白露

凪野基

白露

 内海は今日も穏やかだった。

 しずしずと行き来する波が陽光を弾くさまはまるで絢爛な帯のよう。かしましい海鳥どもの姿もなく、静かな波と風が平穏を唄いあげる。遠く、たなびく海草のごとくに揺れる影はヒトの漁船か。

 身体を立てて波間から顔を出し、さらに遠くのおかを想う。

 えんじゅと名乗った若武者を想う。

 ――かの方は、どちらからいらしたのだろう。内海に面した港を持つ交易の都か、川を遡った先にあるという黄金の都か。はたまた、遥かな山辺の国か。

 凪いだ水面を滑る、足の速い細身の小舟。揺れにも風にも動じることなく、腕を組んでひたと前方を見据える彼の姿を一目見たとき、生まれて初めて、内海の人魚として生を受けたことを呪った。ヒトの子として陸で暮らす定めを負わぬことを嘆いた。それほどまでに、槐との邂逅は彼女を揺るがしたのである。

 我を忘れ、小舟を追って泳ぐ彼女に気づいた漕ぎ手の合図で、舟は櫂走を止めた。揺れる船上にあってただ一人、両の足で船底を踏みしめて立つ若武者は、彼女を手招く。

「こちらへ、人魚の姫」

 海風をものともせぬ朗々とした声は雷神の一撃もかくやという鋭さで彼女の腕を、尾を痺れさせた。矢を射掛けられるやも、という警戒心はいずこかへ消え去り、櫂の際まで泳ぎ近づいて小舟を見上げた。漕ぎ手たちが一斉に身を引き、視線を逸らす。櫂を手放して耳に指を詰め、背を丸める者もいた。舟が傾くほどの勢いである。

 なるほど、魅了の眼や呪いの声のことは承知しているらしい。傲慢にも見える自信を湛え、若武者だけが真っ直ぐにこちらを見ている。抗うつもりか、威勢の良いこと。

 視線が交わり火花を散らし、ずぶり、と彼の心に突き立つ。小魚のように暴れるのを、ゆっくりと絡め取る。がむしゃらな抵抗が、身悶えしたくなるほどに愛しい。愉しい。

 捻じ伏せるのは容易いが、すぐに喰らい尽くすのも面白みがない、今日はこの程度にしておこう。見えざる手をそっと引くと、若武者がぶるりと震え、喘ぎともつかぬ吐息がこぼれた。その眼は隠しようもない喜悦に潤んでいる。

「そなたらの海を荒らして済まぬ。無礼も多々あろうが、鬼どもを根絶やしにするまでのこと。どうか辛抱してはもらえぬか」

 男の言葉に、沈黙をもって答えた。

 内海の孤島に棲む鬼たちと、陸地のヒトとはいがみ合い、事あるごとに戦だ弔い合戦だとぶつかっている。どちらも粗暴で野蛮であるから仕方のないことではあるが、近頃とみに殺気立ってきた。ヒトの小舟が行き交い、人魚もまたヒトの様子を探るべく浅瀬に赴く。

 古来より、鬼と人魚は手を携えて外敵を阻んできた。鬼は人魚を守り、人魚は鬼を守る。同じく内海に住む者として、平穏な暮らしのために同盟しているが、鬼とヒト、どちらにも特別な思い入れはない。否、なかったのだ、これまでは。

「鬼たちに奪われた秘宝を取り戻さねばならぬ。大きな戦となろう、ゆめゆめ、お気をつけなされよ。いや、釈迦に説法であったかな。海のことは姫らがよほどお詳しかろうに」

 はは、と声を上げた彼に、漕ぎ手らの頬が弛緩する。人魚の姿に恐れをなしているのに加え、皆一様に疲労と緊張で目元口元を強張らせていた。鬼たちの島の近くまで様子見に行ったのかもしれない。若武者だけが結った髪も艶やかに、凛とした佇まいであることが一層、彼を高貴に、雄々しく見せている。地上に姿を現した戦神だと言われても、信じただろう。

「わしは槐と申す。姫、名をお教え頂けぬか」

 黙ったまま首を振って、水中に没する。水面からの光がようやっと届くほどの深みまで一気に潜り、ねっとりと重い海水に揺られながら様子を見守った。しばらく待ったが、槐が海に飛び込んで追ってくるようなことはなく、軽率な男ではないことが知れた。

