四節
夕食にアジの開きをつついていると、
「叔父さん、僕に何か隠していることはありませんか?」秋乃が突如、そう切り出した。
「隠してるって?」雷田の箸が止まり、目を丸くさせる。「人は大なり小なり秘密を持つものだと思うよ」
そう微笑んでみせたものの、恐らくぎこちないものだったろう。演技するのは得意ではない。秋乃が目を細めるのを見つけ、胃が痛くなった。まるでお叱りを受ける子どものような気分になる。
「そうじゃなくて、その、了が落ちてきたこと、叔父さんは何か知っているんじゃないですか?」
「どうしてそう思う?」雷田は興味本位で訊ねた。
「さあ、分からないですけど……直感です」
「直感か……」雷田は、晴村の言った『嫌な予感』というものを思い出しながら、「直感ってさ、不思議な機能だよね。言葉には出来ないのに、何かしら感じ取っている。無意識的なものなのかな。多分、人間の思考って言葉には依らないんだよ。もっと身体的というか、感性的なものなんだろうね。だから、言葉にしようとして、何も分からなくなる」
「えっと、つまり?」秋乃は聞いた。
「晴村さんに聞いてごらん。彼女なら、教えてくれるかも」
説明の放棄だ、と雷田は自覚した。自覚して、自己嫌悪に浸りかける。麦茶を飲んでそれを抑え、秋乃を見つめた。
「そういえば、了君が落ちてきたとき、晴村さんも屋上に居たんですよ」思い出したと言ったふうに、秋乃は言う。
「ふうん……それで?」
「タイムパラドックスだって言ってました。これ、どういう意味ですか」
「タイムパラドックスか……」雷田はまた別の──共犯によって犯した業の深さに──自己嫌悪する。「それはね、とても拙いことをしたってことだよ。詳しいことは、ほら。僕なんかよりもネットの方が、説明されているはずだからさ……」
秋乃は素直に頷いて、
「ご馳走様でした」と、自室へ引き上げた。
雷田は深く息を吐いて、項垂れた。安心した訳ではない。寧ろ、彼が居なくなったことによって、余計、緊張と不安は深まった。
「とても拙いことをした、って訳だよな……」
宙を見つめながら、そう独りごちる。やがて、深く考えてしまっては深みに嵌ると思い、皿を運び、洗ってしまってから、すぐにベッドへ潜った。
浅い眠りだったのだろう、不快な夢を見て、雷田は目を覚ました。起きてから、急速に現実へと意識は立ち戻って来て、気休めの安心感を手に入れる。気がつけば、雷田は大量の汗をかいていた。どんな夢だったのかは覚えていない。ただ、何かに追い立てられていたような気がする。確証はない。思い出したところで良い気分になる訳でもないので、そこで考えを切り上げた。
時計を見れば、あともうひと眠りくらいは出来るような時間があった。だが、シャツが汗でひっついた状態で寝付けるはずもない。諦めて、彼はシャワーを浴びることに決める。
浴室から出る頃には、秋乃も起き出した。彼のために朝食を作り、送り出してしまうと、あとは暇になる。すると、考え事をする時間が嫌でも生じてしまい、次第に何故あの時の過去改変は滞りなく成功したのか、という疑問に支配されるのだった。しかし、考えても答えは見当たらない。
雷田は時間を過ごすのが下手になった、と自嘲する。ネットで動画を見て、昼寝をし、二周目の世界を怠惰に過ごす。多少の罪悪感を感じながら、いつの間に夕刻を迎えていた。休日になると、地球は自転を早めるらしい。体内時計という奴が狂っているのではないか、と考える。
夕食はどうしようかと思い、冷蔵庫を確認しようと立ち上がった。そこへ来て、雷田に着信があった。
「秋乃……」
相手は春臣だった。
「春臣か? 今、何処にいるんだ?」
「なあ、改変は未来の可能性を定めるためにあるんだ。未来だっていずれは過去になるだろう。俺たちには未来よりも過去の方がずっと長い。そうだろう……」
雷田は彼が何を言っているのか、理解出来なかった。意味が分からない──そう聞き返そうとした瞬間には、もう春臣は通信を切っていた。
『嫌な予感がするんだ』
晴村の言葉が蘇って、雷田は頭を振る。
冬人が消えたと分かったのは、日が暮れて、外はもう暗くなっていた頃だった。
森にある湖に、冬人の靴が見つかったらしい。サバの味噌煮を食べながら、秋乃がそれを話してくれた。それのみならず、彼が了の落下現場に居合わせたこと、また今までに見聞きしたことなどを含め、知っている情報をすべて雷田は聞かされたのだった。了の件については、雷田も片棒を担いでいたので、非常に難しい立場と言える。いつの間にか眉根を揉んでいた。
特に、秋乃がこの世界の秘密について、近づきつつあることが気になった。タイムトラベルや時層について、晴村からあまり無闇矢鱈に教えるな、と釘を刺されている。言われなくても、そんな危険な真似をしようとは思わない。だが、今回は了と冬人までもが巻き込まれてしまっている。関係がないとは言い切れず、かと言って自分の裁量でどうにか出来る訳でもない。
