Marker's Riot-後篇
猫背さんのマーキングは、それから街にたびたび現れるようになった。
アスファルトの舗装された道や、コンクリートの壁に、あの淡い紫色のスプレーで描かれたイラスト。それは、他のマーカーたちとは一線を画した、美しさに溢れていた。そして、それらが現れるたびに誰かが写真を残し、アーカイブ化し、わたしはそれを見てはとりあえず保存しておいた。
「こ、こんにちはぁ」
そして今日もまた、猫背さんはやってくる。
「また、例のあれを頂きに来ましたあ」
「それなんですけど……」
わたしは最後の1ダースを差し出しながら、猫背さんに告げた。
「この塗料は、これで最後なんです。もう仕入れることもできません。ごめんなさい」
「あら、そうなんですかぁ……」
猫背さんはしゅんと肩をすくめながらも、ニコニコ笑っていた。
「まあ、仕方ないですよねえ。貴重なものですし」
「せっかくごひいきにしていただいたのに」
「でも、いいんです。た、たぶん、もうこれで最後になると思いますから」
「え?」
「しばらく海外に行こうと思っていて」
海外。
「そうなんですか。お仕事ですか?」
「え、あ、はい、まあ、それもあるんですがぁ……その、もうちょっと込み入った事情と言いますか、あ、でも、そんなに、難しい話でもないのかな」
「どうしたんです?」
「わたし、あまり、良く思われていないみたいです、から。ちょっと、身の回りが、危険だというか、そのぉ……」
猫背さんはわたしにしどろもどろ語りながら、スマートフォンの画像を見せた。
それはマーキングの画像だった。黒字で点々と覆われた上に、赤いスプレー塗料で、『MARKING』と書かれていた。
「なんですか?」
「これ、わたしの、家なんです。マンション。玄関」
「ええ?」
「鍵穴の中まで、びっしり、真っ赤になっていて、たぶん、わたしのパフォーマンスをよく思わない人たちが、その、わたしの自宅を調べて、警告してきたんだと思います」
そういえば聞いたことがある。
赤い塗料を使うマーカー。過激なマーキングを繰り返し、しばしば暴力沙汰を起こしている
「ちょ、ちょっと、怖いですよね。こういうこと、されると、アーティストって、けっこう敵を作りがちだけど、こういう、暴力的な感じのは、その、経験が無くて……」
わたしは猫背さんに言った。
「しばらくうちにいませんか」
わたしの言葉に猫背さんはびっくりしたようだった。
「ここは入り組んでいるし、街からも離れています。家にいるよりはずっと、安全だと思いますよ。住み心地はそんなに、いいとはいえませんけど……」
「いえ、そんな、わ、悪いですから……あの……」
「出発するまでの、少しの間でいいですから。ね」
あわあわとしている猫背さんを、わたしは半ば無理やりに部屋の奥に押し込んだ。猫背さんの大荷物はいつもよりもずっと多いように感じられた。それはたぶん、彼女は家には帰らずに、ホテルか、あるいは別の何処かに滞在するつもりで、少なくとも家には帰らないつもりだったのだろう。
だけどわたしは、街に戻るのは危険な気がした。
マーカーたちの対立や、縄張り争いは激化する一方だ。彼らは常に街を徘徊し、ふさわしい場所を探している。街のどんなことでも、隅々まで知っているはずだ。
しかし、ここにマーカーは寄り付かない。
なぜなら見る人がいないからだ。
「シャワーもありますよ。水しか出ないけど」
「ええぇ〜シャワー嫌いです〜」
猫背さんはずっと嫌がっていた。
◯
猫背さんが海外に飛ぶまであと3日。
わたしはペンキ屋を、怪しまれない程度に開店させ続けながら、猫背さんをかくまうようにしていた。
猫背さんはずっとお店の奥に隠れて、窓の外を眺め、風景画を描いていた。それは凄まじい速度と精密さで、思わず舌を巻いた。これが政府から認められるほどの特別な芸術家の才能なのだ。
窓の外は殺風景だ。
潰れた住宅、そうでなくても人の住んでいない住宅、あとは道。そのずっと向こう側には、黄色と黒の非常線が張られ、奥はずっと津波浸水区画だ。いまもあの向こうで干拓作業が行われている。
猫背さんの水彩画は、その虚無感を実に見事に描き出していた。窓の外を見るよりも、この絵を見た時の方が、ずっと胸が締め付けられる。
猫背さんは一息つくと、おもむろにパレットの上に色を作り始めた。それは赤と青と、白を混ぜて作られる紫色だ。
