Marker's Riot

王生らてぃ

Marker's Riot-前篇

 紫という色は、作るのが非常に難しい。

 特に、薄く、翅のように鮮やかな紫色は。



 赤と青の絵の具は、それぞれが強烈に主張しあってしまい、混ぜれば混ぜるほど暗くなってしまう。かといって白い絵の具を混ぜると、濁った、灰色のような紫色になってしまって、彩度が失われる。このふたつを両立させるのは、非常に難しい。

 水彩画では濃淡をつけるために、白を混ぜたり、水を多く含ませたりする手法が使われる。しかし、エアロゾルの塗料では、そういった小技は通用しない。どうしても、ハッキリとした紫色を、最初から完成した形で作り出さなくてはいけない。



「こ、こんにちはぁ」



 扉をくぐってやってきたのは、いつもの猫背さんだった。もちろん猫背さんというのはあだ名だ。それもわたしが心の中で勝手に呼んでいるだけだ。

 180センチ以上はあるであろう長身をインテグラルのような形に曲げて、長い髪をだらっと肩の前に垂らし、厚ぼったい眼鏡をかけている。手にはいつもバッグを携えていて、その中にはいろいろなものが入っているのをわたしは知っている。スケッチブック、クロッキー帳、水彩画、筆、イーゼル……

 もっとちゃんとすればいいのに、と思っていたが、芸術家というのはどうしてもこういう風に怪しい雰囲気の持ち主なのだろうか。



「きょ、今日も例のものを、いただきに来ました」

「はいはい~」



 わたしは裏の棚から、猫背さんの求める品を差し出した。

 アメリカはデトロイトからどういうわけかやってきた、この紫色のエアロゾル塗料。赤と青を混ぜただけでは決して作られない、うっすらとした紫陽花のような紫色。鮮やかで発色もよく、透明感とビビッドさを両立している。1ダース12本、海外の製品らしいちょっとした雑さで梱包されている。



「どうぞ」

「エヘヘ、ありがとうございます。これで今度の『作品』も、うまく仕上げられそうです」



 猫背さんは一万円札を二枚置いて去っていった。



 そうなのだ。猫背さんはああ見えても、日本政府から公式に支援を受けている『特定支援芸術家』の肩書を持つ人物であり、ものすごい、とまではいかなくてもお金持ちである。この塗料も原価はもっと安いのに、あの人は大枚をはたいてこれを持っていく。

 ありがたいことだが――



「どうしよう」



 在庫は、あと一箱しかない。

 つい先日、この塗料を扱うメーカーが倒産したニュースが、わたしの耳に届いた。

 これを新しく仕入れるのは、もう不可能なのだ。






     ○






 震災で家と、家族を同時に失ったわたしは、最初は政府と自衛隊が主導するボランティアの炊き出しに参加したりして、最初の数日を食いつないでいた。当時はまだ子どもだったからしょうがなかった。似たような境遇の子どもたちはたくさんいて、たまたまボランティアに参加していた教師をはじめとした大人たちがいて、わたしはそこでいちおうの教育を受けた。

 そのうちにボランティアそのものに参加するようにもなり、あちこちに移動して炊き出しや瓦礫の除去などを行っていたが、だんだんと政府や自衛隊からの支援は少なくなり、運営は苦しくなっていった。理由は簡単で、政府は難民の救助といった末端部分の支援よりも、津波による浸水地域の干拓、それから都心の再開発に注力し始めたからだ。わたしたちはにょきにょきと生えていく灰色のビルを眺めながら、掘っ立て小屋の中で寒さに震え、同じように苦しんでいる難民たちと触れ合ってきた。



 そんな時だ。今からだいたい5年くらい前に、まだ中学生くらいだった猫背さんと出会った。ちょうど梅雨の時期だったと思う。

 彼女は瓦礫の山となった東京だったものにイーゼルを立てて、水彩画を描いていた。瓦礫だらけの景色の上に、色鮮やかな花を重ねて行って、かつての東京にも、これからの東京にも存在しないであろう景色を描いていた。

