力は、この世界にとって、危険域に達しているんだ。


 私、あなたに力を使いすぎると戻れなくなるって言ったでしょ? でも、あの時点ですでに手遅れだったんだよ。澪織ミオリが病院で目覚めたときにはもう、澪織ミオリは念動力の化身になっていたんだ。


 私は、あなたの力で世界が破壊されることを防ぐために、あなたを挑発して、念動力を使い果たさせて、眠らせるためだけの存在になるんだ。


 これは、私の意思ではどうにもできない。そもそも、私は本物の意思を持っていないからね。物理法則が命ずるままに、澪織ミオリを眠らせるためのマシンになるんだ。だから、傷付けるようなことを言うかもしれない。謝っておくよ。でも、それは私の本心だったりして? なんちゃって!


 澪織ミオリを眠らせたら、ほかのみんなは目を覚まして、日常の続きが始まる予定なんだよ。だから、マクロボたちを使って、私のマンションの周辺から、人間を避難させている。


 他のみんなは、念動力が鎮静化しても、肉体があるから生き返ることができる。でも、澪織ミオリはもう戻れないんだ。


 だけど、あなたはきっと、私を殺して、物理法則との戦いに勝っている。そしたらきっと、この世界は壊れちゃう。


 なぜって、私はこの世界の物理法則と直接繋がっているから。私は物理法則の根幹を成す構造の一部だから。


 壊れた世界でも、あなたはきっと前に進むことができる。私が保証するよ。


 じゃあね、澪織ミオリ。いつまでも優しいあなたが、大好きだよ」


 澪織ミオリが読むノートの文字は、ひどくにじんでいた。


「そんな……海果音ミカネ、そんなのずるいよ! これから私にどうしろっていうの? 答えてよ!」


 タダノートを落とし、横たわる私のそばで跪く澪織ミオリ。スポットライトに照らされた彼女の元に、もうひとつのスポットライトが近付いてきた。


「やあ、澪織ミオリちゃん。久しぶり」


 澪織ミオリは顔を上げる。


悠季ユウキ? あなた、どうして? あの時、消えたんじゃ……」


 水色の短髪に、琥珀色の瞳。病衣を纏って現れたのは、大地ダイチ 悠季ユウキ、その人であった。彼女は子供の姿ではなく、澪織ミオリと同じくらいの年齢の姿をしていた。


「ボクは、お父さんの、『娘が成長した姿を見たい』という、ほんの小さな想いが結晶化した存在さ。物理法則が正常に機能していれば、ボクが具現化することもなかった。でも、世界が壊れちゃったからね。ボクみたいに、物理法則から疎まれるべき存在も、自由に動くことができるのさ」


「みんなは、この世界にいた人たちはどうなっちゃったの?」


「ボクらと同じように、この闇の中に漂っているよ。でも、みんなまだ眠りから覚めない。きっとそのまま消えてしまうだろうね。彼らはボクやキミと違って、肉体がないと生きられないんだから」


