悪霧
サトウ・レン
壱
ご無沙汰しております、という言葉は手紙の中でよく使われるので、実際にはそれほど久しくない相手にも気安く使ってしまったりするものですが、そんな悩みをわずかにも持つ必要がないくらいに長く、会ってもいなくて、連絡を取り合ってもいなかった先生に、手紙を書く。そのことに思いのほか、緊張しております。最後に会った時の別れ方があまり良いものではなかったので、余計に、そう感じてしまうのかもしれません。
それとは別に、手紙自体、そう何度も人生の中で書いてこなかったので、手書きで誰かに送るための文章を書くことにも緊張しているのかもしれません。手紙、というのは、どうはじめたらいいのでしょうか。私も、それなりに文章を書いてきた自負はありますが、とはいえこういう性質の文章ではありませんでしたから。
お元気でしたか?
と、はじめると、すんなり本題に入れるのでしょうか。実際、最初はそんな書き出しだったのですが、どうもしっくりとこなくて、消してしまいました。
そう言えば、先生はよく手紙を書いていましたね。
「手書きの言葉は、より誰かの心に残るんだよ」
そんな風に言っていたのを、覚えております。覚えていたからこそ、私はたぶんこうやって手で書くことを選んだのです。私から手紙が届いたことを、先生、あなたは不可解に感じているかもしれません。大体いまの時代……どころか、私が子供の頃には、すでに手紙でやり取りをする機会はほとんどなくなっていましたから。電話、メール、DМ、ライン……手紙以外で、遠くにいる誰かに何らかの言葉を伝えるための手法は増えていくばかりです。そんな中で敢えて手紙を選択する理由、ってなんなのでしょうか。
そう考えると、結局、かつてあなたの言った、
「手書きで書いた言葉は、より誰かの心に残るんだよ」
という、それ一点に尽きるのではないか、と。
私はいまとても悩んでいます。その悩みが深いものだ、とよりあなたに知ってもらうために、私は手紙を選んだのかもしれません。打算的と言えば打算的ですが、鋭い先生ならば、私の本心に気付いてしまうかもしれない。そんな気がしたので、先に言ってしまうことにしました。自分勝手は承知のうえですが、悩みは嘘偽りなく本当に深いのです。
この話を誰にするべきか、と考えた時、最初に頭に浮かんだのが、もう長く会っていない、先生、あなたでした。同好の士であるあなたならこの話に興味を持ってくれるでしょうし、私の置かれた状況を知ったとしても、それなりに理解を示してくれるかもしれない。そう思ったのです。
まず何から語りはじめればいいでしょうか。
先生、あなたと最後に会ったのは七年ほど前でしたね。七年なんてあっという間で、記憶的には短く感じてしまう時もありますが、街並みの景色の変化を見ていると、とてつもなく遠い昔の出来事のようにも思ってしまいますね。
あの頃の私は、先生も知っての通り、無名の俳優でした。無名、というのは謙遜ではなく事実で、ほとんど仕事もなく、アルバイトで生計を立てているような状況で、だから私は続けていくことなどできず、五年ほど前に辞めてしまいました。知り合いの俳優にも辞めた人間は多くいましたが、みんな口を開けば、世間や周囲の誰かのせいにばかりしていて、私はそんな彼らを見ながらうんざりしていました。私たちには才能がなかった、そして才能もないのに成り上がる努力もしなかった。いつまで経っても、諦めた後まで、その事実を頑なに認められない彼らの姿を見ながら、それが鏡に映る自分自身を見ているようで、不快で、そして怖かったのです。彼らと距離を取りたい、とは思っていたものの、そういうわけにはいかないのが、いまの私の仕事なのです。
私は、いま怪談や都市伝説関連の文章を雑誌に書いたりしながら、お金を得ています。いわゆるライターというやつですね。
そうです。昔、あなたとふたりで酒を呑みながら語り合いましたね。私たちの趣味でもあった、怖かったり、不思議だったりする話です。趣味がいつの間にか仕事になってしまいました。
と言っても、私自身は残念ながら霊感もないし、不思議な出来事にも遭遇しないので、周りからの伝聞がほとんどでした。以前は俳優もしていましたし、芸人やミュージシャンとして活動していた時期も、すくないながら、一応ありました。私にはどの才能もなく、芽はひとつも出ませんでしたが、それでも、これらの職業を経験しておいて良かった、と思うことのひとつに、ひととの出会い、交流があります。色々な知り合いが自然とできましたし、職業柄というのもあるのかもしれませんが、不思議な体験をしている知人がたくさんいました。中には作り話もあったと思いますが、多くのひとの前で色々と話すことも多い彼らの話は、大抵面白いので、嘘だと知っても、あまり損した気分にならないんですよね。
