第四章
一節
秋乃は、かれこれ五分間は暗く沈みきった雷田の姿を見ていた。理由はわからない。ただ、秋乃が手元にあるこの写真は何だと聞いてみれば、彼は何も言わなくなり、その場に座り込んだのだ。不可思議にも、彼の顔には絶望の色が見て取れる。
「その話は、夕食の時にしよう。今は──死ぬほど疲れてる」
と、雷田は言って、写真を避けるように行ってしまった。夕食にはインスタントラーメンを頬張りながら、秋乃はいつ聞き出そうか、機会を窺っていた。会話が広がらないのはいつものことだが、普段であれば雷田はもっと口数が多く、秋乃がそれを無視するのが常だった。今回は真逆である。秋乃の方が、彼との対話を求めている。
結局、写真の話になったのは食後のことであった。雷田から話し始めたのだ。秋乃に写真をもう一度見せてくれないかと頼み、
「この人は、僕の叔母さんだ。本来なら君を引き取るのは彼女だった」
秋乃は写真をまじまじと見つめた。
「この人が……」
「そう。一度も会っていないだろう? 僕もそうだった。母さんが亡くなってから、病室で初顔合わせさ。僕らのような、ね」
「どうして、この人は来なかったんですか?」秋乃は写真を、雷田にも見えるようテーブルに置いた。
「叔母さんは自由な人なんだよ」雷田は思い出して、楽しそうに笑う。「僕が引き取ったから、来なかったんだろうなぁ」
ふうんと頷いて、秋乃は叔父を見た。彼は一巡前の秋乃自身である。奇妙なものだと感じながら、
「どうして叔父さんは、僕を引き取ったんですか……」
「どうしてかな」雷田は首を捻り、目を瞑る。「多分、叔母さんよりは僕の方がマシだと思ったんだろうね」
料理とかは特に、と彼は付け足した。秋乃は出会うことすら叶わなかった、写真の中の女性にほんの少しだけ興味を持って、雷田に質問を続ける。秋乃には知らず、雷田は知っている世界での話。実らなかった現実での出来事。並行世界に生きるふたりの、明確な差異だった。
ここへ来て、雷田は本当に自分自身なのだと納得出来た。考え方などの癖が、本当に良く似ている。移住してくるまでの境遇も殆ど同一だったし、彼も四季クラブを結成していたことが分かった。彼は確かに自分だったけれど、それ以上に他人である。この溝を埋めるように、ふたりは真夜中まで話し続けた。
この頃にはもう彼に対する嫌悪感もなくなり──自分にはない経験への多少の羨望はあるものの──話の分かる親友へと変貌していた。自分自身を見つめる恥ずかしさは相変わらず残っていたが、何故かすっきりとした気分へと落ち着いている。
寝床に入ると、柔らかな眠気に導かれて、すんなりと底に落ちていった。
十八日の金曜日。
朝早くに目覚めた秋乃は、リビングの騒がしいことに気がついた。向かってみれば、そこにはふたりの来訪者が居る。ひとりは晴村だ。もうひとりは男である。一度も見たことがない。何となく春臣に風貌が似ている。
彼らはテーブルを囲みながら、雷田と共に話し込んでいた。耳を澄ませると、「円環が繋がった」と言う雷田の声がして、息を殺して先を待った。
「秋乃がこの写真を拾ったんだ。いつのことだと思う? 春臣が秋乃を突き落とした日──十五日のことだよ」
やはり、あの男は春臣だったのだ。一周目から、雷田や晴村と共にやって来たのだ、と秋乃は確信する。雷田は続けて、
「彼は終末に落ちているのを見つけたらしい。確かに僕も終末へ行って、写真を落としたのかもしれない。だが問題なのは──この写真を落としたのがつい昨日のことだってことさ。わかるかい、これは歴としたタイムパラドックスだよ。僕が落とす前に甥っ子が写真を拾い、その後に僕が落とした」
「え──」
思わず秋乃は驚きの声を漏らしていた。驚愕した顔で、雷田が秋乃のことを見る。
「起きていたのか……」
「ああ……うん。おはよう」
雷田は気まずそうに目を逸らした。秋乃は彼らの元に着くと、
「叔父さん、だからあんなにやつれていたんですね」
「そうだよ。……僕は、君がこれを持ってきた時、物凄くショックを受けた。あり得ないことじゃないか。ずっと、写真は二枚あったことになるし、過去と未来がごちゃごちゃだ」
「いいえ。すべて終末の日に起きたことだから、何もおかしくない」晴村が訂正する。
