第一章

一節

 音楽さえかかっていれば、どんな人生ですら劇的に演出されるに違いない。例えばこんな、トンネルの先に見える、何処にでもありそうな平凡な田舎道を、殆ど面識のない叔父とたった二人のドライブに興じていようとも。それは長い長い映画の一場面にも見えるのではないか。雨宮秋乃あめみやあきのはそんなことを考えながら、窓に流れる景色を、ピアスから流れる曲に合わせて見つめている。

 前部座席には、叔父の雷田一らいたはじめがルームミラー越しににやけた表情を見せた。にやけた、というのは悪意のある解釈かもしれない。親が子に向けるような、慈愛の眼差しと瓜二つと言われても、恐らく否定出来ないのだから。

 秋乃は苦い表情をしてみせ、また窓の方へと目を移した。雷田はまだ二十代後半と若く、保護者として不安が残る。秋乃はそう感じていた。

 数週間前に母親が病に倒れ、間も無くして天国へと旅立った。秋乃は天国なんて信じていないから、目の前で差し出された骨を見て、ああ灰になったのだと理解したに過ぎない。生と死を分かつものが何かは分からないが、もう二度と会えないということくらい、十四歳ならば誰もが知っている。それを悲しいと捉えるか、寂しいと捉えるかの違いだろう。秋乃は言いようのない寂しさを胸の内に留めていた。

 叔父が現れたのは、病院でのことだった。母親が、「自分の身に何かあったら彼を頼りなさい」と言ったのだ。唐突な提案に、秋乃は面食らったものの、すぐにこの道しかないのだと理解して、受け入れた。とは言え、雷田とはあまり相性が良くないのだろうか、田舎への移住を聞かされても、喜ばしい印象はなかったのだった。

 例えそこに、母親の死という重く冷たい悲しみを浄化せんとする、優しさがあったとしても、その思い遣りが秋乃に伝わったとしても、反応するだけの気力が無かったのだった。他者の死を見つめ、乗り越えることで人は成長するのだろう。今はまだ、その成長痛に悩まされているだけなのだ。

「もうすぐ着くぞう」

 機嫌の良い叔父の声に、秋乃は聞こえないくらい小さく溜め息を吐いた。ピアスを一度指で叩き、目を瞑る。これから先に待つのは、つまらなくて何も驚きのない灰色の日常。そんな予感がして、秋乃は気怠く頷いた。

 やがて目の前に一軒家が見えてきた。二人で暮らすには大き過ぎる。そう思ったけれど、秋乃は黙っていた。近くには引越し業者が待ち構えていて、沢山の家具と段ボール箱とを運び込んでもらうのだった。彼らが去ってから、束の間の静寂が発生した。秋乃は漸く、自分の人生に変化を見つけて、驚いた。何も変わりたくない時に限って、どこかで崩壊し、変化を余儀なくされる。変わりたくないのは、そこで完成してしまったからだろうか。完成しなければそれは終わらず、変化しようもないからだ。

 段ボールを仕分けると、少しずつ部屋を小物たちで彩っていく。過去は故郷に置いて来てしまった。ここにあるのは過去の名残りではあるが、もう二度と同じ姿を見せることはない。新しい部屋に収まって、見慣れない景色が広がった。

 ここが新しい家。

 これからの日常。

 秋乃は仕事を終えると、その場に座り、後ろ手について、ふうと息を吐いた。前よりは広いかもしれない。何往復か視線を動かすと、天を仰ぎ、寝転んだ。新しいものというのは変な感じがする。慣れない所為か、落ち着かない。数分ほど眠ったようにしていると、階下から「手伝ってくれ」との声があり、秋乃は叔父の元へと向かっていった。

「そっち持ってくれ」

 叔父がテーブルの片方を持つと、秋乃は反対側についた。持ち上げると中々の重量だった。リビングルームに運び込むと、後は彼に任せ、段ボール箱に残された小道具たちを仕分けする。

