5.
都市エンジンバラ・7734地区。
少量の雪がちらつく灰色の空の下、通りの石畳を蹴って、一人の男が走っている。
面長の痩せた男だ。身長は平均より少し高い。
年齢は三十代半ばといったところか。
男には表情が無い。人形のように、顔が全く動かない。
無表情で逃げる男を追いかける、数人の男ら。エンジンバラ警視庁/
追いかける刑事たちの先頭を走るのは、隊長オスカー・リーフスプリング大尉。
二十八歳の若さで小隊長に抜擢された警視庁のエース。
いや『学者のよう』などと評するのは、彼の並外れた美貌に失礼だろう。
銀ぶち眼鏡を取って流し目の一つも投げて寄越せば、どんなに清純な令嬢でも貞淑な夫人でも、顔を赤らめ目を潤ませる。それほどの飛び抜けた美男子だ。
当代一の売れっこ俳優でも、彼の美しさには遠く及ばない。
追われて走る無表情男より、追う側の美男オスカー・リーフスプリング大尉の方が、少しだけ速力に優れていた。
徐々にではあるが、両者の距離が縮まっていく。
突然、無表情男が向きを変えて、表通りから細い路地へ入った。
大尉以下、刑事たちもその後を追う。
……が、しかし……
複雑に入り組んだ路地の角を何度か曲がったところで、獲物を見失った。
「くそっ」
路地の交差する場所で足を止め、知的な顔に似合わない悪態を吐きながら、大尉が四方を見回す。
「隊長」追いついた部下の一人が言う。「既に7735地区です」
「ああ。分かっているよ」とオスカー隊長は返した。「
言いながら、あたりを見回す。
路地にも、周囲の建物にも、人の気配が無い。
コートの懐に右手を差し入れながら、隊長が続ける。「かえって好都合だ。通行人が居なければ、流れ
それは強がりだ。
コートの中から出したのは、中折れ式・六連発のダブル・アクション・リボルバー。
他の隊員たちも各々それに
「それにしても、入り組んだ場所だな」オスカー隊長は、あらためて周囲を見回した。
今はまだ、あの無表情男は人間の
人間形態のあいだなら、比較的威力の小さな拳銃弾でも、脳髄または心臓を打ち抜けばヤツを無力化できる(殺せる)
しかし、ひとたび潜在異常性が発現し完全な異常生命体に
右手に持った9・1mm(通称38口径)リボルバーで敵を殺すには、よほどの幸運が必要だろう。
もっと強力な武器が無ければ、発現した異常生命体に勝つことは難しい。例えば、あの少年が持っている12・7mm狙撃銃のように強力な武器が無ければ。
オスカーは、無人の建物の間から灰色の空を見上げた。
どういう訳か、異常生命体は、本性がバレそうになると
相手が既に『発現』している可能性は高い。
どこで敵と出くわすか分からない迷路のような路地。
こちらの武器は、頼りない38口径リボルバーのみ。
(結局、最後は
すでに連絡係が少年のところへ行き、知らせを受けた彼はこちらへ向かっている事だろう。
しかし、敵を追跡すれば位置が変わる。7734地区という大雑把な場所は知らせてあったとしても、今われわれが立っている場所は隣の7735地区だ。
(あらためて、我々の位置を知らせるべきだ)そう思ったオスカーは、部下の一人を呼んだ。
「ピニオンギア君、赤の
隊長に言われ、部下がポケットから真鍮の箱を出した。
箱の側面のロックを外し、何度か親指でボタン押す。
箱の内部に仕込まれたバネが伸び縮みして火打ち石を叩き、発煙物質に着火、シューッという小さな音を出して、三十センチメートルほどの赤い火柱が立ち、赤色の煙が空に昇った。
小さな雪がチラチラと舞っているが、風は
赤い煙が、路地を挟む建物のあいだを抜けて空へ真っ直ぐに昇っていく。
十秒後。
建物の屋根の向こう側、地上のオスカー達からは死角になって見えない空から、突然、少年が現れた。
灰色の服を着た灰色の髪の少年が、空から狭い路地に舞い降り、周囲へ軽く風圧を
透明だった翼が、一瞬だけ灰色になり、背中の肩甲骨の中に納まった。
自由自在に色を変える大きな翼。飛んでいる間は左右に大きく広がり揚力を生むが、どういう
空から突然あらわれたこの少年、まだ十六歳という話だ。
すでに大抵の大人よりも背が高い。手足が長く、一見、細身の印象だが、その鋭い身のこなしから、彼の肉体が有する筋力と瞬発力が相当なものだと分かる。
少年の名はグレゴリー・ウィングボルト。人間と異世界の有翼人種との間に生まれた混血児。
またの名を『
赤ん坊を抱くときに使う『抱っこ紐』のようなもので、青色の大型犬が体の前面に縛りつけられていた。
抱っこしている犬と少年の体の間に、左の肩から右の脇腹へ斜めにライフル銃が挟まっている。
おそらくスリング・ベルトで体に縛り付けているのだろう。ライフルを背中に回さないのは、羽ばたきの邪魔になることを嫌ってか。
その抱っこ紐を外し、少年が地面に大型犬を降ろした。