そこで、必要以上に知らせるのではなく、秋乃の知りたい事柄についてのみ、教えることにした。
「そうか」と、雷田は頷いて、「大体の流れは分かったよ。それで、君は僕に何を聞きたい?」
「何か知っていることでもあるんじゃないですか?」
秋乃は単刀直入に訊ねる。
雷田は一瞬、躊躇った。疑われているのは分かる。では、何処までのことを話すべきか、それが問題だった。恐らく、彼が知りたいのは冬人のことだろう。思い出すのは春臣の言葉──改変は未来の可能性を定めるためにある──彼はそう言っていた。
「ああ……うん。そうだね。少しだけ、知っていることがある。ああ、でも──」言い淀み、雷田は片手で頭を抱える。それからカップに口を付け、一呼吸入れると、「どちらかと言うと、彼の行き先に心当たりがある」
「それはどこ──」
ふたりは自転車を漕いでいた。向かう先は森。街灯こそあったものの、もう今は夜中と言って良い時間だ。一寸先は闇に埋もれて、何も見えない。前タイヤに取り付けられたライトが、か細い光で行く先を照らしてみせるが、どうにも頼りなかった。
自転車を傍に置き、森の入り口に足を踏み入れると、鬱蒼とした枝が立ちはだかり、何度も腕を傷付けた。懐中電灯は自転車のものと比べて大分マシではあったけれど、それでも死角は多い。雷田は舌打ちしたくなった。
湖での捜索はもう終わっていた。湖畔に立ち尽くす雷田と秋乃以外には、人ひとりとして居ない。水面を照らすと、深く真っ青な色が目に焼き付いた。
「ここで、彼の靴は発見されたんだろう? なら、十中八九ここに間違いない」
顔を上げる秋乃に対し、雷田は時層について、その存在を教えるに留めた。やはり、すべてを明かす勇気はない。湖面に眼差しを向けて、
「冬人君は恐らく、この水底に沈んでいるんだろう」と、雷田は言う。
「それって、生きているの?」
「さあ、どうなんだろう。多分、生きてはいるはずだけどね。たった一人でタイムトラベル出来るかどうか」
「タイムトラベル?」
「時間旅行だね。流石にこれは知ってるでしょう?」
「ええ、まあ、うん……湖の下にも、時層がある」
「そう」
「そこは、こことは別の世界──時間になるの?」
「その通り。空の上には過去が広がっている。湖の下には、未来が広がっている」
秋乃は雷田から湖へと視線を移した。深い溜息のようなものが、少年の口から漏れ出る。雷田は空を見上げ、その先にある自分の過ちを睨み付けた。秋乃は水中を覗き込むように、顔を出す。背後から音がした。早い拍子で刻まれた──まるで足音のようなもの。
雷田は振り返った。突如闇から現れたそれは、秋乃を勢いよく突き飛ばす。驚きのあまり雷田は言葉が出なかった。
「春臣……!」
彼が、眼前に立っていた。
水を掻く音がして、雷田は我に帰った。秋乃を助けようと、手を伸ばす。少年の手が雷田を掴もうとした。瞬間、自分の身体が後ろへ引き摺られる。春臣の仕業だ。彼が何を考えているのかは分からない。雷田は身をよじって、必死に抵抗した。もがくうちに、肘が春臣の顔面に当たり、解放される。
急いで秋乃に向けて手を差し伸べたが、もう彼の姿は無くなっていた。次いで、その先に何があるのか──つまり、下の時層がそもそも存在しているのか、という疑念が渦巻いて、あっと叫びそうになった。彼は了と違い、着地する先が無いのではないか。そう考えて、恐ろしくなった。もし未確定未来にでも落ちてしまえば、どうなるか分かったものではない。血の気が引いて、唇が震えた。
「なあ春臣……何故、こんなことをするんだ?」
雷田が振り返ると、春臣はまだ立ち上がる途中だった。
「じきに終末が来る」と彼は言った。
「終末?」
影で見えない春臣の顔に、雷田は何も読み取れなかった。落とした懐中電灯が、ふたりの足元を照らしている。春臣が口を開いた。
「これは俺にも止められない。なら未来ではなく、過去にずっと生きるのが希望だ。永遠の日常を──ここに建てるんだ」
雷田は顔を顰めた。
「じゃあ、どうして彼を落とした」
「もしものためだ」
「もしもだって……?」
それだけ言うと、春臣は顔をさすり、雷田を一瞥することなく立ち去った。彼が眼前から消えたと見えると、雷田は焦りを取り戻して、水底を覗いた。ピアスに触れる。
「大変なことになった。ああ──起きてる?」
数秒ほどしてから、「何?」と眠たそうな声が返ってきた。彼女が起きていたことに安堵して、
「大変なことになった」
「それはさっき聞いた。それで、何があったの?」
「秋乃が……湖に落とされた」
「え?」