「よくこんなでかい家が買えましたね」

「会社が用意してくれたのさ」秋乃の質問に、雷田が答える。

「どんな仕事をしてるんですか?」

「さあ、なんだろう」彼は苦笑した。

「言えないような仕事を?」

「いいや」雷田は首を振って、それから積まれた段ボール箱を見やり、「まだこんなに残ってる。続きは後にしよう。疲れたな──」

 と、そこへ玄関からチャイムが鳴った。付近に人を感知して、透明になった扉の向こうには、大勢の人々が立っているのが見えた。彼らは視線を彷徨わせ、そわそわとしている。雷田は目を丸くさせ、

「ご近所さんだ。来るのが早いな。こっちはまだ済んでないのに」

 そう笑いながら、はいはいと言って玄関口へと向かうのだった。秋乃は助かったような気がした。自分から始めておいて、このままよそよそしい会話を続けていたら、気分が悪くなっていただろう。外を出歩く趣味はないけれど、今回ばかりは例外だ。息苦しいこの家に詰め込まれて、面白い気はしない。

 秋乃は遠くから玄関を眺め、彼らの様子を確認した。適当な挨拶の後、引越しの手土産を渡している。

「そちらは息子さん?」と、ひとりが聞いた。

「甥っ子です。まあ訳あって、一緒に」

「あらそうなの。歳はうちの子と近そうね?」

 雷田がこちらを振り返った。手招いている。秋乃は渋々それに従った。

「こちら、霧浜きりはまさんだ」雷田が言う。それから秋乃を紹介した。

「どうも」と、秋乃は軽く頭を下げる。

「こんにちは」相手はにこやかに笑い、「貴方何歳なの?」

「十四です」

「じゃあ、うちと同じね。夏莉なつり、いらっしゃい。ご挨拶して」

 薄手のカーディガンを揺らしながら、向こうから女の子がやって来た。彼女は秋乃を見てはにかむと、

「はじめまして。霧浜夏莉です。よろしくね」と言って、手を差し出した。

「秋乃です。よろしく……」

 握手に応じると、夏莉は道の向こうを指差した。釣られて、秋乃も目線を動かす。

「あっちの方に、私の友達が居るの。良かったら来ない? こんな所に居ても、暇でしょ」

「それはまあ、確かに」

「女子会じゃないから安心して。ね、お母さん、秋乃君にこの町を案内してくる」

「気をつけてらっしゃい」

 夏莉は片目を瞑り、秋乃の袖を引っ張った。


「ここからでも良く見えると思うけど」と、夏莉は言った。「あそこに時計台があります」

 それは目立っていたから、指差すまでもなかった。時計台はこの町の奥地にあった。その隣には森が生い茂っていて、更に向こうは暗闇に差し掛かって何も見えない。光も届かないような暗鬱とした場所に、何故かこの町のシンボルとも言えそうな建造物はあった。

「あるね」秋乃は返事する。

「これからあそこに行くよ」と、夏莉が歩き出した。

 慌てて秋乃も付いていく。

「あそこに? 何かあるの」

「あそこなら、この町が展望出来る」

「ああ、成る程。それは良いかも」

「それと、あそこに友達も待ってるからね」

「友達か」秋乃は繰り返した。

「そう。中間クラブって言うんだけど」照れ臭そうに夏莉は言う。

「中間……? 何それ」

「ま、詳しいことは皆が教えるよ」

「霧浜さんは皆には含まれないの?」秋乃が冗談っぽく聞いた。

「そうね……」夏莉は口元を綻ばせながら、「私のことは夏莉で良いよ。それからその質問だけど、意地悪だね」

「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」

「いや、良いの。私の返しも意地悪だったからね。これでおあいこ。ほら、こんな感じてもう着いた。はぐらかすのは時間稼ぎの常套手段だね」

「何それ?」秋乃が傾げると、

「特に深い意味はないよ」と、夏莉は笑った。

 時計台の近くまで来てみると、その迫力にやや気圧された。六階建ての、三角屋根が特徴的な外観。皆の方を向くように、時計盤は堂々と正面に顔を見せている。針がひとつがちりと重たい音を刻んで、正午丁度を迎えた。鐘の音が響き渡って、秋乃の臓物に揺さぶりかける。