 小舟は周囲を漂っていたが、やがて意を決したふうに陸の方へと去った。十分に待ってから、再び波間に顔を出す。

 えんじゅ、と呟いた声は波のうねりにかき消されるが、脈打つ心の臓が、冷たい頬が打たれたように熱を帯びて蕩けた。その熱を逃がすまいと、夢見心地で手のひらを重ねる。

 初めての、恋であった。

 ヒトに心奪われ、海を去った人魚は少なくない。しかしその恋路はあまねく不幸な結末を迎えるという。人魚は海で、ヒトは陸で。その不文律を破ってはならないと、婆様たちは繰り返す。何故ヒトを想い海を捨てることが禁忌であるのか、伝承は何も語らない。

 来るべき不幸せが運命という名であるとしても、それを捻じ曲げ、乗り越え、ヒトと手を取り合って暮らせぬはずがない。わたしが最初のひとりになってやろう。

 海に潜る。昼下がりの海は生ぬるい。肺腑に残る空気を吐ききり、あぶくが水面向かって揺らめくのを見送ってから、銀の尾で海水を蹴って泳ぎ始めた。



 鬼討伐と言っていたから、鬼の島の近海にいれば槐と再び相見えるのは難しいことではなかろう。彼の眼には、勇壮さとともに欲望の炎が音もなく燃えていた。心には魔の爪が深く突き立っている。もう籠絡したも同然、手を握って連れていってと囁けば、是非もなく望みは叶うはず。

 ああ、槐。槐。

 彼が欲しくてたまらなかった。男を欲して邪眼の力を使ったのは久しぶりだ。彼とともに生きるためならば、海を捨てることなど何でもない。不文律が、禁忌が何だというのだ。望んでいるのは槐の強い眼差しであり、甘い言葉であり、熱い抱擁だった。

 鬼らの宴に呼ばれ、姉妹たちと舞や歌を披露しながらも、頭の片隅にはずっと槐の姿があった。快活に笑う姿、威風堂々たる立ち居振舞い。姫、と呼ぶ声。

「上の空であったな」

 気乗りせぬまま茫と槐に想いを馳せていたところを、男の声が現実に引き戻した。

 まなうらにあった、背に日輪を負って凛々しく海を往く若武者の姿が千々に乱れ、小さく舌を打つ。近づいてくる痩身を睨むが、男は夜の海が映す深い闇の向こうを眺めている。

「篝火のせいでございましょう」

「そうかな」

 珍しく、絡んでくる。鬼の棟梁の倅は、薄闇と同じ灰褐色の手で徳利をぶらぶらと揺すりながら、半身を海中に沈めたままの彼女をつまらなそうに見下ろした。

「いつもはもっと、身を斬られるような鋭さがあるのだがな」

 などと、口を尖らせ生意気なことを言う。

「お酒が過ぎるのでは、若」

「……かもしれん。最近また猿どもが喚いておってな。少々気が立っている」

 かと思えば妙に素直で、喉元まで出掛かっていた揶揄の言葉を飲み込んだ。彼の言う、猿とは陸のヒトのことだ。槐の幻の声が、頬を甘くくすぐる。

「ヒトの舟も増えておりますね」

 調子を合わせると、鬼は喉の奥で唸って酒を呷った。手の甲で乱暴に口元を拭い、犬歯を剥き出す。鬼のなかでは若く、大柄でもない男の獰猛さに、うなじがざわめいた。

「おれたちが猿どもの財宝を盗んだなどとかしおる。この島のどこに財宝があるのだか、おれが知りたいくらいだ。どこからそんな噂が広まったのかはわからんが、いい迷惑だ。つまらん奴ほどよく吠えるとは連中の言葉だろうに」

「……ここには、ないのですか」

 槐は確かに言った。秘宝を取り戻さねばならぬ、と。だがこの鬼の倅めは知らぬと言う。仮にも棟梁の一人息子である彼が知らぬと言うのであれば、もしかすると本当に宝などないのやもしれない。

 巌のごとき体つきとこわい髪から覗く角、鋭い眼光、獲物に食らいつく牙と引き裂く爪。恐ろしい見てくれと外見通りの直情径行に反して、鬼たちの多くは筋の通らぬ狼藉を嫌う。涙脆く情に篤い一面もあり、強面の鬼たちが輪になって騒いでいるので何事かと思えば、流されてきた子猫に鰯をやっていたなどという脱力ものの逸話には事欠かない。