「どういうことさ」雷田が晴村を睨んだ。「僕は最初から終末に行くことが決まっていたのかい?」
彼の言葉に、春臣が言っていた──すべて運命的だったんじゃないか、という言葉を思い出して、秋乃ははっとした。
「未来干渉だ」と、思わず呟いた。
「未来干渉……?」雷田は秋乃に聞き返す。
「そう。冬人が終末に行った時点で、あそこはもう、未確定未来なんかじゃなかった。僕らが何をしようと、終末との整合性を取ろうとするのかも」
「もっと言えば、終末が出来た時点で、だ」春臣が秋乃から継いだ。「その時からもう、すべては決定されていた」
「そんな──」雷田は絶句する。
何故そんなことを彼は知っているのだろう、と秋乃は疑問に思った。彼の眼差しに気付いてか、春臣が口を開く。
「どうしてそんなことがわかるのか?」
「まさか、貴方が……」
「おいおい、どうしてそうなる」春臣が手で制する。
「了を助けた所為で、パラドックスが起きたんですよ」
「奴を助けたら、どうして終末になる。彼ひとりだけのために滅びるほど、世界はヤワじゃねえぞ」
「だったら、世界を一巡させたからです」秋乃はムキになって言った。「また一巡しようとしているんですよ」
「ああ、それは面白い考えだな」
「ちょっと、春臣」晴村が彼を止める。
春臣は嫌がるように晴村を睨め付けると、秋乃へと視線を戻した。深く息を吐いて、
「そもそも世界が一巡するはずはない。だろう?」
「だったら、どうして叔父さんたちがここに来たんですか」
「簡単さ。ここは作られた未来だからだ」
「作られた……」秋乃は唾を飲み込んだ。
「わかるだろ。俺たちは遠い昔から来たことになってる。だが実際には違う。ここは仮初の過去なのさ」
「ホログラムなのか?」雷田が訊ねる。
いや、それも違うと春臣は一蹴した。彼は晴村を一度見ると、天井を見上げて、何か言おうと口を開けた。
「あー……つまりだな。ここはシミュレーションの世界なんだ。別の言い方をするなら、仮想世界だ。良いか、俺たちふたりはほんの少し前の世界を、一から作り上げたのさ」
「一から」秋乃が言った。
「ふたり……?」雷田が首を傾げる。
「まず、何が原因で終末は起こったと思う?」春臣はふたりの反応を観察しながら、そう聞いた。「誰が起こした訳でないとしたら、一体原因は何だと思う?」
雷田は困惑したように晴村を見つめる。彼女は首を振って、申し訳なさそうに目を伏せていた。
「原因は私にもわからなかった。私はただ、秋乃に会いたいだけだった」
ふたりの秋乃が互いを見据える。
「俺と夏莉は今、大学の研究室で眠っている」春臣が言葉を紡いだ。「夏莉が記憶から仮想世界を構築する機械を持っていたんでな。ふたりの記憶から、昔懐かしの思い出を立体化させたんだ」
「ここは記憶の中の世界なの」晴村が言った。「貴方達は夢の住人──という訳」
口の中がからからに渇いていた。ふたりの唐突な打ち明け話を笑い飛ばすことも、怒りに身を任せることも出来なかった。秋乃はどういう訳か無性に哀しくなってしまい、溢れ出しそうになる感情を堪えるのが精一杯だった。
雷田もまた同じなのだろう。
彼を見ずともそれはわかっていた。自分と同じなのだから。きっと、苦しんでいるのに違いない。
「何故君たちはここに……?」
雷田のわななく声が、秋乃の耳をつんざいた。
「漸く、納得出来たんだ」と、雷田は痛ましい表情で話した。「どうして未来干渉を受けたのか……。すべて最初から決められていたからだったのか、と腑に落ちたんだよ。だとしたら、悪い夢じゃないか。僕も、甥の秋乃も、本来なら存在しないんだろう? 君たちが僕らを作ったんだ。……何故? どうしてこんなことを僕に教えるんだ?」
苦しみに喘ぐように、雷田は腹の底に溜まった膿みをぶちまけた。晴村は唇を噛み締めて、頭を下げたまま、悲しみに暮れている。春臣も、どこか一点を見つめたままで、何も言わない。秋乃は、彼らも痛みに耐えているのだとわかった。何故彼らが仮想世界を訪れたのか──春臣は恐らく、了を助けるためだろう。彼は、死ぬ運命にあったと言うのだから。
では、晴村は──霧浜夏莉は何故、ここに来たのだろう? 彼女は、一体どんな痛みを背負っているのだろうか?
