屹立

亜済公

屹立

 私は元来、この娘という生き物が、例えようもなく恐ろしかった。純粋、と形容されるその瞳に、何か得体の知れないものが眠っているように思われて、ならなかった。まして、それが自らの血を引いていると考えただけで、もう身体の内側から、奇怪な震えが溢れてくる。憎悪とか、嫌悪とか、あるいは畏怖とか、そのような単純な言葉の羅列が、例え無限に続いたとして――私のこの感情には、決してたどり着かないであろう。

 娘が生を受けたのは、私が二十八の頃であった。小さく丸まった、生まれたばかりの赤ん坊は、既に強烈な悪の気配を放っている。予期していた歓喜の念が、まるで起こらないことをいぶかしく思い――それにはたと気がついたとき、私は、愕然として自らの精神を疑った。自分は、子供というものが、それこそ子供の頃から苦手である。だが、私と私の愛する妻の子であれば、きっと十分な愛情を注ぐことが出来るだろうと、そう楽観していたのだ。ところが、実際はどうだろう! 私の嫌悪は、決してどこか他人の子供に始まるのではない。それはまさに、自分自身の子に端を発するものであると、ついに発覚したのである。

 娘の成長は、早かった。瞬く間に寝返りを覚え、這いずり回り、ついには立ち上がりまでしてせる。あるいはそれは、喜ぶべきことなのかも分からない。だが一向に、私に常識的な感覚は起こらなかった。娘が、私の名を呼んだときさえ、一切の感動は、なかったのだ。むしろ、何か地獄の底で、泥沼のあぶくが弾けるような――そのような音にさえ、思われた。

 私の娘への嫌悪の内には、もしかすると、ある種の嫉妬のようなものが、あったのかも分からない。妻は娘が生まれて以来、私に一切の関心を払わなくなった。一切、というのはやや言い過ぎであるかも知れぬが、しかし現にこちらにとっては、やはり相当の変化が感じられる。どことなく、私を邪険にしているような、それでいて、仕方なく受け入れてもいるような。私の自尊心は、このような扱いに強い反発を覚えていた。だからといって、それを主張するというのも、また別種のプライドが許さぬのである。

 これがとうとう、決定的な段階へ達したのは、ある、春の日のことであった。私が縁側に腰掛けて、ぼんやりと庭の木を眺めているとき、不意に娘が、私の隣にやって来た。歩くこともままならないので、それはずるずると足を引きずり、畳の上を芋虫のように這うのだった。「とう」と、娘は口にした。それは、父親、と言う意味の音だろうと思われた。「なんだ」と、私は冷静に答えてやった。娘は、真っ黒い瞳できょろきょろ周囲を見回して、それからまた、進み始める。私には、全く、その行動原理が、まるで推し量ることのできない不可解な現象に思われた。ぼんやりと、こんどは庭の木々ではなく、娘の様子に視線を送る。真意の見えない、純粋さを装った振る舞いの中に、何かどす黒い染みを見いだすことができないか――私の猜疑心が、真実を見抜く観察眼であったと、判明しやしないだろうか。春の日差しは、生ぬるかった。あたかも、外気に誘われるように、娘は縁側の、その端へと一直線に進んでいた。じりじり。ずるずる。じりじり。そして、ある瞬間、その身体がぐらりと揺れて、地面へと落下を始めたのだ!

 悲鳴が、聞こえた。驚いて振り返ると、真っ青な顔をした妻がいた。妻は、私に向かって何事かを口にしかけ――それから、そんなことをしている場合ではない、といった風な面持ちで、娘の方へと走り出す。私は、その格好に、自分という存在の透明さを知らされた。妻は、もはや私のことをさほどの重要事に見てはいないのだと、はっきり分かってしまったのだ。娘は、忌々しいことに無事であった。ただ、地面に転がっていた毛虫をつまんで、指先を腫らしただけであった。掴まれた毛虫は無残に潰れて、黒々とした内臓を、辺りに散らかしているのだった。

 その日、妻は私に対し、酷く立腹した面持ちだった。「なぜ、とめなかったの」と、そう問うた。「ぼうっとしていた」と、私は答えた。それはある面では真実だったが、別の面では虚偽ともいえる。この曖昧さを、いかにしてか、妻は嗅ぎ取ったらしかった。「気をつけてちょうだい」それでも、私のこの憎悪を、推し量るには至らないらしい。私は、孤独というものを痛感した。私の恐れは、私だけのものなのだ。