 彼とてその端くれ、つまらぬ嘘を並べたてる男ではない。襁褓むつきをしていた頃から彼を知っているが、一本筋が通っているのは美点である。

「少なくともおれは知らん。……何ぞあったのか」

 妙なところで敏い。下手に言い逃れるよりはと、海でヒトの舟に遭遇し、若武者と二言三言交わしたことを告げた。

「言葉を交わしたのか。それは良かった、ぬしの眼差しや声が届いたのであれば、そやつも二度と海には立ち入らぬだろう」

「いえ……わたくしは、黙っておりました」

 男が驚愕に目を見開く。叱責を覚悟し口を噤む彼女に、彼は低い声で言った。

「ぬしが、その眼と声の呪縛を用いなかった。……それほどの男ということか」

 遠くで呼ばれたのを幸いと、身を翻す。彼には答えぬままであった――重大な裏切りは、沈黙で守るしかなかった。



 ヒトの軍勢が攻めてくる。青く凪いだ海に点々と浮かぶ船影に、鬼たちは得物を振り回し、猛々しく吠えて士気を高めつつ船出を待っている。大きな戦になりそうだった。

 戦の混乱に乗じれば、槐のもとへ行くのも難しいことではなかろう。この機を逃してはならぬ、と彼女もまた気を引き締める。

 あれから、槐の舟を何度か見かけた。遠くから見つめるばかりのこともあれば、近づいて槐の声を聴くこともあった。逢瀬とも呼べぬ逢瀬を重ねるごとに、槐の涼やかな目元が赤みを帯びて綻び、欲望がぎらついた。伸ばされた逞しい腕を、微笑みをもって躱す。

 漕ぎ手たちはいつも目を背け、耳を塞いでいた。槐も人魚の眼や声に宿る魔力を知らぬわけではあるまいに、どうして真っ向からこちらを見たのか。人魚の力など取るに足らぬと断じたか、屈さぬ自信があったのか。それとも単なる物好きか。

 何であれ、彼のこころは今や海に、人魚に囚われている。禁忌など恐ろしくはないし、これまでに多くが辿ったという悲恋の轍を踏むつもりもない。きっと添い遂げてみせる。

 燃え盛る慕情を胸に、何食わぬ体を装って戦場に向かう。武力を持たぬ人魚たちの役目はその存在をもってヒトの士気を挫くことと、船から落ちた者を捕虜として鬼たちに引き渡すことだ。鬼の目を掠めて里に連れ帰ることもある。前線に出る斥候を除いては、戦といえどもさほどの危険はない。折を見て姿を隠し、槐の軍勢に合流する心づもりだった。

 途中、険しい顔で海を睨む鬼の小倅の姿を見つけ、泳ぎ寄った。どうしてそうしたのか、我がことながらよくわからない。強いて言えば、彼がそこに居たから、だ。

「若、わたくしは参りますわ。お止めになりませぬよう」

 彼は顔を顰めた。長居は無用と身を翻したところで、呼び止められる。

「餞別だ。猿が見てくれ通りのけだものだったなら、遠慮なく斬れ」

「わたくしには、必要ありませんわ」

 言いながら、無雑作に差し出された小太刀を受け取る。受け取ったものの、刃物など握ったことも振るったこともない。身の安全を脅かすものには近寄らずにいたし、避けられないとなれば鬼たちが刀を取った。人魚の細腕で、物騒な得物を扱う必要はなかった。

「ご存知でしょう、若? わたくしの声が、眼差しが、如何な呪いを宿すかを」

 男が憎々しげに歯噛みするのを後目に、水中へと身を躍らせる。胸に抱えた小太刀はずしりと重く、手が塞がって不便だが、捨てることはできなかった。海への未練、と言われれば否定はできない。

 ヒトの動向を鬼に伝えるべく戦に駆り出された人魚たちが海に散らばる中を、ひたすらに泳ぐ。戦の気配を察したか、魚の姿がまばらな海は明るい。

 船上から矢を射られたり、銛や槍で突かれたりしてはたまったものではないから、人魚たちは水上からは姿が見えないぎりぎりの深さを泳ぐが、下方、海の底への備えは薄い。群れを離れ、手頃な岩陰に身を隠した。

 誰にも見咎められることはなく、あまりのあっけなさに却って不安になるが、きっと皆、戦にかかりきりなのだろう。

 海がざわめき、濁り、戦の始まりを知る。沖を目指す船の航跡を見送って半日ほど待つと、無残なほど数を減らしたヒトの軍勢が舞い戻ってきた。朝のうちは勇ましい太鼓や鬨の声が聞こえたものだが、今は葬列のごとき静けさだ。どう見ても勝利したふうではない。槐は無事だろうか、と今更のように心配になる。槐が死んでしまっては意味がない。

 陽は大きく傾き、海中は早くも夜の色に染まっている。辺りに人魚の姿がないことを念入りに確かめてから海面に浮かび上がり、気配を探った。自らが掛けた魅了の縄を辿るのは難しいことではない――居た。槐は生きて、戻ってきた。