 凄まじい音に、秋乃は歓迎されたような気がした。

 夏莉は既に、緑色の正面扉に手をかけて、

「ほら、入ろう」と、秋乃に呼びかけた。

 中には大きな空間が広がっており、その中央には二人の先人が待ち構えていた。彼らは夏莉の姿を見て取ると手を軽く挙げ、また、新参者を発見するなり目を煌めかせた。

「そいつは?」短髪の少年が聞いた。

「雨宮秋乃君。今日越してきたばかりなの」

「女の子みたいな名前だ」

「よく言われるよ」秋乃が答える。

 少年はにっかと歯を見せると、

「でも、綺麗な名前だ」と、手を出した。「俺は雪丘春臣ゆきおかはるおみ。よろしく」

「こちらこそ」秋乃は手を握る。

「僕は……」縁の太い眼鏡を掛けたもう一人の少年が立ち上がり、こちらを向いた。「三雲冬人みくもふゆとです。はじめまして」

「どうも。雨宮です」

 冬人はひとつ頷いたきり押し黙って、手元の文庫本に集中してしまった。春臣は思わずといったふうに肩を竦めて、

「いつもこうなんだ。気にしないでくれ」

「あそう……」秋乃は苦笑した。

「それは兎も角、中間クラブへようこそ」

 春臣は手を広げ、部屋へ招くような仕草。それから地面に座ったので、秋乃もそれに倣う。

「中間クラブって?」秋乃はすかさず訊ねた。夏莉をちらりと横目に、「名前はさっき彼女に聞いたんだけど、これってどういう意味なの?」

「そのまんまさ。どこにも属さず、プラスにもマイナスにも振り切らない、中間に位置するんだ」

「つまり、中途半端な集まりか?」

「言ってくれるなあ」春臣はニヤリとして、「もしかして俺の第一印象悪かったか?」

「そうね」夏莉が頷いた。「そんなだから、私たちは浮き溢れるのよ」

「浮き溢れるって……」何だそれは、と秋乃は内心呟く。

 春臣と夏莉はお互い目を合わせると、

「まあ、色々あるんだよ。何が、って言うと、派閥と言うかさ。対立軸って言うかさ」春臣が言った。

「意見の対立ね」と夏莉が言葉を継ぐ。「大人たちが熱心なものだからさ、私たちの方にも響く訳」

「何が」

「対立が」

「まあ、俺たちには関係のないことだよ。だから中間クラブなんだ。どちらにも属さない。俺たちは、俺たち」

「成る程ね……」

 これはまた面倒なしがらみがあるものだ。秋乃は呆れて、それ以上の言葉が出なかった。この人たちは、無用な戦いに巻き込まれないように、ここまで逃げ込んできた訳だ。成る程、なら自分もいずれはここに落ち着くことになっただろう。溜め息をこぼして、秋乃は彼らに同情の目を向けた。

「皆、大変ってことか」秋乃は言った。

「四季だ」

 唐突に冬人がそう言うので、皆は口を開けてぽかんとしていた。冬人はそのことを気にしていない様子で、

「春臣、夏莉、秋乃、冬人──全員で四季になる」

「わあ、ほんとだ」夏莉が目を丸くさせ、それから笑顔になった。「面白いね」

「じゃあ四季クラブにしたらどうかな」秋乃はおずおずと提案してみた。「僕もこの中に入って良いなら、だけど」

「何を言ってるんだ、もうメンバーだろ。四季クラブか──おお、良い響きだな。それにしよう。これに決めた。これからはそう名乗るぞ」

 春臣はそう断言して、面々を見つめた。

 それから秋乃は、春臣たちに招かれて時計台の最上階に向かった。螺旋階段を上り詰めると、そこには壁のない、開けた空間。三人が手摺りから外を眺めるので、秋乃も彼らと同じ向きに直った。その先には町が広がっている。少し前に通ってきたばかりの、山に空いたトンネルから、住宅街、大きな施設が見えた。

