三節
翌日、朝早くに、秋乃は図書館を訪れた。昨晩の冬人との会話から、自分の置かれた状況が結構危ういところにあるのではないか、と思ったのだ。現実の改変に立ち向かう──と言えば格好良いかもしれないが、実際には、世界から排斥されるようで怖いと思う気持ちが強い。
図書館がこの時間に開いているものか、秋乃は知らなかった。自分の意思でここを訪れたのは初めてだろう。開いていなければ、後でまた来れば良いと考えていた。図書館を前にして、秋乃は息を吐いた。扉には、開館するのは九時からだと書いてある。
「そうか……」秋乃は呟いた。
タイムトラベルや現実の改変について調べようと思ったが、仕方ない。踵を返し、立ち去ろうとした。
「あれ、転校生君?」
そこには司書の晴村が立っていた。何故こんな時間に居るのだろう。秋乃は視線だけを図書館に向け、
「おはようございます、晴村さん。開館は九時からでしょう。来るの、早いですね?」
「ええ。いつも通りよ。準備があるからね。君こそ早いね、雨宮秋乃君」
自分の名を呼ばれて、秋乃は些か驚いた。どうして知っているのかと疑問に思ったが、思考を遮るように、
「朝は冷え込むでしょう。中に入って良いよ」
晴村に促され、秋乃は従った。完全に彼女のペースだ。しかし、目的は果たせたのだから都合は良い。これがギブアンドテイクだろうか、と秋乃は考えた。
晴村は一度カウンターの奥に消えると、司書用のエプロンを身につけてから、帰ってきた。カウンターの席に座ると、秋乃を呼び付ける。
「何を借りたいの?」
「そうですね……タイムトラベルってあるじゃないですか。もし、過去を変えてしまったらどうなるのか、それを知りたいんです」
「成る程。昨日の件が気になるのね?」
了が落ちてきたことを指しているのだろう。秋乃は頷いた。
「秋乃君はどう考えてる?」
「どう、とは」
「どう言う理屈で彼は落ちてきたと思う?」
「理屈ですか」
「そう。まさか彼が、本当にタイムトラベルしてきたと思う?」
「分かりません」秋乃は首を振った。「でも、実際に落ちてきましたよね。だから、過去から来たと言われても、信じてしまうかも」
「君は信じてない?」
「いえ、信じています。何故かな……。これも、分かりません。多分、了君が歳を取っていなかったからじゃないですかね」
「ふうん……。理知的な答えだね。でも、どうだろう。例えば──これは少し不謹慎かもしれないけど、例えば、だからね──もし仮に了君が不審者に連れ去られたとして、四年間もどこかに軟禁されていれば、あまり成長は出来ないんじゃないかな。うん、あまり良い話ではないけど」
秋乃は晴村の話に耳を傾けながら、そう言えば、晴村も春臣の話を聞いていたのだったっけ、と思い出す。
「じゃあ何故、了君はあんな高いところから落ちてきたんでしょう?」
「さあ。でも、それとタイムトラベルを繋げるには、今ひとつ関連性が見当たらないよね」
晴村は、はいとバーコードの書かれた一枚の紙を寄越した。秋乃はそれをピアスから読み取ると、ファフロツキーズ現象について、と音声が読み上げる。ピアス曰く、『ファフロツキーズとは空からの落下物を意味しており、世界各地で見られる自然現象。例えば、大量の魚が降ったり──』
秋乃はピアスの説明を終わらせた。晴村がにこにこと笑っている。
「どう、参考になりそう?」
「はぐらかしていませんか?」
「はぐらかす? 何を?」
「昨日、貴方は『タイムパラドックスだ』と呟いたじゃないですか」
「そうだっけ?」晴村は首を捻った。
「覚えていませんか」
「覚えてない」
秋乃は小さく嘆息して、これ以上追及するのは諦めた。
「じゃあ、それはともかくとして、タイムパラドックスについて、晴村さんのお勧めを教えてください」
晴村は五秒ほど目を瞑り、ややあってから、「バタフライ効果」と呟く。
「何ですか、それ」
「力学系の用語ね。SFでも使われてるけど。ブラジルの蝶が羽ばたく程度のことでも、その影響から遠くでは竜巻が起きてしまうか、という問題のこと。また、微々たることが徐々に大きな事象に繋がっていくことの喩え。つまりね、カオス運動の予測が難しい、って話よ」