筆を大胆に水に濡らし、紫色をとって、殺風景な絵の上に載せていく。路地の裏や屋根の隙間から、少しずつ覗く紫陽花の絵が点々と浮かびあがり始める。その淡さ、幻想的な花の姿は、絶望と虚無とが支配する風景の中に、たしかに彩りを添えていた。
「紫陽花が好きなんですか?」
わたしがいうと、猫背さんは恥ずかしそうにうなずいた。
「あ、紫陽花っていうか、別にそんなつもりで書いてないんですけど……紫色が好きなんです。こ、こういう、水で薄めたみたいな紫色が……」
「濃い奴じゃなくてってことですよね?」
「そうです、こういうのじゃないと……」
猫背さんのこだわりなのだろうか、彼女はだんだんと、あのインタビューの時のような毅然とした姿勢になっていくようだ。
「紫色って、不思議な色なんです。赤と青の境に立つ、混沌としたような……暖色でもあり、寒色でもある。人間の感じる色の限界でもある……目に見えない波長のことを、よく、『紫外線』っていいますよね。そういう紫色……古代の人々は、高貴なモチーフとしても使っていた……」
「たしかに」
「で、でも、こういうビビッドな紫色は、強すぎるんです。それよりももっと淡く、優しく、紫陽花みたいな……そういう色が、いまの東京には、求められていると思うんです。でも、それは、あの、わたしの思い込みで……本当のところは、そうではないみたい……」
猫背さんはスマートフォンの画像をスクロールしながら、わたしに見せた。
街のアスファルトの上や、工事現場のバリケードの上に描かれた紫陽花の画像。
次に、その上に描かれた乱雑なマーキングの数々。わずかにのぞいている紫陽花は、エアロゾルの塗料の飛沫によって汚されている。
「どっちも、あの、わたしが撮ったんです。こうやって、書いた側から、消されていく。わざと、見せつけるみたいなふうに。みんなわたしのマーキングを認めていないんです」
「なぜ?」
「ほら、その、わたしは……『
なるほど、とわたしは思った。
そしてわざわざ彼女が、東京駅にでかでかとマーキングをした理由にも合点がいった。
「あなたは、マーカーたちのことを思って、あんなことをしたんですね。あの東京駅のマーキングが、誰かの手で上書きされてしまうことまで含めて、あれはあなたの作品だったんだ」
「そ、そういうことです、わかってくれますかエヘヘヘ」
「なんとなくですけど……」
彼女はたしかにアーティストだ。
だが、この東京には、鬱憤をためたままのアーティストの種がたくさん根付いている。そして、東京には今、アスファルトの山と川というどでかく立体的な、アスレチック迷路のようなキャンバスが広がっている。
「わたし、『レインボー事件』を見て、すごく……ショックだったんです。今までやってきたことは、描いてきた絵はいったいなんだったんだろうって……だ、だから、わたしも、みんなと同じ土俵でやってみたかった。でも、どうやら、それはうまくいっていないみたい、いや、うまくいっているんですけど、そ、それで、わたしに危害が及ぶのは、その、本意ではないというか……」
「大丈夫ですよ。落ち着いて」
猫背さんは震えていた。
気丈に振る舞っていても、やはり、怖いのだ。いや、怖いに決まっている。ひとりの女性として、家の前にあんなことをされたら……
「わたし、その、明後日の夜は、街に出て行きますよ。それで、最後の大きなアートを、残していく。場所の目処もだいたいついてるんです、うふふ……さっそく構図を考えておかないと、あ、でも、すごくそれは即興的なペインティングで、構図通りにいかないことも多いんですけどね、あの……」
また、慌ただしく語り出した猫背さんの手を握って、わたしは彼女を抱きしめてやった。ぶるぶる震える体をぎゅっと強く抱き寄せると、猫背さんはわーっと泣き出してしまった。
そういえば彼女は、ずっとひとりぼっちで絵を描いていたなあ、と、最初にインテグラルのような背中を見た時のことを思い出した。
出発の前日の夜。
「お世話になりましたぁ」
猫背さんはぼろぼろ泣きながら、まとめた荷物を手にわたしに何度も頭を下げた。
「この御恩は一生忘れませんんん」
「いいですから……、さあ、早く行ってくださいよ。飛行機の時間もあるんですから」
「ぐず……」
猫背さんは鼻水を手で拭うと、次の瞬間には、きりっとした芸術家の瞳になっていた。
「今夜の作品は、あなたのために描きます」
猫背さんは夜闇に乗じて出かけて行く。
わたしはそれをただ見送った。
もう、あの紫色の、淡い色のスプレーは品切れだ。餞別に、残った塗料もいくつか渡しておいた。しばらくは仕入れのために休業せざるを得ないかもしれない。
