第17話 予感を、菜穂と分かち合いたい
雨降って地面が固まったかどうかはわからないが、ともかく雨はやまなかった。
そういえば、これだけ長くいっしょにいて、しかも菜穂は
で、その答えは、学校からちょっと駅の反対側に行ったところのマンションらしく、今日は野入先生もそこに「帰る」のだ。
そして、自分の家の夕食の時間に間に合わなかった千花名は、その披露宴で残った食べ物をいっぱい持たされて帰ることになった。
「いや、いいんですけど、こんなの」
「だからさ」
「それだったら、もらわなくていいです、なのか、もらって帰っていいです、かわからないでしょ? もっともらってもいいです、なのかも知れないし」
千花名はため息をついた。
そんなの、いまの状況からわかるだろうに……。
食べ物も重いし、缶ビールとかが輪をかけて重い。
千花名のお父さんがビール好きだと知っている多祢子先生の気づかい、なのだろうけど。
それでも、ここから駅まで十分歩き、電車を降りてからまた十分歩くのだ。
「選択肢ないんですね?」
「うんっ」
だめだ。
抗議になってない。
それで、気になっていたことをきいてみる。
「多祢子先生がわたしをつかまえたのって、わたしが菜穂の友だちで、野入先生のところで部活してるって知ってたから、ですよね?」
「ああ、違う違う」
多祢子先生はかんたんに否定した。
かえってあやしい。
「でも、
「しらないわよ」
しらばっくれる。
「顧問の名まえまで注意してないわよ。部活って顧問が指導者とは限らないし」
まあ、それはそうだ。ほかの学校ではどうか知らないけど、正令ではそうだ。科学部の顧問は、国語の、それも古文の先生だし、バスケットボール部の顧問は退職間近の英語のおじいちゃん先生で、とてもバスケットボールの指導なんかできそうにない。
「それに、ここの教会に話持って来たのって、
「……」
千花名は少し考える。
「あっ!」
そして決定的証拠をつかんだ。
「でも、わたしが地区選考会まで行ったって知ってるってことは、相方が菜穂だって知ってたんですよね! ってことは、知ってたわけですよね? だって、小山菜穂、って名まえまで出てるんですから!」
「だってチカの名まえしか関心ないし」
多祢子先生はテンションをますます上げて言い返す。
「それに、漢字だけじゃ、こやま、か、おやま、かもわからないでしょ?」
千花名も引き下がらない。
「でも、ピアノが弾ける女の子だって知ってたわけですよ」
「だからさぁ」
多祢子先生は、そこまで声を張り上げて、ことばを切った。
トーンを落として、続ける。
「「愛のあいさつ」なら、地区選考会まで行く子でなくても弾けるでしょ。だから気にしなかったわけ」
なんか、ばかにされた気分だ。
「でも、よかった」
多祢子先生は、論争の言いかたをやめて、潤んだ優しい声で言った。
「ほんとわたしがいままで聴いたなかで最高の「愛のあいさつ」だった。息もぴったり合ってたし、どうして互いにアイコンタクトとかもしないで、あんなにぴったりとリタルダントまで合わせられるのか、ふしぎなくらいだったよ」
リタルダンドというのは、音をしだいにゆっくりにしていくことで、互いに合わせ慣れていないと、ずれたり、次の音でどちらかが先に飛び出したりしてしまう。合わせ慣れていてもずれる。
だから、それを合わせられた、というのは、讃辞なのだろうけれど。
でも、千花名は、「ぴったり合わせられる」ときいて、別の感覚を思い出して、頬が赤くなりそうになる。
それを隠すために、千花名は無愛想に言った。
「じゃ、わたし、このへんで帰ります」
「うん」
多祢子先生も引き留めなかった。
「お父さん、お母さんによろしくね。さっきも電話したけど、またチカが着くまえに電話しとく」
千花名は返事しなかった。多祢子先生を振り向いて手を振ろうとしたけれど、鞄にフルートにそのおみやげというのを持ってしかも傘をさしているので、手が使えない。
多祢子先生も、声は立てないで、うん、とうなずいてくれた。
この季節は、この時間で、雨が降っていても、それでもまだ空が明るい。
もらってきた「おみやげ」を喉が苦しくなるくらいまで食べ、お父さんは多祢子先生にもらってきたビールを飲み、いっぱいしゃべって、千花名は自分の部屋に引き上げた。お風呂に入らないといけないけれど、まだしばらくは無理だ。
こんなのだから、体型がずん胴になってしまう……。
そうかな?
ほんとうにずん胴なのかな?
菜穂は……と思ったところで、はずかしくてばからしくなったので、考えるのをやめる。
部屋に戻ると、外から街灯の明かりが照らしている。
その明かりは、さっき家に帰ってすぐに机の横に提げたフルートのケースも照らしている。
千花名は電気をつけなかった。
けれども、暗いところから浮かび上がったそのフルートのケースは、もう千花名に何も訴えてくるようには見えなかった。
千花名は、部屋を暗いままにして、そのフルートのケースに歩み寄る。
笑う。その落ちついた、穏やかな気もちの笑いは、今日はいちどもだれにも見せなかったな、と思う。
千花名はフルートのケースを手に取った。
濡れてもいなかったし、温かくもなかったし、冷たくもなかった。
このフルートの役割は終わったんだ。
だとすると、千花名はどうすればいいんだろう?
答えは決まっていた。
また新しくゼロからこのフルートとの関係を作り出していけばいい。
そして、その先には、名門のライバル校に勝てるかも知れないくらいの、これまでとは違うまったく新しい演奏が待っている。
その予感を、菜穂と分かち合いたい。
千花名は、フルートのケースを、ぎゅっと自分の胸に押し当てて、抱きしめた。
(終わり)
愛のあいさつ 清瀬 六朗 @r_kiyose
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