秋、落ちる、すべてのために
八田部壱乃介
プロローグ
プロローグ
澄み渡る青空には、誰かが住んでいると兄貴は言った。どういうことだと尋ねても、奴は首を振るばかりで教えてはくれなかった。俺は尚もうんうん唸って考え続けたけれど、それきり兄貴と会話することはなかった。享年十二、死因は軽自動車との正面衝突だった。
色鮮やかな青色を見つめながら、ベンチの上。飲みかけのペットボトルに口をつけ、生温い水で喉を潤す。俺は今、葬式に出席していた。兄貴の葬式じゃない。死を選んだ、幼馴染を弔っているのだ。
どうして人は死ぬと白装束に包まれるのだろう、と常々考えていた。白には清潔さのイメージがある。だが、死は穢れであると言うじゃないか。ならば黒色がお似合いであるのに、それは俺たちの方が喪に着せられているわけで──恐らく、穢れに触れて俺たちの方へと穢れが移ったのだろう、なんて考える。
或いは、と日差しに目を細めながら、思案する。
白は死の色なのかもしれない。白く輝く光には、質量というものが存在しない。反対に、黒は光を通さない質量の色だ。深ければ深いほど、影は濃くなっていく。だから、質量を失った人は白で覆うのではないか。白は死の色、光色なのだ。代わりに、黒だけが残される。
続々と退散する人々を尻目に、俺は暫く放心していた。背もたれに全体重を預けるようにして、ただひたすらに天を仰ぐ。いつか言った、兄貴の最期の言葉を思い出しながら、俺は、黄泉の世界を睨みつけていた。
「あっ」
女性の声が鼓膜を撫でた。俺は首を動かしてそちらを見ると、どこかで見た顔が目に入った。
「お前も来たのか」潤したはずの喉からは、乾いた声がした。
「当たり前じゃない」彼女は疲れたように言う。「あんたも、来るとは思わなかった」
「俺も、まさかここに来る羽目になるとは思わなかった」
数秒ほど、静寂が発生した。
「どうして……死んだと思う?」困惑したように彼女に聞かれる。
「わかるわけないだろ。一身上の都合だ」
「でも、昨日まではあんなに元気そうだった」
「自分の彼女に対してもそうなのか」
「貴方に対しては?」
水中に居るみたいに、声が遠くに感じられた。鈴虫の鳴く声はいつの間に聞こえなくなって、目の前は真っ暗になった。目を開けると、溜息を吐く。
「奴は俺に対しても同じだった」水を飲むと、ペットボトルは空になった。「少し前にメールが届いたんだ。たわいもない話をした。そんな素振りはなかった。意味がわからないな……」
「私、何かしちゃったかな」
「だったら、何か言うだろう。反対に、何もしなかったから、とかは?」
「……どうなんだろう」
胸の苦しくなるのがわかって、ふう、と息を吐く。意識してしまうと、呼吸をするのも難しい。ペットボトルを捨てるためにゴミ箱を探すと、立ち上がる。彼女も俺に合わせて立ち上がった。
「多分さ、俺たちに答えを知る術なんかないよ。疑問と一緒に置いてけぼりにされたわけだ。まあ、そもそも問題が出題されたわけじゃないから、答えも用意されてないんだろうけど」ペットボトルを捨てると、彼女の方を向いた。「俺たちにできるのは、受け入れることだけだと思う。だから葬式があるんじゃないか? 人の死を受け入れるために、決別するための儀式として」
「でも」と、彼女は片手で顔を覆った。「知りたいよ」
涙はとうの昔に枯らしてしまったらしく、聞いていてこちらが苦しくなるような呻きが、口から漏れてくる。
鬱々とした朝に、俺たちは揃って項垂れていた。
「また会えたらな……」
自分が柄にもなくそんな言葉を呟いたことに、後になって驚いた。それは彼女も同じだったらしい。目を丸くして、俺を見つめる。それはびっくりした、というようなものではなくて、もっと大きな事実と相対して驚愕した、といった表情だった。
どうしたものかと俺は彼女から距離を取り、返答を待ち望んだ。ややあって、彼女はこう話しだす。
「彼と会う方法に思い当たったの」
気がつけば、俺たちは大学を訪れていた。そこに何があるのかは知らない。ただ彼女が一言「行こう」と言い出して、訳を教えてくれる間もなくタクシーを呼び止める。後部座席にふたり。運転手は居ない。バックミラーには生気のない顔が並んでいて、文字通り面白く思われた。
「〇〇大学まで」とモニターに告げるなり、彼女は押し黙った。
俺は沈黙に耐えきれなくなって、
