姐御、月が綺麗ですね

多賀 夢(元・みきてぃ)

姐御、月が奇麗ですね

「月が奇麗ですね」

 俺がそう言ったら、その人――『姐御』は、こう言った。

「その言葉の意味、分かってないでしょ」

 その通りだったから、俺は曖昧に笑うしかなかった。



 姐御というのは、その先輩のあだ名だ。

 別に不良少女なわけじゃない。かといって堅気とも言い難い気もする。

 男しかいない工業科の校舎に、放課後になるとやってくる。最上階の廊下に譜面台を置いて、ばかでっかいサックスを練習する。


 たとえ、ガラの悪い奴が近づいて来ようとも。

 後ろで喧嘩が勃発していようとも。

 姐御は周囲をガン無視し、淡々と練習を続ける。

 もっとも周囲の野郎どもは、ドスの利いた演奏に圧倒されて近づく事もできなかった。だってどんな怒鳴り声よりも、その音が一番大きかったから。


 姐御にはいろんな噂があった。

 実は組長の娘だから肝がすわっているのだとか、中学の頃はその学区を束ねる裏ヤンのリーダーだったとか。だけど実証するような事件もなく、話だけが独り歩きしていた。

 確かなのは、男子しかいない工業科の誰もが、普通科の女子一人を恐れていた。


 だから最近は、喧嘩は校舎の外でやるようになった。

 俺は今日も裏庭でノックアウトされて、鼻血を出して倒れている。

 日はもうとっくに暮れた。さっきから蚊がやたらうるさい、だけど起き上がりたいと思えない。

 もう何連敗だよ、くそう。いつになったら、俺は誰かに勝てるんだ。


「大丈夫?」

 頭上から女子の声がした。

「うっせぇ!ほっといて……うわっ!?」

 怒鳴りつけようとして、俺は飛び起きた。姐御だ。

「なんかさあ、工業科の人って私を怖がってない?」

 困ったように前髪をかきあげる姐御は、これから帰るのか鞄を右手に持っている。僕は慌てて土下座した。

「すみません!邪魔ならどきます!」

「別に邪魔じゃないから。てか、むしろ私が邪魔しちゃってんだよね、ごめん」

「え?」

「私のバリトンサックスが五月蝿いから、外で喧嘩するようになったんでしょ。ごめんねえ、吹奏楽部の部員増えすぎちゃって、特殊学科棟だけじゃ収まらなくなってさ」

 あのばかでっかいサックスは、バリトンサックスっつうのか。初めて知った。

「いえ、その、姉御……じゃない、貴女様が、物凄く集中していらっしゃるんで。みんな、外に出てるだけっす」

 俺は失礼のないように、言葉を選んで返答した。しかし、姉御は噴出した後腹を抱えて笑い出した。

「何、その丁寧過ぎる敬語」

 俺は、肩を揺らして笑う姐御をぼんやりと見上げていた。工学部の連中は気の短い奴が多く、見た目も派手だ。俺もブリーチで髪を金色にして、耳にはじゃらじゃらピアスをしている。

 だから普通科の女子たちは、大抵俺達には近づかない。なのにこの人は、堂々と俺と話している。

「俺の事、怖くないんすね」

「なんで怖いの?」

「あー、いや……」

 俺はこれ以上聞くのをやめた。そうだ、この人は数々の噂を持つ『姐御』だ。俺みたいな最弱下っ端レベルじゃ、きっとなんともないんだろう。


 言葉が続かず辺りを見渡すと、裏庭の樹々の上にゆっくりと月が見えてきた。

「あー。月が、奇麗ですね」

 すると姐御は、何故か目を点にして俺をマジマジと見た。

「その言葉の意味、分かってないでしょ」

 俺は何を言われているか分からず、首をぎこちなく傾げながら曖昧に笑った。

 姐御は大袈裟に息をついて、芝居がかった感じで左手を空に掲げた。

「ワタクシは、星の夜が好きですわ」

「あ、はあ……」

「分かんなかったら、スマホで『夏目漱石』『月が奇麗ですね』で検索しなさい。じゃあね」



 俺は姐御が立ち去るのを見送った後、慌ててスマホを出して検索した。検索結果を見て、自分のやらかしたことに悶絶し、姉御の答えに絶望した。普通科の友達に「『月は奇麗ですね』って言葉の意味を知っているか」と尋ねたら、「I LOVE YOUだろ」と即答されて、俺は己の学の無さに落ち込んだ。


 それから俺は、何故か勉強に目覚めた。

 無事大学に合格し、そこで姐御と再会して、本気の『月が奇麗ですね』を告げたのはまた別の話で――姐御の度胸の原因が、実は空手の有段者だったからってことも、告白の返事が以前と異なっていた事も、また、別のお話。

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姐御、月が綺麗ですね 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki

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