花ありや

 意外なほど早く、主君が軽く目を閉じた穏やかな顔つきをして眠りに入ったのを見て、とうの重胤しげたねはようやく胸をなでおろした。

 主君——みなもとの実朝さねともはこのところ、重胤がまったく見たことがないほど疲れた様子が続いていた。二十七歳という年齢からは考えられないくらい体の動きが鈍く感じられる。書き物をする手が不意に止まり、その先へなかなか進まない。話すときも、単純なことでも少し考えるような間が空いてからようやく話し始める。いかがなさいましたか、と幾度か重胤は尋ねたが、実朝に、いや何でもないよと返されるばかりで、近習としてはそれ以上手が打てずにいた。

 しかしついに、文机に向かいながら目を閉じたまま固まったように動かなくなった実朝を目にしたとき、重胤はたまらず、諫めるような声色になって、

「いかがなさいましたか、御所さま? このところ、ひどくお疲れではと……」

 そのとき、実朝は少し驚いたように体を震わせたあと、まるでこの世の果てのような細い声で、

「……しばらく、休んでよろしいですか」

 ——そこまで、お疲れでいらしたのか。

 覚えず、重胤は実朝の身体を支え、よく仰せになりました、少しお休みいただいて、あとは我らで、と口を突くままに声をかけていた。実朝は軽く頷き、やがて慎重に立ち上がった。重胤はわずかにふらついた実朝の身体を抑えながら、寝所へと導いていた。

 そのようなことがあった後、主君は静かに身体を休めている。——ただひとつ、彼が眠りに落ちる間際に「このまま、側にいてくれませんか」と呟いていたのが気にかかったが。


 重胤が休んでいる実朝の身辺を整えていると、一瞬、少し強い風が几帳を揺らしたことに気が付いた。几帳の外を覗くと、中庭に桜の花びらが吹き上げられて舞っている。

 二十年ほど前、まだ千幡せんまんぎみとか次男の若君と呼ばれていた実朝のもとに重胤が初めて参上したときのことを思い出した。ある日、満開の桜の木の下を走り回っていた若君の相手をしていたとき、遊び終えた若君が重胤の膝の上で眠ってしまったことがあった。今この時、実朝の姿を見ていると、若君の頃の主君の姿を思い出し、そのとき重胤が膝に感じた若君の頭の重さがあらためて呼び起こされる心地がした。

 そのような思い出に浸りながら、再び実朝のもとに向かい、なにか変わったところはないかと確かめながら彼の顔色を伺ったとき、重胤は一瞬凍り付いた。

 実朝の顔つきがどこか、そのまま身罷みまかってしまうように見えたのだ。

 何故なのか、具体的にどこがそう見えたのか、はっきりとはわからない。しかし、あまりにも穏やかな表情に、そのまま魂が抜けて天に昇っていくように感じてしまったとでも言おうか、そのような感覚があった。たしかにこの御方は、身体があまり丈夫ではなかった。幾度となく病に倒れたことがあるのに加え、此度このたびの酷い疲れのこともある。つい先程も、疲れが高じて病を背負ってしまっていないかと心配になり、実朝の額に手を当てていたほどだった。主君は少し笑って否定していたが、なおも重胤の不安が解けたわけではなかった。

 それにしても、まだお若いのにいきなりそのようなことは……。重胤は、まさに動転しようとする心を必死に抑えようとしていた。

 どうか、どうかこの花だけは散らずに残っていてほしい。花に散るなというのは身勝手なことかもしれないが、まだ早すぎるのだ。散らない花にならないか。それが無理ならば、どうにか散らさないすべはあるのか——。

 そのとき、実朝が身じろぎしたのか、わずかな衣擦れの音が重胤の耳に届いた。重胤は深くため息をつき、目が潤むのを抑えきれなかった。


 そうして重胤が独りいろいろと思いを巡らせているうちに、実朝はゆったりと目覚めていた。起き上がる実朝の身体を支えつつ、乱れた衣装を整えていたそのとき、実朝がふと呟いたことがまた重胤の胸をえぐった。

「このまま、……もう少し、生きていてよろしいですか?」

 何と反応していいのかわからず、重胤は全身を硬くした。つい今しがた実朝の表情に感じた不安と重なるような言葉を聞くことになろうとは……。

 重胤が答えあぐねていると、実朝は思い直したように、少しだけ力の入った声でこう言った。

「すまない、わたしとしたことが……」

 ここで重胤は心を決めた。将軍家はなにか不安を感じておいでだ。それが溜まって疲れとなって彼の身体に巣食い、また果敢無はかなくなる予感として心を覆っている。その不安の正体が何かは見当がつかないが、そこに寄り添えなければ近習としての名が廃るだろうと。

 そして、急いで思いを巡らせてたどり着いた言葉を、できるだけ柔らかく実朝の心にかけてみた。

「ええ、生きてまいりましょう。もしお困りのことあらば、いくらでも我らをお頼りになればよろしいのですから」

 すると実朝は深く肯きながら、重胤の腕に深く身を預けていた。


 やがて、すっきりと疲れが取れた様子で立ち上がった実朝の姿を見て、重胤は先程まで自らのもとに密かに押し寄せていた情緒の波がようやく平坦に治まったのを感じた。

 なにより、これまでどこか遠慮がちに自身の悩みを抑えてきた実朝自身が、思い切って休むことを選んだことで体調を回復できたことに安堵できたのがあった。思えば、こちらも控えすぎていたのかもしれない。いくら長年側に仕えていたといっても、改めて少しずつ擦り合わせないといけないこともある。そこに気が付いて、初めて落ち着くことができたことを重胤は感じていた。ただ、未だに、一瞬だけ見えたあの天に昇りそうな御顔が心に引っかかってはいたが。

「さて、……先程の続きに取り掛かりましょうか」

 実朝が、すっかり明るくなった声で言った。

「そうですね。でも御所さま、ご無理は禁物でございますよ。忘れておられた病にまた取りつかれて……」

 重胤がそう返しながら、うっかり懸念していたことを口に出しそうになったそのとき、実朝がはにかむような声色で割り込んでくれた。

「わかっていますよ、平太」

 残っていた心懸かりも、どうやらしばらく忘れてよさそうだ。重胤はその思いを確かにした。そして自らの心にふと思い浮かんだ上の句を、ひっそりと読み上げてみた。


 百歳ももとせ千歳ちとせも散らぬ花ありや


 すると、前を歩く実朝が少し首をひねっていた。

「ああ、少し難しいね。すぐに返せなくてすまない。後でよいですか」

「御所さま、そんなずる……、いや、いつでもお待ちしておりますよ」

 実朝からくすくすと笑みがこぼれるのが感じられた。重胤も、つられて笑い声をあげた。

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糸の橋 アンダーザミント @underthemint

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