「どれが正解なんですか」
「全部」晴村は答える。「ここから、バタフライ効果と言われてるの。これは、タイムトラベルにもしばしば使われるんだ。例えば、時間遡行して過去を変えてしまう。すると、その改変によって未来は大きく変わってしまう、というふうにね」
へえ、と秋乃は相槌を打った。知らない話だったので、秋乃は素直に感心した。
「じゃあ、僕たちはそれに巻き込まれてる訳ですね?」
「うーん、どうだろうね」予想に反して、晴村の返事は煮えきらない。「量子の世界では、バタフライ効果は否定されているから、これがマクロの世界──要するに現実でも、タイムトラベルでのバタフライ効果はあり得ないことかもしれない。観測の問題だね」
「観測?」
「そう。事実は観測によって変わる。例えば、誰かが見ていれば、人は変な真似をしないのと同じ。二重スリットの実験では、観測するのとしないのとで、粒子が全く別の動きをした。こんな話を持ち出さなくとも、そもそも観測が結果に与える影響は大きい。でも、観測もひとつの事実ではあるよね。なら、観測自体に変化はあるのかな。私たちはさ、物事を観測して世界を記憶するでしょう。目の前で葉っぱが落ちていて、見ようと見まいと変わらず地面に落ちる訳だ。小説も同じだね。中身を見ようと見まいと、オチは変わらない」
「小説って何ですか」
「うっそお! 知らないの?」晴村が驚いて立ち上がった。「そうかあ……この頃は知らないのか」
「はあ、すみません」
何故か謝ってしまった。冬人なら小説のことも知っているだろうな、と考えた。
「製本された物語のことだよ、秋乃君」晴村が教えてくれる。
冬人なら知っているな、と確信した。
「話しすぎたね」晴村が笑って言った。「じゃあ、それを履修しておくんだよ」
秋乃は手元の紙を見た。『ファフロツキーズ現象』と、耳元でピアスが囁く。今の今まで忘れていた。
「じゃあね」と言って、図書館を出た秋乃を見送りながら、晴村はそっと手を振る。勉強になったような、なっていないような、奇妙な感覚のまま、秋乃は学校へと向かった。
冬人は学校には来ていなかった。ピアスから連絡を取ってみたが、繋がらない。変に思った春臣は、
「アイツ、どうしたんだろう」と心配した。
「昨日、冬人と通話したんだけどな……」秋乃は言う。
「それはいつ?」夏莉が聞いた。
「夜の九時くらいだったけど」
「何の話をしたんだ」と、春臣。
「タイムパラドックスについて」
「何それ──あ、司書さんが言ってたやつか」
秋乃は二人に、昨晩の会話の内容について詳しい説明を加えた。
「そのタイミングで冬人が居なくなるっていうのは、何か気になるな」春臣はもう一度、ピアスに手を当てた。「冬人、聞こえるか? 冬人、おーい。駄目だ。オフラインのままだな……」
「放課後に探そう」夏莉が提案した。
「そうだね。僕も気になる」
「じゃあ、放課後に下駄箱で集合。冬人ん家に行こう」
「場所は知ってるの?」秋乃が訊ねる。
きょとんとした顔で、春臣は秋乃を見つめた。
「俺たち幼馴染だぜ?」
そんな取り決めを昼休みに行い、帰りのHRが終わり次第、三人はすぐに集まった。冬人の家は学校から徒歩四十分ほど。彼はいつも自転車で通学していたと言う。歩くのは面倒なので、各自自転車を取りに帰ることになった。自転車を漕ぎながら、秋乃は道を覚えようと辺りを見回す。
住宅街を離れ、一気に田園風景が視界に広がった。道路は段々と狭くなり、三人は縦に一列になって渡る。やがて、大きな屋敷が見えて、春臣はそこへ入っていった。夏莉も後に続き、秋乃は些か躊躇った後、同じように追いかける。
正門から家族を呼び出すと、門がひとりでに開き、「中へどうぞ」とピアス越しに招かれた。中庭を抜け、玄関口に立つと、中から執事と思しき出で立ちの老人が現れた。秋乃は驚きのあまり口をぱくぱくと動かしていると、冬人の執事だと紹介された。
