第5話 ブラックドッグ・マリヤ

 瑛二は眼前にいる真っ黒な犬の持つ、ルビーのように深い赤色の瞳をもう一度じっくり見た。

 魔犬という属性から想像される禍々しさは感じず、非常に知的な光が宿っているように思えた。軽く首を傾げているのは、魔犬側にも戸惑いがあるからか。


「マリヤ、君は、えー、……エイジと僕の違いがわかるのかな。というか僕にいったい何が起こったんだろう」

 優しく静かな声で黒犬は答えた。

「まず、最初のご質問から。不肖このマリヤは赤の魔眼を持っております。これと多少の予備知識によって、あなた様の変化に気づきました。いわゆるオーラの色と形が変わったのです。それと、瞳の奥にあるものも」

「弱々しくなったとか」

「いえ、逆にございます。本来あるべき姿になられたとも言えます。これはお世辞ではございません。ただし伝説の示すよりも時期が早く、多少の戸惑いも」

「伝説ねえ」

 

 彼の理解を促そうとしてか、マリヤはゆっくり語った。

「とはいえこの赤光の国 –––– この世界におけるエイジ様の国であり、この森もその一部です –––– に暮らす人間の中には、これを見抜き意味を解する者は、もはやいないでしょう。ただ一人を除いては」

 エイジとの空想では、マリヤの声はあるベテラン女性声優にそっくりという設定になっていたが、目の前の賢そうな犬はまさに瓜二つの美声を発している。それが妙に嬉しかった。

「かの者なら見抜くかも知れません。彼女はあなたに拮抗しうる能力を持つうえ、あなたに多大な関心を抱いていますから」

「それは、魔女サラアのことかな?」

 マリヤはうなずいた。

「はい。さらにあの者は、あなた様や私と同様、もう一つの世界に触れる術が使えます。そのうえ、私たちのように月齢を考えて術を控えるなどといった気遣いはまずしません。勝手気ままに術を振るいます。世界の均衡には関心がないのでしょう。とにかく本心が読めず、油断できない人物です。瑛二様のことも以前から熱心に観察していたようですし」

「えっ、そんな」瑛二は顔をしかめた。変なところを見られてたらどうしよう。

 

 しばらく思案したのち瑛二はマリヤに、「できれば、二つの世界の話について詳しく聞きたい」と頼んだ。「それと僕の現状ついての君の考察も。あ、言葉は丁寧でなくていいよ。気楽に話してくれたほうがありがたい。エイジは偉かったようだけど、僕はただの平社員だし」

 そう瑛二がいうと、マリヤは「了解しました」と言って、クスっと笑った。

「白状しますと、私もあなたの姿をひそかに覗き見たことがあります。気さくな方と感じておりましたが、間違いはなかったようです」


 そう言ってからマリヤは彼のすぐ近くに身を寄せ、声を落とした。

「では、ふたつの世界について説明いたします。それが第二の質問に対する答えにもなりましょう。ただ、その前にひとつお聞かせ下さい」

 眼下にあるマリヤの黒い毛はつやつやして、ノミなど皆無のようだ。

 「如何なる経緯によってこの地にお越しになられましたか?つまり、日本でもなにかの儀式を行われたのでしょうか。あるいは月が真っ赤だったとか」

「月が真っ赤ってことはなかったけど……」

 やっぱりあれか、と思った瑛二は手短に、婚約者のあとを追いかけて超高層ビルの最上階に登り、彼女の姉にそこから落とされた話をした。


「超高層というのは何十階もある建物のことだよ」

「スカイツリーのようなものですか?」

 ちゃんと知っているらしい。

「あれよりはかなり低いけど、マジック・タワーと言って、デートの場所としては有名だった」

「ああ、マジック・タワー」それを聞くと、マリヤは息を呑んだ。「確かにあの塔は天と地と海が交わる場所にある。なるほど、そういうことですか」

 さらに瑛二が風見姉妹の人物と外観について語ると、黒犬は繰り返し深くうなずいた。

「大変な目に遭われましたが、それは重要な情報です」

 そんな両者のやりとりを、少し離れたところから怪獣たちが不安げに見つめている。


「あなたのいた世界とこの世界は、いわば光と影に相当する間柄なのです。そこに暮らす人々もまた同じ。双方に姿も心も運命も、まことによく似通った存在がいます。しかし完全な鏡像というわけではありません。どちらかが若くして死に、残った片割れが長命することだってあります。ちなみに、私にもあなたの世界に相方がおります。ただし犬ではなく人間の女でした」