 町を見下ろしてみれば、建ち並ぶ家々がすぐ目の前に置かれたおもちゃのようだ。眼前に広がるジオラマを、小さな人たちが流れていく。秋乃はピアスから音楽をかけた。澄み渡る青空の下、どこまでも広がっていく自然と人工物。時折り横切っていく羽虫たちは、人間と共生している。そこには、様々な色合いが調和していた。

 手摺りに腕を置きながら、秋乃はじっと景色に見惚れていた。そこへ、隣に夏莉が立った。

「どう、ここは?」

「悪くはないだろ?」反対側に、春臣が立つ。

「うん、悪くないね」秋乃は静かに微笑むと、「良いかもしれない」

「皆はさ、ここを田舎って言うけれど、そこまでじゃないと思うんだよな。ほんのちょっぴり自然が残されただけでさ。都会とはあんまり変わらないと思うんだけど……」

「いや、まるっきり違うよ」秋乃は笑った。「前の場所よりも、断然綺麗だ」

「そうか」春臣は鼻息を漏らして、「そうか」と再度繰り返した。

「そろそろ私たちで案内しましょうか。明日から学校来るでしょう?」

 夏莉の問いに、秋乃は肯定した。

「なら、善は急げだね。この町で案内すべき所と言えば──」

「図書館」と、冬人が言う。

「あとは学校だろう」春臣は言った。

「森の中も案内する?」

「森のどこを案内するんだよ」夏莉に春臣が聞き返す。

「ほら、湖とか綺麗じゃない」

「ああ、あそこか……。そうだ、森の中に入るなら、あそこはどうだ」

「もしかしてあそこ? 行ってもつまんないと思うけど」

 二人で会話が進むので、秋乃と冬人は待ちぼうけを食らった。冬人は慣れているのか、言いたいことがなければ一言も発さない。

「いつもこうなの?」と、秋乃が冬人に聞いてみれば、彼は頷いて、

「二人は仲が良いからね」


 時計台を抜け、真っ先に向かったのは森の中だった。少しばかり先には澄んで綺麗な、大きい湖があるのだと言う。四方八方に伸びる枝葉を掻き分けながら、木々を越えていくと、次第に青白い神秘的な空が地面より向こうに広がっていた。

 まるで空と繋がっているみたいだ。秋乃は思わず空を見上げ、それが湖の色と同じ美しさであることを知った。湖には桟橋が架けられており、二隻ほどのボートが停められていた。

「これは誰でも使っていい、自由なものだ。その代わり、湖の真ん中で立ち往生しても自己責任だけど」春臣はそう言ってから、「ま、そんな奴は居ないと思うがな」と笑った。「更に奥に行けば、不審者の住む廃墟がある」

「何だよそれ」

「そのまんまだよ。少し前までは誰も住み着いて無かったはずなのに、ある時からそこに人の気配はあるし、変な譫言が聞こえてくるんだ。四年前に戻る、とか過去を変える、とか」

