5.

 時代ときは十九世紀末。

 蒸気スチーム・エラ1889年。冬の昼下がり。

 都市エンジンバラ・7734地区。

 少量の雪がちらつく灰色の空の下、通りの石畳を蹴って、一人の男が走っている。

 面長の痩せた男だ。身長は平均より少し高い。

 年齢は三十代半ばといったところか。

 邪魔じゃまな通行人を突き飛ばして、男が、通りを、逃げる。

 男には表情が無い。人形のように、顔が全く動かない。

 無表情で逃げる男を追いかける、数人の男ら。エンジンバラ警視庁/異常アブノーマル生命体・クリーチャー駆除課/リーフスプリング小隊だ。

 追いかける刑事たちの先頭を走るのは、隊長オスカー・リーフスプリング大尉。

 二十八歳の若さで小隊長に抜擢された警視庁のエース。

 強面こわもての刑事が多い駆除課にあって、学者のような顔立ちの優男やさおとこだった。

 いや『学者のよう』などと評するのは、彼の並外れた美貌に失礼だろう。

 銀ぶち眼鏡を取って流し目の一つも投げて寄越せば、どんなに清純な令嬢でも貞淑な夫人でも、顔を赤らめ目を潤ませる。それほどの飛び抜けた美男子だ。

 当代一の売れっこ俳優でも、彼の美しさには遠く及ばない。

 追われて走る無表情男より、追う側の美男オスカー・リーフスプリング大尉の方が、少しだけ速力に優れていた。

 徐々にではあるが、両者の距離が縮まっていく。

 突然、無表情男が向きを変えて、表通りから細い路地へ入った。

 大尉以下、刑事たちもその後を追う。

 ……が、しかし……

 複雑に入り組んだ路地の角を何度か曲がったところで、獲物を見失った。

「くそっ」

 路地の交差する場所で足を止め、知的な顔に似合わない悪態を吐きながら、大尉が四方を見回す。

「隊長」追いついた部下の一人が言う。「既にです」

「ああ。分かっているよ」とオスカー隊長は返した。「忌避ゴースト区域・タウンか」

 言いながら、あたりを見回す。

 路地にも、周囲の建物にも、人の気配が無い。

 コートの懐に右手を差し入れながら、隊長が続ける。「かえって好都合だ。通行人が居なければ、流れ弾丸だまを気にせずに銃を撃てる」

 それはだ。

 コートの中から出したのは、中折れ式・六連発のダブル・アクション・リボルバー。

 他の隊員たちも各々それにならい、懐から銃を出した。

「それにしても、入り組んだ場所だな」オスカー隊長は、あらためて周囲を見回した。

 今はまだ、あの無表情男は人間の姿形すがたかたちを保っている。

 人間形態のあいだなら、比較的威力の小さな拳銃弾でも、脳髄または心臓を打ち抜けばヤツを無力化できる(殺せる)

 しかし、ひとたび潜在異常性が発現し完全な異常生命体に変化へんげしたら、弱点である脳髄と心臓は、強靭な異常細胞で覆われ保護されてしまう。

 右手に持った9・1mm(通称38口径)リボルバーで敵を殺すには、よほどの幸運が必要だろう。

 もっと強力な武器が無ければ、発現した異常生命体に勝つことは難しい。例えば、が持っている12・7mm狙撃銃のように強力な武器が無ければ。

 オスカーは、無人の建物の間から灰色の空を見上げた。

 どういう訳か、異常生命体は、本性がバレそうになると忌避ゴースト区域・タウンへ逃げ込む傾向にあり、そこで『発現』し化け物になることが多かった。

 相手が既に『発現』している可能性は高い。

 どこで敵と出くわすか分からない迷路のような路地。

 こちらの武器は、頼りない38口径リボルバーのみ。

(結局、最後は灰色の少年グレイ頼みか)