「どうして大学なんかに? 何があるんだ?」
「会いに行くのよ」
「誰に?」
「私の彼氏」
「は?」
俺は彼女の横顔をまじまじと見つめた。ふざけているのかと思ったが、無表情に俯いているため、困惑した。
「何を考えてるんだ?」
「だから、目的はさっき言ったでしょ」
「違う。その、つまり……どうやって?」
「それは着いたら教える」
「まさか、後を追うわけじゃないよな?」心配になって聞いた。
彼女はちら、とこちらを横目に、
「そうかもね」
なんて、微笑んだ。
タクシーが止まると、支払いも簡単に済ませ、彼女は急くように歩き去っていく。慌てて追いかけると、大学内を場違いな男がひとり、彷徨うことになった。通路の至る所にゲートが設けられていて、潜るたび、ここの学生ではないことを自覚させられる。
彼女の行先は一人暮らしのアパートみたいな、小さな研究室だった。室内は綺麗に片付けられていて、埃ひとつない。彼女は棚からヘッドホンを取り出すと、
「これを着けて」
と言って、俺に手渡した。見れば彼女も自分用の物を頭に装着して、椅子に深く座り込んでいる。ヘッドホンはプラネタリウムの投影機みたいなものと繋げられていた。
「これは?」俺は持った手を掲げてみせた。
「ヘッドホン」
「見ればわかるけど」
「これで、仮想世界にトリップするの」
「ヘッドホンで?」俺は首を傾げ、「音楽でも聴くの……」
「あながち間違いでもないかもね。音楽を──厳密には電気を脳に充てて、脳神経による電気や化学反応を観測し、脳内の記憶物質を解析し、そこから得られた情報を装置で整理。情報をまた音に変換して、ヘッドホンから流す。それによって、更に深く脳を走査する」
「難しい話だな──それで?」
「記憶をこの電子機器が読み取って、それを元にセカイを構築する」
「だから仮想世界か」
俺はヘッドホンを見つめ直した。
「そう。本当は私ひとりだけで行くつもりだったけど、情報は多い方が良いからね」
「どういうことさ」
「これはね、仮想世界を構築するというよりは、思い出を振り返るのに近いの。記憶を読み取って、フィードバックして、また読み取っての繰り返し。だから、アルバム作りには元となる写真は多い方が良いってこと。私に知り得ないことは、構築し得ない」
ふたりで共有アルバムを見返すようなものね、と付け足した。
「随分と後ろ向きな機械だな」
「過去を再生産するものだからね。本当は、事故現場を再現するのに使われるつもりだったんだけど、使用人数が三人まででさ。実用化されなかった」
「のび太君はハブられる訳か。で、だからこうやって、思い出に浸るくらいにしか使えない」
「うん」彼女は唇を噛んだ。「そう言うこと」
「ひとつ疑問なんだけどさ」
「何?」
「記憶ってのはどこからどこまで読まれるんだ? すべて読まれたとして、すべてが反映されるのか?」
「あー……」数秒ほど考えてから、「いかがわしい記憶でもあるの?」と、彼女はニヤリとして言った。
「秘密くらいは誰にでもあるだろ」
俺は自分でもわざとらしい咳をしてみせる。
「今回はね、再現するセカイを限定するから、すべて読み取られたとしても、反映されることはないよ。基準に沿う記憶だけが、私たちの間で共有される」
「なるほど。で、その基準ってのは何なんだ?」
「例えば、故郷の町並みと、住民たち──とかかな」
「それをこの機械で投影する訳か。こんな小さな機械で、そんな大それたことが出来るなんて、凄いな」
「それはね」彼女の瞳の奥が光った。「必要最低限の情報しか再現しないからだよ。それに、情報の圧縮のために、すべてを文字列で表現するから」
俺は腕を組んで、彼女を睨みつけた。
「意味がわからん」
「詳しく説明すると長くなるから、端的に説明するね。これは一種の夢生成器みたいのものなんだよ。私たちはその中に入ることになる」
「ああ、そこまではわかる」
「それで、夢を生成するのに、例えば私たちの肉体なんかをわざわざ作ることはない。だって、現実に私たちの肉体が既にあるわけだからね。なので、夢の中にアバターを作るのではなく、夢に没入できるように、こちらの感覚器を操作する」
「それがヘッドホンの役割?」
「そう」彼女はそれから、「ただ、普通に映像を流すのでは容量が大きくなってしまうでしょう」
「でしょう、と言われても、知らないよ。俺、門外漢だし」