「今日、冬人が学校に来なかったんですけど、風邪ですか?」
春臣が問うと、執事は首を横に振った。
「いえ、坊っちゃまは朝早くから居りませんで、学校に行かれたのだとばかり思っていましたが……」
「じゃあ、家にも居ないんですか?」
「ええ、まだ帰っておりません」
「そうですか……」
「通信は繋がらないのですか?」執事が聞く。
「はい」夏莉が俯いた。「何度も掛けてみましたけど、一向に繋がらなくて」
「それは──おかしいですな」執事は真剣な表情になって、「ありがとうございます。私の方も、少し探してみます」
そう言って彼は深くお辞儀すると、部屋の奥に消えてしまった。取り残された三人は、顔を見合わせて、これからどうしようかと相談した。冬人の行きそうな場所は何処だ、と問われて、秋乃は湖ではないかと考えた。
「冬人は、未来に行ったのかも」
「正気か?」春臣が聞く。
「了君が落ちてきたんだから、それくらいはありそうじゃない?」
「兄貴が帰ってきたのは正直嬉しい。が、正気とは思えん」
「でも、居なくなる前はそんな会話をしたんでしょう?」夏莉が首を傾げた。
「そう。だから、行ってみる価値はあると思う」
春臣は腕を組み、暫く唸っていたが、「仕方ない。行ってみるか」と言った。秋乃は何か引っ掛かりを覚えた。
「何か問題があるの?」
「いや、その──」春臣はバツが悪そうにへの字口にさせると、「今になって思い出したんだけどさ、兄貴が交通事故に遭った時、二人組の不審者が居たって言っただろう。そのうちの一人、兄貴を庇ってから誘拐した奴が、森の廃家に住んでるんだよ」
「え……本当に?」秋乃は困惑した。
「そう。だからもしかすると……冬人はそいつに──」
「何言ってるの」夏莉が呆れたように言う。「さっさと行こう」
彼女は一足先に自転車に跨ると、森へ向けて漕ぎ出した。秋乃と春臣が目を合わせると、後に続く。
森に入る手前で自転車から降りて、三人は奥へと歩いていった。夏莉が先頭を切り、最後尾に春臣が付いて来る。陽の光も木の葉に遮られ、進むたびに暗くなった。その上、息遣いが聞こえるばかりで、誰も口を開かない。暫くして、湖に着いたけれど、見渡す限り誰も居なかった。春臣が秋乃たちへと振り返り、顔を見る。
「誰も居ない」
「見れば分かるよ」夏莉が応じた。
虫の声が耳に入るばかりで、他にそれらしいものはない。湖に目星をつけ、探索してみるも、やはり冬人の姿はなかった。了の言い分を思い出した春臣が、
「もしかしたら、湖の底に居るかもしれない」と発言し、顔を思い切り中に突っ込んだ。やがて顔を上げると、「誰も居ない」
「当たり前よ」と、夏莉は腕を組み、苦笑いした。「了君の話を疑う訳じゃないけど、湖の下に何かあるはずも無いんだし」
「なら、冬人はどこへ行ったんだろう」秋乃は誰にともなく聞いた。
「二人の会話から察するに、ここに来ると思ったんだけどね。少なくとも私だったら、湖を調べようと思うし」
「でも、何も無かったぜ」顔を拭きながら、春臣は言った。
「冬人との通話の感じから、湖には来たと思う。その痕跡さえあれば良いんだけど……」
秋乃は地面に足跡や彼の持ち物が落ちていないか、よく目を凝らして探す。隣では、春臣も同じことをしながら、
「廃家に行った可能性は?」
「はいか?」秋乃が聞き返す。「ああ、廃家か。どうしてそこに行くのさ。理由が無いでしょう」
「いや、兄貴を連れ去った奴を彼処で見掛けたんだ。もしかしたら、そこへ行って──」春臣は口を噤んだ。
「そこへ行って、何?」夏莉が追及する。
春臣は顔を顰め、「……その不審者に連れ去られたかもしれない」
「また言ってる」夏莉は目を細めた。
「少し飛躍し過ぎじゃないかな」秋乃が首を傾げて言う。
「俺もそう思いたいさ。でも、兄貴の話と俺の話を繋げると、湖だけじゃなくて廃家の方も調べてみるべきだと思わないか。もしかすると、だけど。何かあるかもしれない」
「何かって、何さ」
「そりゃ何かだよ」
「禅問答してるんじゃないんだから」夏莉が呆れたように呟いた。