 すでに連絡係が少年のところへ行き、知らせを受けた彼はこちらへ向かっている事だろう。

 しかし、敵を追跡すれば位置が変わる。7734地区という大雑把な場所は知らせてあったとしても、今われわれが立っている場所は隣の7735地区だ。

(あらためて、我々の位置を知らせるべきだ)そう思ったオスカーは、部下の一人を呼んだ。

「ピニオンギア君、赤の発煙器のろしを焚いてくれ」

 隊長に言われ、部下がポケットから真鍮の箱を出した。

 箱の側面のロックを外し、何度か親指でボタン押す。

 箱の内部に仕込まれたバネが伸び縮みして火打ち石を叩き、発煙物質に着火、シューッという小さな音を出して、三十センチメートルほどの赤い火柱が立ち、赤色の煙が空に昇った。

 小さな雪がチラチラと舞っているが、風はほとんど無い。

 赤い煙が、路地を挟む建物のあいだを抜けて空へ真っ直ぐに昇っていく。

 十秒後。

 建物の屋根の向こう側、地上のオスカー達からは死角になって見えない空から、突然、少年が現れた。

 灰色の服を着た灰色の髪の少年が、空から狭い路地に舞い降り、周囲へ軽く風圧をいて、フワリと石畳の上に着地する。

 透明だった翼が、一瞬だけ灰色になり、背中の肩甲骨の中に納まった。

 自由自在に色を変える大きな翼。飛んでいる間は左右に大きく広がり揚力を生むが、どういう魔術マジックなのか、地上では肩甲骨の内側に折り畳まれ完全に収納される。背中が膨らむようなこともない。

 空から突然あらわれたこの少年、まだ十六歳という話だ。

 すでに大抵の大人よりも背が高い。手足が長く、一見、細身の印象だが、その鋭い身のこなしから、彼の肉体が有する筋力と瞬発力が相当なものだと分かる。

 少年の名はグレゴリー・ウィングボルト。人間ととの間に生まれた混血児。

 またの名を『灰色グレイ

 赤ん坊を抱くときに使う『抱っこ紐』のようなもので、青色の大型犬が体の前面に縛りつけられていた。

 抱っこしている犬と少年の体の間に、左の肩から右の脇腹へ斜めにライフル銃が挟まっている。

 おそらくスリング・ベルトで体に縛り付けているのだろう。ライフルを背中に回さないのは、羽ばたきの邪魔になることを嫌ってか。

 その抱っこ紐を外し、少年が地面に大型犬を降ろした。

 深い青色の金属光沢を持つ犬が、関節から薄く蒸気を昇らせながら立ち上がる。

 この蒸気機関都市に人間以外の動物は存在しない。(少なくとも表向きは)

 人間が慣例的に動物と呼ぶものは、全て、小型ボイラーと思考オートマトンを内蔵した自律機械だ。

 犬は、少年の横に寄り添うように立ち、ジッと、オスカーを見つめた。

 まるでオスカーと彼の部下を、敵か味方か吟味しているようだ。

(そんな目で睨むなよ)と小隊長は思う。

 犬の眼窩にめ込まれたレンズが、こちらを見つめる。

ただのガラス玉だ)彼は自分に言い聞かせる。

 そのガラス玉を通してこちらを品定めしているのは、犬の頭蓋に収められた思考オートマトン。

(それだって、ちっちゃな歯車の集合体に過ぎん)

 絶滅した古代の動物に似せて造られた機械。

 その機械が、まるで意思を宿しているように、こちらを見つめている。

 若き小隊長は、犬と視線を合わせないように注意しながら「思ったより早かったな」と、少年に言った。

「当たりを付けていました。7734地区に来いって連絡を受けた時点で、隣の7735地区が忌避ゴースト区域・タウンだと気づいた」

「異常生命体はゴースト・タウンへ逃げ込みがちだからな。いずれここへ来ると予想して、発煙器のろしが上がる前に近くまで来てたって訳か」

 隊長の言葉に、グレイがうなづいた。

 オスカーは、手早くグレイに状況を説明した。

「人の居ないゴースト・タウンに逃げ込んだのは、こちらとしても好都合だが」とオスカーが続ける。「この入り組んだ細い路地だ。見失ったのは痛かった。一度でも見失うと、小隊一個じゃ、再発見は不可能に近い」