 わたしはその姿が強烈に印象に残っていて、彼女のことをひとめで覚えてしまった。

 ぼさぼさの黒髪、眼鏡、インテグラルのような猫背。そして、筆先で描き出す繊細な風景。それは幻想的だったけれど、リアリティのある現実の上に描かれていたことが、より一層それを感じさせたのだった。

 後にその絵画は、なんとかという小説の表紙に使われて、海外市場で高く評価されたらしい。



 ちょうどその頃だ。

『レインボー事件』――建設中の新東京都庁の工事現場に、でかでかと、エアロゾル塗料でマーキングがされた事件。それに乗じたムーブメント、街中に増えていくマーキングと、それを素早く消していく行政。

 わたしはその頃、自転車操業と化していたボランティアに見切りをつけて、ちょっとしたビジネスを始めた。塗料を買い占め、海外からも仕入れたそれらを売る――いわゆる転売事業だ。

 これがなかなかうまくいって、わたしの懐は潤った。そのうちにわたしの元には、いまは潰れてしまったメーカーの塗料や、海外の製品を目当てに顧客がつくようになった。わたしは倉庫兼住居として、平野部の廃棄された住宅地の掘っ立て小屋に住み着いた。

 当然わざわざ買い取ったりしない。不法滞在もいいところだ。だけど、政府は中央の再開発と、沿岸の干拓事業に夢中で、その中間地点であるこういう場所には見向きもしない。



「こ、こんにちはぁ」



 そんな時だ。

 彼女が現れたのだ。あの猫背さんが。

 今や売れっ子のイラストレーターとなっているはずの彼女が、どうして? と、半ば警戒心もあらわにわたしは彼女を見たが、彼女の目はらんらんと輝いていた。



「あなたは、あの……なんとかいう小説の、表紙を描いた……」

「ええぅ、知ってるんですか、わたしのこと?」

「前に、ボランティアであちこち回っていた時に、何度かあなたのことを見かけました。その時に、あのイラストを描いていたのを見ていたんです」

「え、ああ、そうか、そんなこともあったような……」



 猫背さんはぐしゃぐしゃと髪を手ですき始めた。変な緊張の仕方だ。

 わたしは彼女を安心させようと言った。



「大丈夫です。あなたのことは誰も言いませんよ。このお店のことを、誰から聞いたのか知りませんけど……ここに来る人はだいたい、『わけあり』ですから。他言しません」

「そ、そうしていただけると、その、助かります。わたし、その、あまり、あの、目だったこと、しちゃいけなくて……えぅ、自慢するつもりじゃないんですけど、その、いま、政府から支援を受けて、イラストレーションをしていて……」

「へえ! すごいじゃないですか」

「あぅ、だから、こ、ここ、このことは内緒で……!」

「もちろんです。約束しますよ」



 わたしだって褒められた商売をしているわけじゃないから、その辺はお互いさまという奴だ。それは他言せずとも分かってくれているだろう。



「それで、どういった御用で?」

「実は、こういう塗料を、さ、探していて……」



 差し出されたカタログに掲載されていたそれは、海外のごく小さなメーカーが作っていた、淡い紫色のスプレー塗料だった。わたしはそれを見た時に、いつか彼女が描いていた紫陽花の絵を思い出した。茶色、灰色、黒、瓦礫の上に青々と浮かび上がる淡い紫陽花と、映える緑の葉。



「ごめんなさい、うち、水彩絵の具は扱ってなくて……」

「違う。水彩絵の具じゃなくて、スプレー塗料を、探していて……」

「スプレー塗料?」



 わたしは在庫をひっくり返すと、たまたま、1ダースだけ海外から仕入れたものがあったので、それを見せた。



「そ、それ! それを丸ごとほしい!」

「丸ごとですか?」

「お金はいくらでも払いますから……!」



 原価は1ダース――つまり12本で1万円程度だ。だが、彼女はその数倍の値段を提示してきた。あまりにボるのも気が引けるので、1万5千円程度で妥協することにした。彼女は巨大な四角い鞄に缶を次々に詰め込むと、心底嬉しそうに笑った。



「こ、これを、ずっと探していて、でも、オフィシャルなショップではどこにも、売っていないから……そしたら、あなたの噂を聞いて……け、けっこう大っぴらにお店を開いているんですね、び、びっくりしました」