春臣はむすっとして、夏莉から背を向けるように湖の方を向いた。それから、「あれ?」と間の抜けた声をあげ、秋乃たちの注意を引く。
「なあ、あれって……」
春臣が指を差した。その先を辿っていくと、水面に靴が逆さになって浮かんでいるのが見える。靴は片方だけだ。かなり遠く、また端の方で揺られている。秋乃たちは互いに驚きの目を合わせると、すぐに桟橋から駆け寄り、ボートに乗り込む。
ある程度近づいてから、オールでそれを捕まえた。秋乃にはその靴に見覚えは無かったが、春臣の方はしっかりと記憶にあるようだった。彼は言う。
「これは、間違いなく冬人のだ」
冬人の靴を頼りに、森で捜索が行われた。森は秋乃の知る以上に広く、深いらしい。大人達が何人も集まり、数時間ほどかけて探し回ったが、見つかることはなかった。廃家の方も春臣の提案により、もちろん調べられた。しかし、目立ったものは無いという。日が落ちて、夜の捜索は危険だと言うことで、一旦、そこで打ち切られた。続きは明日に行うと言う。
三人は暗い顔でそれぞれの家に帰った。自室に戻ってから、秋乃はピアスから冬人に呼びかけてみたが、やはり繋がらない。彼はどこへ行ってしまったのか。秋乃は思案に耽った。もしかしたら春臣の言った通り、冬人は廃家を訪れ、不審者に連れ去られてしまったのではないか。そんな想像をしてしまう。
「まさかね……」
そうは言ってみたものの、悪い予感は拭い去れない。秋乃は唇を噛み、もやもやとした気分に苛ついた。
「夕飯の時間だぞう」
階下から、雷田の気楽な声がした。彼の声を聞いて、何故か、秋乃の緊張は緩んでしまう。大きく伸びをして、秋乃は部屋を出た。階段を下りて、リビングルームへ向かう。
キッチンからエプロン姿の叔父が現れ、皿を運んでいく。未だに慣れない光景だった。秋乃は心の中で「うへえ」と呟き、運ぶのを手伝った。夕食はサバの味噌煮である。箸をつつきながら、秋乃は雷田が何か隠しているのではないか、ということを思い出した。
「今日、友達が行方不明になったんです」
「へえ?」雷田は秋乃を見る。「物騒な話だな」
「──本当ですよ」
「別に疑っちゃいないさ。それで?」
「それで──」
秋乃は今までに体験したことをすべて話した。屋上に了が落ちてきたこと。春臣と了から聞いたこと。晴村のタイムパラドックスという発言を、冬人と話し合ったこと。湖に彼のものと思しき靴が浮かんでいたこと。話しながら、秋乃は雷田の表情を注意深く観察した。
雷田は真剣な顔で話を聞いていたが、段々と難しい表情をして見せ、考え込むように目を瞑った。何を考えているのか、分からない。秋乃は不安になった。一通りの説明を終えると、
「そうか」と、雷田は頷いた。「大体の流れは分かったよ。それで、君は僕に何を聞きたい?」
「何か知っていることでもあるんじゃないですか?」
秋乃は単刀直入に訊ねた。
雷田は一瞬、躊躇うように遠い目をして見せた。
「ああ……うん。そうだね。少しだけ、知っていることがある。ああ、でも──」言い淀み、雷田は片手で頭を抱える。それからカップに口を付け、一呼吸入れると、「どちらかと言うと、彼の行き先に心当たりがある」
「それはどこ──」
秋乃が身を乗り出した。雷田は目を丸くして、苦笑する。
「まあ、落ち着いて。秋乃君。これは少し、面倒な事態なんだ。冬人君が巻き込まれたことも、今、君に説明しなくちゃならないことも」雷田は参ったな、と呟きを漏らしながら、「つまりね……湖の底は未来と繋がっているんだよ」
と、言い退けた。
秋乃は頭の中でその言葉を反芻し、一言。
「正気ですか……?」
「本当だよね」雷田は他人事のように肯定した。
夕食を片付けると、雷田がその場所へ連れて行くと言って、秋乃は外出の支度を整えた。聞いてみると、場所は森の中──それもやはり、湖に向かうのだと言う。懐中電灯を用意して、二人は自転車を漕ぎ出すと、ヘッドライトを揺らすのだった。森の入り口で自転車を置き、二人は湖を目指して歩を進める。