 なあ、と言って春臣は夏莉に同意を求めた。彼女は俯いて、二秒ほど固まってから頷いた。

「そう。確かに聞こえたの。変な話だよね。ファンタジーの見過ぎかな」

「不審者ってのはどこにでも居るから。特に、妄想癖のある奴は……」

 秋乃はそう自虐したが、そのことには誰も気が付かない。自分にしか伝わらないジョークである。春臣は熱心に頷き、

「その通り。じゃ、見に行こう」

「え、危険でしょ。そんな話聞かされた後には行きたくないよ」秋乃が両手を振った。

「危険だよ」夏莉も秋乃に加わった。

「つまらない奴だなあ。見てこいよ冬人」

「君が見に行きなよ」

 冬人がじろりと睨んだ。春臣は一人で見に行った。帰って来ると、彼はさあ森を出ようと提案したので、秋乃たち三人は少し驚いた。

 次の目的地は図書館だった。そこは中学校に隣接し、学生たちも多く通っていた。春臣曰く、戦争体験コーナーが人気だと言う。ピアスから流れる感覚情報が、痛みのない臨場感を演出し、愉しめるのだと。夏莉はばっかみたい、と呆れた。

「戦争をゲームみたいにして、しかも、痛みなんか失くしたら、それこそ本物を求める人も出てくるんじゃないの?」

「そう言う奴はどんなことをしたって一定数出てくるんだよ。寧ろ、ゲームでストレス発散出来なくなった方が危険だね」

 二人は冬人を見つめ、どちらが正しいかを目で訴えた。冬人はにこりともせず、

「図書館では本を借りるべき」と断言した。春臣と夏莉は、懐古趣味だの歴史マニアだの言うので、冬人は悲しそうな視線を秋乃に送る。彼は、反応に困ったのでどちらともつかない相槌を打つに留めた。

 中に入れば、雷田と同年齢ほどの女性が受付に座って、文庫本を読んでいた。それを見て、冬人が頬を赤らめるのを秋乃は見逃さなかった。と、春臣はこちらに向けてにやりとする。夏莉もまた、苦笑していた。どうやら事情はもう広まっているらしい。司書の名前を、晴村未来はれむらみらいと言った。胸元に名札が付いていたのだ。

「あの、晴村さん」冬人が言った。「今日は"スリル"をください」

「条件は?」晴村はちらりと秋乃を見た。

「ドキュメンタリーで」

「分かった。ちょっと待ってて。印刷してくる」

 そう言って、彼女は席を立つ。

 秋乃が冬人の横に立つと、彼は口を開いた。

「もうここに本は置いてないんだ。だから、本物ではなくて偽物を借りる訳だね。感情とかジャンルを指定して、それに見合った記憶情報を文字にして印刷。製本して貰う」

「お金が掛かりそうだね、それ」秋乃は些か驚いた。「手間がかかってる」

「製本するのは僕の趣味さ。ここでは、検索と印刷だけして貰う」

「成る程」

「変な奴だろ?」春臣が笑う。「だから気に入ったんだ」

 間も無く司書が帰ってきて、冬人は満足そうに控えめな笑みを湛えると、図書館を後にした。それから中学校をぐるりと回ると、「明日また来るから」と案内を中断した。

 一通りの案内を終えた頃にはもう、夕暮れ時になっていた。街頭のない辺りには濃く黒い影が出来、夜の到来を予期させる。誰がともなく別れを告げると、連絡先を交換してから、それぞれの家へと散り散りになる。こうして、四季クラブ最初の一日は終わりを迎えた。

 帰路の途中、同じ道を向かう霧浜が、

「今日は楽しかったね」秋乃に笑いかけた。

「うん」秋乃は素直に応じる。「とても良かった」

「明日は学校だね。同じクラスになれると良いね」

「そうだね。そうなったら、楽だと思う」

「何が?」

「他のクラスに行かなくて済む」

「それくらいは楽しようとしなくても良いでしょう」夏莉が笑う。

「そうかな。僕としては結構、クラスから出るのって重労働のように感じるけど。夏莉は違うの?」

「さあ、私には分からないな」

「あそう……。感性が違うのかな。これも十人十色ってことか」

 夏莉は笑った。

「秋乃って面白いね。じゃあまた明日。近所だし、朝迎えに行ったげようか?」

 秋乃は頭を掻いて、

「時間によるけど……。僕はぎりぎりまで寝てたいタイプなんだ」

 そう言いながらも既に眠くなりかけて、頭の中にはベッドが思い起こされていた。


 夕食には、引越しの祝いを兼ねて出前を取った。ピザを頬張りながら、秋乃は音楽に耳を傾けていた。雷田との会話は進まない。そうしたストレスから、違うことに集中するべく音量を上げる。耳の上から押さえるようにして、回すようにを手を捻る。ピアスが動作を感知して、次第に体内音が大きくなった。