「晴村さん。貴方は──」秋乃は呼びかけると同時に、口を噤んだ。
彼女は泣いていた。テーブルの上に滴が溜まり、光が反射する。息を震わせながら、晴村はひたすらにごめんなさいと繰り返した。雷田は戸惑って、立ち上がった。
「秋乃お前はもう、この世には居ないんだ」春臣が心ここに在らずといったふうに、「自殺だよ」
「自殺……?」
「そう。お前は訳も教えてくれずにこの世を去った。何でだ? お前こそ教えてくれよ、秋乃……」
「僕が? そんな、まさか──」雷田は首を振った。
晴村は顔を上げ、必死に笑みを作りながら、
「ええ、貴方は何も知らない。だって、私たちの記憶から再現されているから。何も知らぬままの貴方が作られているのね。貴方は遠くで暮らして、いつの間にか居なくなっていた。気が付いたら、私はここに居る。貴方とこうして喋っているのも、悪い夢なの……?」
彼女は両手で顔を覆い隠した。雷田は何も言えなくなって、椅子に深くもたれかかる。春臣が溜息をついた。秋乃も、呼吸が詰まって、胸が苦しくなった。
「そうか、僕、死んじゃったんだ……」
「君を作ってしまって、申し訳ない」春臣が頭を下げる。「こんな思いをさせるつもりはなかったんだ」
「いえ、良いんですよ」秋乃は本心とは別の声を自分の耳に届けた。「それにしても、そうかぁ……。実感、湧かないなあ──どうして、そんなことをするんだろう? 誰にも頼りたくなかったのかな。申し訳なくて、情けなくって」
何故か涙が込み上げてきて、秋乃は驚いた。
「本当はもっと、自由に楽しむつもりだったんだ。兄貴を助けて、秋乃とも遊んで。束の間の休息って言うのかな。思いっきり、はしゃぐつもりだった」
春臣が寂しそうに笑った。
俯いて、頭を掻き毟り、
「どうしてこうなったんだか……」
秋乃は跳ねるように我に帰って、涙を拭うと、
「そうですよ、結局のところ、終末の原因は何なんですか」
「多分、安全装置が働いたんだと思う」春臣は秋乃に答えた。「俺たちは大学で、ずっと夢を見続けているんだ。でも、何日も眠っている訳にもいかないだろう? だから、強制的に夢から叩き起こされてんだよ。夢に居続けられる、時間制限が設けられることによって」
「終末は目覚まし代わりですか……」秋乃は乾いた笑い声で、「そんなの、酷いじゃないですか」
「本当に申し訳ない」春臣が頭を垂らした。
「いえ、謝らないでくださいよ……」
妙に吹っ切れてしまって、秋乃は爽やかな気分になっていた。あと二日で終末は訪れる。そうしたら、ふたりは現実へと帰っていくのだ。恐らく止める手段などないだろう。ふたりを過去にタイムトラベルさせたところで、きっと、運命は変わらない。
秋乃はまたしても、疑問に思った。
「どうしてふたりは未来干渉の影響を受けていないんですか? これも、夢の外側の人だからですか?」
尋ねてみれば、晴村が顔を起こして、
「ああ、良い質問だね」と微笑んだ。「さっきも言ったけど、ここは私たちの記憶から作られているの。記憶の走査は、常に行われているから、何か起きるたび、これを私たちが観測すると、すぐさまセカイ──というよりは運命かな──に反映される訳。だから、運命に囚われることはないんだ」
秋乃は目を丸くした。
「それって、かなりズルい……」
「ええ、そうね。本当にズルいと思う」
「参ったな……」雷田はこめかみを抑えて、「ってことは、秋乃が写真を拾ったときには、もう、僕が落とすことは決まってた訳だ。──ってあれ、待てよ? 僕は落としていないのに、どうして先に秋乃が拾ったんだ?」
「セカイ……もとい、記憶装置の意思かもな」と、春臣。「だとすれば、俺たちの手に負えないことだ。どうしてそんなことを──と言えば、きっと、お前を運命の囚人に仕立て上げるための、理由のひとつでしかないんだろう」
ピアスが鳴り出して、登校時間を告げた。秋乃は身支度しようとして、席を立つ。
「休んでも良いんじゃないか」雷田が聞いた。
「いや、行くよ。僕はそうしたい」
「そうか──」雷田は頷いて、押し黙る。
「俺たちも、そろそろ移動するよ」春臣が席から立ち上がった。「最後に、終末をどうにか出来ないもんか、調べてくる」
「終末は避けられないんじゃなかったの?」雷田はくすっと笑う。
春臣も鼻息を漏らして、
「終末の正体がそうと決まったわけじゃないんだ。あくまでも、俺たちの解釈だよ。まだここを離れたくはないし、秋乃たちを──」
言い続けようとして、手で振り払った。彼はやがて玄関から出て行くと、どこかへと立ち去っていった。
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