「少し前に、冬人が消えたと言って、僕に何か知っているんじゃないかと聞いたんだ。それで、心当たりとして、湖の底に──下の世界に行ったんじゃないかって」
「時層を説明したの?」
「了さんが彼に言った範囲でね。僕はタイムトラベルのやり方までは教えてない」
「それは分かった。でも、どうして湖に落とされたの?」
雷田は唾を飲み込んだ。
「春臣が来て──突然のことだった。彼、一体何を考えてるんだろう? 秋乃を突き飛ばしたんだ」
「春臣はどうして……。分かった。彼、他に何か言ってた?」
「昨日、通話した時は『改変は未来を定めるためにある』とか言ってたね」
「改変は未来を定める……?」晴村は反芻した。「あ、そうか」
「あと、秋乃を突き飛ばしたあと、『じきに終末は来る』って。ねえ夏莉、今僕らの居る時層の下にも、層はあるのかい?」
「……いいえ」
雷田は唇を噛んだ。「なら、彼らはどうなると思う?」
「未確定未来に落ちたらどうなるかは分からない。即興で時層が作られるかもしれないし、虚無に落ちて、もう二度と帰って来れないかもしれない」
「そんな」
膝から崩れ落ちて、雷田は目を瞑った。幾らここが二周目の仮初の世界であったとしても、そこに居る彼らの命は本物だった。次第に悲しみが沸き起こってきて、どうしようもなさに打ち震える。
「ただ──」と、晴村は続けた。「もし仮に時層が作られたとしたら、彼らは助かる。だから、私が助けに行くことも出来る。けど、春臣は『終末が来る』って言ったんだよね。なら、ひとつ厄介なことが」
心臓が強く震えた。
「厄介なこと?」雷田は聞いた。
「もし、時層があった場合、それは確立した未来になる。つまり──そこが虚無のような場所であったら、それが現実になってしまう」
春臣が立ち去る際に、どうして彼の表情を見ておかなかったのかと、雷田は悔いた。彼が一体、何を考えていたのか──その一端でも掴めたかもしれない。雷田から乾いた笑い声がした。自分の声なのに、何故だか他人事のように思われて仕方がない。
「厄介なことばかりじゃないか……。タイムパラドックスに、今度は終末──」
「まだ決まった訳じゃない。諦めないで」心配するように、晴村が宥める。
「そうだね──うん、その通りだ」
「これからそちらへ行くから、待ってて。下の時層に行ってみるから」
「危険じゃないのかい?」
「私なら大丈夫。えっと、これは強がりじゃなくてね、本当に。だから、湖に入るような真似はしないで」
「それは前振り?」雷田は笑いかけた。
「冗談じゃないよ。真面目な話。秋乃は──あっいや、雷田は一度家に戻って良いよ」
「僕は行かせてくれないのか」
「危険だからね。捜索が終わったら、また連絡するから、その時は車でも回して欲しいな」
「あそう……。僕はアッシー君か……」
「アッシー? 何それ?」晴村が素っ頓狂な声を出す。
「ネッシーじゃないよ」と、雷田は微かに笑う。
「何言ってるのか分からないけど、元気になって良かった」
「うん、ありがとう。待ってるよ」
ピアスから指を離し、雷田は俯いた。
車内で雷田は待機していた。晴村からの連絡を待って、いつでも発車出来るようにしていた。それから後になって、待つのは森の付近でも可能だと思い至り、アクセルを踏んだと同時に、彼女から通話がかかってきた。
「どうだった?」雷田が聞く。
「うん、ふたりは無事だった。あとは、まあ別の場所で話そう。お迎えお願い」
「分かった。もうすぐ着くと思う」
着いてみれば、ふたりの少年が草臥れていた。何があったのだと訝しんだが、質問する前に彼らは眠ってしまった。
「大変だよ、とにかく」と、晴村が助手席から囁いた。「下では確かに終末以外の何物でもない雰囲気があった」
どんなふうかと尋ねてみれば、ゾンビ映画にあるような、人だけが消えた町だ、と彼女は言う。ふざけた話だと一蹴することも出来たが、疲れている所為か、それは出来なかった。尤も、そんなことをする必要など無かったのだが。
「時層として確立されていたから、あ──雷田も階段から行けると思うよ」
「そうか」雷田は苦笑する。「あまり行きたい気分にはなれないな」
「それで、これが一番重要なことなんだけど──そこは十月二十日なんだ」
晴村は言った。
「え?」雷田は、びっくりして車を停めた。「十月二十日って、終末が? 今年の?」
深刻な顔をして、晴村は頷く。それから、両手をあげてお手上げのポーズ。雷田は天を仰いだ。
「今日は、もう日を跨いで十六日か。……あと、四日?」
「うん。冗談みたいでしよ」晴村は笑っていない。
「笑えない冗談だ……」
はは、と乾いた声で雷田は笑った。
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