 その日以来、妻は私に、より一層の無関心を示すようになっていた。関心を示さない、というのとは決定的に異なっていた。それは絶望的なまでの、そしてまた、意識的なまでの無関心だ。私を追い詰めようという明白な意思を感じさせた。

 妻は、私の食事の量を、いくらか増やすようになっていた。私がぶくぶくと肥え太り、豚のようになるのを画策しているのではと疑った。もしそうなれば、私の両脚はとても自らの肉体を、支えることができないであろう。私はただ、地面を這いつくばって、芋虫のように蠢く以外になくなるのだ。……そう、ちょうど私の、娘のように! その発見は、私を酷く興奮させた。そしてまた、私の、妻に対する、この上ない愛情全てを、すっかり消し去ってしまったのだ。娘は、食事中、ベッドに寝転んで笑っていた。何もない天井に向かって、ケタケタと気味悪く笑っていた。私は何もかもが恐ろしくなって、この世のあらゆる人間が、かつて赤ん坊であったことにはたとそのとき思い至った。隣人も、自分の親も、そしてこの妻でさえも、やはりケタケタと笑っていたのだ。その愉快そうな声の先には、私がいるのかも分からない。

 妻の計画がうまくいったのかは分からないが、その頃から、私の体重は増していった。これは案外、私が夜中、こっそりと菓子をつまんでいるせいかも分からなかった。しかしそうであるとしても、妻の望みが叶いつつあるのだという事実には、変わりがない。以前から嗜んでいた球技をやめて、私は家で寝転ぶことが多くなった。身体が肥えると、運動が煩わしく思われて、運動をしないと、一層身体は肥えていく。不愉快な循環に陥りながら、私は娘が、すくすくと成長を続けているのを、恨めしく眺めているのである。

 娘は、まるで私の内面を何も知らないかのように、純粋そうな顔でこちらを見つめた。私はその中に、妻の片鱗を探し求め、どうやら眉にあるらしいと目星をつける。そして今度は、自分に似た部分があるのではないかと、不快感と共に思うのだった。「目元が似てるわ」と、妻はいった。「違うよ、違うよ」と、私は答えた。「唇かしら」と、妻はいった。「違うよ、違うよ」と、私は答えた。「それじゃ、まるで、あなたと似た部分が少しもないみたいじゃない」妻は自分で口にしてから、さっと顔を青くして、それきり何も言わなかった。私は「似てないよ」と端的に言って、便所へ向かった。妻は、泣いているらしかった。

 同じ月の日曜日に、妻が一人の青年と、こっそり会っているのを発見した。駅前のカフェで待ち合わせ、深刻な顔で何事かを話し合うのだ。妻は私に「子供の世話をしていてちょうだい」と何気なくいって、出立していた。私がついてくると困るのだ、と私は勝手に推測していた。私はケタケタと笑う娘に、おとなしくしていろ、と語りかけた。娘はきょとんとこちらを見た。つかまり立ちを覚えたばかりで、そのときは便所の取っ手に掴まり、ふらふらと揺れているときだった。「あー」と、娘はいった。了解の意だろう、と私は思った。妻は見ていないのだから、無垢な振りはやめたまえ、と私はそんな風なことをいった。「あー」と娘は答えたが、特に振る舞いをかえる気配は見られなかった。私は、妻を尾行した。

 カフェで話し合った青年は、筋肉質で、随分快活そうな様子であった。私はいくらの嫉妬を覚え、けれどあんな若者では、ろくに女も喜ばせまい、とそんな風に考えた。私はカフェの向かい側の、郵便ポストに隠れていた。太り気味なだらしない腹が、ポストの影からはみ出ていた。ふと、青年が、こちらを指さし何事かを妻にいった。妻は、差し迫った表情で、慌てて私の腹を見ると、何か絶望的な雰囲気で、店を飛び出して逃げていった。