深い青色の金属光沢を持つ犬が、関節から薄く蒸気を昇らせながら立ち上がる。
この蒸気機関都市に人間以外の動物は存在しない。(少なくとも表向きは)
人間が慣例的に動物と呼ぶものは、全て、小型ボイラーと思考オートマトンを内蔵した自律機械だ。
犬は、少年の横に寄り添うように立ち、ジッと、オスカーを見つめた。
まるでオスカーと彼の部下を、敵か味方か吟味しているようだ。
(そんな目で睨むなよ)と小隊長は思う。
犬の眼窩に
(
そのガラス玉を通してこちらを品定めしているのは、犬の頭蓋に収められた思考オートマトン。
(それだって、ちっちゃな歯車の集合体に過ぎん)
絶滅した古代の動物に似せて造られた機械。
その機械が、まるで意思を宿しているように、こちらを見つめている。
若き小隊長は、犬と視線を合わせないように注意しながら「思ったより早かったな」と、少年に言った。
「当たりを付けていました。7734地区に来いって連絡を受けた時点で、隣の7735地区が
「異常生命体はゴースト・タウンへ逃げ込みがちだからな。いずれここへ来ると予想して、
隊長の言葉に、グレイが
オスカーは、手早くグレイに状況を説明した。
「人の居ないゴースト・タウンに逃げ込んだのは、こちらとしても好都合だが」とオスカーが続ける。「この入り組んだ細い路地だ。見失ったのは痛かった。一度でも見失うと、小隊一個じゃ、再発見は不可能に近い」
「それで、こいつの鼻を使って探せと言う訳ですね?」グレイが青い犬を指さした。
オスカーは頷き、付け加える。「それと、待ち伏せの可能性も考える必要がある。もし、相手が既に『発現』していた場合、残念ながら我々の装備では歯が立たない。至近距離で戦う状況は避けたい。意図的な待ち伏せが無かったとしても、偶然、出会い
「だから、これで」少年は、ライフル銃のスリング・ベルトを緩めながら、オスカーの言葉を引き継いだ。「俺が、空から狙撃する」
「その通りだ。頼む」
「分かりました……何か、被疑者の匂いが染み付いた物はありますか? 衣服の一部とか、ハンカチとか」
「いいや」
「となると、こいつの異常生命体探知機能を使うしかないですね」少年が(機械仕掛けの)犬に命令する。「トレイサー、敵を探せ。人間の場合は攻撃せず、できる限りその場で足止めするんだ。いずれにせよ遠吠えで知らせろ。分かったな? よし、行け!」
命令された瞬間、犬は弾かれたように走り出し、路地の奥へと消えた。
(
犬の消えた路地を見つめていると、グレイ・ウィングボルトが話しかけて来た。
「隊長さん」
「何だ?」
「相手は、既に〈発現〉していると思いますか?」
(それが分かりゃ苦労はしない……だよ。少年)
とは言え、分別のある大人、かつ、この場を仕切る小隊長として、問われた以上は、何かを答えるべきだ。
「さて、どうだろうな」オスカーは少年に言った。「過去の統計では、ゴースト・タウンに入ると異常性発現の確率はグンッと上がる。それは俺の経験とも一致する。だが確信は無い」
「そうですか。まあ、そうですよね」
グレイが、少し考える素振りを見せて、黙って路地の奥を見た。
今度は、オスカーが少年に尋ねる番だ。「どうした? 何か、あるのか?」
「もし異常生命体が、自ら異常性の発現を抑制して」少年の視線がオスカーの方へ動く。「人間の姿のままだったとしたら」
「だったとしたら?」
「
(そんな弱点があるのか)内心ちょっと驚きつつ、しかし顔には出さず、小隊長は
「逃したら逃したで、仕方ないさ。刑事に限らず、あらゆる仕事は確率論だ。いちばん確率の高いやり方を計算して、そこに張るしかない。それでも駄目なら今回は負けだと認める……負けは痛いが、それで全てが終わる訳じゃない。勝っても負けても次がある。明日も
「はぁ……そう、ですか」
「不満か?」
「いや、分かりません。不満に思うべきなのか、どうかさえも……とりあえず、トレイサーには、異常生命体であれ人間であれ、何者かを見つけたら遠吠えで知らせろと命令しておきました。俺と
「わかった。それで良い。やってくれ」
「じゃあ、行きます」
グレイ少年は、8・58mm狙撃銃を右手に持ち、隊員たちから少し距離をとった。
背中から灰色の翼が現れ、左右に広がっていく。
「ばさっ」という羽ばたき音を立てて、広がった翼が上下に動き、グレイの体が宙に浮いた。
ばさっ……ばさっ……ばさっ、ばさっ、ばさっ……羽ばたく
やがて左右の建物の軒をこえ、翼が透明化して見えなくなった。
灰色の髪の少年、グレイ・ウィングボルトは、左手で地上の隊員らに合図を送ると、
蒸気機関都市の童心 青葉台旭 @aobadai_akira
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