 足の遅い軍船の間を縫うように泳ぎ、槐の船と並んで泳ぐ。いつもとは違い、船べりで茫と西を見つめていた槐ははっとした様子で身を乗り出した。

「姫君! ……おい、誰か!」

 船足が緩まり、小舟が下ろされる。わずかな兵とともにやってきた槐は自ら桶に海水を汲み、彼女の手を取って破顔した。疲れの滲んだ眼が色を取り戻す。

「共に参ろう、姫」

 かくして、海水を張った桶に入れられた彼女は槐と共に内海をわたり、陸に上がった。



 初めて目にするヒトの港は活気があり、何もかもが珍しく興味深いものであったが、どこもかしこも埃っぽくて咳が止まらないのには辟易した。

「大事ないか、姫君」

 咳き込むたびに覆いを上げて顔を覗かせる槐は満身創痍で、彼のその有様こそが大事であるのだが、ただ微笑んで頷く。槐の陽に灼けた相貌が和み、凛々しい眼差しが柔らかく緩むのを見るのが好きだった。

 水面と船べり、海と陸。住む場所の違いがふたりを隔てることは最早ない。差し伸べた手が固く握られて、乾いた唇が寄せられる。確かにここは陸なのだと、幸福に目が回りそうになる。

 乾くと痛む鱗に水をかける仕草すら、槐はうっとりと見つめている。

「不便をかけてすまない。もう少しの辛抱だ」

 勿論でございます、槐さま。暗く冷たい海の底で貴方様に思い焦がれるのみであった昨日までに比べれば、ここは天国のよう。辛抱のうちにもはいりませぬ。

 声に出せぬ言葉を笑みに変え、幼子のように首を振って応える彼女に、槐は何を思うのだろう。触れられた手が、頬が蜜のごとくに蕩けそうなのは彼女ばかりではあるまいに、身を引いたその表情は遠く船上にあった雄々しい若武者のもの。負傷と疲労に負けじと供らに声を張り上げる。

「者ども、急げ。英気を養い、次こそ鬼どもに一泡吹かせてやろうぞ」

 応、と野太い声がまばらにあがり、隊列が再び動き始める。歩みは遅い。それもそのはず、負け戦からの帰路である。軍勢は多くの死傷者を出したようだった。隊列に連なる者たちはみな一様に冴えない顔をしていて、将たる槐だけが生気に満ちている。

 従者らの顔色が良くないのは疲労や負傷、戦のためだけではない。ヒトからすれば異形そのものの彼女の存在ゆえでもある。戯れに銀の尾で水面を叩けば、日除けの覆いの外にいる誰かが身を強張らせるのが手に取るようにわかる。

 ――鬼どもに負けたばかりでなく、水妖を連れ帰るなど。

 ――槐さまに限っては、誑かされたなどではあるまいが。

 ――声と眼で惑わしよるというな。

 ――戦の前からしばしば海に出られていたではないか。それにあの水妖、小太刀なぞ持って……。

 ――しっ、声が大きい。

 投げ交わされる不安と戸惑いは、彼女だけでなく槐にも向けられている。桶の縁に置いた腕に顔を埋め、ひそりと笑った。温もった水面に映る青い邪眼がぬらりと光る。

 荷車に揺られることしばし、辿り着いた槐の屋敷は閑静で庭の池も広く快適だった。

 槐は療養もそこそこに彼女をおとなった。言葉もなく、ただ固く手を握り合って過ごす幸いに、頭の奥が痺れる。

 これこそが、望み。

 これこそが、願い。

 ひめぎみ、と槐の熱く濡れた声が身をゆるゆると解いてゆく。波のうねりや湿った風、鬼たちの咆哮や姉妹の歌声から遠く隔たったヒトの黄金の都で、彼女は恍惚に身を委ねた。


 槐は身分の高いヒトであるのか、負け戦から人魚を連れ帰るという奇矯な振舞いを咎められることはなかった。

 槐の両親や屋敷の使用人は池を遠巻きにするばかりで、食べ物を運んでくる者も盆を置くなりそそくさと背を向けて去ってしまう。彼ら彼女らを邪眼や魔声の支配下におくことは容易いが、何の益もない。しかし不便も困る、と下働きの少女を一人、眼と声で縛り上げて駒とした。

 槐はいつも光沢のあるしなやかな服を纏って髪を結い上げ、大層な男ぶりであった。乞わずとも、港へ運ばれてくる様々な品を上機嫌で見せてくれた。つるりとした酒器、見事な絵が施された皿。屏風、扇子、漆塗りの椀。陽を弾いて輝く大太刀、金銀が織り込まれた艶やかな布、縞模様の獣の皮。見るものすべてに彼女は感嘆の声を漏らした。

 彼が言うには、ここと同じような都がいくつもあり、都と都の間には道が拓かれ、誰でも自由に行き来できるのだという。噂で聞き知っていたことではあるが、ヒトは思い描いていたよりも遥かに豊かで、内海とはまさに別世界であった。