「容量が大きくなってしまうの。だからね、すべてを文字列で表現する。これはまあ、いわば、小説みたいなものだね。私たちはこれから、小説の中に入り込むことになる」
「ショウセツ? ああ、小説か。へえ、小説の中ね……」俺は繰り返した。「それじゃあ、まさか、夢の中で読書でもするのか?」
「ううん。例えば人間がブラックホールに落ちたとして、すべての物がゆっくり進んだとしても、それと同じくらいゆっくり進む自分の視点から、それが遅くなっているとは気がつけないのと同じ」
「人間が文字列世界の中に入ったとしても、自分も文字列で表されているならば、それと気がつけない?」
「そう、そういうこと。容量は、動画よりも写真の方が軽い。小説なら、写真よりもっと軽い。自意識も文字列の中で表現されるから、まるで物語内のキャラクターになった気分になれるのね。本当はこれ、報告書として纏まるように構成された仕組みなんだけれどね。だから、記憶を元に再構築すると言っても、自意識で事実が捻じ曲がることはない」
「捻じ曲がらない、ってのはどういうことだ」
「つまり、思い込みとか偏見までは反映されないってことね。飽くまでも、客観的な事象だけが世界に投影されるわけ。更にそこに、沢山の記憶があればあるほど、整合性を取って、より事実に近づいていく」
「ふたりで思い出し合う感じか?」
聞いてみると、彼女は首肯する。
「物事に対してどのように感じられたか、は個々人の解釈になるでしょう。この感覚的な部分までは文字列に記されない。良い……、仮想世界はね、貴方が思う以上に居心地が良いの。下手をすれば、出られなくなる。だから安全装置がかけられているけど、念のために──ひとりでは入らない」
出られなくなったら危険だから、と彼女は締め括る。
「どうして、出られなくなったら駄目なんだ?」
「極端なことを言えば、死ぬから」次いで、「ずっと寝続けていたら、餓死するでしょう? つまりはそう言うこと。それまでは、生きながらずっと囚われたままになる」
「そりゃあ……」
「やばい、でしょ?」
「……ああ」
「そうだ。最後にもうひとつ。このセカイでは何でも出来る。プログラムの外に居るからね。いわば、私たちは変数みたいなもの。だから、この中で過去とか未来を行き来したり、運命を捻じ曲げたり出来る」
「そんなことが?」
驚いて、顔を上げた。
「飽くまでも、可能な範囲で。このシミュレーションのセカイでは、過去から現在、未来にかけて容量が少なくなっていく。不確定だから、その都度反映出来るように、要素のみに分解された状態でね。例えば、過去や現在に存在するような物事が保存されている。それをどう扱うかは確率的な問題で、私たちの行動に大きく依存している」
「その要素同士を切ったり張ったりして組み合わせることで未来を構築するってことか? なら、可能性は俺たちに委ねられているわけだ」
「そう。未来はどうなってもいない。そこに可能性はない。未来は過去や現在の中で選び取られる、ということ」
「成る程」
「でも注意点があって、私たちが暴走すると、この『未確定未来』が増殖して、因果関係がおかしくなることがあるの。例えば、過去を変えたら未来に影響が出る。そうなると、未来の数はその分増えてしまう。下手をすれば、そこに閉じ込められることだってある。だから、幾ら自由自在だからって、限界がないわけではないの。寧ろ、私たちは限界の中でこそ自由だってことを、忘れないで」
これは一時の夢だから、と念を押すように言った。
俺は頷いて、ヘッドホンを身に付けた。背もたれに体重を預け、横になる。
「大丈夫だ。ただいつものように、眠るだけなんだろう?」
「ええ」
「なら、まずはあいつに会いに行こう。その後はどうする?」
「その後は──」彼女はふっと溜め息のような微笑を浮かべると、「未来に行こうかな。だって私は……」
そう言って、また笑った。それから装置の電源を入れ、俺たちは向かい合うように座る。ヘッドホンからは炭酸の抜ける音。脳がシェイクされるような不思議な感覚に浸りながら、目を瞑る。やがて意識が水の中に沈み込むように、周囲の音から隔離され、目蓋より光は通さなくなった。
気付けばそこはもう、真っ暗闇。すとん、と底が抜けて、俺は現実から落ちて、落ちて、落ちて──
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