たとえば風にあおられた桜の花びらの如く、ふわりと空中を舞い、やがて地中に消えることができるなら。

 ——何故かはわからない。いや、理由すらないのかもしれない。しかし、先程から突如として実朝さねともの脳内を、そのような意識が煙のように包み込んでいる。

 いいや、まだ散ってはならぬと、まだ煙に侵されていない心の底を叩いてはみたものの、まったく晴れた心地がしない。

 このような仄暗ほのぐらさは、思えばこの身を覆う体の疲れから来ているのかもしれない。ここ数日、決裁しなければならない訴訟ごとや方々に書状を送る用事が積み重なり、そのうえ夜はなかなか寝付けないまま過ごしていた。それゆえか、いつしか書き物の筆が遅くなり、あまつさえ、まだ日が高いのに文机の上に覚えず顔を伏せ、目を閉じたまま動かなくなっていることすらあった。

「いかがなさいましたか、御所さま? このところ、ひどくお疲れではと……」

 見かねた近習がこのように声をかけてくるほどだった。

 実朝は少し動揺し、わずかな体の震えとともに目を開いた。そのように気遣われるほどに、酷い状態だったのか。

「……しばらく、休んでよろしいですか」

 なんとか声に出すことができた。その声すらもどうにか絞り出してようやく目の前の人に聞こえる程度の細さになっていることに驚きながら。


 果てしなくだるく、思うように動かない身体を寝所に導いてくれた近習の手を借りて横になったとき、少しばかり脳裏を覆っていた煙が消えた気がした。そのとき、実朝の額に近習の手が軽く当てられているのを感じた。

「平太、もう、ふとしたことで熱を出して寝込んでしまうようなこともなくなりましたよ」

 実朝は小さくふふっと笑みをこぼしながら、おどけるように言った。

 このように気を遣ってくるのは、自分の幼いころからもう二十年ほど寄り添い続けている近習のとうの平太へいた重胤しげたねだけだ。いつも彼はさりげなく、周りを騒がせないように声をかけてきたり、困ったことがあったときに助け舟を出してくれる。

 いま我が身に起こっていたこの不調も、彼だけが気付いてくれていたのかもしれない。

 しかも、彼の態度には厳しさや重さは微塵もなく、まるで年の離れた兄が小さな弟に向けるようなおおらかさと、ある意味くすぐったさを感じている。

「そのように油断なされますと、病の気が付いてまいりますよ」

 このように軽くたしなめられることさえ、心に灯しを点けられたように感じられた。ふたたび、照れ笑いがこぼれた。


 こうしてすっかり心地よくなったところで、眠気が差してきた。その頃合いを見計らっていたのか、身どもは几帳の外に控えておりますゆえ、と謙虚な声が耳に入った。

「平太、……すまない、このまま側にいてくれませんか」

 何故だろう、このまま彼に見守られていたかった。

 寝所に入り体を横たえるまでは、このまま彼の腕の中で消えていってしまうのかとすら思っていた。ところが、彼の穏やかな態度に、心も身体も文字通り解れてくるのを覚えていた。もう少しこのまま、彼に寄り添って少し休んでいれば、この心を覆っている煙がすっきりと晴れるのではないか。とはいっても、このような我儘わがまま……、

「こちらにおりますよ、御所さま。平太はこちらに控えております……」

 ——かたじけない。実朝は軽く頷いて、そのまま眠りに落ちた。


 やがてぼんやりと目覚めたときには、だいぶ日が傾いたのか、几帳の隙間に入る光がすっかり弱くなっていた。

 実朝がゆったりと起き上がると、胸のあたりにふわりと伸びてきた腕に支えられた。

「もう、よろしいのですか?」

 眠る前と変わらない、控え目な声が耳に届いた。

「有難う。すっかり、疲れが取れました。平太の手柄ですよ」

 自分に向けてくれた深い信頼に感謝しながら、改めて心を落ち着けるように重胤の腕に寄りかかったとき、実朝の口からふと、半ば無意識に、言葉が漏れた。

「このまま、……もう少し、生きていてよろしいですか?」

 その瞬間、すがっていた腕がわずかに硬くなったのを感じて、実朝は狼狽うろたえた。我ながら、なんという言葉を選んでしまったのか。休む前にこの身に巣食っていた煙を、不覚にも吐き出してしまった。心の内に秘めておくならまだしも、真っ直ぐに口に出してしまうなどと。

 重胤も答えあぐねたのか、少し顔を伏せて思案しているようだった。

「すまない、わたしとしたことが、思わぬことを」

「御所さま、」

 そのとき、もとの温厚な態度に戻った重胤が、意を決したように主君の言葉を包み込んだ。

「ええ、生きてまいりましょう。もしお困りのことあらば、いくらでも我らをお頼りになればよろしいのですから」

 まことに、心を打たれるとはこのようなことか——。実朝は今一度、この篤い従者の腕に身を預け、何度もうなずいていた。


 やがて日が暮れ、灯火が入りだした。しかし、その暗さとは裏腹に、実朝の心と身体にはまるで真昼の光のように新たな力がみなぎっていた。

 つい数刻前の自身の様子からは、全く信じられない。それもこれも、影に陽に支えてくれる存在があってこそのものだ。

 人はおのれ一人で生きているように見えて、じつはそうではない。大方の場合見えないものだが、裏では必ず誰かが支えている。それなのに、自ら消えようとは。恩義あるべきその人を苦しめることになるというのに—。

 実朝はその『支え』に、真っ直ぐ向き直った。

「さて、……先程の続きに取り掛かりましょうか」

「そうですね。でも御所さま、ご無理は禁物でございますよ。忘れておられた病にまた取りつかれて……」

「わかっていますよ、平太」

 実朝はまた、はにかむようにに相好を崩した。

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