 槐は彼女にヒトの世の文化や風習、暮らしの仕組みなどを丁寧に教え、海にはない品や動物、草花を取り寄せては触れさせてくれた。彼と駒の少女のお陰で、ヒトの世には随分詳しくなったが、ヒトのことを知れば知るほど、かように富み栄え、数多いヒトが何故鬼との戦に勝てぬのかが不思議だった。鬼に滅びてほしいわけではないが、と思索のさなかに、鬼の小倅を想う。

 小太刀は常に傍らにある。槐もその家来たちも、それを取り上げようとしなかった。

 斬れ、と強い言葉が耳に蘇るが、槐を斬るなどとんでもないことだし、試みたところで幼い時分から武術を嗜んできた彼に手傷を負わせることはできないだろう。

 陸の暮らしの理解が深まるにつれ、何も言わずに置いてきた母や友、海を懐かしむことも減ったが、小太刀を手放すことはできなかった。

 ――彼は、息災だろうか。

 頑健な鬼のこと、そうそう寝つくこともなかろう。あの戦の後は槐も海に出ていないから、むしろ暇を持て余しているかもしれない。

 鬼の棟梁に子が生まれた、男児だ、跡継ぎだ、と鬼の島がお祭り騒ぎになった一日のことはよく覚えている。長じれば岩壁のごとき鬼の肌も、赤子のうちはきたての餅のように柔らかく、乳の匂いがしたものだ。水際にやってきてひめ、ひめ、と無邪気にはしゃいでいた童子はすぐに寡黙が過ぎて無愛想な男になった。

 天真爛漫な笑みは大胆不敵な面構えに変わり、手を取って誘ってやらずとも潮を読み、波に乗って遠く深く泳げるようになった。太刀を取らせれば獅子のごとき勇猛さで敵陣に斬り込んでゆく。気の早い長老方はもう嫁の心配をしているとか。

 同じく鬼の一族から妻を選ぶのか、それとも棟梁のようにヒトの娘を攫ってくるか。鬼の子を孕めぬ人魚たちは、それこそ他の海の出来事のように噂話に忙しい。

 最も若い世代の鬼である彼は、人魚たちからすれば弟にも似た存在で(とはいえ、人魚の誰も弟を持ったことはないのだが)、彼もまた人魚の姉妹たちを姉と慕っていた。少なくとも幼少の頃は。

 すっかり男ぶりを上げて、と身内のように語る者は、嫁御どのに過剰な要求を押しつけるのではないかと他人事ながら心配になる。唄い、舞い、笛を吹き琴を奏で、淑やかで賢く、立場をわきまえた完璧な女性を求めるのではないか。そんな女人が果たして見つかるものか。

 では、わたしは槐にとってよい妻だろうか。

 刹那、浮かんだ自問はぱちんと弾けて消えた。




 槐の父という男が池にやってきて、彼女を値踏みするがごとくに無言のままで睨めつけた翌日、奇っ怪な装束に身を包んだヒトが池を訪れた。

 目をかたどった文様が散りばめられた頭巾は、見ているだけで頭痛を催す。あれは良からぬものだ、と後退さると、「案ずるでない、まじない師だ」と槐がその背後から顔を覗かせた。

「せっかく我らが都にやってきたというのに、その尾では歩くこともままならぬではないか。尾を足に変える秘薬を作ってもろうたぞ」

 槐は彼女を手招く。呪い師とやらに近寄るのはぞっとしないが、槐に呼ばれては否と言えるはずもなかった。

「人魚の声と眼には魔が宿ると聞く。わしを思うて、これまで口を利かなんだのだろう。この薬を飲めば、その心配もなくなる。姫の声を聞かせてくれぬか」

 背を撫でつつ、宥めるような声はいっそ朗らかで、反して呪い師は沈黙を保っている。成程、あの頭巾は視線を交わらせぬためのものか。だとすれば耳に詰め物をしていてもおかしくはない。

 不意に笑いがこみ上げてきて、槐の首に腕を回しながらくつくつと喉を震わせた。

 秘薬など勿体をつけてはいるが、要するにこの呪い師とやらは人魚の力を恐れているのだ。人々を海へと誘ってきた魅了の声と眼差しに籠絡されまいと必死になっているのだ。まったく、笑わせる。誰がお前なぞを誘惑するか。わたしの望みは槐だけ、そして槐は声を聴かずともわたしの虜だ。人魚の魔の力に縛られている以上に、わたしを想っているのだ。

 ――槐さまのお望みのままに。

 腐った海藻の臭いが漂う秘薬とやらを飲みくだし、高熱と激痛にうなされること七日七晩、白々とした光の眩しさに目覚めると、自慢だった銀の尾がつるりとしたヒトの脚に変わっていた。

