その手紙を読み終えた後、僕は手紙の主である男性か女性かも分からない人間のことを思い出そうとしたが、まったく思い出せなかった。これは決して僕の記憶力の問題ではない、と思う。ここ数年、こういう手紙やメールの類が増えたのだ。知名度のすくなかった、特に怪談文芸を中心に書いていた頃はほとんどなかったのだが、数年前に文学に興味のない者でも名前くらいは知っている、ある有名な文学賞を受賞して以降、こういう手合いが多くなった。


 有名な小説家先生に一言、言葉を添えていただきたい、とか、そんな僕のネームバリューを使って、自分自身やあるいは自分の行っている活動の何かに、箔を付けたがる連中だ。誠実さが伝わる内容だったり、本当に古くから親交のある相手ならば、協力的な気持ちになることもたまにはあるが、そのほとんどは信用の置けないものばかりで、基本的には断るか無視をする。そもそも僕は、先生、などと付けて持ち上げられるのが昔から嫌いで、さらに最近はこういうことが増えて、なおさら耐えられなくなった。


 ただ本当に、この彼か彼女かも分からない手紙の主も、そういう手合い、と判断してしまっていいのだろうか……?


 そんな警告に近いような音が頭の中で鳴っていたのは、この手紙の主に関しては頑張れば思い出せるのではないか、という気持ちを抱いていたからなのかもしれない。忘れてしまった、というには、記憶のどこかに引っ掛かりを覚えてしまうような、そんな感覚だ。


 心の片隅にそんな気持ちを残したままだったからか、あるいはそれとは別に、この手紙の主が同好の士と呼んだように、怪談好きとしての純粋な好奇心もあったかもしれない。


 つい僕は寄ってしまったのだ。


 久方振りに東京を訪れた際、白霧町へ、と。


 僕も手紙の主と同様に、その謎の男が営む、という民泊を目指したが、やはり僕もその家には辿り着けず、気付けば僕の周りを深い霧が包んでいて、手紙の内容を思い出した僕は、焦りと恐怖の中で、必死に帰り道を探したものの、


 そこからの記憶は途絶え、


 手紙の主の体験をそっくりそのまま追体験するように、気付けば僕は見知らぬ部屋の中にいた。手紙に書かれていた部屋の特徴と一致する。これが悪夢ではない、と手紙を読んだ僕は知っている。悪夢ではないが、現実か、と問われると、素直に頷く自信もない。


 くすんだカーテンを開けると、霧か、あるいは霧のような何かで、先は見えない。


 溜め息をついた僕の背後から、


 こん、こん、とドアをノックする音が聞こえた。


 僕は、この家のことを文章にして、世間に発表しなければならない。すくなくとも世間ではなくても、誰かには伝えなければいけない。とはいえ、これ以降のことは書けない。書いてしまえば、この文章の効力は薄まってしまうだろうから。


 贄を求めている言いようのない恐怖が、僕に狙いを定めてしまった。


 手紙の主が代わりに僕を生贄に選んだように、僕は誰かを代わりに生贄にしなければならない。だとしたら誰を選ぶのか……、と考えた時、ふと浮かんだのが、僕の文章に触れる読者の存在だった。これを世間に発表すれば、どうなるだろう。


 面白いことが起こる、と書いた手紙の主の言葉の意味が分かり、僕はその言葉に共鳴していた。


 これから世間を包んでいくアクムを想像しながら、昏い喜びが、僕を満たしていく。

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悪霧 サトウ・レン @ryose

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