「そ、そうなの」

「なかなかチャーミングな女ですのよ。それはさておき、あなた様とエイジ様はわれら凡庸な存在とは根本から違います。表裏一体、言い換えれば二人で一つの運命共同体でおられた。そしてわれわれ魔物の間の伝承では、さらに歳を重ねられ魔力が絶頂となった折には、二人の力が合わさってこの世界に均衡をもたらすとされていました。具体的にどんなお姿となられるかは明らかでないものの、とにかく魔法の主となられ、われらを良導してくださるはずでした」

「魔法の主って環さんにも言われたけど、魔法なんか全然知らないよ」

「なに、一時的にお忘れになっただけです。あ、重要なことを言ってませんでした。あなたの元いた世界は、大勢の人の知恵と科学技術の積み重ねによって文明社会を築き、魔法の影響はごくわずかです。しかし、この世界の人々の暮らしは、魔法とは切っても切れない関係にあります。ですから、元の世界に比べずっと便利な面もありますし、信じられないほど遅れたところもあります。若い頃の私はこの世界のあり方が嫌でならず、あなたの元の世界に憧れて熱心に学びました。だから、多少の知識があるのです。この頃はすっかり諦めておりましたが、あなた様にこんな形でお会いし、あらためて希望が湧いて参りました」


 それを聞いて瑛二は、「ぜったいそんな立派な男じゃないと思うけどなあ」と首を捻った。「それより、エイジの意識はどこに行ったんだろう。たしかに彼の記憶らしいのはあるけれど、意識は呼んでも出てこない」

「私の目にも、一つの体に二つの意識が宿ったとは見えず、単にエイジ様、すなわちダーク17世のお身体に瑛二様の意識が宿ったと見えています。つまり元のダーク様の意識はどこかに失われてしまった。これはおそらく、さきほどの騒ぎが影響していると考えられます」

「テロみたいなやつ?」

「同時多発テロと申しますか」マリヤは瑛二に腰を下ろすよう促して言った。

「あと少しだけお付き合いを。その後はしばらくお休み下さい。この奥の森にはゆったりできる場所もあります」


「まわりのみんなは、大丈夫かな」

 他の怪獣たちを気遣う瑛二の言葉を聞くと、マリヤはどこか嬉しそうに怪獣たちに対し、楽にするように指示した。そして振り返ると、

 「繰り返しますが、これはあくまで私の推論とお聞き下さい。まずエイジ様は儀式に先立って護衛を遠ざけ、すべての護身の術を解除されました。そして儀式によって著しく気力を消耗されたはずです。そのタイミングを狙って、現在の王の方針に楯突く連中が騒ぎを起こした」

「それはどうして?」

「それは、あなたこそ王が最も頼りとする人物だからです。言い換えれば、王とその近習たちに政策変更を迫る際、最大の障害があなたなのです。たとえ万の軍勢を用意して力押しで翻意を迫ろうとも、あなたが傍らにいれば王は平気な顔をして聞き流してしまうでしょう」

「はー」

「最近、地域振興のやり方についていろいろ対立がございまして。とにかく、おそらく斎場にも裏切り者がいた。事前調査の担当はエイジ様の人間の側近たちでしたが、きっとあの中にも」

「テロリストが悪役の映画だと、すごい好人物が内通者だったりするけど」

「まあ、そんな感じかもしれません。ただ、いくらパワーダウン中であっても奴らごときがダーク17世の心に干渉するのはあり得ない。敵がその場で水蒸気に変えられても私は驚きません」