これも元は、知り合いの、いまでも俳優をしている男から聞いた話だったんです。ドラマやバラエティ番組にもたまに出ているような男なので、もしかしたら先生も知っているかもしれません。なので、実名は出さずに、仮に佐藤くん、としておきましょう。
「白霧町で、昔の同級生が民泊みたいなことをしてるんだけど、さ」
と飲み屋で一緒に呑んでいた佐藤くんが、いきなりそう話を切り出したんです。先生は、白霧町、って知ってますか? シラギリ、と書く町名なんですが。私も彼から話を聞いた後に、この話きっかけで一度行っただけなんですけど、すごい田舎なんです。東京にあるとは思えないほどで、確か雑誌に、東京最後の秘境なんて書かれているのを見たこともありますね。彼は、そこの生まれらしいんです。
「民泊?」
「まぁ民泊、って言っても、別に正式な許可を取っているわけでもなんでもないから、その言葉で正しいのかは分からないんだけど、他の言い方が分からないから、そうさせてくれ。まぁとりあえず、そこに出るんだよ」
出る、と私に言ったら、もうその時点で九九パーセントの確率で、幽霊かお化けの類ですから、身を乗り出して聞くのもわざとらしい、と思って、
「幽霊?」
と素っ気なく聞くと、彼は頷きました。
「昔、その同級生のお母さんが部屋で自殺したんだけど、その霊が出るんだって。そいつに一度、怖くないのか、って聞いたら、『別に霊感なんて俺には無いから、それにまぁ会ったところでお袋なら別に怖くないどころか、会いたいくらいさ』とか言ってたな。神経の図太い奴だな、って思ったよ。それに、会いたいくらい、って言うけど……」そこで佐藤くんが声を潜めました。「実は、殺したんじゃないか、って噂もあってさ。まぁ嫌いじゃないけど、見るからにやばそうな感じの奴なんだよ」
と、そんなことを笑いながら話す彼の神経もかなりやばそうにも感じましたが、ただ彼の話に私は魅力を感じていました。他人の部屋に泊まって、そこで幽霊に出会う、ってなんかすごくわくわくしませんか。もちろん他の方に言えば、こんな私も、やばそうな奴と認定されてしまいそうですが、同じ趣味を持つあなたならば、きっと分かってもらえる、そんな気がするんです。
だから、
「どうする、泊まってみないか?」
と佐藤くんから言われた時、私は迷いもせず、了承してしまったんです。
私は不思議な出来事に、昔から本当に遭わなくて、実体験のすくない怪談ライターという立ち位置に焦りを感じていたのかもしれません。それだけではなく、そんな怪しげな民泊らしき場所を営む彼の同級生にも、興味を抱いていました。
佐藤くんから、予約が取れた、と連絡を貰ったのは三日後のことでした。
最初はふたりで待ち合わせの約束をしたのですが、前日の夜、急に某有名俳優から遊びの誘いが来て、どうしても関係上、断れないから、ひとりで行って欲しい、と彼から連絡が届きました。
その日の朝は、爽やか、という言葉が似合いの空だったのに、私は何故だか嫌な胸騒ぎがして、やはり佐藤くんを通して、その民泊に断りの言葉を入れようか、とも考えましたが、ビビっていると思われるのも嫌で、結局胃の辺りに軽い痛みを覚えながら、私は白霧町へと向かうバスに乗り込みました。
降りた先にあるバス停の赤いベンチが汚れて黒ずんでいたのを覚えています。
白霧町の風景に対する第一印象は、確かに田舎町の、これと言って特徴のないような雰囲気でしたが、東京最後の秘境だとか、そういうレッテルを貼るほどではないかな、というものでした。ただ朝を爽やかに迎えた今日が嘘だったかのように、まだ昼間なのに濁りを混ぜた空模様に変わっていて、雨が降るわけではないものの、陰鬱な雰囲気を漂わせていました。
住所は事前に佐藤くんから教えてもらっていて、そのバス停から十分ほど歩いたところに、彼の昔の同級生のその家はあるそうです。
無許可で民泊を経営している佐藤くんのかつての同級生とは、いったいどんなひとなのでしょう。私が知っている情報は、他人を泊まらせて金を得ている男で、母親が自殺をしている、という、そのふたつだけ。しかもその家には幽霊が出るらしいのに、別に家族なら構わない、とその男は怖がりもしない。母親を殺しただの、そういう噂は、家庭内の不和が自殺の原因になった、というような比喩的な意味合いに尾ひれが付いて、結果としてその男が殺人に手を染めたなんて話にすり替わっただけではないでしょうか。私はそう考えることにしました。噂とは得てして、そういうものです。
いえ、もしかしたら、そう思いたかっただけなのかもしれません。
だって、そうじゃないですか?