 見慣れぬなよなよとした脚だけでなく、夜具や畳には鱗がへばりつき、一枚取り上げてみると塩のように脆く、ぼろりと崩れた。濃い潮の臭いが鼻につく。慣れ親しんだ香りのはずなのに、胸を塞ぐ粘ついた臭気に身体を折ってえずいた。

 どうなっている。わたしはどうなってしまった。おぞましさに腕をかき抱く。

 せめて外の空気を、と湿った夜具からにじり出る。脚は重いわりに頼りなく、立って歩くことなどできそうにない。やっとのことで障子を開けると、朝の金色の光が鋭く目を射た。思わず悲鳴をあげると、家人やら小間使いの少女やらが飛んできて、あれやこれやと世話を焼く。

 あまりの不甲斐なさと混乱がないまぜになって胸を衝く。肺腑の奥で潮の悪臭が蠢き、たまらず嘔吐した。けれども溢れるのは水ばかり、彼女にはそれが海の水であると瞬時に判った。

 まぶしい。いたい。きぶんがわるい。

 いったい、なにがどうなっているの。

 不注意で荒波に呑まれた時でさえ、こんな最悪の気分になることはなかった。落ち着いて考えることも解決のために行動することもできず、ただ身体を丸めて水を吐き続ける。喉の奥が灼けて痛み、呼吸もままならずに涙が滲んだ。

 あの薬のせいに違いない。怒りが嵐のように荒れ狂う。

 人魚が生まれつき備える魔の力を抑えることなどできまいと高を括っていた。どうせいんちきだろうと、口車に乗った槐に憐みさえ覚えたのに。

 呪い師だけでなく、警戒を怠った、ヒトを蔑んでいた己が忌々しく、しかし憤怒もまたたちまちのうちに嘔吐に押し流され、桶を持つ手が震えた。爪を立てようにも力が入らず、表面を削るばかり。歯噛みしようにも湧き出す海水が許さない。

 どうして。

 誰に、何に向けた問いかけなのかすらわからぬままに、海水は溢れ、力が抜けて目の前が白くなった。微笑む槐と、海を睨む鬼の若者の姿が交互に浮かんだが、そのどちらをも呼ぶことはしなかった。呼べば負けだと、なけなしの矜持が叫んでいた。



 嘔吐と衝撃がどうにか治まって、横たわったまま天井の木目を見るともなしに見ていると、断りもなく障子が開いた。見たことのない顔だが、身に着けているものから件の呪い師であると知れた。

 身構えるが、手にも脚にも力が入らない。呪い師は敷居を踏みつけ、黄色い歯を剥き出した。

「無様なことよ、水の妖。幻惑の眼も呪いの声も失ったお前に、若様は一体何をお望みになるのやら」

「……どういうこと」

 灰色の蓬髪が揺れ、皺の刻まれた頬が歪む。男であるのか女であるのか、老いているのか若いのかすら判別しがたい容貌は彼女への憐憫に満ちている。

「ヒトと水の妖が手に手を取って逃げ出した逸話は、おぬしだっていくつも知っておろう。だがそのどれ一つとして幸福の道を歩めてはおらん。それはつまり、ヒトと水の妖は結ばれぬ運命にあるということ」

 呪い師は懐から手鏡を取り出し、彼女に向けた。青水晶と称される人魚の眼は、ただ青いだけの眼に変容している。

 見せつけられずとも、身体の裡にあった呪いの力がすっかり抜け落ちていることに彼女は気づいている。魔性を抑えるどころか、人魚の力はすべて消失していた。

「わたくしは……槐さまは、違う。そんなふうにはならない」

「さて。呪いの力で縛ることを止めても好き合うたままということはあろうが、偽りの脚で歩み、空虚の声と眼で招く行く末が……ヒトと、ヒトになりきれぬものの思い描く夢が重なるものかの」

 呪い師は喉の奥でぐるぐると音をたてる。濁った目が三日月の形に細まり、皺に埋もれた口が弧を描いて裂けた。

 横目で周囲を窺うが、小太刀はおろか、武器になりそうなものは何もない。四肢は萎えている。ヒトを惑わす眼も、縛る声も失われた。だが、ご自慢の秘薬も迸る熱まで消すことはできなかったようだ。

 呪い師を睨む。平然と見下ろされる。

「あなたは、何者なのです」

 精一杯の声を絞り出す。髪の毛一筋すら動かない。

「わしか。ただの老いぼれた呪い師さ。ただ、水の妖についてはちぃと詳しいぞ。……あの忌々しい眼と声のことはな」

 人魚たちの中には、ヒトと積極的に交流、交易している部族もあるというから、この呪い師が人魚の力に精通していることに不思議はない。だが、このふてぶてしさ、濁流のごとき憎悪、憐憫。妙な馴れ馴れしさと微かな同情。