「はあ……、人目はいちおう、避けているつもりなんですけどね」

「ま、また来てもいいでしょうか。この塗料、もう、ここでしか扱っていないと思うので。海外から仕入れるのは、と、とてもお金と、手間がかかるし……」



 猫背さんは終始、薄気味悪い笑い声をあげながらお店を出ていった。

 この辺りは既に廃棄された住宅や雑居ビルが広がっていて、とても入り組んでいる。辺りには住居を失ったホームレスや、不法滞在の外国人が勝手に暮らしていたりして、決して治安がいいとは言えない。その中をわざわざやってくるなんて、相当なアーティスト根性だ。

 でも、どうして水彩画家としてやっている彼女が、エアロゾルの塗料なんて買い求めるのだろうか?

 ――その理由は数日後に明らかになった。






     ○






 でかでかと。実にでかでかと彼女はやってのけたのだ。

 東京駅の駅前に、でかでかと、紫陽花のイラストを描いてのけたのだ。震災で半壊した赤い煉瓦の駅舎のその上に、緑と、それから淡い紫色の花のイラスト。それはさながら、『ゲルニカ』のように強烈な違和感と、しかし確かな美しさを持って人々に受け止められた。

 どうやら無断で行われたらしいそれは、初めは猫背さんのファンが行った模倣だと考えられていた。しかし、のちに取材を受けた本人が、自分がやったということを認めたのだ。



「わたしは水彩画を描くことよりも、街に直接描く方が、ふさわしいと思いました」



 インタビューに答える彼女は、ぼさぼさの髪と猫背は同じでも、毅然とした態度だった。



「いま、社会問題になっているマーキングについては、わたしはすばらしいムーブメントだと思います。急速に再開発されつつある東京の街を、巨大なキャンバスとして使ったアートです。コンクリートの閉塞感と、震災の絶望感を払拭しようとする、息吹のように感じられます」



 もちろんその数時間後には、彼女は警察に逮捕され、拘束された。

 しかしすぐに釈放された。東京駅側が、彼女を罪に問わないことに決めたのだ。これは世界的なアーティストの作品として立派な価値があり、かつ、東京駅の半壊した駅舎は既に施設としては使われていないために、問題が無いと判断されたのだ。

 彼女が東京駅に描いた紫陽花と、インタビュー映像は瞬く間にインターネットで世界に公開され、たくさんの反響を呼んだ。



「あの塗料だ」



 わたしはもちろん、一目で気が付いた。

 猫背さんはこれのために、あの塗料を探していたのだ。

 赤煉瓦に水彩絵の具では、当然、発色がよくなるわけもないからだ。






 しかし彼女の作品は、描かれてから三日後には消滅してしまった。



「 S U M M E R   I S   O V E R 」

 



 紫陽花の輪郭をなぞるように、でかでかと上書きされたその言葉が、彼女の作品を完膚なきまでに破壊してしまったのだ。






    ○






 しかし猫背さんは、へこたれなかった。



「こ、こんにちはぁ」



 また彼女はやってきた。

 インタビューの時の威厳はどこへやら、いつか見たような挙動不審さでオドオドとしていた。



「また、あのスプレーを貰いに来ましたあ」

「ああ、はいはい」



 猫背さんがわくわくと身体をゆすぶっている。

 わたしは何の気なしに彼女に言った。



「作品、お気の毒でしたね」

「ええ?」

「ほら、あの、東京駅の」

「ああ、べ、別にいいですよ。マーキングって、そういうものじゃないですか。描いて、その矢先から消されていく、でも、新しいものが増えていく」

「またやるんですか? また逮捕されちゃいますよ」

「それでいいんですよ」



 猫背さんはどこか不気味な笑みを浮かべながら、また1ダースのスプレー缶を鞄の中にしまっていった。



「あ、ありがとうございましたぁ」

「お気をつけて」



 なんだろう。彼女は何を目的として、こんなことマーキングをするのだろう。

 彼女はきちんと、小さなイラストを描くだけで、たったそれだけで充分なはずなのに。

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