 私は、妻を追い掛けた。私の体重は既に以前の倍近くになっていたから、とても追いつくことは出来なかった。ようやく家に帰り着くと、妻が玄関に座っていた。怒っているような、悲しんでいるような、何か非常につまらない面持ちで、そこにいた。状況がよく飲み込めなかった。私はわけも分からずに、とりあえず常識的と思われる行動を選ばなければならなかった。私は妻の頬を打った。ぱちん、と冷たい音がした。もう一度、その頬を繰り返し撃ってみた。ぱちん、と今度はやや熱っぽい音がした。妻は、動く様子がなかった。私は、再び同じ頬を打とうとして、もう一度同じ手を挙げた。「堪忍して」と妻は蚊の鳴くような声でいった。私は、わけが分からなかった。そこで、再び頬を打った。妻の身体は、ぐらりと揺れた後倒れてしまい、私はそれを、引っ張り上げねばならなかった。

 数度、また数度と手を挙げる内、私の中に奇怪な感情がわき上がっているのを自覚した。頬を打ち、自分の手の平に軽い痺れが走る瞬間、自らの精神の内奥に、極めて不健康な快感が、首をもたげているのである。それはきっと、娘に感じた邪悪さと、同じ種類のものであろう。ある種の残酷さ、あるいはまた、冷酷さ。そしてそのとき、私は自分が、かつて赤ん坊だったことを思い出すのだ! そう、そうだった! 私もやはり、アレと同じだったのだ!

 私は、より一層の力を込めて、妻の頬を打ち付ける。「堪忍して!」と妻は叫んだ。「あの人とは、もう長いこと会ってないの」私には、その言葉の意味がよく理解できなかった。「一度きりよ。たった一度」私は、もう一度、頬を打った。それは、相当な快感であった。痺れるような疼きの塊が、自分の生殖器に生まれつつあった。私はもう一度頬を打った。もう何度目かも分からなかった。玄関の外で、車が通り過ぎるのを聞いた。自転車のブレーキ音が遠く響いた。私は、気がつくと、ぐったりと気を失った妻を見下ろし、ぼんやりとたたずんでいるのだった。

 妻は、その日からまるで動こうとしなかった。時折目を覚ましては、妙な言葉を数度叫び、また眠りにつくのである。糞尿が垂れ流され、玄関には臭気が満ちた。私はその臭いが、好きだった。排泄のとき、妻はびくびくと足を痙攣させるのだった。それはどこかかえるに似ていて、私を愉快な気持ちにした。

 娘は、静止した家を唯一動き回るものだった。戸棚から勝手に食べ物を引き抜いては、自分で飢えをしのいでいた。娘の服は、尻の部分に黒々とした染みができ、動くたびにぽとり、ぽとりと、黒い汁が零れるのだった。小便と、糞の混じった汁であった。家中が、糞尿に汚れていく中で、私はあの縁側に、ぼんやり寝転んでいるのだった。

 最初に、腐り始めたのは、他ならぬ妻の肉体だった。妻は、日に日に痩せ細り、とうとう干物のようになって、一切の音を出さなくなった。糞尿の臭いに、肉の腐る臭いが勝った。家中に、それが充満した。夏が近づき、とうとう妻は、ドロドロの染みになってしまった。茶色く汚れた、生乾きのかすだけが、後には残されたのだった。

 次に腐敗を始めたのは、やはり娘の肉体であった。娘は、あちこちをうろつくうち、縁側からころりと落ちてしまったのだ。ぐしゃり、と嫌な音がして、私は様子をうかがった。娘は地面に転がって、首を不自然な方向へ曲げていた。私は、それを指でつついた。動く気配は、見られなかった。私は長かった自分の憎悪が、ついに解消されると喜んだ。だが、不思議に心は重苦しいままなのだ。それはどうやら、私自身に、起因するもののようだった。

 私は、逡巡の後、それなりの長さの縄を探した。天井の梁にぶら下げて、うまい具合に輪を作った。そこに首を通すとき、私は深く息を吸った。糞尿混じりの腐敗臭。何もかもが汚れきって、私の心の静寂を、妙な具合に奪っていく。これが私の恐怖なのだ、と私は意味もなくそう思った。自分の思考が何を意味するのか、自分でもまるで分からなかった。私は、首を吊った。視界が急速に狭まって、脊椎に貫くような痛みが走った。ぶつり、と耳の奥で音がして、私は自分が、今まさに死のうとしているのだと、自覚した。

 恐ろしくは、なかった。ただ、何もかもが分からなかった。まるで自分が、何者でもないかのように、あらゆる思考にもやがかかって、分からなかった。私は、妻の死体を思い浮かべた。排泄のたび、蛙のように、ビクビクと痙攣したあの足は、そういえば酷く美しかった。私は、勃起した。

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屹立 亜済公 @hiro1205

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