◯
それまでが、半年前のことだ。
猫背さんは、作られたばかりの新首都高の橋桁に、でかでかとスプレーで描いて見せた。こんどは、紫陽花はピンク色で、そこに二羽のチョウが描かれていた。
ひとつはあの淡い紫色。
もうひとつは青い鱗粉を乗せた黒。
たった一晩、いや、せいぜい数時間で仕上げたとは思えないクオリティだった。その画像はかなり鮮明にネットの海を走り、わたしの手元にも届いた。
ところがそれはほんの数分で、ネットのセーフティに引っかかってしまった。その画像の中に描かれていたものがまずかったのだ。
それはマーキングではない。
イラストの中央に突然現れる、真っ赤な彼岸花のような赤い飛沫。そして、その中心に倒れる…………、
犯人はすぐに逮捕された。
『ケイオス』の構成員のひとりだった。彼女がマーキングをしているその最中に、彼女に向かって襲いかかり、ナイフで滅多刺しにしている瞬間が、ばっちりと監視カメラに映っていた。そう、猫背さんは監視カメラの前で堂々とマーキングを行なっていたのだった。
わたしは悲しみと共に、彼女の最後の作品をしっかりと保存して待ち受けにした。それから在庫をまとめて元いた小屋を後にした。
猫背さんは……、
今になって思えば彼女は、マーカーたちのタブーに触れすぎたのだと思う。彼らは作品を描く代償に、人目につくことを嫌う。一度描いた作品には目もくれず、次々に新しいものを描き続ける。
彼女はマーカーたちにとって、忌々しい、それでいて輝かしい存在だったのだ。
才能があれば、マーキングが許される。作品に価値がつけられる。それを自分がやったと、そう主張することもできる。どれもマーカーたちは決してしないことだ。それを彼女はやすやすと行ってしまった。
だから、彼らの怒りに触れたのだ。
猫背さんの死は、「世界的アーティストが作品製作中に若者に襲われた」と、まるでジョン・レノンが撃たれたときのような悲しみと絶望をもって伝えられた。多くの人が彼女の死を悼み、作品を讃えたのだが、その頃にはすでに彼女の作品は行政によって消されてしまっていた。これに猛烈な批判が集まるのと裏腹に、マーキングへの取り締まりはより一層強固になっていった。
わたしは知っている。
猫背さんはただ、このコンクリートまみれの東京を、美しくしたかっただけなのだ。同じ志をもち、同じ閉塞感に囚われていた、マーカーたちと一緒に。
ただ、うまくいかなかった。
それをするには彼女は、あまりにも才能がありすぎたのだと思う。
「こんちは」
という声で気がつくと、お店の扉を開いて女の子がひとりやって来ていた。この子は、今のお店……新宿の雑居ビルの地下、かつて雀荘として使われていた場所を改造したこの場所に移転して来てからの常連さん。
確かちまたでこう呼ばれている。
「いらっしゃい、『ブルー』さん」
「それやめて。いつもの」
「はいはい」
この子はいつも青いエアロゾルを買っていく。まるで何かに取り憑かれたように、『青』を求める。そう、紫色に拘っていた猫背さんのようだ。
「なに?」
じっと顔を見ていたので、『ブルー』さんはけげんな顔をした。
「ごめん。ちょっと昔のことを思い出していたの」
「昔のことって?」
「聞いたことあるんじゃないかしら、過激派のタギャングが、首都高の下でイラストレーターを襲った事件」
「ああ。噂くらいは。ヤバかった頃の『ケイオス』がやったんだっけ、その後に
「どう? マーキングは楽しい?」
『ブルー』さんは、ナンセンスな質問を笑い飛ばすように鼻を鳴らした。
「楽しいかどうかじゃない。やらなくちゃいけない気がするだけだよ」
代金をしっかり支払って、彼女はお店を後にした。
いつ、このお店にもガサが入るかわからない。もしマーカーたちに、その用途を知ったうえで塗料を売っていることがわかれば、わたしは一発でパクられるだろう。それでもわたしは、
それが猫背さんの望みだから。
「猫背さん、いま東京はとってもカラフルよ」
わたしは待ち受けの、物言わぬ姿の猫背さんに呟いた。その後ろに描かれた蝶と花とが、淡く光り輝いているかのようだった。
Marker's Riot 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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