 向かいに座る雷田が、秋乃を見ながら何かを言った。

「何?」秋乃は音量を下げる。

 雷田は口パクをしているのみで、何も言っていない。一瞬、秋乃は頭に血が上った。それから額に手を当てて、やれやれと頭を振る。彼は既に、酒で酔っていたのだ。

「どうしたんだよ秋乃。今日はずっと不機嫌だったじゃないか」

 子どものように笑いかける雷田に、秋乃の憤怒度が上昇したが、麦茶と共にそれを飲み込む。睨み付けながら、

「貴方には関係ないでしょう」と突っかかった。

「いや、すまんすまん。反応して欲しくてな。それで、どうだった。霧浜ちゃんとは仲良くなれそうかい」

「まあ……そうですね」

「良いねえ。青春だね」眩しそうに目を細め、雷田はグラスに口をつけ、ワインを飲み干した。また注ぎ直してから、秋乃に向き直る。「明日からもう学校だろう。一応、準備しておけよ」

「分かってますって」

「いやあ、ここに着くのがぎりぎりになってしまって申し訳ない」

「本当ですよ」

 秋乃は、雷田と会話するとやつれていくような感じがした。エネルギーが吸い取られるような気がする。テキトーな調子で話すものだから、真正直に対応しなくて良いのだろうが──掴めない人だ。

 彼との慣れない会話も食事と一緒に片付けると、さっさと自室に引き上げる。秋乃は、ハンガーに掛かった新しい制服を見つめ、思案に耽った。転校というのは初めての体験だから、酷く緊張してしまう。明日の用意はもう既に終えていた。後は早く寝て、明日のコンディションを整えるくらいのものだ。

 だしぬけに、通信が入った。ピアスが、「雪丘春臣からの着信です」と答える。秋乃は指先でピアスを叩き、応じた。秋乃は手の甲をかざした。そこに、ピアスから光が投射され、春臣の姿が映った。ピアスが彼の輪郭を解析して、手元にその姿を再現したのだ。

「よお、今暇か?」

 気の抜けた春臣の声がして、秋乃は少し落ち着いた。

「ああ、暇だね」

「明日は学校だが、あんまし力むなよ。緊張するのは最初だけだからな」

「そうだね、ありがとう」

「おうよ、同じクラスになれたら良いな。ま、なれなくとも問答無用で行かせて貰うが」

「冬人と夏莉とは同じクラスなの?」

「冬人とは同じだけど、夏莉とは別だよ。そうだな、夏莉と同じクラスになればフェアかもしれない」

「なんだよ、そりゃあ」秋乃は笑った。

「俺も分かんねえ」春臣の笑い声がして、「それじゃあ、また明日」

 通信を切ると、秋乃は軽い心持ちになっていた。きっと緊張しているだろうと考えて、春臣が気を利かせたのかもしれない。心の内で、秋乃は彼に感謝した。

 と、そこへ扉が開けられた。ひょっこりと雷田が顔を覗かせ、

「やあ、転校生。明日は学校だね。僕もめっちゃ緊張してきたよ」

 それだけ言うと、彼はそれじゃと扉の奥に引っ込み、姿を消す。暫く経ってから、秋乃はうわああと叫びながら頭を掻き毟り、ぶり返した緊張と最悪の夜を過ごすことになった。──雷田に悪意が無さそうなことに、秋乃は一段と腹を立てながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る