 人魚を観察してのことではない。直感が兆した。

「まさか、人魚……」

 よくよく見ればあの濁った眼は、青ではないか。この国のヒトらの黒や茶とは違う、今の彼女と同じ色ではないか。

「おぬし、聡いの。弟子にしてやろうかい?」

 一体、いつから陸にいるのか。

 どうして海を捨て、ヒトとして暮らしているのか。

 人魚の尾をヒトの脚に変えられるなら、逆もまた可能なのではないか。

 幾つもの何故が渦を巻き、やがてひとつところに収束する。

 この呪い師もまた、ヒトに恋をして海を後にしたのだ。その恋は例に漏れず不幸な結末を迎え、陸にひとり佇む人魚に残されたのは、静寂と孤独、それから。

「……人魚が、憎いのですか。陸に上がった人魚が、幸いを得ることが」

 ひえっひえっ、と今度は大口を開けて哄笑する。人が来ないのが不思議なほどであった。

「ほんに、逸材のようじゃ。おぬしならいつでも歓迎しよう。気が向いたら訪ねておいで、人魚のお姫さま」

「誰が……!」

「そうそう、尾を取り戻すことも不可能ではないぞ。代償は大きいが」

 呪い師はわざとらしい仕草で耳に口を寄せ、わかさまのちじゃ、と喜びを隠しきれぬ様子で囁く。

「魔性を喪えば老いるが、生は長く続く。毎日毎日、同じ日が続くのじゃ。堪らんぞ、おぬしに耐えられるものかな。ぼろきれのように老いて、醜いままに過ごさねばならぬ日々ぞ。死ぬるは負け、だが地を這って生き続けるも辛いもの」

「あなたには、関係のないことです」

 染みだらけの手を振り払うが、逆の手で捕えられる。顔が近づく。むせ返るような潮の臭いがした。

「関係ないものか。大ありじゃよ……同胞はらからなのだから。わしはおぬしの行く末、よおく眼に焼きつけておくがいい。恋路の果てにおぬしはこうなる。それが運命じゃ」

 吐き捨てるや、呪い師は体重を感じさせぬ動きで姿を消した。

 ――なんてことだ。

 尾を、魔力を失った。かつて人魚であった者の手によって。まさかこんなことになるとは想像だにしなかったが、力を失った身はひどく軽く、うつろで脆い。眼に映るものはすべてのっぺりとしたつまらぬ風情、池の水は手のひらからこぼれて波紋を描く。あらゆるものが口を閉ざし、呼びかけようと笑みを浮かべようと、応えるものはない。事実を受け入れるほかはなかった。

 他に幾人の人魚が、あの呪い師によって力を奪われたのか、思いを馳せるだけで気が滅入った。食が細り、水だけを飲んで暮らしたが、それもすべて涙に変わった。変わり果てた己を嘆いているのか、同じ運命を辿った人魚たちのための涙なのか、彼女にもわからない。

「宴があるのだそうです。姫様が臥せっておられるというのに」

 雀は愚痴をこぼしながらも甲斐甲斐しく世話をしてくれた。人魚の魔力で縛り上げた小間使いの少女である。支配から逃れた今も、少女は彼女を慕ってくれているようだった。

 小柄でよく気が利き、屋敷内の噂を仕入れてきては面白おかしく語り、朗らかに笑う。雀の存在は随分と慰めになった。昼夜を問わず泣き暮らす彼女に寄り添って眠ってくれるのは雀くらいだ。槐はしばらく姿を見せていない。

「……お館様が同盟なさっている他所の領主様の姫君が、嫁いで来られるんです」

 若様に、と雀はこちらを見ずに言った。悔しいです、と涙を流して地団駄を踏む。

「若様だって姫様のことを好いてらっしゃると思っていたのに、どうしてこんな時に他所の女を招き入れるんです。お家の事情があるからって、ひどすぎます」

 お館様、つまり槐の父は彼女のことを嫌悪し、蔑んでいる。それゆえのことだとわかっていても、認めるにはあちこちに痛みを伴った。

 離れに寝かされている彼女には何も知らされなかったが、姫君が嫁いできた日は飲めや歌えの無礼講が夜明けまで続いていた。雀と抱き合って泣きながら夜を過ごした。

 屋敷が落ち着きを取り戻した数日後、呪い師と人魚の事情など微塵も知らぬであろう槐が喜色満面で見舞いに訪れた。

「しばらく来れなくて済まなかった。父上が嫁を取れと急にうるさく言うのでな。おお、どうした、まだ気分が優れぬか。薬の作用が強すぎたのだな、ゆるりと休め」

 顔色が悪いのは、薬のせいであると思い込んでいるらしい。訂正してやる気も起きず、されるがままになっていた。

「夫婦の契りを結ぼう、姫。死が我らを分かつまで、共に暮らそうぞ」

 髪を束ねてくれていた雀がぎょっとした様子で手を止めるが、何も言わず一礼して去っていった。

 ただただうつろが広がる身なれど、槐がいれば。一縷の希望に縋るしかない彼女に、是以外のいらえができようか。吐き出す海水が尽き果てても、目からは枯れることなく水がこぼれた。止めるすべなど知らず、止めようとも思わなかった。