「私、どうすればいいの……?」


「フフ、ボクは言ったよね? キミの力は……」


「この世界を、破壊することができる」


「うん、それともうひとつ、新しい世界を創造することもできる。この意味がわかるね?」


「私の力で、世界が創り出せるっていうこと?」


「ご名答。それがわかったらあとは簡単だ。これから、キミが望む世界を創ればいいだけなんだよ」


「私が、望む世界……海果音ミカネがいない世界なんて、創っても意味がないよ」


「そうじゃない。この世界を再生するということは、この世界の一部、海果音ミカネちゃんを蘇らせることでもあるんだ」


海果音ミカネを蘇らせて、私の世界を創る。それができるというの?」


「そうだ。キミにはその力がある。その権利を持っているんだ。キミは、どんな世界を創りたいんだい?」


「……私は、海果音ミカネが幸せになる世界を創りたい。あの頃に戻って、もう一度、海果音ミカネとこの世界でやり直したい」


「そうか。なら、ボクも協力させてもらうよ。お父さんにも、ボクが女子高生になった姿を見せたいからね」


「ありがとう、悠季ユウキ。……じゃあそれなら、あの子も一緒に」


「うん、それはいい案だね」


 澪織ミオリは涙をぬぐった。そして、両手で私のメガネを握りしめ、深呼吸をして瞼を閉じる。彼女が脳裏に浮かべたのは、私と共に過ごした、あの学校だった。


海果音ミカネ、待ってて。今、あなたのための世界を創るから……」


 澪織ミオリから光が広がる。彼女を中心にして、世界は再構成されてゆく。


 ――高校二年になる始業式の日、私たちは通学路で顔を合わせた。


「おはよう、海果音ミカネ


「あ、澪織ミオリ、おはよー!」


 私と澪織ミオリの間に、桜の花びらがはらはらと舞い降りた。


「桜、満開だね」


「うん、ほっぷ♪ すきっぷ♪ あっぷ♪ すぷりんぐぅ♪ って感じだね」


「あはは、よくわからないけど、そうだね」


「えー、この歌も知らないかー。だいじななかま♪ たいせつなきみ♪ であいとはまるで、さ、く、ら♪ って」


「相変わらず歌、上手だね」


 にっこりと微笑む澪織ミオリに、私は急に恥ずかしさを覚え、頬を染めて目を逸らした。


「もう、調子狂うなぁ……せっかく不安を吹き飛ばそうとしたのに……私、ちょっと怖いんだよ」


「え? 何が?」


「いや、二年生になるじゃない? そしたら、澪織ミオリと同じクラスになれないかもって」


「うーん、大丈夫だよ。同じクラスになれるよ」


「そうかな~? もし、違うクラスになったら、教室の壁ブチ抜いて、物理的に澪織ミオリと同じクラスになってやろうかなって」


「あはははははっ! 何それ、やっぱり海果音ミカネって面白いよ!」


「へへんっ! それくらい、私にとっては深刻な問題なんだよ」


「大丈夫、クラスが別になっても、私が海果音ミカネを幸せにするよ」


「私を、幸せにする?」


「あ、ごめん。海果音ミカネを守るよ。だったね」


 澪織ミオリの誤魔化すような笑顔に、私は呆気にとられていた。そして、しばらく彼女を見つめていると、ある違和感に気付く。


「そういえば、澪織ミオリって……メガネかけてたっけ?」


「ん? ああ、これ? これは、海果音ミカネのメガネでしょ。はい、返すよ」


 澪織ミオリは自分のメガネを取って、私にかけてくれた。


「これが、私のメガネ?」


 鮮明になった視界の中に、澪織ミオリの氷のように冷たい瞳を見る。そして、風に舞うピンクの花びらが、澪織ミオリの黒く艶やかな髪に映える。


「何か問題でも?」


「いや、確かに私のメガネみたい。ありがとう。私、何か勘違いしてたのかな?」


「変な夢でも見てたんじゃない?」


「うーん、でもさ、やっぱり変なんだよ。私、澪織ミオリは金髪だと思ってたんだ」


「そんなことないよ。私もあなたも、何も変わっていないよ」


 眩しい。私は澪織ミオリの向こうから射す、太陽の光から目をかばっていた。


「あはは、海果音ミカネの瞳が赤いのは、光彩の色素がないから。直射日光は危険だね」


 澪織ミオリは日光から私を守るように、私が影になるように立ち位置を変えた。私は、私の瞳が赤いことを、その時初めて知ったのだ。そして、俯いた時に見えた私の前髪は、金色に染まっていた。


「私、こんな髪……」


「きれいな金色だね。海果音ミカネはいつも太陽みたいに眩しいよ。じゃあ、行こうか?」


 走り出す澪織ミオリ。私はあわててそれを追う。目の前を踊る私の髪の毛先は、桜のように、仄かなピンク色をしていた。


「あ、待ってー! 澪織ミオリー!」


 校門へと急ぐ私たちふたりを、遠くから見つめる琥珀色の瞳があった。


「ようやくだね。じゃあ、ボクも行こうかな」


 校門を通り過ぎる悠季ユウキさん。その後ろには、赤い髪の少女が歩いていた。彼女はスマホを手に声を荒げている。


「ねえ、本当に今日からこの学校に通わなきゃならないの!? ……もーっ、なんでよ! ……あ、切れちゃった。もう、パパったら、私に同世代の友達を作れだなんて……そんなもの、私には必要ないのに」


 その鳶色の瞳は、談笑しながら昇降口に消えて行く、私と澪織ミオリの背中を映していた。


海果音ミカネ、友達増えるといいね」


「え? 澪織ミオリ、急にどうしたの?」


 澪織ミオリは軽く後ろを振り返り、含み笑いを浮かべた。私は、その表情に当惑することしかできなかった。


 こうして、私たち4人の、かけがえのない高校生活が始まろうとしていた。


 ――虚神インヴィジブルエンサー 第1部 世界が終わるまで 完――

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虚神インヴィジブルエンサー マノリア @mitoco

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