俯く背中

月浦影ノ介

俯く背中




 関東某県のとある町で、小料理屋を営むYさんから伺った話だ。

 

 Yさんは来年で還暦を迎えるが、早くに夫を亡くし、女手一つで二人の息子を育て上げた苦労人である。しかし着物を着て店に立つ姿はキリッとして格好が良く、そんな苦労などお首にも出さない。

 

 Yさんの店の常連客にOさんという人がいた。小柄な体格にメタボ腹が少し目立つ、真面目でおとなしそうな印象の五十代前半ぐらいの男性であった。

 カウンターの隅にいつも一人で座って、俯き加減に静かに料理を摘まみ、ちびちびと酒を呑んでいる。Yさんが話し掛けると言葉少なにそれに応え、また黙って酒を飲んだ。無口だが、たまに見せる笑顔に愛嬌があった。

 

 Yさんの店は寂れた商店街の片隅にある。

 日曜など、ときおり買い物袋を下げたOさんを見掛ける事があった。猫背気味に背中を丸めて肩を落とし、地面と睨めっこでもするように俯いて。

 

 Yさんが軽く頭を下げると、Oさんもそれに気付いて黙って会釈して通り過ぎる。あまり他人に構われたくない性分なのだろう。そう思っているから声を掛けることは滅多にない。

 ふと振り向くと買い物中の主婦や家族連れが行き交う通りを、Oさんの俯いた小柄な背中が足元の影を引き擦るようにゆっくりと歩いてゆく。

 仕事柄色々な人を見てきたが、その背中は何かをすっかり諦めてしまったように孤独で、Yさんはそれが妙に物悲しかった。

 

 ある冬の夜の事である。いつもより客の少ない店内に、Oさんがカウンターの隅でいつものように一人で料理を摘まみ、酒を呑んでいた。

 しばらくすると珍しくOさんの方から話し掛け来て、やがて控え目な様子で「これ・・・・」と右手に持った何かを差し出した。

 それは一枚の写真であった。あでやかな振袖に身を包んだ女性が、カメラ目線で笑顔を向けている。

 「娘なんです。この前、成人式を迎えて。写真を送ってくれました」

 Yさんが写真を手に取り「綺麗な娘さんですね」と言うと、Oさんは「俺に似なくて良かった」と笑った。

 それからOさんは自分のことをぽつりぽつりと話してくれた。

 訳あって家族とは離れて暮らしていること。町の工場に勤め、この近くのアパートに一人で住んでいて、仕事終わりにYさんの店で一杯やってから帰るのがささやかな楽しみであること、など。

 あまり多くは語らなかったが、口下手で穏やかな様子に気弱さと人の好さが見え隠れして、Yさんは「この人はきっと、損ばかり押し付けられて生きて来たのではないか」と、ふと思った。


 それから数ヶ月ほど過ぎた頃、Oさんの姿がとんと見えなくなった。

 常連客が突然姿を見せなくなるのはよくある事だ。理由は色々あるだろう。いちいち気にしても仕方がない。またふらりと戻って来る事もある。しかしOさんに関しては何故か妙な胸騒ぎがした。


 Oさんが店に現れなくなって少し経った頃。

 Yさんの自宅は店からほんの一キロほどの距離にあり、悪天候でない限りはいつも歩いて通っていた。

 

 店を閉めて自宅に帰る途中、商店街の通りを歩く人影が目に入った。駅に近い商店街とはいえ、深夜の時間帯に出歩く人はほとんどいない。

 

 Yさんはその人影を注視した。俯き加減にトボトボと歩く背中に見覚えがある。

 

 ───Oさんだ、と思った。常連客の中には病気などで来られなくなる人もいる。ひとまず無事な様子にホッとした。

 

 しかし何か様子がおかしい。YさんはOさんの後ろ姿に違和感を覚えた。

 

 そしてふと、Oさんの身体が透けて向こう側が見えているのに気づいた。思わず声を失い、その場所に棒立ちになる。

 

 Oさんはこちらを振り返ることもなく、そのまま歩き続けると、やがて電灯が照らす真夜中の通りにスウッと溶け入るように消えてしまった。

 

 Yさんはその場にへたり込んだ。もう六十年近く生きて来たが、幽霊を見たのは初めてだった。

 しかしその一方で、やはりOさんは亡くなっていたのだと不思議と納得した。

 事故だろうか、病気だろうか。あるいは自殺・・・・。もはや知る由もないが、彼がどんな死に方をしたのか気掛かりだった。

 

 Oさんの幽霊はその後もYさんの目の前に現れた。時刻は昼間だったり深夜だったりとまちまちだが、場所は必ず商店街の通りだ。

 

 肩を落として俯いた背中をこちらに向けて、何かを諦めたようにトボトボと歩く。

 不思議なもので幽霊も見慣れると別に怖いとも思わない。ああ、また出たんだ。そう思って、向こう側が透けて見えるOさんの後ろを黙って歩く。

 「もう良いじゃないか。何があったか知らないけど、もういい加減に成仏しなよ」

 Oさんの背中に向けて何度かそう念じてみたが、果たしてそれが届いたかは定かではない。


 「きっと何か心残りがあるんだろうねぇ・・・・。こちとら霊能者じゃないから、それが何なのか分からないけどさ。あの俯き加減に歩く背中を見てると、なんだか酷く居たたまれない気持ちになるんだよ」


 紫煙をくゆらせながら、Yさんは私にそう話してくれた。

 

 あれから三年経った今も、Oさんの幽霊は商店街の通りにときどき現れるという。



                (了)




 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

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