「それで、こいつの鼻を使って探せと言う訳ですね?」グレイが青い犬を指さした。

 オスカーは頷き、付け加える。「それと、待ち伏せの可能性も考える必要がある。もし、相手が既に『発現』していた場合、残念ながら我々の装備では歯が立たない。至近距離で戦う状況は避けたい。意図的な待ち伏せが無かったとしても、偶然、出会いがしら、って事も有りうる」

「だから、これで」少年は、ライフル銃のスリング・ベルトを緩めながら、オスカーの言葉を引き継いだ。「俺が、空から狙撃する」

「その通りだ。頼む」

「分かりました……何か、被疑者の匂いが染み付いた物はありますか? 衣服の一部とか、ハンカチとか」

「いいや」

「となると、こいつの異常生命体探知機能を使うしかないですね」少年が(機械仕掛けの)犬に命令する。「トレイサー、を探せ。人間の場合は攻撃せず、できる限りその場で足止めするんだ。いずれにせよ遠吠えで知らせろ。分かったな? よし、行け!」

 命令された瞬間、犬は弾かれたように走り出し、路地の奥へと消えた。

追跡者トレイサーか……)その様子を見ていたオスカーは思う。(身も蓋もない、無粋な名前だ)

 犬の消えた路地を見つめていると、グレイ・ウィングボルトが話しかけて来た。

「隊長さん」

「何だ?」

「相手は、既に〈発現〉していると思いますか?」

(それが分かりゃ苦労はしない……だよ。少年)

 とは言え、分別のある大人、かつ、この場を仕切る小隊長として、問われた以上は、何かを答えるべきだ。

「さて、どうだろうな」オスカーは少年に言った。「過去の統計では、ゴースト・タウンに入ると異常性発現の確率はグンッと上がる。それは俺の経験とも一致する。だが確信は無い」

「そうですか。まあ、そうですよね」

 グレイが、少し考える素振りを見せて、黙って路地の奥を見た。

 今度は、オスカーが少年に尋ねる番だ。「どうした? 何か、あるのか?」

「もし異常生命体が、自ら異常性の発現を抑制して」少年の視線がオスカーの方へ動く。「人間の姿のままだったとしたら」

「だったとしたら?」

トレイサーには、ヤツらと人間の見分けがつかない……追跡トレイスできない」

(そんな弱点があるのか)内心ちょっと驚きつつ、しかし顔には出さず、小隊長は少年グレイに「逃したら逃したで、仕方ないさ」と言った。

「逃したら逃したで、仕方ないさ。刑事に限らず、あらゆる仕事は確率論だ。いちばん確率の高いやり方を計算して、そこに張るしかない。それでも駄目なら今回は負けだと認める……負けは痛いが、それで全てが終わる訳じゃない。勝っても負けても次がある。明日も明後日あさっても、死ぬまで次の勝負は続いて行くよ」

「はぁ……そう、ですか」

「不満か?」

「いや、分かりません。不満に思うべきなのか、どうかさえも……とりあえず、トレイサーには、異常生命体であれ人間であれ、何者かを見つけたら遠吠えで知らせろと命令しておきました。俺と機械犬トレイサー精神感応テレパシーで繋がっています。どれだけ離れていようと、お互いの状況は逐一把握できる。皆さんは、遠吠えを聞いたら何者かを発見したんだと思ってください。相手が人間の姿をしていた場合、万がいち一般市民だった場合を考えて、我々が行くまでは攻撃しないようにも命じておきました。異常生命体アブノーマルだったら、問答無用で攻撃します」

「わかった。それで良い。やってくれ」

「じゃあ、行きます」

 グレイ少年は、8・58mm狙撃銃を右手に持ち、隊員たちから少し距離をとった。

 背中から灰色の翼が現れ、左右に広がっていく。

「ばさっ」という羽ばたき音を立てて、広がった翼が上下に動き、グレイの体が宙に浮いた。

 ばさっ……ばさっ……ばさっ、ばさっ、ばさっ……羽ばたくたび、体が路地を離れて上昇していく。

 やがて左右の建物の軒をこえ、翼が透明化して見えなくなった。

 灰色の髪の少年、グレイ・ウィングボルトは、左手で地上の隊員らに合図を送ると、忌避ゴースト区域・タウンの奥へと飛び去った。

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蒸気機関都市の童心 青葉台旭 @aobadai_akira

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