夜になれば、手元の人工的な光以外には何もなく、懐中電灯を落としてしまえば、二度と森から抜け出せなくなるのではないか、と想像した。先ほどまでは聞こえて来なかった、何の鳥か分からない鳴き声や、虫の音がする。夜行性の動物たちが、活動を始めたのだろう。
湖に辿り着くと、雷田が真っ黒な水面に向けて光を照らした。ぬらぬらと妖しく光り、波打つ湖は、底がまったく見えないまま。まるでブラックホールと通じているように思われた。秋乃は唾を飲み、雷田の元へ歩く。
「ここだ。ここで、彼の靴は発見されたんだろう? なら、十中八九ここに間違いない」
「どう言うこと?」
秋乃は他人行儀な敬語を忘れ、そう聞いた。雷田は顔の下半分だけが照らされて、酷く不気味に感じられる。秋乃は鳥肌が立ち、息が震えた。風が冷たかったのかもしれない。
「僕たちはそれを時層(じそう)と呼んでいる」
「時層?」
「そのままの意味だよ。時間にも地層みたいな区別があるんだ。だから、時層。空の上にある世界と、ここ。そして更に下の、湖の底にある世界だね。冬人君は恐らく、この水底に沈んでいるんだろう」
「それって、生きているの?」
「さあ、どうなんだろう。多分、生きてはいるはずだけどね。たった一人でタイムトラベル出来るかどうか」
「タイムトラベル?」
「時間旅行だね。流石にこれは知ってるでしょう?」
「ええ、まあ、うん……」混乱する頭で、秋乃は必死に追いつこうとした。「湖の下にも、時層がある」
「そう」
「そこは、こことは別の世界──時間になるの?」
「その通り。空の上には過去が広がっている。湖の下には、未来が広がっている」
じゃあ、了の言っていたことは正しかったのだ──秋乃はぞくぞくとして、身震いした。しかし、実際にそれを目で見た訳ではない。雷田がふざけていない保障はないのだ。また、了が落ちてきたのも何かの間違いかもしれず、錯乱して妄想を聞かされた可能性だってある。納得するにはもっと、明確な根拠が必要だった。
これも妄想だが、冬人は雷田と協力して、ドッキリを仕掛けているかもしれない。一体、何のためにこんなことをするのか、疑問ではあるけれど。
秋乃は思考から離れ、湖の底を覗き込むように身を乗り出した。と、背中を突き飛ばされる。水面に吸い込まれるように、一気に視界が暗い青で満たされた。水が冷たい。つんざくような痛みが全身を貫く。足が底に届かない。もがいて、岸に上がろうとした。地上では誰か──雷田?──が何かを叫んでいる。
彼はこちらに手を伸ばした。慌てて、秋乃は掴もうとした。しかし水が足に絡み付き、離そうとしない。沈殿するように、秋乃の身体は少しずつ沈み込んでいく。吊り下げられた手が消えてしまった。息が続かない。秋乃は首元を抑える。
何も見えない。
聞こえない。
足が重たい。
苦しい──
意識が遠ざかり、秋乃は力尽きた。大量の息が口から溢れ出て、水面へと浮上する。泡はごぼごぼと音を立てながら、掻き混ぜるような音が全身を揺すり、揺りかごのような安らかな眠気を誘った。奇妙な浮遊感に身を委ねながら、そっと、秋乃は意識の向こう岸へと飛ぶ。
──すると、突然底が抜けた。
身体を包み込んでいた水が消え、一気に手足が軽くなる。完全なる無重力にあった。秋乃は、下へ下へと落下していく。空を掴もうとして、手を動かした。指先は虚しくも風を切るばかり。湖はいつしか、曇天へと変貌していた。
空の中に居る。秋乃はそう自覚する間も無く、地面に叩き付けられた。勢いよく、クッションに着地する。柔らかな感触が背中に当たり、跳ね飛ばされた。
「いってえ……」
秋乃は咳き込みながら、腰をさする。しかし、怪我ひとつしていない。それがまずひとつ目の驚きだった。何とか上半身を起こすと、周囲に目を配る。そこは湖の下の世界──学校の屋上だった。
「本当にあったんだ」
秋乃は呆然として、そう呟く。自分は今、了と同じことをしたのだ。それがふたつ目の驚きだった。
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