「そんなにすごいの?」

「はい。ただ、エイジ様は魔法を振るうのに慎重な方でしたから、おろかな敵がその実力を過少評価するのはあり得ます。ですが、実際に傷つけたとなると話は変わる。必ずや別の真犯人がいたはずです。エイジ様が心を許し、たとえ自分が傷ついてもその相手を傷つけたくないと願う人物。その者がなんらかの術を用いてエイジ様の意識をどこかに飛ばしたか、封じ込めたのだと思われます」


「その人物というのは……」

「このマリヤの見るところ、白珠という女です。実際、いったん神事の前に姿を見せたのち、消息を絶っています。自分の命と引き換えにエイジ様の心を封じたというのが現段階での私の見方です」

「白珠」瑛二の頭に、前に浮かんだ寂しそうな女の顔がまた思い出された。

 彼の表情を見てマリヤはまたうなずいた。

「ええ。あなたの婚約者、白鹿の妾腹の姉。賢く品があり、魔力も上々。彼女が妻となってもおかしくはない。けれど、生母の身分が低いがために彼女の属する血蜘蛛谷では妹より一段低い扱いを受けていました。それをエイジ様はとても気の毒がっておられたし、この私もまた」

 マリヤは首を垂れた。最初に愚痴っていたのはこのことらしい。

「どうやら、こちらの同情心につけこまれました。ただ、白珠が単独でこれほどの大事を達成できるとも考えにくい。儀式のあった山が消し飛ぶほどの魔力が働いておりますから、魔法の規模を考え合わせると、どこかに魔女サラアが介在している可能性が極めて高い」

「なら、魔女が全部の黒幕?」

「いえ、すべてを魔女がお膳立てしたというのも違う気がします。一つの運命の流れにあなたが踏み入ったのを、魔女が上手に利用したと考えるのが自然です。理由はまだわかりませんが」


 ふたたび頭の混乱した瑛二は、立ち上がるとあたりを歩き回った。

「……白珠というのが、この世界での風見環なんだろうか。ぼくはまた、魔女サラアがそうなのかと思った」

「それについては保留とさせてください。実はサラアこそ謎だらけ、正体がほとんどわからないのです。いつもは仮面をつけておりまして、ある日エイジ様と私の前でそれを外したことがありました」

「へえっ、どんな顔だったの」

「なんと白珠によく似た清らかな顔をしていました。とはいえ、魔女ですから変身はお手の物。その時はエイジ様と私が持つ白珠への好意をからかったのだろうと思っていました」


 そういう露悪的なところも環に似ている気がする。

「そうそう、僕をビルから落とした環はマリヤのことも知っていて、とても高く評価しているそうだよ」

「まあ、光栄だこと。環嬢が魔女かはともかく、私もサラアについてはある意味尊敬しています。自由奔放でいながら私利私欲だけでは動かない。だからこそ、今回の行動が謎なのです」

「それと環は、僕が誤ってあっちの世界に生まれたとか言ってたなあ。それで自分も同じかもしれないとかなんとか」

 「ふむ。それは興味深い。サラアについての私の仮説も、あながちハズレではないかも知れません。やはり白珠を唆し破壊的な魔力を与えたのは、あの女に相違なさそうですね」

 その後、しばらくの間マリヤはじっと考え込む姿になった。

 瑛二もまた少し離れた場所で考え込んだ。

 部分的な理解は進んでも、魔法の世界という前提が受け入れ難い。マリヤはもちろん、サラアまで本当にいたなんて、いまだに信じられない気がする。

 だいたい、「ダーク」や「グリフィン」なんて、姉の愛読書だったダイアナ・ウィン・ジョーンズの本が頭に残ってただけじゃないのか。どこでどうこんがらがったのだろう。


 その時、上空から鋭い声がした。

 反射的に瑛二が顔を上げると、なにもなかった目の前の空間が突然に裂け、鈍く光る半月形の刀がぬっと突き出た。

 それは間もなく、彼に叩きつけられようとしていた。

「うげっ」

 彼にはただ、悲鳴を上げることしかできなかった。

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陽の国の影、月の世界のひかり 布留 洋一朗 @furu123

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