いまから会いに行く相手が、殺人を犯していて、しかも相応の罰さえも受けていない、なんて怖すぎるじゃないですか。だったら行くな、という話ではあるんですが、私は怖さや不可思議さを言葉にして、それを生業とする人間でしたし、それに純粋な好奇心もありました。
先生、あなたなら、分かってくれる、と思います。
でもその家を目指して歩きながら、私は違和感を覚えていました。もうとっくに十分以上、それどころか三十分くらい、もう歩いているはずなのに、それらしい家が見つからず、佐藤くんが住所と一緒に、地図と外観の特徴を添えてくれましたが、一致する場所がなかったのです。
見過ごしてしまったのかな?
一瞬そんな考えが脳裏をよぎったのですが、
家屋もそんなに多くなく、かなり周囲を注意しながら歩いたのに、そんなこと、ってあるでしょうか。
とりあえず一度、戻ろう……、と振り返った時、私の視界を奪うものがありました。
霧です。
深い霧がかかって、先の様子が何も見えなくなっていました。さっきまで、そんなものはひとつもなく、どこから現れたのか、突然、という感じでした。反対側も横も、私の四方八方を霧が包んでいました。
たとえ霧が出ていたとしても、元来た道を来た通りに歩けば、とりあえずは安全だろう、と思って、私は歩きました。ただ霧のかかった道を歩いているせいか、本当にいま自分の歩いているところが元来た道なのか、自信はありませんでした。正しい道を進んでいるのか分からず、いつまで経ってもバス停は見つからず、私は不用意に歩き出してしまったことを後悔しました。これなら霧が晴れるまで、その場に留まっていれば良かった、という気持ちにもなりましたが、ただ霧が晴れる様子が一向になかったので、その場所から動かなかった、としてもそれはそれで後悔して、歩きはじめていた、と思うので、結果は同じだったかもしれません。
そこからの記憶が、一度途絶えて、
目を覚ますと、私は部屋の中にいました。悪夢でも見ていたのか、と私は一瞬、その部屋を自宅と勘違いしてしまいましたが、そこは私の部屋ではありませんでした。
室内から受けるその建物の印象は、古く寂れた木造建築、といった感じで、小さな地震でも起これば簡単に壊れてしまいそうな、そんな雰囲気でした。
窓越しに、外の景色が見れるのでは、とくすんだカーテンを開けると、まだそこには霧があって、先の様子は一切、見えませんでした。本当に霧なのかどうかも分かりません、霧のような、私の視界を奪う何か、です。
私が溜め息をついた時、
背後から、こん、こん、とドアをノックする音が聞こえました。
私の体験はここで終わりです。いえ実はこの話にはもうすこし続きがあるのですが、ここからは私の個人的な話も絡んでくるので、書くことができないのです。やけにもやもやする終わりに感じるかもしれませんが、現実の不可解な出来事が得てしてそういうものだ、ということは、私や先生のような人間なら知っているはずです。対外的にこんな面白くない結末の文章を発表すれば、もしかしたら私はライターとして失格の烙印を押されてしまうかもしれませんが、先生への個人的なお手紙、ということで許してください。
興味を持たれたでしょうか? 私は、先生ならば絶対に興味を持ってくれると信じております。
ぜひ先生も東京へ来る機会があれば、白霧町のあの家を訪ねて欲しい、と思っています。不可思議な体験はできますが、決して危険ではないですよ。だって私はいまも生きている。それが危険じゃない、一番の証拠だと思いませんか?
そしてこれは私の個人的な悩みについての話なのですが、私はこの話を世間に向けて発表するべきかどうか迷っています。もちろん内容はもうすこし面白くなるように手直しは加えますが、問題は発表する人間が私でいいのか、ということです。
私みたいなうさん臭いライターよりも、先生みたいな有名な小説家が発表されたほうが、その真実味も増すとは思いませんか。それに、そのほうがすこし、ほんのすこしだけですが、面白いことが起こるような気がするんです。
最後に、その家の住所と地図も添えておきますので、確認していただけると、幸いです。
予約などなくても、きっと喜んで迎えてくれるはずですよ。
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