「姫、名は何という。もう声に呪いは乗らぬ、わしに名を教えてくれ。呼ばせてくれ」

 彼女は黙って首を振った。呪いの有無ではなく、彼女の名は人魚であった時のもの。今の彼女に相応しいものではなく、槐がその名を口にすることで汚されているようにさえ思えた。名は失った。好きに呼べばいい。身振り手振りで伝える。

 槐は何くれと面倒を見てくれる。早く歩けるようにとつきっきりで手を引き、肩を貸し、腰を支えてくれた。美の粋を極めた反物、山海の珍味、南の島国の歌う鳥、大陸に住む毛足の長い猫。数限りない品々を彼女のために用意し、夜毎彼女をおとなって床を共にした。

 ヒトの言う夫婦の契りというものを初めて知ったが、彼が熱に浮かされた海獣のごとくに高ぶるほど、彼女は自身のうつろを思い知らされるようで萎え、冷めた。

 どうして。彼女は自問する。陸には槐との幸福があるはずだった。住む場所の隔たりさえ除けば、睦むために憚りとなる人魚の力を失えば、安らかな穏やかな蜜月を過ごせるはずだった。

 どうして。――自問の答えは、やはりない。胸の奥に呪い師の哄笑が蘇る。

「姫。海での暮らしを聞かせてくれ」

「何故かように泣く。何ぞ欲しいものでもあるのか、何でも用意させよう」

「次に鬼どもを攻めるときこそ、彼奴らの最期。首を並べて花道を作り、宝物庫を暴き、金銀の雨を降らせようぞ。さぞ見事な眺めであろうな。さあ、泣くのはおよし。笑っておくれ、わしの姫君」

「わしを見ておくれ。そんな悲しそうな顔をするでない」

「永久に共に在ろうぞ、わしの姫」

 槐の睦言は今やいばらとなって彼女を責め苛む。耳元で囁かれるどんな文言も、心に響くことはなかった。

 何もかも、違う。

 こんなはずではなかった。

 陸で望んだ幸福と、槐の語る幸福。それらが少しも重ならぬことにようやく思い至り、高いびきをかく槐の腕からそっと抜け出した。

 呪い師の粘つく笑い声が響く。気が向いたら訪ねておいで。夜が、潮の臭いが手招く。

 暗い海を泳ぎ抜けることには慣れている。前だけを見て自室へ戻った。

 頼るべきは唯一つ。物入れの奥から手探りで掴み寄せたそれは、何もかもが変わり果てた彼女に静寂を湛えて寄り添う。

 ――遠慮なく斬れ。

 男の強い口調が闇を裂いて耳に蘇る。

 陽炎のごとくまなうらに立ち上る剛毅の鬼の姿が、彼女を突き動かした。



 衣紋架けに広がる白無垢に、銀の刃を振り下ろす。真白の絹が雪のように儚い。

 月の光が冴え冴えと青い夜のことであった。



 そして彼女は船上にある。向かうはヒトの、黄金の都。

「……若、あの」

「なんだ」

 石を海中に投げ込む調子で応じる傍らの男を見上げる。その視線は遥か遠くの都を燃やし尽くさんと、ぎらぎらと照り、闘志が爆ぜている。

「呼んでくださいませんか、わたくしを」

 彼女に結ばれた眼が胡乱げに眇められ、やがて吐息がこぼれた。白露。

「……有難う存じます、スミレさま」

「誰がその名で呼んでいいと言った」

 途端に苦虫を噛み潰したようになる男の狼狽ぶりに、戦を控えた身ながらふふ、と笑んでしまう。

「呪いの声は失いましたがゆえ、それほどお焦りにならずとも」

「そういう問題ではない」

「では何か不都合でも、菫さま?」

 ち、と大きな舌打ちとともに背を向けた鬼の背に、白露は確かに見た。

 身一つで海に生き、死んでゆく者の矜持を。己の足で立つ者の誇りを。


 うつろがひたひたと、満ちてゆく。

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白露 凪野基 @bgkaisei

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